砂漠の夜
修理を終えてから、しばらく。
ミレイアは、結界装置の最終反応を確認し終え、
静かにマスクを下ろした。
(……安定)
夜間出力。
問題なし。
責任者が、深く頭を下げる。
「一晩明かしてから戻るよ」
即断だった。
「夜の移動は、危険だからね」
ミレイアも頷く。
——戻るのは、明日。
その判断に、
誰も異を唱えない。
夜営の準備が整い、
人の動きが落ち着いた頃。
結界の外周を確認するため、
二人は並んで歩いていた。
見回りという名目。
だが、実質は時間調整だ。
星が、よく見える。
砂漠の夜空は、
遮るものが何もない。
ミレイアは、外套をしっかりと閉じながら歩く。
(……寒い)
昼との落差が、はっきりしている。
「冷えるね」
隣から、穏やかな声。
「はい」
短く答える。
距離は、近い。
だが、触れない。
意図的に保たれた距離だ。
その時。
ミレイアの視線が、
ふと、ラザルの腕に引かれた。
防塵服の袖口。
動きに合わせて、わずかにずれた布。
そこから覗く肌。
刻印。
一つや二つではない。
幾何学的な線。
用途ごとに異なる密度。
重なり合いながら、
整理されて刻まれている。
(……多い)
工房で見る補助刻印とは、違う。
常用。
それも、長期前提。
ミレイアは、少しだけ迷ってから口を開いた。
「あの……」
すぐに、声が返る。
「なに?」
軽い。
だが、意識は確実に向いている。
「もし、失礼でなければ……」
一度、言葉を整える。
「どうして、そんなに刻印を入れているのか……聞いてもいいですか」
ラザルは、すぐには答えなかった。
歩調は変わらない。
視線も、前のまま。
「全然いいよ」
返ってきた声は、
拍子抜けするほど、あっさりしていた。
「便利だから、って言うと怒られるかな。でもまあ、僕はそういうの好きなんだ」
月明かりの下で、
刻印が淡く浮かぶ。
「移動用だったり。護身用だったり」
淡々とした口調。
道具の説明をするような声。
ミレイアは、少し考えてから続ける。
「……肌に刻むだけで、転移や防御ができるようになるもの、なんですか」
一瞬。
ラザルの足が、
ほんのわずかに止まった。
沈黙というほどではない。
だが、空気が変わる。
「……」
それから、小さく笑う。
「もしかして」
声が、少し低くなる。
「入れようと思ってる?」
ミレイアは、すぐには否定しなかった。
「いえ……」
言葉を探しながら、続ける。
「服に隠れる位置なら、作業補助用に、あってもいいかなと……」
職人の発想だった。
効率。
即応。
安全域の拡張。
ラザルは、小さく息を吐く。
「おすすめしない」
即断ではない。
だが、明確な否定だった。
「僕のは」
刻印のある腕を、わずかに意識させる。
「肌だけじゃない」
ミレイアの眉が、動く。
「……え?」
「内臓にも、入れてる」
あまりにも自然な口調。
ミレイアは、言葉を失った。
(……内臓)
(……刻印を)
知識が、次々と警鐘を鳴らす。
拒絶反応。
魔力暴走。
失敗率。
「……危険、ですよね」
声が、自然と低くなる。
「危険だね」
即答だった。
「だから、真似しない方がいい」
自慢でも、忠告でもない。
事実の提示。
しばらく、言葉が途切れる。
結界の外で、
砂を撫でる風の音。
ミレイアは、前を向いたまま言った。
「……ラザルさんは」
「うん?」
「ご自身を、道具として扱うのに……慣れているんですね」
評価でも、非難でもない。
ただの観測。
ラザルは、少し考えてから答える。
「商人だから」
それだけ。
だが、その一言には、
割り切りと覚悟が詰まっていた。
また、沈黙。
星が、ゆっくりと流れていく。
「君は、やらなくていい」
ぽつりと、ラザルが言う。
「職人は、壊れたら終わりだ」
ミレイアは、息を整えた。
「……ラザルさん」
「なに?」
「貴方も」
一度、言葉を切る。
「壊れたら、終わりです」
刺す言い方ではない。
事実を、そのまま置いた言葉。
ラザルは、すぐには返さなかった。
やがて。
「……そうだね」
低く、
柔らかい声。
否定もしない。
誤魔化しもしない。
「だから」
少しだけ、距離が近づく。
「壊れないように、使ってるつもりなんだけど」
その言い方は、
どこか照れたようでもあった。
ミレイアは、
それ以上、何も言わなかった。
言葉にしなくても、
伝わった気がしたからだ。
夜営地に戻る。
結界の内側は、静かだ。
火の音。
寝息。
遠くで、駄獣が低く鳴く。
「そろそろ休もう」
ラザルが言う。
「明るくなってから戻る」
「……はい」
即答だった。
二人は、それぞれの寝床へ向かう。
距離は、また離れる。
だが——
今日一日の時間が、
確かに、そこに残っていた。
星は、まだ空にある。
それで、十分だった。




