仮家
仮家は、静かだった。
城外れの一角にある、職員向けの簡素な住居。
石壁は薄く、夜になると冷える。
それでも、これまで不便だと感じたことはなかった。
ミレイアは扉を閉め、外套を外す。
いつも通りの動作。
だが、次に何をすればいいのかが、分からなかった。
(……終わったんだ)
そう思っても、実感は湧かない。
卓の上には、工具箱が置かれている。
使い込まれた革。
金具は擦り切れ、角は丸い。
修繕係になった日、渡されたものだ。
先王陛下の執務室で。
あの人は、特別な言葉を使わなかった。
「触るな、と思ったら触るな。壊れる前に気づけ。誰にも分からなくていい」
それだけだった。
戴冠機関とは、そういうものだった。
正式名称は《戴冠機関・アウレア・レガリア》。
王位継承の際、正当な継承者であるかを確認するための魔道具であり、この国の国宝。
血統、魔力の波形、精神の安定性。
それらを複合的に測定し、王権を承認する。
起動するのは、戴冠の儀の時だけ。
それ以外は、沈黙している。
だからこそ、壊れやすい。
動かない時間の方が、圧倒的に長い。
魔力は滞り、回路は鈍り、ほんの僅かな歪みが、致命傷になる。
(壊れてからでは、遅い)
ミレイアは、膝に手を置いた。
誰にも気づかれず、
誰にも褒められず、
ただ、何も起きない状態を維持する。
それが、修繕係の仕事だった。
派手な修繕は、存在しない。
成功の証は、空白の記録だけ。
異常が起きなかった、という事実だけが、積み上がる。
(だから……要らない、か)
今日の会議の言葉が、頭をよぎる。
成果が見えない。
予算の無駄。
属人的。
どれも、間違ってはいない。
数字としては。
ミレイアは、ゆっくりと息を吐いた。
(王が代われば、国宝の扱いも変わる)
先王陛下は、
道具としてのアウレア・レガリアを理解していた。
だから、整備する人間を置いた。
今の王は、
象徴としてのアウレア・レガリアを信じている。
壊れないものだと、思っている。
(……それだけの違い)
立ち上がり、窓を開ける。
夜風が、冷たく頬を撫でた。
遠くに、王城の塔が見える。
あそこに、アウレア・レガリアはある。
今日も、静かに沈黙している。
それが、どれほど不自然な沈黙かを、
今はもう、誰も気にしていない。
(次に触れるのは……誰だろう)
答えは、ない。
ミレイアは窓を閉め、背を向けた。
工具箱を、そっと撫でる。
「……お疲れさまでした」
誰に向けた言葉か、
自分でも分からないまま。
部屋の灯りを落とし、
彼女は、静かな夜に身を沈めた。




