到着
アル=ハディード商会本館は、
地図で見るより静かだった。
白い石造り。
装飾は控えめだが、隅々まで手入れが行き届いている。
派手さはない。
だが、古びてもいない。
商会の本館というより、
長く機能し続けてきた管理施設に近い印象だった。
ミレイアは、建物の前で一度だけ足を止め、地図を確認する。
(……ここで、合ってる)
間違いはない。
それでも、無意識に深呼吸をしていた。
胸の奥を整えてから、扉をくぐる。
ロビーは広い。
だが、騒がしさはない。
行き交う人間の数は多いのに、
足音も、声も、必要以上に立てられていない。
誰もが、
自分の仕事を把握した上で、動いている。
(……落ち着いてる)
王都の商業施設とは、空気が違う。
忙しさはあるが、焦りがない。
受付台に近づく。
「……あの」
声をかけると、
受付係の女性がすぐに顔を上げた。
年齢は若い。
だが、姿勢も視線も、ぶれがない。
「今日からお世話になります」
ミレイアは、意識して背筋を伸ばす。
「ミレイア・カレヴァンです」
受付係は、一瞬だけ端末に目を落とした。
確認は短い。
すぐに、迷いなく頷く。
「少々、お待ちください」
台の下から、小型の魔道具を取り出す。
簡易通信機。
起動符を指先でなぞると、淡い光が灯った。
「会長」
声は抑えめ。
だが、要点だけを外さない。
「ミレイア・カレヴァン様がお越しです」
——その瞬間。
空気が、わずかに揺れた。
受付台の手前。
何もなかったはずの空間に、影が落ちる。
次の瞬間には、
そこに一人、立っていた。
ラザルだ。
詠唱はない。
魔力の高まりも、兆しもない。
まるで、
最初からそこにいたかのような自然さ。
(……転移)
思考が追いつくより先に、声が届く。
「ようこそ」
穏やかな声。
視線は、まっすぐミレイアを捉えている。
「来てくれてありがとう」
まるで、
約束より少し早く来た相手に声をかけるみたいに。
ミレイアは、反射的に一歩、姿勢を正した。
「は、はい……!」
ロビーの空気が、ほんのわずか変わる。
視線が集まる。
だが、誰も声を上げない。
(……今、転移したよね?)
理解する暇はなかった。
ラザルは、受付係にちらりと視線を向ける。
「ありがとう。あとは僕が案内する」
それだけで、やり取りは終わる。
「今日から、よろしく」
ミレイアに向き直って、軽く言う。
特別な演出はない。
まるで、
予定表に書かれていた出来事を、
そのまま一つ消しただけのように。
「は、はい……よろしくお願いします」
声が、少しだけ裏返る。
ラザルは気にした様子もなく、頷いた。
「前にも一度、見てもらったけど」
視線を、建物の奥へ向ける。
「今日は改めて、職場の確認からにしよう」
そう言って、踵を返す。
歩き出す動きに、迷いはない。
だが、急かす様子もない。
「工房は、こっち」
ミレイアは、一拍遅れて、その後を追った。
(……始まった)
拾われたわけじゃない。
流されたわけでもない。
ちゃんと、
名前を呼ばれて、
迎えられて、
仕事として、ここに立っている。
ロビーを抜け、
回廊へ向かう。
アズ・ナハルの水音が、
遠くから、かすかに響いてきた。
(……職場だ)
そう思った瞬間、
胸の奥が、静かに切り替わる。
ここからは——
仕事の時間だ。




