引越し
仮家に戻ってから、三日目の朝だった。
簡易結界が、短く鳴った。
甲高くもなく、低すぎもしない。
侵入を告げる警報ではなく、ただの通知音。
「……?」
ミレイアは、卓の上で止めていたペンから指を離す。
視線を上げると、
宙に浮かぶ一通の封筒が、ゆっくりと回転していた。
魔法速達便。
個人宛てに届くこと自体が、まだ少ない。
ましてや、この仮家に。
封筒を手に取る。
上質な紙。
余計な装飾はない。
だが、封の内側に刻まれた魔導刻印は、はっきりと鮮明だった。
差出人欄に記された名を見て、
ミレイアは、静かに息を吐く。
――アル=ハディード商会。
(……来た)
予想はしていた。
それでも、胸の奥がわずかに揺れる。
封を切る。
中身は、数枚の書面。
雇用契約書。
補足条項。
注意事項。
どれも、驚くほど簡潔だった。
職務内容。
責任範囲。
報酬。
契約期間。
読み進めても、
成果目標や数値評価、期限を縛る文言は見当たらない。
ただ一箇所だけ、
ミレイアの視線を留める一文があった。
――判断は、担当者に一任する。
ミレイアは、そこで一度、紙を戻し、
最初からもう一度、ゆっくりと読み直した。
(……変わってない)
工房で、ラザルが口にしていた言葉と、
何一つ違わない。
念のため、補足条項にも目を通す。
判断に対する責任の所在。
緊急時の裁量。
触らない判断を行った場合の扱い。
どれも、
「報告は求めるが、結果は問わない」
そう書いてある。
ペンを取る。
手は、震えていなかった。
署名欄に、
迷いのない文字を書く。
ミレイア・カレヴァン。
最後に、返送用の魔導符を起動する。
淡い光が、封筒を包み、
転送指定の文字列が浮かび上がる。
――アズ・ナハル。
「……」
一拍、置いてから、
符を閉じた。
書簡は、音もなく消える。
それだけだった。
(……終わり)
終わりだった。
そして同時に、始まりでもあった。
数日後。
仮家の部屋は、驚くほど空っぽになっていた。
元々、持ち物は多くない。
工具箱。
最低限の衣類。
書きかけの記録帳。
王都に残しておく理由のある物は、
もう、何一つなかった。
ミレイアは、部屋の中央に立ち、
最後に、周囲を見回す。
石壁。
小さな窓。
夜になると冷え切る床。
仕事があった頃は、
ここに戻るだけで、ほっと息がつけた。
今は――
「……」
鍵を、机の上に置く。
職員向け仮家。
返却手続きは、書簡一枚で終わった。
振り返り、扉を開ける。
廊下に出ると、朝の光が差し込んでくる。
特別な見送りはない。
声をかける人も、引き止める人もいない。
それで、よかった。
外に出る。
王都の空気は、相変わらずだった。
整っていて、
重くて、
どこか、息が詰まる。
ミレイアは、一度だけ足を止める。
城の方角を見る。
戴冠機関。
アウレア・レガリア。
今も、静かに沈黙しているだろう。
(……壊れないで)
それだけを、胸の奥で呟いた。
それ以上は、何も願わない。
踵を返す。
向かうのは、都市間転移施設。
足元に、石畳。
耳に届く、水の音。
顔を上げると、
白と淡砂色の都市が、視界いっぱいに広がっていた。
アズ・ナハル。
水が巡り、
結界が呼吸する街。
ミレイアは、振り返らない。
王都は、もう見えなかった。
けれど、
胸の奥に溜まっていた重さも、
いつの間にか、消えている。
(……仕事だ)
それだけで、十分だった。
新しい街で、
新しい工房で、
彼女はまた、
静かに、確かに、
手を動かす。




