2-1
優しさを日々向けられるようになって初めて、暖かいものが好きになった。
誰より優しく暖かい、あなたの隣で眠れたら、それはどんなに幸福かしら。
奇妙な一日が終わって、一夜が明けて、またいつも通り朝が来てしまったので、飛鳥は冷静になったとは言い難い頭を重たく思いながらそれでも学校に向かった。色々あり過ぎた昨夜はさすがに安眠どころではなかったせいか、授業が始まっても、夢の中にいるように掴みどころのない感覚が消えてくれない。飛鳥はうんざりしながら、それでも何とか午前中は耐えきった。
昼休みを告げる鐘の音と同時に、英語の教師が授業を終わらせてくれたので、ただちに日直が礼をする。途端にざわざわと緩んだ空気が流れ出す教室で、飛鳥は欠伸を噛み殺した。昼食よりも、昼寝を優先したいくらいに眠い。
教科書を片付けることも面倒で、ぼんやりと黒板に記された日付を眺めていたら、廊下の側から声がした。
「――飛鳥」
彼女にしては、精一杯に大きな声を出したのだろうと推測される優しい声が、昼休みの空気にざわめいている教室の中にはっきりと響いた。誰の声であるのかは認識できていたのだが、廊下に眼差しを向けた飛鳥は驚きに目を見開いて固まってしまう。
飛鳥は、勢い余ってあんな妙な展開になったものの、変わることなんてあまりないと思っていた。
お嬢様が真剣なのは、よく解っていたつもりだったけれど。だけど、まさか。
「一緒に、お昼ご飯……!」
きらきらきらと、零れそうなほど大きく瞳を見開いて、期待と不安に溢れた瞳を飛鳥に向けてくる優花の姿に、思考が一時完全に停止した。まさかこう来るとは、本当に思わなかった。
ざわめきからどよめきに変化したような教室の空気も非常に気になる所だが、それよりもお嬢様の肩越しに見えた二人に意識を持って行かれる。心から嬉しそうな眼鏡の少女と、青いような赤いような複雑な顔色で硬直している小柄な少女の姿に、飛鳥はどんな顔をすれば良いのか本気で判らなくなった。ああもう、面倒過ぎる。
よくもまあこんな面倒を連れてきたものだと、飛鳥はため息をつきそうになる。しかし、あまりにもきらきらしている優花の瞳をじっと見つめていると、力が抜けて顔が勝手に笑ってしまう。
駄目だ、これは可愛い。
「――いいよ、優花」
開き直って名前を呼んで、おいでと言いながら片手を差し出せば、緊張に潤んでいた茶色い瞳がぱあっと明るく輝く。その瞬間、小柄な少女の瞳は不穏に燃え上がったように見えたが、取り敢えず気付かなかったことにしながら教科書を片付け机の上を空けた。
何故か一礼してから教室に入ってきた優花が、綺麗な花柄の布に包まれたお弁当を胸に抱えて、輝くように鮮やかな笑顔を飛鳥に向ける。その、いかにも心を許し切っている笑顔に、教室中の空気が困惑にざわめいた。
(ま、目立つわよね)
後々面倒なことになるのは避けたかったが、何しろ飛鳥だって動揺しているので、どうしたらいいのか解らない。むしろ今教室にいる誰よりも動揺している自覚のある飛鳥は、優花から視線を外して気分を落ち着けようと試みた。
しかし、目を逸らしたその先で、菩薩のような微笑みを浮かべている眼鏡の少女と、般若のような迫力で佇んでいる小柄な少女のツーショットが目に入り、平常心などという問題ではなくなった飛鳥は盛大に吹き出してしまった。
この教室で、飛鳥が笑ったことなどない。教室の空気が今度は凍りついたような気がしたが、もはやそんなことに構ってはいられない。飛鳥の視線を追って、ようやく二人に気付いた優花は現状を掴みきれずに首を傾げ、幸せそうにきらきらしている瞳をきょとんと瞬いている。
「九条さん?」
どうしたの、と。優しい声に気遣われた小柄な少女が、般若の形相を保てずに視線を彷徨わせる。何とも複雑な数秒の葛藤の後に、きっ、と飛鳥を一睨みし、ずかずかと教室に入り込んできた。
「失礼します!」
職員室でもないのに、何故か礼儀正しく一声かけて、それでも眼差しばかりはむやみに攻撃的に尖らせながら飛鳥たちの目の前まで来た小柄な少女は、飛鳥の前の席に当たる空席を勝手に移動させる。
いつも昼休みはどこか別の場所に行っている生徒の机なので、文句を言う当人自体はいないが、それにしたってあまりにも乱雑に動かすので机はがたがた言っていた。
あまりにも解りやすい行動と怒気に、飛鳥は込み上げる笑いを殺していたが、まだ現状について行けていない優花は落ち着かない様子でおろおろしている。そんな優花に、いつの間にか教室に入ってきていた眼鏡の少女が、輝くような笑顔で声をかけた。
「私たちも、一緒にいい?」
しっかりと持参していたらしいお弁当を掲げて笑うその姿に、ようやく得心の行ったらしい優花が微笑み返して、問うような眼差しで伺うように飛鳥を見上げる。
飛鳥はできることなら遠慮したかったのだが、優花の瞳が何の悪意も不安もなくきらきらしているので、それだけで何故だか何も言えなくなってしまった。
駄目だ、これは――可愛い。もう細かな些事の全てがどうでもよくなってしまうほどに可愛い。
「飛鳥?」
優しい声で名前を呼ぶ、可愛い人に見つめられて、飛鳥は諦めてため息をついた。目の前に座ってこちらを睨みつけている小柄な少女を見て、少しだけ笑ってやる。
「……お好きにどうぞ」
せめてもの意趣返しに、わざとらしい悪意を込めた声音でそう告げれば、小柄な少女があまりにも容易く怒りを滲ませるのが少し可笑しかった。余計に笑えてしまうし、笑う飛鳥を見て優花は眼差しをきらきらとさせている。ああもう、可愛い。
それからというものの、何故かこの四人で昼食を取ることが日常と化してしまった。