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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第一章
7/37

1-6

 最近は便利なことに、飲み物の自販機というものをどこでも見かけるようになった。備え付けの紙コップを手で抜き取り、硬貨を入れてボタンを押せば簡単に購入できる。

 硬貨を入れようとしたところで、冷たい風にいつの間にか冷えていた体を自覚した飛鳥は手を下ろした。ただでさえ気温が下がる時期、さらに日が傾いてどんどん風が冷たくなっているこんな時間帯に、箱入りお姫様に冷たいものを飲ませるのはまずいかとため息をつく。取ってしまった空の紙コップを手にしたまま硬貨をしまい、飛鳥は売店に向かって歩き出した。

 何の説明もしない飛鳥の後ろを、特に何も尋ねようとはしないお嬢様が、頼りない足取りでついて来る。擦りむいてしまっている足を引きずりがちなその様子が視界にちらつくのが煩わしく、飛鳥は売店に一番近いベンチを指差した。


「座ってて」


 ベンチの横には、簡単な水道がある。砂を落とすようにとだけ言って、飛鳥は一人で売店に向かった。

 人気のない売店は、並ぶ手間も特にない。店からぼんやりと外を眺めていた中年女性に声を掛ければ、愛想よくにこりと微笑みかけてくる。品物の名前と値段が書かれた紙を飛鳥に差し出してきたが、どれも冷たそうな物だったので断った。


「何か温かいのない?」


 せめて室温のものでもないかと問い掛ければ、お茶でよければ、と。あっさり頷いた彼女が、売店の奥に引っ込んでいく。どうにかなりそうだと安心した飛鳥は、お嬢様は大人しくしているかと後ろに首を巡らせた。

 砂は落とし終えたのか、お嬢様は項垂れるような姿勢でベンチに座っている。細い体は、何とも寄る辺のない様子で頼りなく見えた。


「お友達?」


 湯気の立つ紙コップを差し出しながら、いつの間にか戻ってきていた売店の中年女性がのんびりと尋ねてくる。適当にあしらえば良かったのだが、友達という単語に頷けなかった飛鳥は一瞬言葉に詰まった。


「……転んじゃったのよ」


 仕方なくそう言えば、全て心得たような笑顔で女性が頷く。手を伸ばしてくるから何かと思えば、飛鳥が何となく持ったままだった自販機の紙コップを渡せということらしい。

 飛鳥が手渡した、と言うよりは、やや強引に奪い取ったと言う方が合う勢いでコップを引っ手繰った彼女はもう一杯、飛鳥の分と思われるお茶を入れてきてくれた。

 メニューにはないそのお茶は、おそらく彼女が個人的に淹れたものなのだろう。自販機で一杯の飲み物を買うよりもよほど安い値を言われるままに支払って、飛鳥はまだ熱いお茶二杯を手にお嬢様の座っているベンチに戻った。まずはお茶を零さないように静かにベンチに置いてから、飛鳥も手の埃を洗い落とすために水道に向かう。冷たい水に辟易しながら手を洗い、色の褪せたハンカチで手を拭いながら、飛鳥はお嬢様の隣にお茶を挟んで腰を下ろした。

 黙ったままのお嬢様に、お茶を手に取る気配がないことにため息をついて、飛鳥は紙コップを一つ差し出した。


「飲んで」


 潤んだままの茶色い眼差しを上げて飛鳥を見つめたお嬢様が、ちらりとお茶に視線を移す。お茶から立ち上る湯気をしばらくじっと見つめてから、熱いのはいや、と呟いた。


「冷たいのが、いい」


 涙に滲んでしまった喉を震わせる度に、悲しくなってしまうらしいお嬢様が、他愛のない我が儘を言う子供のような声でぐずる。無理に持たせるわけにも行かないので、諦めてもう一度お茶をベンチの上に下ろした。おばさんの好意で多めに注がれたそれは、僅かな不注意でひっくり返してしまう可能性が高い。

 制服よりもずっと短い、テニスウェア用の白いプリーツスカートから伸びた足は、冷たい水で洗い流したせいか赤くなっていて、いかにも寒々しい風情だった。どこもかしこも、細くて頼りない。


「……お姫様に冷たいのは禁物でしょ」


 いかにも食が細そうな姫腹は、秋風だけでも体調を崩しそうで不安にさせられる。その弱々しい風情を見ていられなくなった飛鳥は目を逸らしながらそう言って、自分の分のお茶を口にした。

 しばらくすると、違うわ、と小さな声が聞こえたので、再びお嬢様に視線を移す。何が違うのかとぼんやり考えていたら、お嬢様が潤んだ瞳のまま俯きがちに、それでもはっきりと呟いた。


「お姫様じゃ、ないわ」

「……似たようなものでしょ、お嬢様」


 多少の毒を含んでそう呼んだら、お嬢様がきっと顔を上げる。いつも綺麗に纏められていた髪は風に乱れていて、いつも優しい茶色い瞳は穏やかとは言い難い感情に潤んで赤い。

 その勢いに少し驚いた飛鳥に、お嬢様が叫ぶような声を向けた。


「私、お嬢様なんかじゃない……!」


 弾みのように言ってしまったその言葉に自分ではっとして、お嬢様は今の言葉を押し留めようとするように小さな口を白い両手で押さえる。一度出てしまった言葉はもう戻らないのだということを悟るくらいの間をおいて、茶色い瞳が傷付いた幼い子供のように悲しい色に染まった。透き通ったその瞳に涙が溢れて、切なく揺れる。

 そのままぼろぼろぼろと涙が零れるのを目の当たりにして、飛鳥の心臓が跳ねた。


「わた、わた、私は……っ、こっ」


 何か言おうとしているが、口を開く度に涙の量が増えていくその瞳は心臓に悪い。


「ああ、泣くのはなし!」


 お茶を置いて、お嬢様の目元を押さえようとして、泣くと目が腫れるのは考えなしに擦るからだったかと思い出して手を止める。膝に置いたままだったハンカチを手に取り、頬に添えるようにして涙を吸い取ってやった。

 びっくりしたようなお嬢様の茶色い目はすっかり赤く染まっていて、あまりに悲しい色をしているので可哀想になってしまう。どこかいつも冷めたような眼差しをしていると感じたのは、自分の僻みから来る錯覚だったのかと素直に思えてしまうほど、その瞳は拙く正直に見えた。

 ため息をついて、一連の動きの中でも幸いひっくり返すことなく無事だった、手付かずの方のお茶を手に取る。白い湯気がまだ微かにゆらゆらと揺れているその紙コップを握る飛鳥の指は冷えていて、もうぬるくなっているはずのそれを少し熱く感じた。


「ゆっくり話していいから、もう泣かないでよ」


 嗚咽を噛み殺そうとしているのか、頑なに引き結ばれている小さな口にお茶を突き付ける。飲んで、と言えば、お嬢様は今度は嫌がることもなくお茶を受け取って口をつけた。痙攣を起こしている白い喉がこくり、と一度動いて、そうして飲んだ分の水分を律儀に出そうとするかのように大粒の涙が零れる。綺麗な顔は涙に濡れて、鼻の頭は子供みたいに真っ赤になっていた。

 まだ、いつ溢れてもおかしくないくらいに潤んでいる瞳を切なく俯けて、お嬢様が小さな声であったかい、と囁く。不思議に幼い、可愛らしい声。

 お嬢様は、痙攣する喉を落ち着けるように少しずつお茶を含む。そのお茶がほとんどなくなる頃になって、ようやく口を開いた。


「……私、孤児なの」

「は?」


 唐突過ぎる発言について行けず、飛鳥が瞬く。空になったコップを置いたお嬢様が、もう一度喉を痙攣させた。

 涙を精一杯に押さえ込んだ、平静を装う瞳を飛鳥に向ける。


「貰われっ子、なの。……お嬢様なんかじゃ、ないの……」


 本当よ、と。悲しい声で囁いて、涙に濡れてきらきらと輝く茶色い瞳を真っ直ぐに飛鳥に向けてくる。絵空事だと、笑い飛ばすことが、何故かできなかった。

 そんなシンデレラストーリーを、あの学校の夢見がちな少女たちが好まないはずがない。聞きたくなくとも噂話が耳に届くあの環境であれば、真っ先に耳に入りそうな話だろうにと不審には思ったが、どうしても嘘のように聞こえない。

 大切に、大切に、彼女がそのことで何一つ傷付かないように。今の家族が手を尽くしたのだろうと予測して、けれど結局傷がないとは言えないようなお嬢様の様子を、飛鳥はつい見つめてしまう。飛鳥の黒い瞳と、お嬢様の茶色い瞳がかち合って、そうしてお嬢様が口を開いた。


「私はお嬢様じゃないし、数学が苦手なの」


 でも、できないなんて言えないから、教科書全部覚えたわ、と。呟いて、茶色い瞳にまた涙が満ちる。けれど、零れることはなかった。


「手加減なんてしないし、馬鹿になんてしてないけれど、私が怪我をするとお父様たちがぎょっとするわ」


 転ぶのもぶつかるのもできないから、全力で走れないのと呟いて、今更ながら自分の怪我に気付いたのか、顔色が青くなり絶望したような瞳には涙が滲む。それでも、そのまま溢れてしまうようなことはなかった。


「……泣かないの?」


 何故か、そう聞いてしまった飛鳥を、お嬢様は見つめ返す。茶色い瞳は切なく潤んだまま、それでも優しさだけは絶えることなく満ちていた。


「私が泣いてしまったら、困った顔を、させてしまうわ」


 だから泣いたりしないわと、迷いなく言い切るその語尾は涙に歪んでいる。

 このお嬢様は賢い。それは努力の成果でもあるだろうが、まずその瞳が示す性根の誠実さが生来の賢さの証明だ。

 それは幼い頃から変わることのない彼女の美徳であったのだろうけれど、いかに物覚えの良い優れた子供であっても、教育の質や求められているものがまるで違う環境に馴染むには悲しいほどの苦労があったのだろうと、そう思う。なまじ賢いが故に、己というものを確立する時期が早かったと言うのなら、それは一層。

 それなら、あれは、あの態度は。

 別に、飛鳥を馬鹿にしていたわけでも、何でもなくて。


「ずーっと、気を張ってたってわけね……」


 口に出したら、飛鳥の言葉にびっくりしたようなお嬢様の茶色い目が切なく潤んで、けれどすぐ懸命に平静を装おうとした。健気なのか無茶なのか解らないが、お嬢様が本気で耐えようとしていることを知ってしまった今となっては、それを不快に思うことなんてできはしない。

 飛鳥は、ため息をついて口を開いた。


「……ごめんなさい」


 お嬢様、と言いかけて。思い直して一度口を閉じ、言い直した。


「ごめんね、優花」


 ひどいことを言ってきたと、素直にそう思う。だから短いながらも詫びの言葉を口にしたのだが、その途端に茶色い瞳からぼろりと涙が零れて驚いてしまった。

 泣いたりしないと言っていたのは何だったのかと慌てながら、宥めるように背中をさすってやれば、余計に涙の量が増えてしまい途方に暮れる。一体自分は何をしているのだろうかと呆れ返った気持ちになり、本日何度目かも解らないため息をついた。


「……これ、返してあげる」


 そのまま黙っているのも気まずくて、拾ったきりポケットに入れっぱなしだった赤いリボンを取り出す。砂を払ってはいたものの、少し汚れたままのそれをもう一度はたいて、俯いた顔にかかった髪を掬い上げて結んでやった。

 逆から結ぶような体勢になってしまったせいで、中々綺麗に結べない。どうしても歪んでしまうのが気に入らず、細かい手直しをしていた飛鳥の耳に、小さな声が届いた。何事かと、リボンから手を離して向き直る。

 そして、涙の気配の残るお嬢様に、透き通った飴玉のような瞳で無垢に見つめ返されて、どきりとした。

 綺麗な、可愛い、愛に溢れたお嬢様。拭いきれない哀しさに満ちた瞳で、それでも優しく笑うお姫様。


「……拾ってくれて、ありがとう」


 涙に掠れてしまった、甘い甘い優しい声。よれてしまったリボンに嬉しそうに触れて、お母様の形見なの、と囁いて笑う綺麗な人。形見という言葉の悲しさが、重たく響く。

 そうだ、あの春の日も、拾ってあげた。何て綺麗な人だろうと、思ってしまったあの日。飛鳥の足元に転がってきたのはただの入学証書で、きっとそんなに大したものじゃなかったのだろうれど。あの時も、お嬢様は甘い甘い優しい声で礼を言っていた。

 日はもう沈み出してしまっていて、赤い色が混ざり始めた光が茶色い髪を透かしてきらきらとしている。


「入学式の日も、拾ってもらったわ」


 飛鳥と同じことを思い出していたらしいお嬢様が、穏やかに微笑もうとして上手く微笑むことができず、潤んでいた瞳をさらにきらきらと潤ませた。


「嫌われてると、解ったけれど。……私は、私は、あの時」


 何て、綺麗な人だろうって。

 真っ直ぐに伸ばされた背に黒い髪、金色の輪がきらきらきら。


「一人で、真っ直ぐに立って、前を見つめて。……何て、何て、綺麗なんだろうって」


 そう思ったの、と。訴える瞳は甘さに満ちていて、胸が奇妙に疼く。幼げな表情に縋るように見つめられたら、手足が不思議に痺れて体の自由が奪われた。

 甘い瞳が、微笑んでいた瞳が潤んで、また涙が零れ落ちる。可愛い顔は子供みたいに赤く、瞼は少しだけ重たげに腫れていた。


「綺麗だと、思ったの。好きだと思ったの。……だからどうか、嫌いだなんて、言わないで」


 お願いお願い、嫌わないでと。顔を覆って、急に何かが決壊したように泣き出したその姿があまりにも頼りなく、慌てた飛鳥が咄嗟に手を差し延べる。

 あーん、と。再び奇妙に幼い高い声を上げて泣くお嬢様がいきなり抱き着いてきたので、飛鳥は頭が真っ白になってしまった。


「嫌わないで、嫌わないで。……私を、好きになって……」


 お願いよ、と。我が儘を言う子供みたいに、同じことを繰り返す。抱き着いてくる体は涙のせいで熱を帯びていて、服越しに伝わる体温のあまりの高さに飛鳥は驚いてしまった。

 真っ白になった頭はそのまま。それでも泣き止ませてやりたいという思いだけで、飛鳥はお嬢様の背中に手を回す。暖かくて柔らかい、優しい感触にまたどきりとして、それが嫌悪とは全く違う感情であることに今更ながらに気付かされて、飛鳥は愕然とした。

 優しくしないで、近寄らないで、見つめないで、名前を呼ばないで、微笑まないで。あたしに、期待をさせないで。

 それは、それは全て。

 それは。


「……っ!」


 自覚をしたその瞬間、あまりの恥に呼吸を止めてしまった。

 腕の中の、頼りない背に触れた指から、甘いものが雪崩れ込む。どうしよう、どうしよう。

 どうしたらいいの。

 手の届くことなんてないだろうと思っていたお姫様が、何故だかあたしの腕の中で泣いている。


「――もう、嫌いじゃないよ」


 嫌いどころか、と。自虐を込めて叫び出してしまいたい内心を、飛鳥は必死で押さえ付けた。中々顔を上げないお嬢様を慰めながら、今顔を上げられたらまずいと冷や汗を流す。間違いなく顔が赤い。


(待って……いくら何でも、あたしがこんなに鈍いなんて)


 飛鳥は今現在の、不意打ちのような感情をどうすることもできずに、せめてポーカーフェイスを心掛けて頭に上った血を下げた。日が本格的に暮れつつあり、風が冷たくなっているのが有り難い。しかし、お嬢様は暗くなる前に帰らないと危ないのでは。余所事を考えながら、飛鳥は深く呼吸をした。

 そんなことをしている内に、お嬢様の涙は収まった様子で、そっと身を起こす。それでも大分飛鳥に身を寄せたままの状態で、何か言いたいことでもあるのか顔を真っ直ぐに上げた。

 そうして、口を開く。


「お友達から始めませんか?」


 お嬢様は真剣そのものだった。


「……始まっちゃっていいの?」


 胸中の動揺を必死に噛み殺して、せめて淡々とそう返す。飛鳥の脱力した様子に、言い方がおかしかったことに気が付いたのだろう、お嬢様が赤くなった。

 つられて赤くなりそうになるのを抑えながら、友達、という言葉だけを反芻する。何とか落ち着こうとしている思考に反して、まだ雪崩れ込み続けている甘いものに心臓が勝手に跳ねる。距離の近い今の状態で、変に思われたら困ると一人焦っている飛鳥の手を、お嬢様のか細い手が握り締めてきた。

 友達になりましょう、と。そう言い直したいのだろうと思って、飛鳥が平静を装って顔を上げる。

 途端、眼の淵まで赤く染まった茶色い瞳にじっと見つめられて、平常心どころではなくなってしまった。


「始まって、くれますか……?」


 甘い声は、涙と熱に震えている。どうかどうかひどい返事をしないでと、願う瞳には飛鳥の硬直した表情が映っている。

 世界を変えてしまうくらいの、暖かくて甘いばかりの想いを避けようもなく捧げられて、ポーカーフェイスを保つ気力もなくなった飛鳥が真っ赤になった。

 ああもう、本当に。

 何て綺麗な人かしら。




 きっと、もうとっくに、始まってしまっていたよ。

(生まれて初めてまともに自覚した恋心に、息が詰まった)


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