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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第一章
6/37

1-5

 すっかり面白がっているような舞子は、終始きゃあきゃあと上機嫌に笑っていて、本人の希望のままに審判を任せてしまったことを後悔せざるを得ないほどに喧しい。けれど正直、その判定の正確性を気にかけるだけの余裕はあまりなかった。

 すっかり上がってしまった体温を邪魔に思いながら汗を拭い、飛鳥は深く息をついて小さく呟く。複雑な気分だった。


「……ちゃんと、強いじゃない」


 先日の球技大会の時よりも、明らかに運動量の多いお嬢様は、遠目にも判るほどに息を切らせている。元が白い顔をしているから余計にそう思うのかもしれないが、頬を赤く上気させて肩で息をするその姿は、少し苦しそうに見えた。

 真剣にボールを追いかけるその眼差しも、賢い身のこなしも、球技大会で見せていたそれとさほど変わらないとは思う。けれど、運動量が増えているだけ、ポイントを一つ取るのにも時間がかかった。フルセットをするつもりは初めからなかったので、球技大会と同じミニゲームの形式だったのだが、お互いに譲らないものだからもう点数は二桁になってしまっている。

 ミニゲームなのでコートチェンジもないものだから、休憩もない。もういい加減に、飛鳥だって疲れてきた。

 飛鳥よりも確実に体力のないようなお嬢様は、もう足がついて行かないのか、転んでしまいそうで危なっかしい。今も、危うく転びかけたところを何とか堪えたという様子だった。

 そのせいで届かなかったボールをじっと見つめた後に、飛鳥の方に真っ直ぐ眼差しを向けてくる。茶色い瞳は疲労に潤んでいて、その物言いたげな色に責められているような気がして、飛鳥は目を逸らした。


「手加減なんてしない、ね」


 そう言っていたことは、確かに本当なのだろう。不快ではないが、何とも形容しがたい気分になった飛鳥はため息をついてボールを手に取った。次のサーブは飛鳥で、この点が取れれば飛鳥の勝ちだ。

 疲労の故なのか、持ち上げたラケットの厄介な重みに舌打ちして、そうしてできる限りいつも通りにサーブを打つ。お嬢様だってもう動きたくないだろうに、躊躇いなくボールを打ち返そうと走るその姿を視界に認めて、飛鳥は次の動作に備えた。

 いくつか、打ち合う。そうして、これで勝てるだろうと思って打ち込んだボールに追いつきそうなお嬢様を見てまだ続くのかとうんざりした次の瞬間、そのか細い体が派手に倒れ込んだ。寸前までボールに向かって走っていた体は、勢い余ってボールが着地する辺りに丁度倒れ込み、それを見た飛鳥が息を飲んだ。

 幸い、飛鳥が撃ち込んだボールはお嬢様の手前でバウンドして、そのまま遠くへ転がっていく。顔に当たらなかったことに、知らず知らずの内に安堵の息をついた飛鳥は疲労に脱力した。


「飛鳥の勝ち!」


 二人とも上手、と。舞子がどうしようもなく呑気に手を叩く。

 それを尻目に、飛鳥は気が進まないながらお嬢様の方に歩み寄った。息は切れていて、足も重い。正直あまり動きたくはなかったけれど、転んだまま何故か起き上がらないお嬢様の姿を、何もせずに見続けるのはどうにも居心地が悪い。歩きながら息を整えようとしていると、飛鳥が近付いてくるのが分かったのか、お嬢様がそっと上体を起こした。

 近くで見るお嬢様の体は砂埃に汚れていて、リボンはほつれて乱れた髪が俯けた顔を隠してしまっている。まだ地面に投げ出されたままの足は、擦り傷から血が滲んでいて痛そうだった。

 少し強く吹いた風に、緩んでいたリボンが完全に解けて飛んでいこうとする。丁度飛鳥の足元に飛んできたので、なくならないように拾ってやった。砂に汚れてしまったそれをはたきながら、そう言えばあの春の日も、お嬢様の落とし物を拾ったのだったということを思い出した。


「……ちゃんと、強いんじゃない」


 先程思ったことをそのまま伝えれば、俯いていた顔が上を向く。リボンが解けてしまったせいで、その長い髪は光に透けながら頬に纏わり付いていた。上気していたその頬は、元の白さを既に取り戻しつつある。茶色い瞳は穏やかに甘い。

 その優しい瞳にじっと見つめられて、息を切らせたままのみっともない自分が嫌になる。飛鳥は視線を少しだけ外して、悪意と共に小さく笑った。


「やっぱり、いつもは、手加減してるってことなんでしょ」


 感じ悪い、と。それこそ感じの悪い声で言い放っても、お嬢様は俯くだけで何の言葉も返してはこない。

 重さを感じるような沈黙の中、さすがに気まずくなってきた飛鳥の耳に、微かな声が聞こえた。


「そんな、こと」


 激しい運動の後だからか、その声は切れ切れに掠れて聞き取り難い。それでも綺麗だと思える声が、重い沈黙を少しずつ破っていく。

 そんなことないと、いつも言っていたお嬢様が、掠れて震えた声で言葉を続けた。


「そんなこと、私が一番よく解ってる……」


 頼りない声の後に、ぽつり、と。雨のように小さい水滴が、テニスコートに染み込んでいく。何が起こったのかよく解らず、思わず目を見張った飛鳥の目の前で、水滴はぽつりぽつりとその量を増やしていった。先程まで煩わしいとまで感じていた秋晴れの空は今も薄い雲がたなびくだけで、雨の気配は感じられない。え、と。戸惑う飛鳥の前で、お嬢様がゆるゆると顔を持ち上げた。

 茶色い瞳の瞳孔と白目の境界を曖昧にするほどに並々と満ちた涙が、堰を切ったようにぽろぽろと溢れ出して一滴、また一滴とお嬢様の白い頬を濡らしていく。何が起こったのかを飛鳥が認識するよりも僅かに早く、まるで小さな子供のような顔をしたお嬢様が、あーんと大きな声を上げて泣き出した。


「は?え、ちょっ、何」


 白さを取り戻しつつあったはずのその頬はいつの間にか真っ赤に紅潮していて、その表面を幾筋もの涙がきらきらと滑り落ちていく。砂に汚れてしまった衣服を握り締めるいかにも繊細そうな手指は頬とは真逆に蒼白になっていて、手の甲についた僅かなかすり傷がよく目立った。

 拾ったリボンを渡すタイミングを逃したまま、飛鳥はかつてないほどに狼狽していた。今何が起こっているのか解らない。さらに、落ち着こうとする度に絶妙のタイミングで、舞子や舞子の友人たちからからかいの声が飛んでくる。


「飛鳥がお姫様を泣かせた!」


 いけないんだ、と。小学生のような文句でからかってくる舞子は何故かまたはしゃいでいて、その声が冷静になろうとする飛鳥をどうしようもなく邪魔してきた。学校での、飛鳥とお嬢様の微妙な関係を全く知らないのは解っているが、せめて今の気まずい雰囲気を少しくらい悟ってほしい。

 落ち着けないまま、それでも周囲への怒りで少しだけ我を取り戻した飛鳥が、主に舞子を睨み付けた。


「ああもう、うるさいよ外野! ……あー、ごめん。今のは多分、あたしが悪かった。……飲み物買ってあげるから、あっち行こ?」


 お嬢様に対して買ってあげるもないものだが、咄嗟に小さい子にするような対応しか出てこなかった飛鳥は、そんなことを言ってお嬢様を宥める。当然嫌だと拒絶されるものだと思っていたのだが、お嬢様は不思議なほど大人しく頷いて、あっさりと飛鳥の後ろをついて来た。

 寄ってこようとする舞子たちを追い払いながらテニスコートを出ようとして、結局返せていなかったリボンのことを思い出す。お嬢様の顔をそっと窺えば、涙こそもう流れてはいないが、茶色い瞳にはまだ一杯に水の膜が張っていて、瞬き一つの度に睫毛が潤んでいる。

 まだ話しかけるのはやめておこうと諦めて、飛鳥は赤いリボンをポケットにそっとしまい込んだ。



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