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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第一章
4/37

1-3

 球技大会が終わって、期末テストまではようやく静かな時期が続く。二年生は修学旅行がどうしたと慌ただしいが、一年生は春の遠足以外はどこにも出かけないので気が楽だった。夏の演劇鑑賞会以外課外授業のない三年生もそれは同じで、彼女たちはそろそろそれぞれの進路に懸命になる時期だ。学校中が真面目で大人しい雰囲気に戻り、飛鳥は少し力を抜いた日々を過ごせた。

 球技大会でそれなりの成績を出してしまったためか、奨学生としてのこれまでの積み重ねの成果か。声をかけようとして来る女生徒がやや増えたのは面倒だが、適当に冷たくあしらえば距離は縮まらない。今まで通り我関せずの態度を貫きながら、飛鳥は日常を繰り返していた。

 お嬢様の名前は、この学校にいる限り耳に入らざるを得ないものだと諦めてしまえばそれでいい。事あるごとに噂話を楽しげに口にする少女たちは騒がしいが、そこに一分の悪意もないのなら、聞き流していても不快ではなかった。昼食をさっさと済ませ、他にすることもないので早々に教科書を出しておく。


「吉野、さん」


 恐る恐るといった声に呼び掛けられ、自衛の意味も兼ねていささか機嫌悪く顔を上げれば、解りやすく飛鳥を怖がっている気の弱そうな少女が身を竦ませた。別に話し掛けたくて話し掛けているわけではなさそうなその様子に肩の力を抜いて、何、と棘のない声で尋ねれば、少しばかり安堵した様子の少女が、まだおどおどしながらも口を開こうとする。

 けれど、その少女の声よりも早く、眩しいほどに明朗な声が教室に響いた。


「吉野さん!」


 校内で上げる声としては明らかに張り過ぎなその声に、何事かと顔を向ければ、教室の入口でひらひらと手を振る明るそうな女生徒が視界に入る。クラスメイトの少女たちの幾人かが、みどり先輩、と驚いたようにざわめいた。

 肩で綺麗に切り揃えられた黒髪に、二年生の証である緑色の線が引かれたネームプレートに書かれた文字に、ようやく彼女のことを思い出す。テニス部副部長、川名みどり。球技大会でお嬢様と試合をしていた、地味なヘアバンドの二年生だ。

 相手が先輩では、真っ向から無視をするのも具合が悪い。密かにため息をついた飛鳥は、それでも素直に立ち上がって先輩のいる廊下の方へ足を運んだ。

 ヘアバンドがないだけで、随分と大人しそうな印象に変わる先輩が、毒のない眼差しで軽やかに微笑む。


「いきなりごめんなさいね」

「いいえ」


 何か? と、不遜にはならないように気を配りながら、それでも無害というには冷たいような声で問い掛ければ、先輩は何も気にした風もなくあのね、と口火を切る。細かいことはあまり気にしない様子の彼女は、高圧的でも威圧的でもないのに、確かに先輩として扱わなければならない気配を纏っていて厄介だった。


「テニス部に入らない?」

「は……?」


 あまりにもあっさりとしたその言葉に流されて、危うく頷きかけたところでそれが勧誘の言葉であることに気付き動きを止める。

 唐突に過ぎる誘いに瞬いた飛鳥が怪訝に眉をひそめれば、言葉が足りなかったことに気付いたらしい先輩が、あ、と声を漏らした。


「違うわ、そうじゃなくて。入らなくてもいいから、時々参加してもらえないかな、と思ったの」


 曰く、三年生引退以降。元々二年の部員が例年よりも少なかったこともあり、一年生の指導が間に合っていないらしい。修学旅行前後は色々と慌ただしい二年生が二週間ほど不在になる間の、練習内容が組めずに困っているとのことだ。

 活動日は水曜日と日曜日以外だとか、顧問は社会の先生で、実際に指導を担当している講師の先生は週に二度しか練習に来られない、とか。そんなことを語りながら、先輩はじっとこちらを見つめてくる。心情的には断る以外の選択肢などないが、何と言って断れば良いものかと考えている内に、すっかり断るタイミングを逃していた。

 快活で澱みない声を右から左へと聞き流している内に、もう言い方など気にせずさっさと断ってしまおうかと苛々した気持ちになる。そんな飛鳥の耳に、桜川さんも、と。その言葉は、妙にはっきりと耳に届いた。


「桜川さんも、参加してくれてるのよ」


 週に一度だけだけれど、しっかり試合をできる人が増えるだけで違うのよと、笑う先輩に悪意は欠片もない。

 耳に入らざるを得ない名前だと、諦めてしまえばそれでいいのだけれど。先日から続くやり場のない不快をもう一度強く意識してしまった飛鳥は、小さくため息をついて俯いた。そのため息に気付いて、駄目かな、と。顔を曇らせた先輩に、いつですか、と問い掛ける。


「え?」

「……お嬢様は、いつ参加してるんですか?」


 別に、毒を含んだ声は出していない。少しだけ冷たい声で紡がれた飛鳥の問い掛けに、興味を持ってもらえたと思ったらしい先輩の顔が明るくなる。金曜日よ、という答えを聞いて、解りましたと飛鳥は頷いた。


「それじゃあ、金曜日以外なら、あたしも一日だけ」


 そう答えれば、先輩はこれまで以上に明るい顔でありがとうと笑う。みんな喜ぶわ、と心から嬉しそうにしている先輩を見ながら、少なくとも一人は死ぬほど嫌がるだろうなと、小柄な少女のことを思い出した。彼女はいつも、廊下ですれ違うだけで飛鳥を睨む。

 ちらりと教室の時計に目を遣り、もう昼休みも終わりそうなことを知って、飛鳥は胸中でため息をつく。飛鳥と同じくらいにそのことに気付いたらしい先輩が、もう戻らないと、と慌てた声を出した。


「引き受けてくれてありがとう」


 もう一度明るい声で感謝を口にした先輩が、練習予定を決めたら伝えるわ、と言って笑う。

 金曜日以外ね、と確認して、何かを考えるような素振りを見せた先輩が、今度は少しだけ残念そうに笑った。


「あなたと桜川さんの試合も、一度くらい組んでみたかったな」


 きっといい勝負だと思うわ、と笑った先輩が、それじゃあねと踵を返して去っていく。何も答えることなく先輩を見送ったまま立ち尽くす飛鳥の耳に、昼休みの終わりを告げる予鈴がうるさく響いた。

 教師が教室に来る前に席に戻った飛鳥は、教科書を出して筆箱を開く。小さくなってきた鉛筆を見て、新しいものを買わなくてはと憂鬱な気分になったら、何故か笑えてきた。


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