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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
終章
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【後日談】


『――アスカ!』


 呼ばれて、振り向く飛鳥の耳に、金色のピアスが揺れる。

 時刻はすでに定時を過ぎていて、もうあとは帰るだけだった飛鳥は少しばかり眉根を寄せた。化粧だって直していないし、コートだってもう着てしまっている。


『何よ』


 今日は絶対帰るって言っていたでしょ、と。慣れた英語でそう返せば、声をかけてきた東欧の青年が、今日の話じゃないんだよ! と。慌てながら首を横に振った。


『そうじゃなくて、来週でいいんだ。アスカは、スペイン語が話せたよね?』

『スペイン語? 話せるけど、書けないわよ』


 飛鳥がどうにか習得できたのは、イタリア語までだ。系統が同じ言語くらいは制覇したいと思っているが、如何せん時間は限られている。使う機会が多い言語の方が優先だ、


『十分だよ!』


 我が救いの女神! などと叫ばれて、飛鳥は頭痛を覚えた。根深い東洋蔑視が息付く海外において、好意的な対応は嬉しくもあるが、その表現法には思うところが多々ある飛鳥だ。

 悪い人間ではないのがなお悪い。すでに断れない空気になっていることにため息をついて、口を開く。


『また出張?』

『お願いするよ!』


 僕じゃ無理だし、他に誰も手が空いてないんだ! と。あまりにも大きな声で、必要以上に悲愴な声を出すものだから、通りすがる人間がくすくす笑っている。飛鳥は額を手で押さえた。


『いいけど。あたしに同居人がいるってこと、少しは考えてよね』

『ああ! あのお嫁さんだね!』


 今度彼女にも貢ぎ物を用意するよ本当にありがとう! と。あっけらかんと言われ、どうしようもない頭痛を感じつつもはいはいといなす。どうにも飛鳥は馬鹿に弱い。

 それに、お嫁さん、という呼び名は、飛鳥の胸を暖かくする。たとえ彼に、他意がなくとも。

 ホテルはちょっといいところ抑えるから、と。そう言いながら手帳を開き、早速予定を書き込む彼に、ちょっと待ったと断りを入れる。


『いつも言ってるでしょ。あたしは自分で用意するから』


 二人分、と。そう指で示せば、彼はああ、と頷いた。最初は奇妙な目で見られたりもしたが、それが当たり前だということになってしまえば、それ以降は楽なものだっだ。


『いや、それなら、今回は僕が二人分持つよ!』


 それが貢物ってことで、と。気安いウインクまで向けてくる陽気さに、ちょっとそろそろ胃もたれする。彼の出身国は寒々しい印象のある北国だったが、あまりに明る過ぎて人種を間違えそうになる。


『いいのよ。好きなところに泊るのが楽しいんだから』

『それじゃあ、指輪か花でも贈ろうかな。君にも贈っていい?』

『残念だけど、花泥棒は日本じゃ死刑よ』


 ありがたいことにはっきりと冗談と解る馬鹿話に、物騒なジョークで返せばハハハと彼は陽気に笑った。本当、彼はアメリカ辺りに生まれておいた方が生きやすかったんじゃないだろうかと飛鳥は思う。

 まだ何か言いたそうな彼を遮って、飛鳥は口を開いた。


『細かい話は明日ね。今日は本当に、もう帰るわ』


 記念日だから、と。殊更に指輪を強調しつつそう口にすれば、素直な彼は引き留めたことを謝りながらもう一度礼を口にした。


『お嫁さん二人でお祝いかい?』


 旦那さんが寂しがるよ! という善意に満ちたからかいに、日本には来月帰るからいいのよ、と。飛鳥は何事もなく返す。

 飛鳥の机に飾られているのは、花嫁二人の華やかな写真だ。両面になっている写真立ての裏面には、スーツ姿の青年二人を両端に、気難しげな男性を真ん中の椅子に座らせて、一つのブーケを一緒に持つ花嫁二人の、五人の写真が飾ってある。


(指輪か、花ね)


 指輪は、もう贈った。だから今日は、ひとまず花を買って帰ろう。



          ※          ※



 家の扉を開けた途端に見知らぬ猫に飛びかかられて、思わず花束でガードしてしまった。

 柔らかく跳ね返った猫は、その勢いのまま鮮やかに着地を決める。澄ました顔をしたその猫はまだ随分と小さく、歩くのが面倒なのか立っているのも面倒なのか、じわじわと体勢を崩して寝転がった。

 そんな猫に目を奪われていたら、奥の部屋から優花が顔を出した。


「お帰りなさい」

「――ただいま」


 嬉しそうに笑いながら、ぱたぱたと小走りに玄関まで駆け出してくる彼女に、はいお土産、と。花を押しつけつつ、目線で猫を示す。野良猫ではありえない毛並みの良さのその子は、知らん顔で床の上に平べったくなっている。


「その猫、なあに?」

「お隣さんが旅行なんですって」


 預かって、って。いきなり来るからびっくりしちゃった。そんなことを口にしながら、子猫をひょいと抱き上げる。優花の髪にじゃれつく子猫は機嫌が良さそうで、優花ものんびりと微笑んでいたが、そこで急に思い至ったことがあったようではっと顔を上げた。


「飛鳥、猫は大丈夫だった?」


 まさか苦手だったりしたら……! と。必要以上に深刻な顔をする優花の様子に、飛鳥は笑う。別にアレルギーもないし、動物嫌いという訳でもない。


「大丈夫だけど、いつまでの約束?」

「三日間……あ、出張が入ったの?」


 相変わらず察しがいい。

 一言の問いだけで飛鳥の懸念を悟ったらしい優花が首を傾げるので、うん、と。飛鳥は頷いた。


「急にごめん。でも、来週だから、三日なら問題ないわ」

「それなら大丈夫ね」


 よかった、と。優花は笑う。いつまでも愛らしい彼女は、笑うと益々幼げだ。

 花束にじゃれつこうとする子猫を宥めるように一撫でして床に下ろし、花瓶花瓶と口遊みながら流しの方へと駆けていく後ろ姿には、相変わらず赤いリボンが揺れている。それは、飛鳥の幸せの象徴だ。

 微笑んで、ふと足元に目を向ければ、優花に置いて行かれた小猫が不満げな顔付きで床に転がっていて。吹き出した飛鳥はその猫を抱き上げて部屋まで連れて行ってあげた。

 よくよく見れば、その子も赤いリボンをつけている。


「優花とお揃いね」


 そう言いながら引っ張ったら、爪を出して怒られた。どうやらこの子のお気に入りらしい。



          ※          ※



 食事を終えて、洗い物を二人で済ませて、情報紙をめくりながら泊まる場所を決める。まだ具体的な計画など何もないが、二人で出かけるならば良いところに行きたい。

 ロングスカートに潜り込もうとしてくる子猫を、笑いながら窘める優花があまりにも可愛いので、飛鳥は笑って口を開いた。


「何か、飼いたい?」

「ううん。家の子がいたら、出張について行けなくなっちゃうもの」


 だからまだいいわ、と。飛鳥を見つめて、優花は笑う。飛鳥がどこかに行く度に、彼女は必ずついて来てくれる。

 その始まりは飛鳥の我が儘だったが、こうも機会が増えると申し訳なくもあった。まさかこんなにも、色々な所に度々飛ばされる生活になるとは、飛鳥もあまり予想していなかった。


「ついて来てくれても、あんまり構ってあげられなくて申し訳ないけど」

「大丈夫、退屈じゃないわ」


 むしろ今回はこっちがぎりぎりかも、と。優花はふわりと微笑んで、眼差しを彼女の仕事部屋の方へ巡らせる。

 彼女の仕事は翻訳だ。本当は童話や詩の訳が好きなようだが、度々回されるのは論文らしく、いつも難しい本と格闘している。専門外の内容の時は本当に辛いらしく、先日は泣きそうになりながら昆虫図鑑を読んでいて、飛鳥は笑ってしまい怒られた。


「じゃあ、デートできるのは結局来月かしらね」

「あ、譲お兄様から、一日でいいから家族旅行しようって」


 伝言が、と。そう言いながら、日本から来た手紙を入れておく小箱に目を向ける。


(それなら、飾る写真を変えようか)


 義兄たちには少々申し訳ないが、家族写真だと言えば嘘にはならない。当然と思われる誤解を誤解のままにしていれば、今日のような安泰が手に入る。

 姑息な考えばかりめぐらす自分が嫌にもなるが、飛鳥は平穏が欲しい。他でもない、優花のために。


「次子さんと、有住さんも、帰ってくるなら会いたいって」

「……デートって難しいわね」


 お嫁さんが人気者で困るわ、と。冗談めかして優花の額を小突けば、飛鳥と一緒だからよ、と。優花は額を押さえて笑いながら、いつまでも甘い茶色の瞳に飛鳥を映して愛らしく小首を傾げた。


「私、寂しくないわ。飛鳥といれば、いつも月には行けるもの」

「なあに、お誘い?」


 笑い半分にそう尋ねれば、冗談とも本気とも取れない様子で、優花は笑う。

 茶色い髪、茶色い瞳、赤いリボン。飛鳥の幸せは全て、形にすれば彼女になる。

 満ちる幸いに浸りながら、柄にもなく小さな声で歌を口ずさめば、頬を染めて微笑んだ優花が飛鳥に頬を寄せた。




趣味一色の百合小説をお読みいただきありがとうございました。

普段はBLを書いていますが、百合も男女も大好きです。

愛し合う二人にたくさんの幸いがありますように!

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