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あの日から、空にも、月にも、色がない。
今なら桜も薄墨色に咲くだろう。
優花は、飛んでいく飛行機をぼんやりと硝子の窓から眺めた。飛行機の後ろから長く伸びる飛行機雲を追いかけて転んだのは、いつの日の思い出だろう。
追いかけて、追いかけて、手に入るのなら。足が砕けたって構わなかったよ。
「……………」
努めて何も考えないようにしている心は、ふとした瞬間に痛みを覚えて悲鳴を上げる。ままならない心に苦笑を浮かべようとしても、表情筋はちっとも動こうとしなかった。
同じ飛行機に乗る皆さん、パイロット、機体の整備士、空と海。飛行機に関わる全ての要素に、ごめんなさい、と。心の内で唱えてから、優花は口を開いた。
「……飛行機が、落ちればいいのに」
こんな馬鹿な娘が死んでも悲しんでくれるのでしょう。病室で目を覚ました時に抱きしめてくれた譲お兄様、面会時間のぎりぎりに息を切らせて駆けつけて入口に立ちつくした真っ赤な瞳の総一郎お兄様。怒っていただろうに情けない気持ちで一杯だっただろうに、逃げ場所をくれたお父様。遠い島国で、先にお待ちしておりますからねと、笑ってくれた蔦枝さん。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
でも、もうつらいの。
あなたのためなら死んでもいい。――あなたがいないと、生きていけない。
あなたと見る月は美しい。あなたがいないと、この世に美しいものは一つもない。
好き、好き、大好き。私の手を握って、キスをして。
あなたにキスをさせて。
一人ぼっちじゃ呼吸もできない。苦しくなって、悲しくなって、優花は俯いた。閉じた瞳からは何も溢れない。
「落ちればいいのに……」
「それは駄目」
声が、聞こえた。
「心中は御免だって、言ったでしょ」
この世で一番綺麗な声、この世で一番愛しい声。もう二度と思い出すまいと封じ込めていた声がどうして溢れてしまったのかと、己の記憶に文句を言う。ほら、涙なんてものが溢れてきてしまった。
好き、好き、大好き。あなたと月に行ってみたい。あなたと、あなたと、一緒にいたい。
望むのは、それだけ。
* *
疲れた顔で戻ってきた兄に、譲は問い掛ける。
「父さんの言い訳は?」
「……『嫌われていると思っていた』だそうだ」
あまりにも、どうしようもない理由に。譲は脱力した。総一郎もまた、椅子に腰かけるなり頭を押さえる。
顔なんて見たくないと思われていると思い込んでいて、だから早くこの家を出た方が良いという考えだったらしい。家を出て、幸せになる環境が無ければどうしようもないだろうに、どうしてそこまで思いが至らなかったのか理解に苦しむ。自由になる財産さえ確保してしまえば安泰だなんて、亡き母との間に確かに愛を育んでいた人間の発想だとはとてもじゃないが思えない。
しかし、父に意見しても無駄だと諦めていた譲たちにも、非はある。それは認めざるを得ない。
「言っても無駄だ、って。……そんな風に優花に思わせたのは、まあ、俺たちのせいでもあるよね」
「……いや、そうでなくても、言えなかっただろう」
女同士だぞ……と、紙のような顔色で、真顔で呟いた総一郎の様子に、譲はおや、と思った。全面的に優花の味方をしていたので、頭の固い兄にしては柔軟だと思っていたのだが、気にしていたのだろうか。問い掛ければ、お前は気にしないのか!といきなり怒られた。
譲だって、確かに困惑した。困惑している。けれど、まあいいかと、思っていた。
「いや……正直、どこの馬の骨とも知れない男に取られるよりは、いい子って判ってる女の子の方が」
俺はいいかな、なんて、と。偽らざる気持ちを語ったら、兄の顔が阿修羅のようになった。
「お前は頭がおかしい!」
そう言い放って、実際に幼かった頃でも滅多にしなかった子供っぽい動作でそっぽを向いてしまう。とは言っても、譲が覚えている兄は既に小学校の中学年だったので、譲が知らないだけなのかもしれないが。
「じゃあ、男の方がよかった?」
「よくないに決まっているだろう!」
今更、男なんかに誰がやるか……! と。半ば自棄になったような声で叫ぶ兄の姿に、譲は笑いを噛み殺す。兄だって、優花の幸せを本当に願っているのを、譲は知っていた。
兄だけじゃない、父だって、本当はそうだ。今回の件については、本気で良かれと思って、というのが笑えない点ではあったけれど。
「……未成年二人で、大丈夫なのか」
少しばかり落ち着きを取り戻した総一郎が、窓の外に目を向けながら、そんなことを呟く。譲も、つられたように外に目を向け、よく晴れた空を仰いだ。
「蔦枝さんが先に行ってくれているからね、大丈夫だと思うけれど」
そう返せば、総一郎の顔がまた強張った。彼女には、どこまで話したんだ、と。深刻な声でそう尋ねられたので、大体、と曖昧に答えた。
正直なところ、譲には一体何と説明したものか皆目見当もつかなかったのだけど、譲の拙い説明にも、賢い老婦人は畏まりましたと簡潔に頷くだけだった。昔の人の方が衝撃を受けるかと思っていたのだが、むしろ彼女の応答の方に譲が衝撃を受けた。
何と? と。総一郎が問い掛けてきたので、譲は一字一句忘れられない、その応答を口にした。
「『私にも少なからず覚えがあります』……だって」
「……人に歴史ありだな」
頭を抱えて、総一郎は俯く。己の理解の外での出来事に実に混乱して、困惑して。それでも、茶色い瞳の妹の不幸を望まないのなら、許してあげることしかできないことくらい、承知している。
「二人は、これからどうするつもりなんだ」
「取り敢えずは、大学じゃない?」
父は今後一生の生活費ぐらい出す気だったらしいが、黒髪の少女はそんなのは御免だと青褪めてまで拒絶した。
元々の彼女の目標は、高学歴からの就職と独り立ちだったようだから、恐らくそれを目指すことは変わらないだろう。譲が仲介に入り、彼女たちが自力で金銭を稼げるようになるまでは援助をすることを提案したが、必ず全額を返済する旨の証文を書くことを条件に追加された。覚悟を決めた彼女は、恐ろしく気が強かった。
その場にいなかった兄に掻い摘んで説明すれば、彼は頭を抱えた。男であれば天晴な心意気だと呟いて、いや女ながら天晴と言うべきなのかと、混乱した様子で独り言ちている。そうして、重いため息をつきながら窓の外に目を向けた。
「月にでも、どこへでも、行けばいい……」
まだ明るい空には白い月が浮かんでいて、雲一つない空に彩りを添えていた。
「時々、帰ってきてくれるなら……月ぐらい、妥協の範囲内だ」
兄は、割と妥協の範囲が狭い。
譲は笑いそうになったが、時々は帰ってきてほしいのは譲も一緒だったので、黙っておいた。
* *
柔らかい温もりがそっと触れて、優花は体に腕が回されたことを知る。好き、好き、溢れ出した感情に耐えられなくなって瞳を開けて、視界に入った細くて白い指に目の前が焼け付いた。
あなたを愛してる。
「……あなたの、ためなら」
「死ぬのもなし。一人残されるのも、やだよ」
病院にいるって聞いたとき、生きた心地がしなかった、と。咎める声は哀しく甘い。
燃えるように胸が熱くなって、そしてぼろぼろぼろと雫が零れた。
「私も、死にたくない……」
うん、と、頷く気配。それでいいよと、髪を撫でる優しい手。
息を吸おうとして口を開いて、その瞬間に溢れそうになった嗚咽を堪えたら変な声が出てしまった。涙に歪む視界は赤い。今は夕方。夕日に染まる雲が明るい。
「……今夜の月は、きっと綺麗」
「それならいいよ」
あたしもそう思う、と。綺麗な声が穏やかに呟く。麻痺した体に、指に、血が巡る。貰った指輪を中指に嵌めたままの、右手。白い手が、優花の指から指輪を抜いて、左手の薬指に移動させた。
振り返れば、黒い髪、金色のピアス。涙に滲んで笑う黒い瞳。わたしのすきなひと。
私の、飛鳥。
「私を、月に……連れて行って……」
「うん、それはもっといい」
手を繋いで、額を合わせる。どちらの額も熱を帯びていて、肌から染み入るような愛しさにまた一筋涙が流れてしまった。
あなたを、本当に、愛してる。
好き、好き、大好き。
(あなたと一緒なら、どこへでも行ける)
ご愛顧ありがとうございました!
本におまけをつけようと思っていたのですが、締め切りを間違え(初歩的ミス)入稿できなかったので、明日夜におまけ分の後日談を更新して完結ということにしようと思います。
あと一話、お楽しみ頂ければ幸いです。




