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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第四章
33/37

4-8

 願いが通じたのか、よほど疲れていたのか。青白い顔の優花は、中々目覚めなかった。

 飛鳥は小さな窓から暗くなっていく外を眺め、優花の寝顔を眺め、無為に時間を潰す。優花が眠っている間に、全て終わってくれたりはしないだろうかと考えて。……寝ている間に、踏み込まれたら、きっと彼女は怖い思いをするだろうと思い直して。飛鳥はトイレに立つ時間も惜しんで、優花の傍に座り込んでいた。

 流石に暗闇のままではいられず、まだ手元は定かな内に明かりを点ければ、刺激になってしまったか優花の目蓋が震える。そうして開かれた甘い色の瞳に飛鳥を映して、ほっとしたように微笑んだ。


「……お腹、大丈夫?」


 そう尋ねれば、もう大丈夫、と。優花は笑う。明日はもう、歩けるわと。そう続けられて、飛鳥は俯いた。もう、歩かなくていいの。


「優花」


 寝台に腰を下ろしながら、震えそうな声で彼女の名を呼ぶ。いけない、いけない、いつも通りの声を出さなくては。

 背筋を伸ばして、何でもないような顔をして、呟いた。


「ここで、おしまい」

「え?」

「……平和なところに、帰してあげる」


 この子が、傷を負うことなく生きていける場所に。罪の意識や、寄る辺ない不安、鈍い痛み。そんなものから、遠ざけたい。

 優花はしばらく何を言われたのか解らない様子で瞬いて、そうして、ゆっくりと身を起こして口を開いた。困惑と狼狽の中から、必死な様子で言葉を選び出す。


「お父様も、お兄様たちも、大好きで、大切よ。……でも、でも、私は、飛鳥が、一番好き」


 その言葉を、大切な人にもらえた飛鳥は幸せだった。――その言葉に、何の偽りも誇張もない。ただの真実であるということを知れば知るほど、悲しくなるほど嬉しかった。

 何の言葉も返さずにいれば、優花はじいっと飛鳥の顔を見上げてくる。血の気が引いた白い肌はますます清く、茶色い瞳は何かを訴えるように、物言いたげに潤んでいた。


「全部を捨てたって、あなたが欲しい……」


 その言葉に偽りがないことを、飛鳥は知っている。自分を慈しんでくれた全てのものの貴さを知りながら、飛鳥のために全てを置いてきた優花のことを、知っている。

 気付いていないのかしら。自分の言葉に傷付いたような眼をして、優しい人。可愛い人。

 あたしのすきなひと。


「……知ってるよ」

「なら……!」


 潤んだ瞳はきらきらと美しい。ああ、あたしはこの子を何度泣かせたんだろう。飛鳥は思う。悲しい気持ちで、愛しさに瓦解しそうな心でそう思う。

 少し痛んでしまった茶色い髪、赤いリボンもはずしてしまったその頭を撫でてあげたいと思って、震えてしまった指先を誤魔化すように強く握り締めた。


「でも、ごめんね」


 茶色い瞳が、飴玉のような瞳が、ぱっちりと開いて飛鳥を見つめている。どうか酷いことをしないで、酷いことを言わないでと、訴える瞳を見つめ返すことができずに、飛鳥は目を伏せた。

 声が震えないように、指が未練に手を伸ばさないように、全ての気力を振り絞ってから口を開く。


「あたしのために大切なものを捨てる、あなたを見ていられない」


 自分の耳に届いたその声は、幸いなことに平静だった。

 安堵して、瞳を開いたら、呆然と見開かれたまま表情も浮かべられずに凍り付いている茶色い瞳と眼差しがかち合う。

 優しい瞳、優しい面差し。綺麗な、綺麗な、この世で一番綺麗な少女。冷たい板張りの、とても清潔とは言い難い床に座り込んでいるその姿に、絶望と呼ぶには甘過ぎる感傷が胸に満ちた。

 ああ、あたしはこの子を愛している。


「あたしはあなたに、平穏をあげたい」


 こんな風に、あなたを大切に思う人たちから逃げ回らなければいけない生活ではなくて。あなたを凍えさせる安宿でも、あなたの身を細らせる食事でも、あなたの髪を傷ませるシャンプーでもなくて。

 あなたを泣かせる、あなたを守れない、あたしなんかじゃなくて。


「永遠に続く、平穏をあげたい……」


 凍りついたその眼差しを、柔らかく溶かしてあげたい。少し痩せてしまったその頼りない体を、暖かい手で抱き締めてあげたい。

 だけど、だけど、それよりも。あなたに、永遠の安寧をあげたい。

 今すぐじゃなくても、それでも。――かけがえのないあなたに、永遠を約束するものをあげたい。


「……駄目なの?」


 優花が、口を開いた。

 まだ表情を変えない瞳は、硝子玉のように透き通っている。何かを考えるように瞬いた優花が、白い手をそっと伸ばした。

 寝台の上に投げ出されていた飛鳥の手は、先程振り絞った気力のおかげかぴくりとも動かない。それでも、冷たくなった優花の手に握り締められた時に、少しだけ脈打ったような感覚があった。


「好きよ、好き。あなただけが好きよ……」


 そんなはずはない。だってそれじゃあ、あんなにたくさんの人がこの子を愛するはずがない。

 訴えるように、信じてくれるまで繰り返すだけだと言いたげに、小さな口が優しい声で愛を囁く。――信じていない訳じゃない。疑ったことなんてない。でも、でも、この手を握り返す力が飛鳥にはない。

 その時が来たのだと。本当は解っているのだろう優花の瞳に光が灯って、溢れる涙にゆらゆらと揺蕩う。偽りのない愛と弱々しい諦観を浮かべて、優花は微笑んだ。

 ああ、なんて、綺麗な人だろう。


「あなたの、ためなら」


 飛鳥の手を握り締めたまま頬に寄せる白い手は、震えている。少し荒れてしまったはずのその手はしっとりと汗ばんでいて、それなのに感じる体温は哀しいほどに冷たい。

 それとは対照的に、触れさせられた頬は、燃えるように熱かった。


「……死んでもいい」


 綺麗で激しい、愛の言葉。

 賢いお姫様の言葉遊び。二人で何度も、子供のように繰り返した戯れの言葉たち。彼女と見る月は、いつだって青かった。月に、連れて行ってねと。優しく甘える、優花の声。

 連れて行きたい、連れて行きたい。本当は、どんな遠くまでだってあなたを連れて行きたい。

 茶色い瞳から、ほろりと一筋、ついに耐え切れずに溢れた涙が飛鳥の手を濡らす。優花に負けないほどに凍えた飛鳥の手には、その涙は温か過ぎて火傷しそうだ。

 少し、歪んでしまった飛鳥の視界の中で、何かが壊れてしまったように泣き出した茶色い瞳がきらきらと輝いて飛鳥の心を刺す。


「……あなたが、いないと……」


 ぐしゃりと、涙に滲んだ声が耳に届くのが辛くて、せめて視界を閉ざそうと俯いたら、部屋のドアを叩く音がした。

 優花がびくりと体を跳ねさせて、弱々しく握り締めたままだった飛鳥の手から意識を少しだけ逸らせたその瞬間に、その手を払ってトイレの個室に走る。簡単な仕組みの鍵を内側からかけて、その場にずるずるとへたり込んだ。

 ドアを破りかねない強引な音の隙間から、とんとん、とんとん、と戸を叩く音が飛鳥の脳に響き続ける。ああどうか、お願いだからその手を傷付けるような強さでは叩かないで。飛鳥は顔を覆い、俯きながら体を丸めた。

 泣き声が聞こえる。泣き声が、聞こえる。ドアが開く乱暴な音が聞こえた瞬間に、これ以上音を拾いたくないとでも言うように、飛鳥の聴覚が役割を放棄した。何も見えない、何も聞こえない。

 でもきっと、優花はずっと泣いていた。



 ………………………………………………………………………



『世界で一番、あなたが好き』


 笑うその子を、愛している。それこそ本当の、お姫様みたいに。

 暖かい家をあげたい。布団と毛布、綺麗な洋服と美味しいご飯。


『好き、好き、大好き。あなたのためなら死んでもいい』


 あたしはあなたに、永遠の安寧をあげたかった。

(あたしはあなたと、永遠に続く約束をしたかったの)



 ………………………………………………………………………



 どこを歩いたのか解らない。自分がどこにいるかも、今が何時なのかも解らないが、休む気分でも眠れる気分でもないのでどうでもいい。辺りは月の明かりしか頼るもののない暗闇で、人の影もない。

 膝がすりむけているのにふと気づいて、足を止めたらじんとした痛みが思い出したように広がった。

 立ち止まったついでに、空を見上げる。木々に遮られても明るい今夜の月は、満月だった。暦はどうあれ、春にまだ届かない季節の夜空は冴え冴えと澄んでいた。


「今夜も月は綺麗だこと……」


 いっそ汚く見えればよかったのにね、と。自分にも聞こえない程に微かな声で毒づけば、予想を超えて空虚な声が耳に届いて苦笑する。

 目が眩み、ようやく疲れているということに気づいて、木に凭れかかった。自慢の足が疲労で棒きれのようになっているのを感じて、本当に今まで何をしていたのだろうと今更ながらに思った。足元にはすでに雪はなく、雑草のような小さな花が群れて咲いている。

 花。優花の、好きなもののひとつ。例えば飛鳥が男に生まれていたとして、赤い薔薇の花束を腕に抱えてプロポーズしたら、あの子はどんな顔をして笑っただろう。

 中指にむなしく光るのは、銀色の安っぽい指輪。例えばこの指輪を、あの子の薬指に嵌めることができたら、それはどんなに。

 どんなに。


「……バッカじゃないの」


 もしも男に生まれていたなら、あの子に惹かれることもなかった。あの子は飛鳥を愛さなかったし、飛鳥もあの子を愛さなかった。

 そんなことを、後悔しているわけじゃない。でも、それでも。


「優花」


 好き、好き、大好き。あなたのためなら死んでもいい。

 笑う声が、優しい声が、同じ言葉を繰り返す。別れ際、それでも最後に諦めたように笑って、震える優しい声が呟いた言葉。

 中指に嵌めた銀の指輪をはずして、薬指に嵌め直す。少し緩い感じがして、そうして視界が惨めに歪んだ。


「……ゆうか」


 ちっとも優しくなんかない声が無様に震えて歪むのが悔しくて、唇を噛みしめたら血が流れた。




 好き、好き、あなたが好き。地べたに跪いて、そう叫んで泣いた。

(あなたの父親に殴られる覚悟を決めても、あなたがあたしのものにならないなんてあんまりだ)




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