4-5
別々に改札を通り、電車に乗った。足取りを辿りにくいように最寄り駅を避けたものの、こうも人が少なくては印象に残ってしまうかもしれない。けれど、計画の穴なんて、もう気付いても気付かなくてもどうしようもないことだ。
二人が乗り込んだ車内に、他の乗客の姿はない。けれど、隣の車両を窺えば、すでに転寝を始めている会社員らしき男性がいた。今日は土曜日で、これは始発だ。それでも、こんな早い時間から仕事に行く人間もいるのかと思ったら、罪悪感が少しばかり胸を刺した。
そんな感情をすぐに打ち消して、飛鳥は傍らを窺う。少年のなりをした優花が緊張した様子で立ち尽くしているので、声をかけた。
「座る?」
頷いた彼女と一緒に、隅の三人掛けの席に腰を下ろす。本人も意識しているのだろう、優花はいつもよりも直線的な姿勢で、凛と背筋を伸ばして座る。いつも穏やかな彼女は愛らしい少女以外の何者でもないので忘れがちだが、元々の顔立ちは凛々しいと形容して構わない程に整ったものだ。不思議と、ちゃんと少年に見えるその様子に、飛鳥は感心した。
「意外な特技ね」
「……あ、んまり、見ないで」
仕草には自信がないの、と。口にした優花はあっという間に見慣れた少女に戻っていて、一瞬の落差に飛鳥は笑う。ちゃんと、笑えた。
「電車を乗り換える時に、着替えるわ」
不自然な変装は、怪しいだけだ。それを理解しているのだろう優花は口を利くのも不安気で、本当に車内に誰もいないか、確認するように首を巡らせる。今はまだ、乗客はいない。
誰かが乗ってきたら、口を噤んだ方が良いだろう。大人びた格好の今の飛鳥が、隣に座っていることも違和感を与えるかもしれないが、席を移動する気にはならなかった。
着替える、とは言っても、優花の荷物はとても小さい。もちろん、過剰な荷物は邪魔になるだけだし、必要なものは逃亡先で調達すればいいだけだ。けれど、もしも、すぐに終わってしまうと諦めているのなら悲しい。そんなことを思いながら優花の手元を見つめていたら、優花が首を傾げたので、飛鳥は何事もないように微笑みかけた。乗客があるまでは、会話くらいしても良いだろう。
「そんな服、持ってたのね」
「……持って、なかったわ」
だから、こっそり、買っておいたの。俯きがちに笑った優花がそう呟いて、飛鳥の手をそっと取る。そうして自分の方に引き寄せるので、飛鳥は何かと思ったが、そのまま鞄の中に導かれた手に触れた感触にぎょっとした。厚手の紙の、恐らくは――札束の、感触。
優花の顔を見つめたが、優花は微笑んで俯いたまま表情を変えていない。斜め下の、車内の床を見つめながら小さく、呟いた。
「婚約の話をされた日に、お父様がくれたわ。……好きに、使いなさい、って」
好きなことに、好きなように。それでもまさか、こんなことに使われるなんて考えもなさらなかったでしょうけれど。
自嘲を含んで笑う瞳は、無理をしていることが明白で、罪の意識に顔は白い。縛るものの少ない飛鳥よりもずっと、彼女は針の筵だろう。それでも笑う優花の気持ちを挫きたくなくて、飛鳥はそう、と。それだけ口にして手を引いた。
飛鳥の鞄にも、お金は入れてある。いくら必死に貯めたと言っても、奨学生の片手間だ、たかが知れている。電車、食事、宿。何日保つのか解らない。だけど。
「……使わなくていいよ」
「え?」
小さな声で告げれば、聞こえなかったのか、優花が問うて首を傾げる。悲しい色をしたままの茶色い瞳を見つめて、飛鳥は笑った。
「使わなくていいよ。……あたしのお金だけで、足りるから」
優花が、瞬く。何事かを言おうと開かれた口に指を当てて黙らせれば、大人しく口を噤んで、瞳を潤ませた。
傷付く優花は見たくない。ごめんなさい、と。悲しく呟く声も聞きたくない。飛鳥は今更、後悔なんてしない。だからどうか、今だけは何も考えないで笑っていて。
幾つ目かの駅で、数人が同じ車両に乗車してきて、言葉は途切れる。乗り換えについて、何の相談もしなかったけれど、多分北へ向かうのだろうとそう感じた。
暖かいものに背を向けて、逃げてしまおう。せめて、今だけは。
結局その日は一日、移動に費やした。電車、徒歩、バス、電車、徒歩。歩みを辿られにくいように、そんな進み方をする。予め計画を立てるのは怖かったけれど、行き当たりばったりという現状もやはり不安だった。初日の夜を明かした宿は、受付に人が常駐もしていないようなそんな安宿で、二人は明け方にはそこを出た。
前日は、罪悪感や不安に足取りは重かったが、一夜が明けて二日目になったら、もう何だか踏ん切りがついてしまった。優花もそうだとは限らないが、彼女も昨日とはうって変わって機嫌が良い。
空が綺麗だとか、お天気が良いとか、そんなことを呟いては潤んだ瞳で空を見上げる彼女は、心の内はどうあれ笑顔だけを飛鳥に向ける。だから、飛鳥も、落ち込む気をなくしてしまった。後ろばかりを気にして歩くのでは、逃げ出した意味がない。
「疲れない?」
「大丈夫よ」
北に向かえば向かうほど、去りつつあった冬の面影が濃くなっていく。晴れた日中さえ白い息の消えないような中を、あまり歩かせたくはなかったけれど。山を見上げるだけ、氷を纏った常緑樹の下を歩くだけで眩しそうに笑う優花を見ていると、もう少し歩いていようかという気持ちになる。
すっかり少女らしい姿に戻った優花は、よく笑う。近隣の子供たちが遠足で登るような、その程度の山にも登らせてあげることはできなかったけれど、優花はそれでいいようだった。足は決して止めず、それでも笑う。――彼女は多分、解っている。タイムリミットが短いことを。それならばせめて、好きなように歩かせてあげたい。
そんなことを考えた途端、か細いくしゃみの音が聞こえて、飛鳥は小さく笑ってしまった。
「寒いでしょう」
この辺りでもう一回、電車にでもバスにでも乗って休もうと、声をかける。車道沿いに等間隔でバス停はあるし、ここまででも二度ほどバスに抜かれてもいた。次のバス停を見つけたら、一度足を止めようと言って優花の手を引く。そうしたら、笑い声を立てた優花が飛鳥の腕に抱きついた。
「飛鳥と手を繋げるなら、寒くて良いわ」
「……そうはいかないでしょ」
可愛い、可愛い、綺麗な人。何て綺麗な人だろうと、あの春の日に思った笑顔のままに、今は飛鳥の隣にいる。
笑う優花を何とか引き留めて、バスに乗って、電車に乗った。降車駅に選んだのは、海が見える小さな町で、宿を探すよりも先に海辺へ向かう。シーズンオフの海岸はいかにも侘しく寂れていて、夕凪の時刻の海面もまた大人しかった。寒々しい景色だが、海面は夕日に朱く染まり、砂浜の白にも夕焼けが照り映えていて、美しい。冷たいのは触れなくても解っているが、それでも試しに素足を浸してみたくなるほど、魅力的な色だった。
「綺麗ね……!」
同じような感想を抱いたらしい優花が、波打ち際に歩み寄る。入っちゃ駄目よと釘を差したら、解っているわと笑い声が返ってきた。
湿った砂に爪先を埋めて、海の向こうを見つめて、優花は笑い声を立てている。髪の毛も、肌も、赤く滲みながらきらきらと輝いていた。
そのまま、優花がもう一歩踏み出そうとしたので、引き留める。靴でも濡れた日には、足下から全身まで冷えるだろう。気温は今も、どんどん下がっている。
「優花」
もう少し、こっちにおいで、と。手を引けば、優花が笑いながら振り向いた。
眩しいのだろうか、オレンジ色の光が灯った茶色い瞳に、薄く水の膜が張っている。瞬くことなくこちらを見つめるその様子が気にかかって、どうしたのかと問いかけようとしたら、夕焼けに染まった唇が躊躇いなく開かれた。
「時よ止まれ」
不思議な煌めきを宿した茶色い瞳が、愛だけを映して甘く溶ける。
何故か、そのまま、彼女が泣き出してしまうような気がして。思い余って手を伸ばせば、優花は倒れるようにして飛鳥の腕の中に飛び込んできた。
暖かい体、柔らかい髪に、心が揺れる。夕日に透けた髪の毛は、輝く金色。朱に滲む赤いリボンが、いつだってその髪によく映えていたのに、今は何も飾られていない。
悲しいのか、愛しいのか。幸せなのか、不幸なのか。優花が泣いているのか笑っているのかも解らない飛鳥は、俯いてしまった彼女を抱き締めて立ち尽くした。冷たい風が二人を引き裂くけれど、触れ合う体は暖かい。
「お前は、美しい……」
時よ止まれ、止まれ。神も、悪魔も、叶えてはくれない願い事。
「……ファウスト?」
あまりにも有名な、その名を口にすれば、優花は顔を持ち上げて微笑んだ。当たりよ、と。一つ頷いて、もう何も言わずに飛鳥を優しい瞳で見つめてくる。可愛い可愛い、綺麗な人。
(……時よ、時よ)
止まれと願って、止まるなら。二人は、こんなところまで来る必要はなかった。
夕日が沈み切る前に海岸を離れて、宿を見つける。明日は平日のためだろうか、今日の宿では少しばかり怪訝そうな眼差しを向けられた。けれど、お友達とご旅行ですか? という質問に、贅沢でしょう? と優花が笑って返せば、あっさりと納得したように頷いて部屋に案内してくれた。嘘をつくのが苦手だという彼女は、決定的な嘘をつかずに場を逃れることが確かに上手い。こと、二人の見目が大人びているのも幸いだろう。動揺さえ表に出さなければ、後はいいように誤解してもらえば良いだけだった。
夜は、肌触りの悪い寝具に、埋もれるようにして眠る。優花は睡眠薬を持ってきてはいたけれど、飛鳥の隣でなら眠れるらしい。薬を口にすることなく、飛鳥に身を寄せるようにしてよく眠った。
この子が安らいで眠れるのなら、今はそれだけでいい。




