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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第一章
3/37

1-2

 それ以降は大きな事件もなく、中間テストの結果発表からあっさりと二週間が経ち、季節はすっかり秋になった。

 早い時期の落葉は一段落し、代わりに紅葉が目立ちはじめた学内で、今日は球技大会が行われている。体育祭と球技大会を分ける意味が飛鳥には解らないが、文武両道を良しとするお嬢様学校にとっては、これはありふれた伝統であるらしい。

 細かく数え上げればきりがない、息苦しいような伝統を積極的に踏襲しようとする少女たちは、いつも華やかに明るい。飛鳥にはそんな情熱はないが、負けることは好きではないので球技大会も行けるところまでは行く気でいた。

 飛鳥が選択したのはテニスのシングルスで、個人競技ということも選択の理由ではあるが、一応は得意分野でもある。お嬢様の名前をトーナメント表に見つけたときは早々に棄権をしてやりたい気分にはなったものの、飛鳥はそれなりに順当に勝ち進んだ。幸い、お嬢様とはお互い準決勝まで勝ち進まなければ当たらない。本当に対戦するはめになったとしても、その時はその時だ。デュースは採用されているが、基本的には四点先取で決着のつく簡単なミニゲームなのだから、勝つにしろ負けるにしろ、ろくに話す機会もない。

 それにしても、この試合数は異常だと、飛鳥は思う。


「何回やらせんのよ……」


 試合自体は短いものだが、一々コートに入る度に挨拶やら握手やらを強制されるせいでストレスが溜まっていく。

 普通の学校ならば競技面積の都合からもある程度は人数調整をするのだろうが、異常に広い敷地を有するこの学校のテニスコートは残念ながら八面もあった。テニス部がそれなりに強豪で、生徒に人気のある種目であることも影響しているのだろう。人で溢れ返るコートを見ながら、飛鳥は疲れ果てたため息をついた。

 校門から校舎までの間に八面のテニスコート、そして校舎から体育館までの間には大きなグラウンドがある。体育館の横にはこちらも大きな第二グラウンドが広がり、そこを過ぎれば音楽室などの文化部棟、そして飛鳥にとっては最も馴染み深い、図書室と自習室が併設した図書館棟が並んでいる。

 移動教室の際は十分休みに移動することそのものが一苦労で、廊下を走ってはいけないという基本的な校則に疑問を覚えてしまう。さすがに時間割にも一応の配慮は見られるが、全学年、全クラスの全時間割に対応しているわけではない。


(特に一年は、冷遇されてる気がするわね)


 きゃあきゃあと騒がしいこの場からせめて移動しようかと考えて、どこに行っても騒がしいことには違いないと思い直して首を横に振る。敗退した少女たちが次々応援に回るので、時間が経つ毎に華やかな騒がしさは増していく一方だった。体育館にも運動場にも、人がひしめいているのだろう光景を思い描いてうんざりした気持ちになる。試合数を重ねるほどにテニス部員と当たることが多くなり、試合以外では出来る限り大人しくしている飛鳥も、さすがに疲労が誤魔化せなくなってきた。

 風こそ冷たさを増しているが、日はまだまだ明るく差していて昼の日なたは少し暑い。飛鳥は木陰に入り、木に体を凭れさせるようにして体を休める。持参の水筒から薄い茶を口に含みつつ息をついていたら、ふと、左側から声をかけられた。


「吉野さん」


 こんにちは、と。少し高い位置から降って来るその声は、知的な響きを宿しながらも丸く柔らかい。取り敢えずお嬢様ではないと思いつつ顔を上げれば、見覚えのある背の高い少女が立っていた。

 お嬢様の左隣が定位置の少女は、どう考えても運動には向かないだろう野暮ったい眼鏡はそのままに、いつもは二本の三つ編みにしている髪を一本の太い三つ編みにして背中に流している。

 彼女は大人しそうな容貌の通り、気の強い小柄な少女とはスタンスが異なって、飛鳥に噛み付いて来たようなことは一度もない。――逆に、だからなのか。彼女と言葉を交わした記憶どころか、まともに目が合った覚えすらなかった。


「一緒に応援しない?」


 そんな彼女に、控え目に、けれど明るくそんなことを言われて、肌がざわりと不快を訴える。不可解な行動は苦手だ。

 背が高いとは思っていたが、こうして間近に並んでみると、長身の飛鳥よりもさらに頭半分は高く見える。穏やかな眼差しを向けて微笑む眼鏡の少女は、何の言葉も返そうとしない飛鳥を不審に思う気配もなく、のんびりと話を続けてきた。


「九条さんもテニスなのよ」


 ほら、あそこ、と。遠目に見なくとも一際小さいと判る人影を、眼差しで示して静かに笑う。お嬢様の名前に気を取られていたが、小さな彼女もテニスを選択していて、さらにこの試合に彼女が勝てばどうやら飛鳥の次の相手になるようだ。敵意に満ちた眼差しを釣り上げて飛鳥を睨む、いかにも情の強そうないつもの姿を思い出して、余計にうんざりした気持ちになった。

 眼鏡の少女はそんな飛鳥の様子に気付いているのかいないのか、自分はバレーだったのだけどさっき負けてしまったとか、やっぱり上級生とはあまり当たりたくないわねとか、当たり障りのないような話をすらすらと続けている。おそらく言いたいことがあるのだろうが、一向に核心に近付く気配もない言葉たちが嫌になった飛鳥が軽く睨みつければ、一つ瞬いた眼鏡の少女が困ったように目線を彷徨わせた。

 また何か言おうと口を開いて、結局また閉じてを繰り返す様子に、飛鳥の苛立ちが深まる。わざと話題を逸らそうとしているのか本気で困っているのかはいまいち解らないが、このまま彼女に付き合っていたら頭痛は免れない予感がした。


「あのさ」

「え、あ」


 何かしら、と。あからさまに挙動不審な彼女を睨みつけて、結局何を言いたいのかと問い掛ける。

 決まりが悪いように俯いた彼女が、覚悟を決めるように一つ瞬いてから、飛鳥をそっと見つめた。眼鏡の奥の瞳は、穏やかに黒い。


「あの……入学式の時は、ごめんなさい」


 あなたを怖がってしまったわ、と。的外れで肩透かしな謝罪に、飛鳥は虚を突かれて黙ってしまった。予想していなかった言葉に反応が遅れた飛鳥を置き去りに、非常に申し訳なさそうな表情で眼鏡を押さえている彼女は、見た目だけであなたを誤解してしまったわと恥ずかしそうに俯いている。

 誤解だか何だか知らないが、いっそそのままずっと怖がっていてくれれば面倒などなかったのにと思えば、頭が痛くなった。


「……別に、嫌っていてくれていいんだけど」


 あの小さいのみたいに、と。目線を上げれば、見事な反射神経でボールに飛びつく小さな姿が目に入る。次の試合で本当に当たることになってしまいそうなその様子に、飛鳥はもう一度ため息をついた。

 そのため息を、どうにもおかしな方向に解釈したらしい眼鏡が慌てたように首を横に振る。違うわ違うわと真面目な声で繰り返して、黒々とした瞳にこの上なく真摯な色を浮かべて飛鳥に誤解を訴えた。


「あの、九条さんはね、言葉はきついけれどとても可愛いのよ」


 そう言って、ちょうど今、アドバンテージを取った小さい影を慈愛に満ちた眼差しで見つめて笑う。飛鳥の方が誤解を訴えたいが、どうにも面倒なことにしかなりそうにないので黙っていた。

 何故か機嫌のいい眼鏡の少女は、この前もね、と口を開く。また妙な方向に話が続きそうだったので、飛鳥は無言で手を挙げ遮った。いい加減にして欲しい。

 残念そうな様子で、それでも話を諦めてくれた眼鏡の少女が、しかし懲りないのか再び口を開いた。おずおずとした響きを持つ声だというのに、不思議とはっきりと耳に届く。


「だから、九条さんはね……あなたに、やきもちを焼いているだけなのよ」


 何を言われたのか、一瞬よく解らなかった。

 小さな彼女の、品のいい名字と綺麗に整った容姿を思い出す。喜怒哀楽は子供のようでも、いかにも育ちの良さそうな彼女に妬かれる謂れが、飛鳥にはない。身長ならば間違いなくいくらか勝っているが、それは大半の女生徒がそうであるし、それならば眼鏡の少女が嫉妬の対象であるに違いないだろう。

 困惑する飛鳥の目の前で、黒い瞳の少女が笑う。眼鏡の少女の笑顔や言葉は、他者への思いやりに満ちていて落ち着かない。確かに自分の方に向けられている優しさを感じて、飛鳥は気持ちが悪くなった。


「……ね、桜川さんに優しくしてあげて」


 ざらざらと甘い居心地の悪さに、踵を返そうとしていた飛鳥の足が止まる。またその名前かと、嫌気がさした。

 誰も彼も、どうしてあのお嬢様の話しか口にしないのかとうんざりする。


「あなたに数学を教えてもらいたかったのに、断られたって、悲しそうにしていたわ」


 飛鳥の苛立ちを気に止めることもなく、眼鏡の少女は気遣いに満ち溢れた言葉を続けていく。お嬢様は先日の一件をそのように誤魔化したのかと、苛立ちに曇る思考の片隅が妙に冷静にそう判断を下した。

 眼鏡の少女の、知性を感じさせる容貌を見遣って、飛鳥は投げ遣りにため息をつく。


「あなたが教えてあげればいいじゃない」


 そうすればお互い何の害もないだろう、と。突き放すような飛鳥の言葉を受け、眼鏡の少女は慌てたように首を横に振って否定の意を表した。


「私、数学は圏外だもの」


 総合は辛うじて九位だったけれど、と。何故か照れた様子でそう呟くところを見ると、一応あの紙に名前を書かれてはいたらしい。

 飛鳥は今になっても彼女の名前の一文字も思い出せないが、あのお嬢様は、きっと彼女の名前を漢字で書けるのだろう。飛鳥はそう、ふと思って――自分の思考のあまりのどうでもよさに笑ってしまった。馬鹿馬鹿しい。

 そもそも何故こんなくだらない会話を続けたのかと、他でもない自分自身に呆れながら、飛鳥は会話を終わらせるつもりで目を逸らした。


「……それに、私じゃあ駄目なのよ」


 飛鳥は全く興味などないように目を逸らしているというのに、眼鏡の少女はまだ話をする気でいるらしい。次に耳に届いた声は、奇妙に悲しい響きを帯びていた。

 鬱陶しいその声をまだ聞く気らしい自分の耳に嫌気がさして、飛鳥は深く息をつく。何故か眼鏡の少女の言葉を聞いてしまう自分を理解できず、一思いに耳を塞いでしまいたい衝動に駆られた。


「桜川さんが、教えてほしいなんて言ったのは、きっとあなたが初めてよ」


 目の前からは、少女たちの歓声がうるさく響いている。アドバンテージとデュースを繰り返すその好試合に関心があるわけでもなかったが、お嬢様の名前よりはましなのでそちらに耳を澄ませた。

 しばしの間、眼鏡の少女の言葉が途切れる。ようやく黙る気になったのかと安堵したら、急にはっきりとした意思を覗かせた声が耳に届いた。


「私は、あなたが教室の電気を消しているのを知っているわ」

「は?」


 突然の、脈絡のない言葉に、すっかり不意を突かれた飛鳥は不覚にも反応を示してしまった。


「ドアを、音を立てずに閉めているのも、授業を休んだことがないのも知っているわ」

「な……何なの、いきなり」


 脈絡なく、滔々と水が流れるように澱みなくそんなことを言われて、思わず顔を上げてしまった飛鳥の頬に赤みが差す。いい加減にしろと怒鳴りつけそうになったとき、眼鏡の少女が真っ直ぐに飛鳥に視線を向けた。


「みんなみんな、桜川さんがそう言ってた」


 お嬢様の名前を聞いた途端、心臓が痛んで冷たいものが体を巡る。

 苛立ちなのか不快なのか、それとも別の何かなのか。細かいことを考えたくなくて、頭を押さえたら吐き気がした。


「桜川さんは、絶対に泣いたりしない。いつも優しいわ。……泣き出しそうな姿なんて、本当に、この前が初めて」


 だから、九条さんはあなたにやきもちを焼いているのよ、と。やたらと優しく微笑みながら、眼鏡の少女がそんなことを言う。

 覚えているのは、容易く泣き出してしまいそうだった茶色い瞳。でも、お嬢様は泣いたりしなかった。飛鳥なんかの言葉に、傷付くことなんてないはずだった。

 何か、言い返そうとした飛鳥の言葉を待たずに、試合終了の笛の音と甲高い歓声が周囲を埋め尽くした。


「九条さんの勝ちね」


 テニスコートに目を向けて、眼鏡の少女が嬉しそうな、呑気な声でそう呟く。お祝いに行かないと、と明るく笑って、遠目からでも肩で息をしていると判る小さな少女の方へ小走りに駆け出した。

 途中でふと足を止めた眼鏡の少女が、飛鳥の方を振り向いて笑う。


「桜川さんに、優しくしてあげてほしいの。……きっとあの人は、吉野さんが好きよ」


 言いたいことだけを言って、行ってしまった眼鏡の少女の背に揺れる三つ編みを呆然と見つめて、飛鳥はしばらく固まってしまった。

 好き。好き?

 眼鏡の少女に何か言われたらしい小柄な少女が、飛鳥を火花の散るような眼差しで睨んで来たのにはっとして、ようやく我に返った。




 結果を言ってしまえば、試合は飛鳥の勝ちだった。元々テニス部員だったらしい小柄な彼女は上手かったし、妙な敵愾心が剥き出しで無駄に煩わしかったけれど、逆に向こうが平常心でなかった分飛鳥には有利だったのかもしれない。勝つことはできた。

 決着を告げる笛の音と、審判役の女生徒の声でようやく深呼吸ができた飛鳥も、全力以上のものを出してしまったせいで疲れ果てている。重い手を持ち上げて、今にも笑い出しそうな足を叩くが、多分次の試合は無理だろうとため息をついた。ここで負けた方が楽だったかも知れない。


「頭、いた……」


 軽い酸欠を起こしたか、頭が鈍く痛んで目眩がする。ちかちかとする視界には、余程悔しいのか、泣き出しそうな顔をした小さな少女が俯いていた。

 意地を張る子供のように唇を噛みしめるその様子は小学生そのもので、眦を真っ赤にしているその表情は幼稚園児と変わらない。眼鏡の少女が駆け寄って何事か話しかけた途端、簡単に泣き出してしまったその姿から目を逸らしつつコートを出たら、隣のコートの試合が目に入った。

 きゃあきゃあと騒がしい少女たちの向こうに、茶色い髪と赤いリボンをふわふわと漂わせているお嬢様が、随分と真剣な面持ちでボールを追っているのが見える。相手は二年生で、少女たちの歓声を聞く限りではテニス部の副部長らしかった。肩のラインで綺麗に切り揃えた黒髪を、地味なヘアバンドで纏めている。

 二人とも、とても上手だった。まるで何かの手本のような動きでボールを拾い、相手コートに返す。テニス部副部長の方は当然なのかもしれないが、お嬢様の方も、相手に余程の分がない限り勝ってしまえるに違いないと思えるような試合運びをしていた。その動き方が、見ていて心地好いほどに賢い。

 けれど、呆れるほどにたくさん集まっている少女たちの隙間から垣間見える点数は二年生のリードで、お嬢様は時折おかしな動きをする。取れるものを拾わないし、返せるはずの球を返さない。

 とても賢い、合理的な動きの中でほんの少し、少しだけ。力を抜いたような、動きをする。

 いつまでも落ち着いてくれない呼吸を繰り返しながらその光景を見ていたら、頭痛が酷くなった。


「……嫌な、感じ」


 やがて試合が二年生の勝利で終わって、少しばかり上気した頬を微笑ませたお嬢様が、さして乱れてもいない息を整えるように胸元を押さえる。近付いてきた二年生の明るい笑顔に柔らかい笑顔を返して、穏やかな様子で何か言葉を交わしていた。飛鳥の呼吸は、まだ整わない。

 負けたのに、負けたのに。どうしてそんなにも凪いだ瞳で微笑むことができるのか、飛鳥には解らない。

 コートから出た途端、観戦していた一年生や先輩に、わらわらとお嬢様たちが囲まれる。その全ての人に等しく優しい笑顔を向ける、本当は何にも興味などないようなお嬢様の様子を見つめていたら、苛立ちが疲労に勝って不快になった。

 次の試合で、飛鳥は負けた。最終的な成績はお嬢様よりも上だったが、特に嬉しくはなかった。




 好きとか、嫌いとか。

 そんなものに、振り回されたくない。



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