表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第四章
29/37

【幕間】次子と有住

 次子は小さな頃、白い羽の天使と聖母のいる幼稚園に通っていた。

 幼稚園の教会のステンドグラスには、茶色い髪の、白い羽の天使。優しく俯いて笑う、赤い衣の謙譲のマリア。次子はそれらを愛していたから、小学校に入学したときは少し寂しかった。ステンドグラスも彫刻もなければ、紺色の衣の優しいシスターもいない。

 だけど、幼稚園のころから一緒だった、優しい有住は小学校でも変わらず一緒だった。だから次子は、本当に少し寂しかっただけで、小学校が嫌いという訳ではなかった。新しく知り合った少女たちは時に陰湿で、強情を張ってしまいがちな次子は度々その中で孤立しがちだったけれど。でも、有住が隣にいれば、そんなこともあまり気にならなかった。

 そんなある日、転校生がやって来た。


『桜川、優花……です』


 よろしくお願いします、と。愛らしい声で愛らしい名前を名乗ったその少女が頭を下げたその時、綺麗な赤いリボンがひらりと視界に踊る。恥じらいと躊躇いを覗かせて、それでもクラス中に向けられた笑顔はとても優しいものだった。

 茶色い髪、茶色い瞳、赤いリボン。人形のように愛らしいその転校生はいつも俯いていたけれど、好意の眼差しにも好奇の眼差しにも、等しく優しい笑みを返すその美しさを、次子は一目でとても好きになった。可愛い、可愛い、綺麗なお姫様。茶色い瞳の転校生は、誰も傷付けないし、誰にでも優しい。それはまだまだ幼く、容易く人を傷付けては自らも傷付いたりするこの集団にあって限りなく異質で、限りなく美しいものだった。

 人見知りの次子は、有住に誘われても中々声をかけられずにいたけれど、それでも、そのお姫様が好きだと思った。




 それから一年ほどが経ったある日に、次子は喧嘩をした。


『何をしているの!』


 騒ぎを聞き付け飛んで来た先生が、厳しい声で次子を咎める。ああ、シスターなら、どうしてそんなことをしたのかと理由を聞いてくれたのに。

 次子がたった今、ひっぱたいて大泣きをさせた少女は、とても意地の悪い少女だ。いつもいつも、次子の名前が可笑しいと、聞こえよがしに囁いては笑っている。次子のことが嫌いらしい彼女に、何を言われたって反応なんてしないように気を付けてはいたけれど、今日はどうしても許せなかった。だって、彼女が今日傷付けたのは、次子ではなくて有住だった。

 家柄が何だと、次子は思う。次子が華族の血筋を引いているのは事実だけれど、次子の両親は、血筋なんかよりも人柄を見るようにと次子に教えた。こんな名付けをしたことを、次子は今も少し恨んでいるけれど、彼等はとても良い親であったし、尊敬できる人間だった。下の名前を呼ばれる度に、やはりその尊敬には少しだけ陰りが宿るのだけど。

 ともかく、有住の家柄を馬鹿にされて、よく友達でいられるものだとまで言われて、次子は頭に血が昇った。叩いたのは、次子が悪い。でも、本当にいけないのは彼女だ。


『九条さん!』


 謝りなさいと、先生が厳しい眼差しで次子を見つめる。いじめっ子は甲高い声で泣いていて、二人の取っ組み合いを止めようとした有住はとばっちりで頭を打って、早々に保健室に連れて行かれていた。彼女の痛みについては、次子にも非がある。

 でも、次子が謝りたいのは有住だけだ。こんな、性悪相手じゃない。家柄自慢のその少女は、自分が悪いなんて欠片も思っていない様子で、めそめそと泣いている。口を引き結んで目を背けたら、泣き声が高くなって、先生が一段と厳しい声で次子を叱った。

 そんな騒がしい教室で、かたん、と。椅子が鳴った。


『先生』


 優しい、声。美しい声が控えめに、でもはっきりと制止の意を含んで、教師に声をかける。

 思わず次子が顔を上げれば、茶色い髪と赤いリボンが視界に飛び込んできた。


『九条さんは、悪くありません』


 優しい声でそう言って、戸惑う少女や教師の視線を毅然と受けながら、世の煩わしさなどとは全く無関係のようだったお姫様が次子を背に庇ってくれている。その髪に結ばれた赤いリボンを、妙に澄み切った視界に映しながら、次子は呆然と立ち尽くした。

 その内に、視線に気付いたのだろう。彼女は振り向いて、次子に眼差しを向けた。そうして優しく微笑んだその顔はもう、次子にとって、マリア様だった。


『叩いたのは、いけないけれど』


 綺麗な瞳が、次子を見つめる。この春先にお母様を亡くしたというお姫様は、それ以来いつも少しだけ悲しい目をして笑っていた。間近で見つめ返せば、その瞳は涙を流した記憶を色濃く滲ませていて、それでもそんな悲しみや寂しさを省みることない優しさを湛えて次子を映していた。

 白い手が、そっと次子の手を握る。暖かくて、柔らかくて、美しい。


『九条さんは、間違っていないわ……』


 白い羽の、叡智の天使。赤い衣の、謙譲のマリア。光を透かすステンドグラス、紺色の衣のシスター。次子の愛したもの全てが頭の中に溢れ出して、讃美歌が流れて、視界が歪む。そのまま、滝のような勢いで泣いてしまった次子を見て、クラスメイト以下先生までもが驚いて、性悪の少女までもが泣き止んでしまった。

 そのまま騒ぎはうやむやになって、泣き止むことができないまま保健室に連れて行かれた次子は声にならない声で有住に謝罪し、何故謝るの? と。優しく首を傾げた彼女に、頭を撫でてもらった。

 その間、ずっと傍で手を握ってくれていたお姫様を、次子はずっと愛している。



          *          *



 有住は、次子の気持ちにとても聡い。

 次子の感情表現は、いつもとても鮮やかだけれど、あまりに大きく感情が動いたときは逆に表情を抑え込んでしまう。強情を張って、何でもない風を装う次子に優しくするのが、有住は好きだった。というよりも、優しくせずにはいられなかった。

 小さな体に溢れんばかりの深い情を抱く優しい少女を、有住はいつでも慈しんでいる。


「ね、九条さん。保健室に寄ってから、部活に行きましょう?」


 ね、と。すっかり人気のなくなってしまった教室で、座り込んだままの次子にそう声をかければ、強情のあまり無表情になっていた顔にあっという間に血が昇って、黒々とした瞳に涙が宿った。

 ああ、失敗してしまったかしら。次子を泣かせたくない有住は少し慌てたけれど、フォローの言葉を思い付く前に、次子が口を開いた。


「……私だって……こんな名前でさえ、なかったら。桜川さんを、名前で呼んだわ」


 一体何の話か、咄嗟について行けなかった有住は瞬いて、そうして、彼女のコンプレックスを思い出して何となく理解した。

 有住は、彼女の名前はいい名前だと思う。有住のように、可愛いのか可愛くないのかはっきりしない、さらにどんな意味が込められているのかも解らない名前よりも、ずっといい名前だと思っている。

 九条次子、桜川優花、吉野飛鳥。みんなそれぞれに、素敵な名前だ。とても似合っている。有住だって、岩倉さん、と呼ばれるのも、有住、と呼び捨てにされるのも、とてもしっくり来る。名前とはそういうものだと有住は思うし、だから、次子が名前のことで傷付いたり俯いたりする必要はないのになと思っている。


「ずるい、ずるい。あの子なんて――飛鳥なんて、高校からしか桜川さんを知らないくせに」


 何で名前を呼ぶの、何で呼び捨てなの、と。ずっとずっと心に引っ掛かっていたのだろう、そんな不満を子供のように口にして、駄々を捏ねるように頭を横に振る。

 次子は愛らしい。好きなものを一心に見つめる眼差しも、一途な思いも、とても素敵だ。だから、そのせいで傷付いてしまうことが、有住はとても悲しい。

 何で、何でと。幾度か繰り返した次子が、唇を引き結ぶ。でも、耐えきれなくなった様子で、涙がこぼれた。


「何で、桜川さんの具合に気付けるの……」


 本当にショックを受けたのは、その一点なのだろう。ああ、確かにそれは、有住だってショックだった。

 その名の通りに優しく美しい、綺麗な綺麗なお姫様。有住も次子も、彼女のことを心から愛して、ずっと一緒にいた。けれど、優しさのあまりに、痛みも悲しみも見せようとしないお姫様の心に触れることができたのは、自分たちではなかった。それが悲しい、寂しい、悔しい。

 うん、うん。そうね。有住は、優しく相槌を打った。


「でも、よかったわね」


 有住は、そう思っている。嘘でも偽りでも強がりでもなく、ああ、よかった、と。そう思っている。


「桜川さんの隣に彼女がいて、よかったわね……」


 飛鳥と親しくなってからのお姫様は、いつだって幸せそうで、嬉しそうで。二人の前では、決して見せなかったような鮮やかな表情で笑うようになった。それは有住にとっても寂しいことだったけれど、でも、それでいい。

 ねえ、今からでも、名前で呼んでもいいと思うわ。有住はそう提案したけれど、次子は頑なに首を横に振る。


「二番目なんていやっ」


 絶対に嫌よ、と。小学生の時から変わらない、有住のために本気で怒ってくれた可愛い顔のままに、半泣きで我が儘を言う次子を優しく見つめて、有住はもう一度、よかったわねと囁いた。それと同時に、有住の一番大切な少女の頭を、落ち着くまでずっと撫で続ける。

 よくなんてない、とぐずっていた次子は、それでも最後に、頷いた。




 白雪姫を愛した小人も、眠り姫を守った茨も、きっと寂しかった。

(だけど、お姫様が笑っていられるなら、それでいいの)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ