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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第四章
27/37

4-2

 進級したその春の日からずっと、優花は少しだけ、顔色の悪いように見える日々が続いていた。それでも、振り撒く笑顔も穏やかな気配はいつも通りで、何の異常もない。過剰に優花を気に掛ける次子も、心配性な有住も、何の反応も示すことはなかった。

 それでも、そんなことに構わずに、どうしたのかと聞いておけばよかったのだけれど。その問い掛けへの返答を無意識の内にも意識的にも避け続けた飛鳥がようやく具合を尋ねることができたのは、蒸し暑さが目立つ、雨の日だった。

 予報によれば、湿度は百パーセントを越えている。電車内も、校内も、空気中に留まりきれない水滴でどろどろに汚れていて、人通りの多い階段や廊下は、昼休みにはもう相当に悲惨なことになっていた。綺麗好きらしい次子は、床を見るもおぞましいと言わんばかりの仏頂面をしていて、有住は早く掃除の時間にならないかしらとため息をついている。古いながらもとても清潔なこの校舎は、毎日の掃除の時間の他にも、企業による清掃が毎週木曜日に行われている、残念ながら今日は月曜日なので、この汚れきった校舎内の掃除は生徒たちに委ねられていた。


「梅雨って、好きになれない」


 部活もまともにできないし、と。屋外スポーツであるテニス部の次子はむくれ、恨めしげに外を見つめる。そうね、残念ねと囁く優花の相槌に、少しばかり気分は浮上しているようだが、それでも表情は暗いままだ。

 先週から降り続くこの雨のせいで、ここしばらくは体育館で延々と基礎体力作りのメニューを続けているらしい次子は、大分ストレスが溜まっているようだ。体育館の床も多かれ少なかれ湿気で汚れているだろうことを思えば、彼女の気持ちも解らないではない。室内スポーツであるバレー部の有住は、足場がずるずるなのよね、と。次子とはまた違った方面での愚痴を、ため息混じりに呟いていた。

 また、間の悪いことに、体育館の清掃は掃除の時間には行われないことになっている。部活後に、体育館を使用した運動部がローテーションで担当するのが慣例なのだ。埃や髪の毛のへばりついた床で腹筋をするようになどと言われれば、誰であっても嫌気が差すだろう。飛鳥も些かうんざりした気持ちで汚れた床を眺めて、そうして、適当なところで目を離した。

 そうしたら、優花と目が合った。


「……優花?」


 違和感に、疑問を含んだ声音で名を呼べば、優花は何かしらと言うように首を傾げて笑う。

 ざわり、と。嫌な気配が、飛鳥の背を這い上った。


(何だろう。……何か、何か)


 綺麗な顔立ち、優しい眼差し。髪の毛は艶やかで、肌は冴え冴えと白い。穏やかに笑う姿に不調はなく、瞳は硝子玉のように透き通って美しい。

 優花は、笑っている。それでも、その笑顔は、何か違う。

 あの、秋の日から。飛鳥に向けられ続けた笑顔は、もっと鮮やかで、子供っぽくて、率直な。


「――どうか、したの?」

「え?」


 ようやく、尋ねることができたそのとき、優花は何でもないように瞬いて、不思議そうな顔をした。

 でも、違う。何でもないはずがない。だって、優花は、こんな風に飛鳥に笑いかけない。こんな風に、感情の読み取れない、謎めいた瞳を向けてくることなんてない。張り詰めていた緊張の糸を一度切ってしまったあの秋の日からずっと、優花は、心の内を鮮やかに語る瞳で飛鳥を見つめていた。好き、好き、あなたが好き。愛を語る、愛に満ちた、美しい瞳。

 今は作り物のように凪いでいるその瞳を見つめながら、飛鳥はほぼ直感だけで口を開いた。


「寝てないの?」

「……………」


 問いかけた瞬間、優花は、凛と背を伸ばしたまま凍りついた。

 目を見開いて、黙り込んでしまった優花と飛鳥を見比べて、次子が困惑と共に瞬く。有住は、口許に手を当てて、探るような眼差しを優花に送っていた。そんな視線たちに応じる気配もなく、優花はただ口を閉ざしたままに飛鳥を見つめ返している。

 顔色は、やはり悪い。連日の雨に薄暗い気配を色濃く纏った窓の外の景色による錯覚で判りにくいが、青空の下で見れば顕著に判るだろう。

 飛鳥は、でも、それ以上は何も言わずに優花を見つめ続けた。問い詰めたいわけでも、この場で悩みを語ってほしいわけでもない。


「……どうして?」


 小さく微笑んで、ようやく口を開いた優花からこぼれたのは、短い疑問だった。

 どうして、そんなことを思ったの? と。不思議そうに問い返す響きを持った言葉は、そこで途切れる。

 謎めいて微笑んでいた茶色い瞳の輪郭がぼやけて、そしてようやく、飛鳥がよく知る眼差しが熱っぽく潤んだ。


「どうして……?」


 ――どうして、解ったの? と。先程とは異なる意を含んだ問い掛けが、弱々しく呟かれる。そのまま俯いた瞳が動揺と寄る辺ない不安に揺れているのを見て、飛鳥は席を立った。

 顔を上げた優花に手を差し出して、立ち上がるように促す。何を考える様子もなく、当たり前のように素直に立ち上がった優花の手を取って、引いた。


「取り敢えずは、保健室ね」


 行くよ、と優花に言って、行ってくるから、と二人に断りを入れる。二人は、特に次子は、ついて行くと言い出すかと思っていたが、どちらも見事に唖然とした様子で固まってしまっていた。辛うじて、ええ、と。有住が返事をするが、驚きをありありと映す瞳を見開いて硬直してしまっているのは次子と変わりない。

 優花も硬直はしていたが、軽く手を引けば抵抗はなく、そのまま歩き出す。教室を出る段階になってようやく、それぞれの会話に夢中になっていた教室の少女たちが、飛鳥に手を引かれる優花に気付いて不思議そうな眼差しをまばらに送ってきたが、それらがまともに届く前に廊下に逃れた。


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