4-1
あなたを連れて、遠くへ行きたい。
あなたを愛する人全てに憎まれても、それでも。
一階分低くなった教室の窓から、三回目の散り際の桜を見る。桜の樹の枝を真横から見ることのできる教室の高さは、最後の学年に進学したことを示していた。
最上級生のクラス分けは、進路と選択科目で厳正に区別されている。付属の女子短大への内部進学が二クラス、外部受験希望者も二クラス。まだ進路が明確に決定していない少女たち、あるいは希望したクラスに人数の都合で入れなかった少女たちは、普通科のAかBに振り分けられる。
普通科Aは三クラス、そして一クラスしかない普通科Bは、外部進学クラスよりも難易度の高い授業内容で知られていて、普通科の成績上位者順にクラス分けされている。だから、家族に進学を反対されている場合、普通科Bに振り分けられたということ自体が説得の材料になるらしい。
次子と有住は内部進学クラス、そして、飛鳥と優花は普通科Bだ。三年目にして初めて優花と同じクラスになったわけだが、教室内に優花の姿がいつでもある日常というものに慣れる気がしない飛鳥は、何だか居心地が悪かった。
四月はあいうえお順に並べられているため、今は大分席が離れている。それでもその席から目を合わせて、にっこりと微笑んで飛鳥に手を振った優花の姿に、クラス中の好奇の視線が飛鳥に集まった。正直なところ勘弁してほしい。
(本当に、友達とか、いらないんだけど)
一人もいらないと、思っていた。それでも、すでに二人ほど友人になってしまっているし、舞子だってそうだ。端から見れば、優花だってそう見えるのだろう。飛鳥も優花も、お互いを友人の括りに入れたことは、結局一度もないままなわけだけど。
「飛鳥」
最初のホームルームが終わって、思い思いに解散していく少女たちに会釈をしながら、教室の中程にいた優花が窓際の飛鳥の席まで歩いてくる。思えば、学校内ではいつも、優花が話しかけてくれるまで飛鳥からは何もしていない。
自分の意地を申し訳なく思いつつ、何も気にする様子なく笑ってくれる優花がとても愛しかった。
「今日は、もう帰る?」
自習をするか否か、尋ねてくる彼女に、少し考えてから首を縦に振る。バイトは入れていないが、昼食の用意はしていないし、入学式と新入生歓迎会を控えている今日の段階では購買も開いていない。図書館の売店に行くつもりだとそう告げれば、優花の顔に少し嬉しそうな赤みが差した。何だろうかと、飛鳥は心の内で首を捻る。優花は自分の鞄を少しだけ持ち上げて、小さな声で囁いた。
「お弁当……」
クラスに残る人影を慮ってか、必要以上に小さなその声は、途中で掠れて消えてしまう。けれど、不自然なほどに赤くならないように必死に抑えているような真剣な顔で俯くその姿だけで、大体何が言いたいのか解ってしまった。
「……作って、くれたとか?」
やはり小声で飛鳥が問い掛ければ、茶色い瞳にきらきらとした光が宿って、とても嬉しそうな様子で素直に頷く。
「……二人は?」
「あ、ええと、新入生歓迎会の、部活動紹介の、打ち合わせ……」
ということは、何だかんだと誤魔化す必要はないというわけだ。少し気が楽になった飛鳥は、気兼ねなく優花に笑い返した。
「じゃあ、屋上ね」
そう呟いて席を立ち、代わりに優花を座らせる。教室から、廊下から、校内から。生徒が少なくなるまで、しばらく時間を潰すために、春休み中に読んだ本の話など、当たり障りのない会話を続けた。途中で優花が、飛鳥を立たせていることにいたたまれなくなってきたようだったので、勝手に前の席の椅子を借りて座る。同じ高さになった目線に、優花が安堵したように眼差しを和らげた。
春の光が、桜を白く輝かせている窓の外は麗らかだ。その光景と同じくらい穏やかな時間を過ごしながら、飛鳥は少しだけ、優花の顔色に引っ掛かるものを感じる。――こんなに、白かっただろうか。
じっと見つめていたら、優花が、そろそろ行く? と、首を傾げた。そうね、と飛鳥は頷いて、そのまま屋上に向かったので、この場はうやむやになってしまった。
まだ真上まで上っていない太陽が、斜めから柔らかい春の光で屋上を照らしている。真上まで上っても、まだ暑さを感じさせるには弱々しい光は優しいだけで、長袖の制服にはちょうど心地よかった。
昼には少し早かったが、さっそく優花のお弁当を揃っていただく。真剣に作っているのだろう、基本を忠実に守っていることがありありと解る見た目と味をしていた。何の変哲もないし、工夫を施せるほどこなれている感じもない。惰性とはいえ、もう五年ほど料理が習慣となっている飛鳥の方が、技量としては上かもしれない。
それなのに、優花が飛鳥のために作った料理だという事実だけで、こんなにも美味しい。大分時間をかけて慎重に切られたと思しき桜形の人参の煮物を口に入れながら、飛鳥は幸せに浸った。
緩みっぱなしになりかねない胸の内はさておき、美味しいという簡潔な賛辞と、ありがとうという短い礼を冷静に口にして、飛鳥は優花に微笑みかける。間違いなく味なんて感じていないだろう強張った顔で、緊張を隠せずに箸を進めていた優花は、飛鳥の言葉と笑顔に頬を染めてはにかんだ。そうしていれば普通の顔色に見えるけれど、さして大きな変化ではないはずのその仄かな赤面が、不思議と目につくのが気になってしまう。いつもよりも白さが顕著に思えるということは、やはり少し顔色が悪いのではないだろうか。
優花のペースに合わせてお弁当を完食し、ご馳走さまでしたと頭を下げながら、具合を尋ねる機会を見計らう。けれど、同じように完食し、お粗末様でしたと頭を下げる優花が輝くような笑顔なので、ここで顔色を気遣うのは何だかあまりにも心配性のような気がした。
そんな風に躊躇していたら、隣に座っていた優花が、少し億劫な様子で飛鳥に体重を預けてきた。いつもよりも甘えた素振りだが、もしかするとただ単に貧血なのかもしれない。彼女のように言うのなら、お月様がいらっしゃっているという、例のあれだ。それならば、いつもよりも白く思える顔色にも納得だ。
そんなことを考えた飛鳥が、結局声をかけられずにいたら、甘えたような体勢のままの優花が先に口を開いた。
「飛鳥は……このまま、進学、するの?」
「ん? そうね」
飛鳥は、去年も一昨年も、長期休みには少し無理をしてでも多目にアルバイトを入れていた。その甲斐あって、それなりに資金は貯まっている。この先も奨学金を得ることができたなら、辛うじて一人暮らしをしながら大学へ通える程度は何とかなるかもしれない。
元々は、一年浪人をしてでも学費を自力で稼ぐ予定だったが、一年遅れることなく学歴を入手できるなら、それに越したことはない。
「お金とか、学力とか、住む場所とか……まあ、色々あるけど、進学するつもり」
無理なら、また一年後に再検討。そんなことを軽く言えば、優花はじっと飛鳥を見つめて、優しく微笑みかけた。
「飛鳥なら、大丈夫」
大丈夫よ、と。言い聞かせるようなその声は、不思議と重く飛鳥の胸に落ちる。優花はどうするのかと、流れで尋ねてしまった飛鳥は、一拍遅れて胸に落ちた違和感にすぐに口を噤んだ。けれど一度出てしまった言葉は取り返しがつかず、駟も舌に及ばず、などという知る人間が少なそうな格言が頭の中を過る。
何が違和感の元であるのかも、解らない。それでも確かに胸に感じる不穏な気配に、誤魔化しの利かない痛みが広がっていく。そんな飛鳥の動揺に気付いているのかいないのか、優花は柔らかく眼差しを伏せて、小さな声で答えた。
「……進学して、翻訳、勉強してみたいわ」
英語も日本語も、好きよ。眼差しを伏せたまま笑う優花の茶色い瞳には、長い睫毛が影を落としている。好きな物のことを語り、笑っているはずなのに、どうしようもなく悲しそうに見えるその様子に、飛鳥は狼狽えた。
けれど、優花はすぐに顔を上げて、いつも通りに笑ってみせる。飛鳥を映す、その茶色い瞳は、謎めいて甘かった。
「飛鳥は、ずっと私の傍にいてくれる? ……家族、みたいに」
優花は時々、どうにも答え辛いことを聞いてくる。けれど、そんなときの優花はいつだって真っ直ぐな瞳で飛鳥を見つめているので、答えないわけにはいかない。
お嬢様には素敵な家族がいるでしょ、と。皮肉ることは容易かったが、間違いなく傷付いた眼差しで見つめられるだろうことを思えば、そんなことは言えなかった。飛鳥はいつだって、優花に酷いことをしたいわけじゃない。
「傍に、いたいよ。家族じゃなくても」
傍にいると、言い切れない自分にもどかしさを覚えながら、それでも偽らざる思いを口にする。
戸籍とか、血縁とか、婚姻届だとか。そんなものがあろうとなかろうと、上手く行くなら上手く行くし、壊れるときは壊れるのだ。そこに暖かな想いが無ければ、血が繋がっていても、同じ家で暮らしていても、欠けていくものがある。愛があったことなど一度としてない飛鳥の家が、もうどうしようもなく壊れてしまっているように。
人は愛に血の繋がりを求めるのかもしれないが、飛鳥は残念ながら血の繋がりを信じてはいない。
飛鳥が信じられたのは、この茶色い瞳が語る愛だけだ。
「……優花は、あたしと家族になりたいの?」
一体優花が何を望んでいるのか解らないことに少しだけ悲しさを感じながら、飛鳥は逆に問い掛ける。やはりどこか具合が悪いのは確かなのだろう、力ない様子の優花の白い手に手を重ねて、優しく握ってあげた。
いつだったか、細くて白くて綺麗だと、優花がうっとりと愛でた指を絡ませながら茶色い瞳を覗き込めば、真剣に過ぎるほどに真っ直ぐに輝いていた茶色い瞳がふわりと優しく溶けていく。
はじめは、この優しい瞳に苛立った。次に、優しい眼差しを向けられることを当たり前と思うようになった。今は、愛に満ちたこの瞳を向けられることが得難い幸福であることを知っている。
「……なりたい」
家族になって、あなたを独り占めしたい。
そう囁いた優花は、また不思議な微笑みを浮かべて、硝子玉のような瞳を隠すかのように目を閉じた。
「でも、なりたくない」
いつだって、あなたと恋がしたい。
飛鳥と同じような思いを口にして、それきり静かになってしまった優花を肩で支えたまま、飛鳥は握り締めた手に緩く力を込める。何を考えているの、何が悲しいの。あたしの前で、無理なんかしないで。
胸に溢れる思いの一つも、飛鳥が口にできないでいる内に、優花はぱちりと目を開けて、身を起こした。力が抜け切っていた手にも生気が戻り、いつもと変わらない、暖かく優しい春の気配を髪にも爪先にも纏っている。茶色い瞳は愛らしく、日に透ける髪の毛には鮮やかな天使の輪。凛と伸ばされた背筋は、いかにも秀麗だった。
「ごめんなさい、飛鳥」
笑う優花は、寂しそうにも悲しそうにも、疲れているようにも見えなくて、飛鳥はまた胸が痛くなる。どうして謝るの、何に対して謝っているの。胸の内に降り積る疑問に、息が詰まる。
それなのに、結局、何も聞けなかった。
悲しまないで、苦しまないで。あたしの前で、無理をしないで。
(でも、その笑顔の理由を知るのが怖かった)




