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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第三章
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【幕間】舞子

 北条舞子は自分の名前が嫌いだったけれど、この名前をつけた両親のことは好きだった。

 大学教授と、女子校の教師なんていう、いかにもなインテリ夫婦でありながら、文学好きの両親は温厚で温和で仲が良かった。人様に迷惑をかけるような生き方をしなければ、楽しく生きてくれればそれでいいという生育方針に育まれた一人娘の舞子は、ほど良い放任主義の中で自由気ままに過ごしていた。

 良い教師でもあったのだろう父母を慕って、家にはいつも他人が遊びに来ていることが普通だった。父の部屋まで熱心に話を聞きに来る頭のいい人たち、母を慕って結婚や就職の報告に来る人たちは皆いい人で、舞子のこともよく構って遊んでくれた。


『あなたは危なっかしい所があるから』


 年上と交流するのはいいことだろうと、両親もそれは大歓迎だったけれど。舞子は好奇心旺盛で背伸びをしたがる性質で、気が付いたら同年代の中で浮いてしまっていたのは誤算だった。

 舞子は基本的に、誰のことを悪く言ったりもしなかったので(それはいけないことだと、とても厳しく教えられた)舞子のことを表だって悪く言う人もそんなにはいなかったけれど、大した問題もないのにみんなと仲良くなれない環境は、居心地が悪くて寂しかった。

 高校に通う頃になっても、同年代とは何となく疎遠のまま。もう開き直って、自分からも年長者とばかり付き合い続けた舞子が初めて心惹かれた年少の少女が、飛鳥だった。


『あなた、とっても頭がいいのね……!』


 夏休みの課題を解くために、しぶしぶ訪れた図書館で、たまたま隣に座った女の子。飛鳥は成長期が早かったのだろう、背は舞子よりも高いくらいで、足も長い。顔立ちも大人びていて、童顔の舞子よりも年上に見えるくらいだったけれど、痩せた体に纏っていたのは近隣の中学校の制服だった。

 そんな子が――舞子にも解けないような問題を、退屈そうな顔ですらすら解いているのを見て、ついつい話しかけてしまったのだ。

 図書館で話しかけてしまったのがまずかったのだろう。とても嫌そうな顔をされてしまったのはちょっとショックだったけれど、すぐに舞子が反省したことが伝わったのだろう。小さな声で、それほどでも、と。答えてくれた。


(……優しい子だなあ)


 そのまま無視をしたり、席を移動されたりしたって、舞子が落ち込むだけで終わったのに。

 その一回だけで、飛鳥のことを好きになってしまった舞子は、それからも手を変え品を変え、一生懸命飛鳥に話し掛けた。自分を嫌いな人はしょうがないからと諦めて、向こうから寄ってきてくれるような人ばかりと仲良くしていた舞子にとっては初めての経験で。そうして飛鳥の方も、ここまでぐいぐい来るような相手は、舞子が初めてだったようだった。怪訝な顔をしながらも、顔を合わせれば二言三言、話をしてくれる割合が増えて行った。

 飛鳥はきっと、元々頭もよかったのだろう。知性の滲む顔立ちはとても綺麗で、舞子はそんなところも好きだった。――けれど、全然笑わない。口を開くことさえ稀で、熱心に話してはよく笑う舞子と並んでいると、彼女はいかにも異様だった。

 手足は骨が浮き出るほど細く、よくよく見れば見るほど窶れた風体をしていて、子供らしい柔らかさや愛らしさの欠片もない。だからなのか、その静かな美しさばかりが、舞子の目には印象強く映った。


『家に帰りたくないなら、うちに来ればいいよ』


 ね、ね、そうしなよと。舞子はそう言って、頻繁に自宅に招いていたけれど。まだ中学生であるはずの少女が家に帰りたくないと言うだけでなく、実際道路で寝ることになろうとも帰らないと断固たる決意と共に言い放つその様子を、とてもいけないものだとは感じていた。

 舞子よりもずっとずっと、いっそ血のつながりがその点では疑わしいほど頭のよかった両親が、その問題に気付いていなかったはずはない。けれどきっと、頭のいい人たちは、そこがきっと無遠慮に踏み込んでいい場所ではないことも知っていた。だから舞子は遠慮なく、何も解っていない少女の顔で、好きなだけ飛鳥を自宅に招いた。


『飛鳥。飛鳥って、綺麗な名前ね!』

『……そう?』


 数か月も経ってから教えてもらえた彼女の名前はとても優美で、舞子はすぐに気に入ったけれど。飛鳥はきっと、自分の名前が好きではないのだと思う。それでも、舞子は好きだったから構わないのだけれど。

 舞子が少し学校をサボったときも、たまに真面目に勉強をしなくてはというときも、いつも。図書館に行けば大体飛鳥はそこにいた。それが例えば平日であっても、学校はどうしたのかとか、そんなことを尋ねられるほど真面目に生きていないことを承知している舞子は、こっそり彼女の近くに座ってみるのが好きだった。

 大抵の場合、舞子に気付く気配すらない飛鳥は教科書とノートを広げて、計算式を淡々と綴っている。教科書たちの横には何の関係性もない文学作品が無造作に積まれていて、少なくとも開館時間の内はずっと、彼女はここにいるのだろうことを窺わせた。


(……飛鳥が、私に気付いたら)


 そうしたら、ウチに来ない? と。そう気安く笑いかける準備をしながら、舞子はその綺麗な横顔を眺める静かな時間が好きだった。




 それからもずっと、飛鳥は笑わなかった。

 理由はついに知らないままだったが、彼女がずっと忌避していた自宅に、高校入学後は真面目に帰ることを決めたらしい。会う機会がめっきり少なくなってしまった舞子は少し寂しかったけれど、声をかければ遊んでくれる彼女は、舞子を忘れたりはしていない。だからそれでいいと思っていた。

 けれど今日、両親に同じく頭のいい彼氏の出先に、気紛れについて行った図書館で、久し振りに飛鳥に会った。思わず駆け寄って、声をかけてしまった舞子は――ぱちりと、無意識に瞬いてしまっていた。

 飛鳥は、中学生の頃よりもむしろ幼く見える眼差しをしていて。声も、眼差しも、穏やかになっていて。そして何より、何よりも。


(笑ってた)


 久し振りに会った彼女は、人違いかと錯覚するような顔で笑っていて、隣にはお伽噺のお姫様のような容貌の少女がいた。以前、テニスコートで見かけて、本当のお姫様だと舞子も思った女の子。

 夕日に透ける髪も瞳も茶色くて、その瞳に溢れるような好意を湛えて飛鳥を見つめるその少女は、暖かい気配を纏って優しく笑っていた。そんなものたちを、舞子の知る飛鳥は、嫌っていたはずだった。

 でも、飛鳥は幸せそうだった。拒絶の色一つ浮かべることなく、むしろ優しい色を交えた瞳で隣の少女を見つめて、微笑んでいた。

 ふわふわとした足取りで、彼氏を探して図書館を彷徨っていた舞子は、目的の姿を見つけて小走りに駆け寄る。そっと隣に腰を下ろせば、すぐに舞子に気付いた彼は、戻って来たんだとおっとり笑った。


「あのまま帰っちゃうと思った」

「ふふ。彼氏一人置いて、そんなことしないよ」


 笑いながらそう答えた舞子は、恋人の周りに積まれた、背表紙さえ意味不明な本の山を見て少し笑う。舞子が選んだ人は本の虫のような人で、きっと舞子よりも舞子の両親たちのような人と話が合う。それでも舞子を好きになってくれた彼のことが、舞子は好きだった。

 勉学に励む彼は、教師を目指しているという真面目な人だ。それでも実家は少し雰囲気が違うらしく、経済学部に進むか教育学部に進むかで、大喧嘩を繰り広げたという話は聞いていた。この人も喧嘩をするんだ、と。舞子はそんな点にビックリしてしまっただけだったけれど。

 優しい人にも、悲しいことはある。譲れないこともある。そんなことだけはよく知っていた舞子は、怒られないようにと小さな声で話を続けた。


「それにね、向こうも。えっと、恋人と? いたみたいだったから」


 彼女と言ったら、混乱させてしまうだろうか。珍しくそんな気遣いをしたはずの舞子の、微妙に歯切れの悪い返答を不思議に思ったのだろうか。顔を上げた彼が小首を傾げ、どうしたの、と。不思議そうに口を開いた。


「フラれたみたいな顔してるね?」

「フラれてはないよ! ……っと。うん、でも、ちょっと。……負けちゃったなーとは、思ったかも」


 つい高くなった声を反省した舞子は慌てて口を抑え、そうして、また音量を落とした声で、ぽつりと小さく呟いた。

 何も知らない恋人は、そうなんだ? と。これまた不思議そうに首を傾げつつ、席を立つ。よかったら一緒に探して欲しい本があるんだけどと誘われて、舞子もウキウキと席を立った。

 外国文学の棚に移動しながら、舞子は茶色い瞳のことを思い出す。飛鳥を見つめていた、愛に満ちたあの瞳。拒絶を恐れず、見返りを求めず、一心に愛を語る優しい瞳。


(――私にはきっと、あれはできない)


 暖かいものを拒んでいた、優しさに背を向けていた飛鳥に、真正面から。愛を告げて、好意を告げて、抱き締めて。そんなことができる人間が、果たしてどれくらいいるだろう。

 お姫様はやっぱり強いんだなあ、と。そんなことを奇妙な満足感と共に思った舞子は、これかな? と。手に取ったドイツ文学を胸に、強くて優しいお姫様が出てくる物語を教えてもらおうと、彼の元へ走り寄った。




 あなたは私にごめんなさいと言ったけれど、あなたが幸せなら、それでいいよ。許してあげるよ。

(あなたがこれからずっと、優しさを注がれて笑えるのなら。それだけでいいの)


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