3-5
幸いなことに、一部の噂くらいでは特に何の害もなかった。
そもそも、実際そんな噂になっているのかも疑わしい。そんな話を耳にしているのなら、まず次子が黙っていないだろう。飛鳥は嫌々ながら、ちらちらと視線を向けてきては楽しそうに盛り上がっているクラスの少女たちの会話に耳を傾けてみたが、そんな噂話は誰も口にしていない。案外、あの少女たちが広めようとしていただけで、何の噂にもなっていないのかもしれない。どうしてあんなに頭に血が昇ったのかとため息をついて、その答えはもう出ているのでそこで考えを打ち切る。優花が大切なら、それこそ飛鳥はもっと冷静にならなくてはいけない。
優花は、飛鳥が思うよりも冷静で、強かだ。あの秋の日の号泣が目に焼き付いているせいか、どうしても必要以上に優しくしてあげたくなるのだけれど。傷付いてもいいと言い切った優花は、躊躇いも戸惑いも浮かべずに笑って飛鳥を抱き締めた。それはまるで、あなたが怖いなら私が守ってあげると言わんばかりの優しさで、飛鳥は自分が恥ずかしくなった。これでも、いつの間にかすっかり、優花を守る気でいたのに。
(もっと、賢くなろう)
それは学力だけの問題ではない分難しいが、賢くならなければ飛鳥の望むものは手に入らない。努力で何とかなれば良いのだけれど、と。そんなことを思いながらも、今現在切実に努力しなければならないのはやはり学力に関わる方で、飛鳥は取り敢えず当たり前のように冬休みの補講を申し込んだ。ほぼ土曜日の授業感覚と変わらないその補講は半日もあれば終わるので、残りの半日を使って飛鳥は働き、地道に進学資金を貯めている。
一緒に遊ぶ機会は相変わらず乏しかったが、登下校と補講を共にできる分、夏休みほど寂しくはなかった。それは優花も同じようで、手紙を書く機会はまたしばらくないようだったけれど、年が明けたその日に、三人からそれぞれ年賀状が届いて、飛鳥はその律儀な様子に少し笑った。年賀状なんて、ここ数年は舞子のものか、不在の父に宛てたものしか目にしていない。飛鳥は、そういうものではないと知りながら、四人に返事のような年賀状を書いて、母と二人の重苦しい正月を乗り切った。年末年始は家でゆっくりなさいと、忙しい中一週間も休みをくれたバイト先の厚意が、正直なところ恨めしい。しかし大分長期に渡ってお世話になっている洋服屋なので、文句なんて言えやしなかった。
四日からはまた、学校で補講が始まる。進学希望者に対しての補講なので、内容は普段の授業よりも難しいくらいだったがそれは望むところだ。今となっては敵対心は皆無だが、優花と出来を競うのは単純に楽しい。六日を過ぎるまでは午後も暇な飛鳥は、優花と自習をして、示し合わせて下校時間の三十分前に学校を出ることにした。この時間帯が、一番人が少ない。
ただし、一番寒さを感じる時間でもあった。
「寒い」
「そうね」
当たり前のことを呟いた飛鳥に、優花がごく平凡な相槌を打つ。十六時を過ぎれば陽光はすっかり赤を含んで滲んでいて、真昼ですらろくな熱を持たないその光は明るいだけでちっとも暖かくない。完全に日が沈んだ後よりも、今の時間帯を寒いと感じるのは、この明るさに無意識で暖かさを連想するからなのだろうか。
年が明けるくらいから、学校指定のコートは着て来ている。濃紺に、菱形で金色の釦が並んでいて、釦には校章である菖蒲の花模様が細工されている。同じく校章の刺繍が施されたマフラーや冬用の靴下も申し込みは可能だったが、飛鳥はコートしか買っていない。常軌を逸しているというレベルではなかったが、それなりに値段が張ったのだ。
優花は、学校指定のコートにマフラー、校章のワンポイントのニーソックスを身につけて、さらに暖かそうな白い手袋をその手に嵌めていた。完全な防寒姿で、それでも寒いらしい優花の目に、飛鳥はどれ程寒々しく映ったのか。心配そうな顔でふと飛鳥を見つめた優花は、おもむろにその右手の手袋をはずして差し出してきた。
「手が、真っ赤になってるわ」
せめて片手だけでも、と。優花はそのふわふわとした手袋を、飛鳥の右手に嵌めようと手を伸ばしてきた。後ろから飛鳥の手を取り、正面から左手を回してくるものだから、抱きつかれているような格好になって少し恥ずかしくなる。いいから、と。一度は言ったけれど、優花から伝わる暖かい気配に、結局されるがままになってしまった。
途端、右手だけが不自然なほどに暖かくなって、飛鳥は礼を言うのも忘れて驚いてしまう。
「……暖かい」
「でしょう?」
その手袋が何でできているのかも解らなかったが、思わず感動してしまうほどに暖かかった。優花の手の温もりが残っているためなのか、優しく手を握り締められたような心地がして脈が速くなるのと同時に、何故自分はこんなにも変態めいたことを考えているのかと頭を軽く横に振る。そうして、痺れるような感じのする己の手に、今日の厳しい寒さを思って、優花の右手が気にかかった。
どれほどこの暖かさが心地よくても、やっぱり、優花の手が冷えてしまう方が飛鳥は嫌だ。手袋を返そうと優花の方を向いたら、何故だか飛鳥を凝視していた優花と視線がかち合った。
「あ、あの、あの、それで」
何かタイミングを計っていたのだろうか、優花が面食らった顔でおろおろとしている。一体どうしたのかと飛鳥が思ったら、寒さのせいばかりではないだろう、赤い顔をした優花が意を決するように目を閉じて、手を伸ばしてきた。
「空いた手は、こう、ね……」
がちがちに緊張した様子で、一瞬で冷えてしまった、それでもずっと外気にさらされていた飛鳥の手には柔らかい熱を伝えてくる白い指を絡めてくる。
そうして、できた! と言わんばかりに嬉しそうにはにかむ優花の姿に、飛鳥は色々なものが溢れて息が苦しくなったが、されっぱなしになるのは不本意だったので、一つ不意打ちを思いついた。
「それで、こうね」
「っ」
指を絡めてつないだ手を、飛鳥のコートのポケットに無造作に突っ込めば、今ので精一杯だったらしい優花が息を詰まらせて肩を跳ねさせた。可愛い。
転んだときに危ないとはよく言われるが、まあ、片手ならばさほど気にしなくとも大丈夫だろう。
(人目はちょっと、気になるけどね)
冬休み、中途半端な夕方、バスの方が一般的な通学路。学校の制服は見当たらないし、すれ違う他人も稀で、視界に入る人影も多くはない。女同士というのは便利なもので、手をつないでいても二人きりでいても、そんなに怪しまれることはなかった。それでも、もしものことを考えれば、周囲の視線を気にしておく方が得策だ。
素裸の手に、ポケットの中は十分すぎるほどに暖かく、心地良い。優花の手はどんどん熱くなり、顔もそれに比例するように赤くなっていて、可愛かった。
けれど、次の瞬間に、ポケットの中のものに手が触れて、今度は飛鳥の頭に血が昇る。
がさりとした感触のするそれは、残念ながら優花の手にも触れてしまったらしい。動揺したまま沈黙してしまっていた優花は、会話の糸口を見つけたとばかりに安堵した様子で首を傾げた。
「これ、なあに?」
「あー……っと」
答えに窮して、飛鳥は居心地悪く目線をさ迷わせ、心の内でため息をつく。何故こんなところに入れっぱなしにしてしまったのかと、迂闊な自分に呆れたが、入れっぱなしにしていたものはもう仕方がない。
一度ポケットから手を取り出すついでに、指先でつまんだ小さなそれを取り出す。安っぽい薄い紙包みに入ったそれは、シルエットがすでにぼんやりと透けていた。何かしら、という顔をしている優花の手を一度ほどいて、紙包みから中身を取り出す。
細い銀色の輪が二つ、飛鳥の左手に転がり出た。
「……指輪?」
「当たり」
飛鳥のピアスに似たデザインのそれは、小さな銀のシンプルな指輪だ。特に何の変哲もなく、銀色をしているという以外の特徴というものがない。
飛鳥のバイト先で売っていたそれは、祭りの日に路上で売られているそれとも変わらない程度の値段のもので、いかにも安っぽかった。冬休みに入ってすぐ、衝動的に購入したはいいものの、渡せずにいる内にこんな変な時期になってしまった。
その二つの内一つを、器用に左手を動かして中指に嵌める。やはり安っぽいそれを眺めてため息をついて、それでも掌に乗せたままのもう片方を、優花に差し出した。
「片方、あげる」
「え?」
「……あげようと思って、買ったの」
対になるように全く同じものを揃えたその指輪は、一応は、クリスマスプレゼントのつもりだった。
いかにもプレゼントという感じが恥ずかしくて、渡せなかった指輪。いざ優花と並べて見比べると、あまりの安っぽさに違う意味でも恥ずかしくなる。
けれど、これも何かの機会だ。
「……安物だから、要らなければ、本当に」
言い訳じみた言葉は、途中で途切れる。
優花に腕を抱き締められて、指輪を落としそうになった飛鳥は慌てて左手を握った。それほど勢いはついていなかったものの、完全な不意打ちだったために体が傾いでしまう。ちょっと、優花?と、焦った声を出したら、飛鳥の腕に顔を埋めるようにしている優花がぽつりと呟いた。
「嬉しい」
大事にするわ、と。甘い声で言われて、飛鳥の心臓が一瞬で跳ねる。急に熱を帯びた血液が頭部を巡るのを自覚しながらじっとしていたら、ふと優花が身を乗り出すように手を伸ばして、飛鳥の右手首に触れてきた。そのまま、コートと手袋の隙間に、器用に何かが結びつけられる。
それが何なのか、推論一つに思い至るよりも早く、優花は身を離した。冷えて赤くなってしまっている右手よりも、顔の方が赤い。
「私も、あげようと思っていたのだけど……あの、安物以前に、手作りで……」
上手に出来たわけでもなくて、渡しそびれてしまって、と。優花は俯きがちに、恥ずかしそうに言葉を続けている。
飛鳥の手首に巻かれたそれは、小さい子供が好む組紐編みに似て見えた。もちろん、編み込みの質としてはこちらの方が段違いに上等で、細かな模様が編み込まれた紐がそのまま綺麗なバランスで細い腕輪のようになっている。黒地に黄色で、刺繍のようにも見える綺麗に編み込まれたその模様は月と星で、いかにも優花の手作りだ。
「ブレスレット?」
「そう、なの。……あのね、外国では、こんな布製のブレスレットに願掛けをするのですって」
だから、作ってみたのだけれど、と。そう言った優花は、また俯いてしまう。飛鳥から見れば、何が上手くいかなかったのか解らないほど綺麗な出来なのだが、作った本人としては色々思うところがあるようだ。
願掛け、というからには縁起物なのだろう。いかにも丁寧に編まれているそれに指を這わせながら、飛鳥は尋ねた。
「大事にしてれば、願いが叶うってこと?」
「あ、そうじゃなくて」
切れたら叶うのですって、と。にっこりと笑う優花にそう告げられて、飛鳥はその意外な一言に目を瞬いてしまう。何だそれは。
「嫌よ」
折角優花がくれたものを、どうして切らなければならないのか。飛鳥は思わず、盛大に眉をひそめてしまう。そんなことをするくらいならば、叶わなくてもいい願いをかけよう。
絶対切れたりなんかしないように、大切にしよう。飛鳥が、見事に綺麗な星と三日月を撫でながらそう心に誓う横で、優花は切れたら新しいのをまた作るわ、と的外れに嬉しいことを言っている。それを、はいはいありがとう、と。軽くいなして、今度は飛鳥が優花の手を取った。嵌めてあげる前に優花のテンションが上がってしまったので、指輪はまだ飛鳥の掌の上だった。
まだ何か言いたそうだった優花の右手の中指に、半ば強引に指輪を嵌める。飛鳥と同じサイズで合うのか少し不安は感じていたものの、予想よりもぴったりと指に合って、飛鳥は嬉しくなった。
「サイズ、大丈夫そう?」
「大丈夫、です……」
緊張した声音で、敬語で返されて、飛鳥は笑う。さっきまであんなに一生懸命にはしゃいでいたのが嘘のように、優花は大人しくなってしまっていた。




