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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第三章
22/37

3-4

 まだ僅かに熱を含んだ日差しの中で行われる球技大会が終われば、空気はあっという間に冷たくなって冬の気配が色濃くなり、それに伴って期末試験の時期がやって来る。時間帯によっても異なるが、学校の図書館棟は普段はそれほど人がひしめいているわけではない。しかしこの時期は試験勉強に勤しむ少女たちによって急激に賑わいを見せ、自習室の席もすぐに埋まってしまう。明日からは試験一週間前になり、部活動が朝練昼練も含めて全て休止になるので、また自習室に一段階人が増えることを思うと面倒だった。

 小中までは、図書室と言えば横長の教室一つ分程度の規模だったが、この学校においては図書館棟、という名称に偽りなく、三階建ての建物一つが図書室として割り当てられていた。一階はカウンターと一般図書、二階が自習室と専門書、三階には予約制の自習室と歴代の学校関係者からの寄贈書が納められている本棚がそれぞれ併設していた。

 簡単に利用できるのは二階の自習室だったが、人が常時少ないのは三階で、さらに予約制なので朝一に予約してしまえば問題はない。運動部の次子と有住と一緒に登校している優花は、いつも始業の一時間前には学内にいたし、可能な限り家にいたくない飛鳥も極端に早く家を出ていた。だから、すでに高校生活も折り返しを過ぎた今現在に至るまで、二人が自習場所に困ったことはない。今朝もいつも通り、予約表に名前を書き込みに図書館棟に向かうと、後ろから足音と声が聞こえた。


「飛鳥」


 どんどん冷えてくる空気にうんざりして、全くやる気の出ていなかった頭が、急激に覚醒する。

 足を止めて後ろを振り向けば、やはり学内は走れないのだろう。それでも飛鳥に追い付きたかったらしく、小走りの一歩手前のような歩き方をしていた優花が嬉しそうに笑った。そのまま、一生懸命に早歩きをして飛鳥の隣に並んで、改めて微笑みかけてくる。


「おはよう、飛鳥」

「……おはよ」


 優花の白い頬はほんのりと上気していて、息も少し弾んでいた。昇降口から続く長い廊下を顧みて、大分長い距離をあの中途半端な早歩きで距離を詰めてきたのだろうかと想像して、飛鳥は笑う。傍目から見ていたら、面白い光景だったかもしれない。


「段々、寒くなってきたわね」

「そうね」


 街中を歩く人々の姿には防寒具が目立ってきていたが、学生たちはまだマフラーすら巻いていないものが多く、優花も冬服以外は防寒具らしいものを身に付けていない。強いて言うならば、三つ折りの白靴下が少し厚手の紺色に変わっているが、白い足も白い指先も外気にさらされたままで、頬と同じように微かに赤く染まっていた。

 やはり冷えているのか、頬に押し当て、暖を取ろうとしているような優花の指先に前触れなく手を伸ばす。優花はそんな飛鳥の行動に驚いて、飛鳥は優花の動揺に驚いて、二人で顔を見合わせてしまった。


「ごめん」

「あ、いいえ、どうぞ!」


 飛鳥が反射で詫びれば、優花が慌てて手を差し出してくる。その勢いと、何故か綺麗に並べて差し出された両手に、自然と笑いが零れた。じゃあ片手だけ、と。飛鳥は、優花の右手を軽く握りしめる。いつも、優花は飛鳥よりも体温が高いけれど、やはり今は冷えていたらしく、決して温かい訳ではない飛鳥の手にも冷たかった。


「もう冬ね」


 飛鳥の言葉に、そうねと相槌を打つ優花は隠そうとしているのかもしれないが限りなく嬉しそうで、飛鳥はそれに気付かない振りをしながらゆっくりと歩く。

 クラスも、自宅も、遠くてよかった。いつも近くにいたのでは、飛鳥の脈はおかしくなってしまう。傍にいたい、隣にいたい。でも、過ぎる幸福は胸に痛い。

 そのまま図書館棟に向かって、二人で歩く。人影は見当たらなかったので、しばらく手は繋いだままでいた。けれど図書館棟には、まばらにでも人がいる様子だったので、ドアを開ける前に繋いだ手を離した。

 カウンターの予約名簿に名前を記入して、使用予定時間を記入して、そうして今日はそのまま退出する。予約を終えれば、そのまま適当な本を見繕って借りることもよくあるが、試験期間中は遠慮していた。


「また、お昼にね」


 そう笑う優花と別れて、クラスの自分の席に腰を下ろす。校舎はまだ賑わいとはほど遠く、それぞれの教室もまだ全てには明かりが点っていない。窓の外から運動部の元気のいい声が聞こえるばかりで、余計に教室の静けさが際立っていた。

 始業の三十分前にもなれば、大人しやかな気配を纏った少女たちが一人また一人と席に着き、十五分前にもなれば朝練を終えた運動部員や複数で登校してくる少女たちが比較的騒がしい気配と共に現れて、途端に教室が賑やかになる。朝から元気に攻撃的なくせに、必ず飛鳥におはようと声をかける次子もこの時間帯に教室に現れて、そうして一通り騒がしくなった後に教師が前方のドアを開ける、その一瞬で再びあっという間に静かになる。

 飛鳥は、少女たちの話の内容にはどれにも興味がなかったが、その音量の移り変わりは好きだった。授業中は静か、休み時間は慌ただしく、昼休みはただ明るい。放課後はそれぞれに賑やかで、そうして段々静かになっていく。その繰り返しがこの学校の日常で、飛鳥はそれを好ましく思っていた。だから多分、少し気を許し過ぎた。

 悪意は、どこにでもあるもの。忘れたことなんて、なかったはずだけれど。


「……今の、あたしに言った?」


 聞こえよがしの音量で、気配だけはこそこそと噂話をしていた少女たちの方を振り向けば、幾人かは怯んで、一人二人は黙って飛鳥を見つめ返してきた。

 どんなに強気を装っても、結局飛鳥が一人でいるときにしか何も仕掛けてこないのでは、怖さの欠片もない。今は放課後で、次子と有住はテスト前最後の部活に行っているし、優花は日直なので自習室には後から来る。


(……さっさと、自習室に行ってればよかったかな)


 数学教師が忘れて行った教材を届けるために一階まで出向いた飛鳥は、そのまま一階から図書館棟に向かっていた。忘れ物など無視して、三階の連絡通路から向かえばこんな事態に出くわすこともなかっただろうと思えば、己の間の悪さにため息が出た。

 そう言えば、彼女たちには以前も絡まれたなと思い出したが、結局名前は出てこなかった。もう一年近く同じクラスにいるはずだが、そもそも飛鳥は興味のないものには接触をしない。

 だから、いつもなら、聞き流す。けれど、今日は話が違った。


「あなたがそんな風だから、桜川さんまで……!」


 もう一度、優花の名前を耳にする段になって、飛鳥は彼女たちに向き直った。

 やめなよ、と。一番後ろにいた少女が、気の弱そうな声で制止する。その時に彼女の名前を呼んでいたようだったが、それはあえて聞き流した。彼女の名前なんて、覚えても仕方ない。

 優花が、飛鳥のせいで、どうしたというのだろう。ただそれだけが気になって、飛鳥は足を止めたし、このくだらない声に耳を傾けることをやめずにいる。


「言いたいことがあるなら、この場で全部言ってくれない?」


 一々面倒だから、と。わざと苛立ちを煽るようにそう言えば、不穏な気配が漂った。

 部活動のない生徒が帰宅し、運動部が出て行った後の昇降口付近は静かで、人が通る気配もない。昇降口正面の書道室には明かりが点いていて、もしかすると書道部が活動中かもしれないが、中に聞こえるまで響き渡る声の口論になることはないだろう。少なくとも、飛鳥にそんな気はない。

 冬至も近付きつつある十二月、太陽は早速傾き始めていて、僅かな熱しか籠っていない割に眩しい日差しはオレンジを含んでいた。どうしてこんなことに時間を取られているのだろうと、ため息をつきたい気持ちを抑えて彼女たちの言葉を待っているのに、中々反応がない。散々待たされた挙句に得た答えは、だから、噂よ。という、非常に歯切れの悪い返答で、飛鳥は思わず大きなため息をついた。


「だから、どんな?」

「……だから」


 口を開く少女の後ろから、最初からずっとやめようよと止めている少女の手が延びる。それでもそれは間に合わず、言葉は続けられた。

 冷たいものが、胸に満ちる。


「二人が、付き合ってるって……そんな、噂」


 冷たい冷たい、針のようなもの。そんなものが、胸に満ちる。どうして、悪意はどこにでもあるのだろう。こんなにも優しげな美しい場所にまで、どうして。

 それ以上は何も言うことなく、物問いたげな目で見つめられて、冷めきった飛鳥の頭はそれでも相手の言わんとするところを探っていた。


(本当のところは、どうなの? ……いや、それより、こんな噂まで立てて迷惑だと思わないの? かな)

 前者でも、後者でも、飛鳥には答える義務なんてない。そもそも、一体それが彼女たちと何の関係があるのだろう。

 けれど、ふと嫌な想像が思い浮かび、心臓に単なる冷たさとは異なるはっきりとした痛みが走った。


「――それ、優花にも聞いたの?」


 まさかこの子たちは聞いていないだろうと思いつつ、険を含んだ声で問い掛ければ、案の定言葉に詰まって俯いた。桜川さんに、そんなこと、と。聞けるわけがないじゃないと言いたげな様子で、顔を見合わせている。

 ああ、そんなこと、と。そう思っているなら、どうして。どうして、尋ねてきたのだろう。飛鳥は苦々しい気持ちで俯いた。


「飛鳥?」


 そして、これは一体どういうタイミングなのだろう。飛鳥は笑える気分ではなかったが、それでも笑いたいほど絶妙のタイミングで、優しい声が響いた。顔を上げれば、綺麗な茶色い瞳を瞬かせて、これは一体どんな状況なのかしらと考えているような優花と目が合う。

 目前の少女たちの狼狽振りが可笑しくて、皮肉っぽく笑いながら頭を押さえた。


「丁度良いから、聞いてみれば」


 優花ならちゃんと答えてくれるんじゃないの、と飛鳥は言い捨てる。優花は何のお話? と優しく首を傾げ、少女たちはおろおろと顔を見合わせた。


「あの……何でもないの」

「あの、ごめんなさい……」


 何についての、誰に向けての謝罪なのか全く解らないが、取り繕うようにそれだけ言った少女たちが、ぱたぱたと慌ただしくも軽い足音と共に去っていく。ずっと一番後ろにいた少女が振り向いて、確かに飛鳥に向かってごめんなさいと言う所を見ると、どうやら彼女が一番まともらしい。

 慌てて昇降口から表へ出ていく少女たちの姿が見えなくなって、ようやく飛鳥は力を抜いた。ああ、取り敢えず視界からは、不快が消えた。


「ありがと」


 優花に礼を言えば、よく解っていない笑顔で、どういたしましてと返された。ああ、可愛い。この笑顔で何の話か聞かれて、正直に先程の話題を持ち出せるような人間は中々いないだろうと、飛鳥は思う。

 けれど、もしもに備えて予防線を張ろうと思って、口を開いた。


「あたしたちが付き合ってるって、噂になってるって」

「え?」


 それは、と。優花が瞬く。その瞳に浮かぶのは困惑で、飛鳥は少し後悔したが、それでも言葉は止めなかった。

 飛鳥は優花のことが好きで、優花が飛鳥を好きでいてくれることがとても嬉しい。けれど、それがただ好き、というだけの感情ではないことは知っていたし、それが世間一般から見て十分に可笑しなものであることも承知していた。

 それでも、飛鳥は優花が好きだ。だからせめて、優花が傷付かないようにと、いつもそう願っている。

 好きよ、好き。だから、あたしのせいで傷付かないで。


「もしも、だけど。この先そんな噂の話題を持ち出されたら……『いいえ、どうして?』って、答えてね」


 飛鳥の言葉を、じっと聞いている優花の顔色は静かに青褪めていて、困惑と動揺に染まっている。

 ああやはり、ショックだったのだろうか。何といっても普通でなければ、優等生のお姫様に相応しいイメージでもない。その噂を信じる人間の有無はそもそも問題ではなく、そんな噂を立てられた時点で、優花は傷付いたかもしれない。でも、誰かにこれ以上不用意に傷付けられる前に、やはり知らせておかなくてはならなかっただろう。

 そんなことを考えながら、飛鳥はため息を飲み込みながら俯いて、己の浅はかな行動を振り返る。優花と一緒に過ごす時間はいつだって幸せで、気を抜き過ぎていた。自分が浮かれてさえいなければ、と。後悔が胸を過る。少なくとも、こんな噂が広まることはなかったかもしれない。


「……そう、だったの?」


 優花の頼りない声が、小さな呟きを漏らす。

 飛鳥が物思いを中断して顔を上げれば、先程よりもずっと青い顔をしている優花が、涙に潤んだ目でじっと飛鳥を見つめていた。


「……付き合って、なかったの……?」


 私、てっきり、付き合っていると、ばかり。途切れ途切れに呟いて、優花は零れないのが不思議なほどに潤んでいる瞳を瞬く。飛鳥の思いとは全く明後日の方向に傷付いている優花のその姿に、飛鳥は動転した。


「いや、付き合ってるけどね……!」


 動揺のあまりに、うっかり声が高くなってしまい、はっとして口を噤む。

 今まさに、何とか現状を取り繕おうとしているのに、飛鳥が自分で宣言してはどうしようもない。誰にも聞かれていなかったかと、周囲を窺ってしまった。

 幸い、人の気配はない。書道室の中まで聞こえるような声でも、なかっただろう。しかし人気のない校舎はどうしようもない静けさで、一言一言が響いてしまう。不用意なことを口走ったらあらゆるところに知れ渡ってしまいそうで、飛鳥は押し黙った。

 優花は、そんな飛鳥の即時の否定に安堵した様子で、それでも少し悲しげな様子で、首を傾げる。


「じゃあ、どうして?」


 どうして、なんて。

 飛鳥は、何も言えない。だって、優花が傷付く。悲しむ。

 飛鳥は、優花を守りたい。誰にも誰にも、傷付けさせたくなんてない。まして、飛鳥が原因で優花が泣くかもしれないなんて、最低だ。

 最低だ。


「飛鳥」


 何も言えなくなってしまった飛鳥の手を握り締めながら名前を呼んで、優花が顔を覗き込んで来る。限りなく優しい眼差しで、飛鳥を見つめてきた。


「言ったわ。……あなたのためなら、死んでもいい」


 聞き覚えのある、愛の言葉の言い回し。少し不吉なその言葉を告げられたのは、これで二度目だ。


「……だから、それは」

「それはね」


 前回、飛鳥は、心中は嫌だと笑うだけで誤魔化した。

 でも、本当は、嬉しかった。


「あなたのためなら……傷付いてもいいわ、って、ことよ」


 だから、傷付いてもいいの。悲しくても苦しくても、あなたが好きよ。夕日に染まった白い頬を優しく緩めて、優花はどんな悪意も届かない優しさに満ちた瞳でそっと笑った。

 飛鳥も、同じだ。傷付いても、苦しくても、あなたが好き。一心に愛を向けられたあの秋の日から。いや、多分、優しさに満ちた眼差しで笑いかけられたあの春の日から、ずっと。

 でも。


(あなたが傷付くのは、怖い)


 優花が笑うなら、優花が幸せなら、飛鳥はたとえ不幸でも、どんなに傷付こうとも構わない。

 でも、飛鳥の幸せのために、優花が不幸になるのは耐えられない。多分、飛鳥が自覚しているよりももっともっと、耐え難い。今だって、飛鳥のせいで優花を傷付けたかもしれないと思っただけで、この有り様だ。

 軽々しく言葉を重ねられない飛鳥のことを優しい目で見つめて、優花は全てを理解しているかのような聡い眼差しで微笑む。


「傷付いても、いいわ。……でも、飛鳥が悲しいのなら、私は傷付かないように努力するわ」


 そうして優花は、悪戯っぽい眼差しを飛鳥に向けてきた。いつもなら、はぐらかすのもフォローをするのも飛鳥の役目だけれど、今日は彼女が務める気のようだ。


「私、【嘘はついてないけれど】っていう種類の言い訳、得意なのよ」


 だから、心配しないで。私のために、悲しまないで。優しい言葉と共に、暖かい腕で抱き締められ、背中を優しく擦られて、飛鳥は一度目を閉じた。




 どんな悪意からも、あなたを守ってあげたいの。

(だってあなたは、こんなにもあたしを守ってくれる)



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