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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第三章
21/37

3-3

 屋上の鍵は、いつでも開いていた。

 クラスの半分は教室の中で友人たちと過ごす時間が大切で、もう半分は部活の昼練習、あるいは図書館棟で読書や自習を行っている。屋上には一応立ち入り禁止と書いた張り紙がされていて、そう書かれているだけで何故か鍵すらかかっていないのだけど、それだけで真面目な少女たちには十分な効果があるらしい。飛鳥は一年の頃から、息が詰まりそうになる度に屋上に来ていて、それは稀には授業中のこともあったが、授業態度は基本的に勤勉な飛鳥がここを訪れるのはほとんどが昼休みや放課後のことだった。それでも、この屋上で他の生徒と出会ったことは一度もない。

 だから優花も、ついて来てくれるにしても多かれ少なかれ嫌がるのではないかと飛鳥は思っていたのだけれど、予想に反してあっさりとついて来てくれた。優花が心配したのは飛鳥の体調のことだけで、立ち入り禁止については一言も触れようとしない。屋上に通じる階段の前で、誰にも見られていないかしらと左右を確認する優花は目に見えてわくわくしていて、悪戯を試みる子供のようだった。


「何、屋上に興味があったの?」


 確認を終えて、楽しそうに階段を昇る優花にそう尋ねれば、彼女は浮かれているのを隠せていない己に気付いたのか少し肩を跳ねさせる。足を止めて、また周囲を窺って、誰もいないことを再び確認した優花が、こっそりと飛鳥の耳に顔を寄せた。


「高い所、大好きなの」


 でも、危ないからって、あんまり高い所は行かせてもらえないから、と。少し寂しそうな眼差しでそう呟く優花は、確かに今の状況をいけないことだと認識しているのだろう。ばつが悪い様子ではあるが、しかし眼差しは期待に満ちてきらきらしていて、正直なところとても楽しそうだった。

 そう言えば、以前彼女の家に泊まった時に、バルコニーがどうしたという話を聞いていたことを、飛鳥はぼんやりと思い出す。高い所が好きなのは、星好きの所以なのだろうか。今の時間ではもちろん星は見えないが、彼女は青空も好きだろうか。

 立ち入り禁止の文字を間近に、自分でドアを開ける勇気が中々出ないらしい、そんな優花の横から手を伸ばす。そのままドアに手をかければ、優花が慌てたように手を重ねてきたので、飛鳥は少し笑って一緒に開いた。

 涼しいのか暖かいのかよく解らない、温い風が頬に触れる。教室にいたときには体中に纏わりつくようだった重たい空気が薄まるのを感じて、飛鳥は安堵の息をついた。


「いいお天気……!」


 優花は、秋晴れの空を見上げて嬉しそうにしている。晴れていることくらいは教室の中にいても十分に理解できるが、雲一つないというのはやはり屋外に出なければ実感としては解らないものだ。

 そのまま優花は、今なら跳び跳ねかねない足取りで柵の方へ向かう。気を付けるように声をかけようか一瞬だけ思案して、別に気を付けなくても大丈夫だろうと思い至って苦笑した。

 設計者が心配性だったのか、それとも学校側からの要請か。屋上を取り囲む柵は二重になっていて、内側の柵と外側の柵の間には幅一メートルほども足場がある。外側の柵の高さも一メートルほどだが、内側の柵はそれよりも半メートルは高い。標準よりは大分背の高い飛鳥でもその柵を乗り越えることは難しいし、実にうっかり乗り越えてしまっても、外側の柵が身を守ってくれるだろう。それでも下まで転落する人間がいると言うのなら、それは確固たる自殺志願者に違いないが、校舎はいかにもクッションになりそうな常緑樹に囲まれている。


「あんまり、眺めはよくないでしょ」


 優花の横に並びながら、そう声をかける。二重の柵やら一メートルの幅やらに囲まれて、正直なところ屋上という響きから期待するほどの解放感はない。けれど、優花はそれでもとても楽しそうだった。


「でも、高いわ」


 空が近いわ、と。上空に手を伸ばしながらそう言って、いかにも愛らしく優花は笑う。光に照らされてますます眩い白い肌はほんのりと紅潮し、茶色い瞳はまさに硝子玉のようにきらきらしていて、何がそんなに楽しいのか解らない飛鳥も、何だかつられて嬉しくなった。


「そんなに、高い所が好き?」

「大好き!」


 その答え方は稚い子供そのもので、飛鳥は思わず吹き出した。人目が無いことも関係しているのか、優花は上機嫌で無防備だ。


「じゃあ、東京タワーとか、好き?」

「好き、だけど……駄目って言われたから、私はお家にいたわ……」


 まるでたった今留守番を宣告された幼子のように、優花は急にしゅんとした様子で俯いてしまった。一般的な二階よりも高くはあるが、仮にも自宅の二階のバルコニーにすら一人では立たせない彼女の家のことを考えれば、安全面を危惧して彼女を置いて行ったことは想像に難くない。けれど、心からがっかりしているこの姿を素直に見せていれば、父親については知らないので解らないが、あの兄たちなら折れたのではないだろうかと飛鳥は思った。

 けれど同時に、優花の性格からして、そんな姿を見せることも言い出すことも、とても出来なかったのだろうと、そう思う。そのときの気分を思い出したのか、今は取り繕うこともなく素直に項垂れる優花の頭を軽く叩いて、飛鳥は笑った。


「いつか、あたしと行こうよ」

「……いいの?」


 高い所、平気?と、小首を傾げる優花の眼差しは、穏やかな期待にきらきらと愛らしい。


「平気でなけりゃ、屋上になんか好き好んで来ないでしょ」


 当たり前のことを、少し皮肉っぽく言えば、優花はまた子供のような顔で笑った。それならそれなら、と。飛鳥の袖口を握り締めて、顔を覗き込んでくる。


「山登りも、してみたいわ」


 いかにも高原の避暑地が似合いそうなお嬢様然とした優花に、山登りと言う単語は中々にアンバランスで、飛鳥は軽く吹き出してしまった。優花は何故笑われたのか解らない顔で、高い所では月と星が綺麗なのよ、なんて。そんなことを言ってくる。


「お嬢さんが山登りなんてしたら、足が折れるんじゃないの?」


 何となくそんな気分だったので、意識して意地悪い物言いをしたのだが、優花は意地悪を言われたなんて思いも寄らない様子で大丈夫、と笑った。


「私、健康よ! それに最近は、途中まで運んでくれたりする乗り物もあるのよ」


 楽しそうでしょう?と首を傾げて、優花はただただ楽しげな様子でにこにこと笑っている。馬鹿と煙は何とやらとはよく言われたものだが、彼女にはどちらも当て嵌まらない。けれど、高い所が好きというのは間違いなく真実であるようだった。飛鳥を見つめて、好きなもののことを想う優花は、悪意も害意もなく愛らしい。

 優花の想う、好きなもの、に。確かに自分も入っていることを、飛鳥はちゃんと理解している。それでも、どうしてか時折意地悪をしたくなる己に心の内で呆れつつ、本当、楽しそうねと相槌を打った。


「いいよ。いつか、行こうか」


 いつかとは、いつのことだろう。急に、そんな考えが脳裏に去来して、心臓の辺りが少しばかり冷たくなったけれど、飛鳥は知らない振りをした。

 いつか、が。来るのかさえ分からないことを、理解していないはずがない賢い優花は、それでもそんなことを問い詰める風もなく笑って、再び空に眼差しを向ける。秋の日差しに透けるその髪はますます茶色く、風に吹き上げられた一房はもう、金色だった。

 思わずその金色を捕まえれば、少し引っ張ってしまったのか、優花が不思議そうな目をして飛鳥を見つめて来る。その茶色い瞳を覆う睫毛までもが金色に透き通っていて、比喩ではなく本当に、きらきらと輝いていた。

 明るい、暖かい色に、冷たくなっていた心臓が暖かさを取り戻す。太陽の気配を含んだ髪は優しく暖かく、甘い香りがした。


「綺麗な髪ね」


 そう呟けば、優花は照れたように俯きながら腰を下ろしたので、飛鳥も優花の背中側に膝を付く。日差しに暖められたコンクリートは少し熱いくらいで、背後からも日光が当たるので暖かい。痛かったはずの腹部はすっかり大人しくなっていて、澱んだ気持ちの悪さも、今は影も形もない。先程の冷たさはまだ胸に残っているような気がしたが、気付かない振りをして優花の髪に触れ、手に触れる暖かさに意識を傾けた。

 優花の髪は真っ直ぐで、赤いリボンの結び目からほつれる髪すらなく、とても綺麗だった。性根というものは髪にも影響を与えるのだろうかなんて、馬鹿なことを考えて、自分の癖毛を意識して苦笑する。ハーフアップに纏められた髪を取り敢えず三つ編みにしようとしたものの、緩い編み方ではすぐにほどけてしまうので早々に諦めた。

 本当に綺麗ね、と。そう呟けば、恥ずかしそうに、嬉しそうに、くすぐったいような声で、そんなことないわと優花は笑う。


「私は、飛鳥のような、黒い髪が好き」


 好きよ、と。優しい甘い声がそう呟いて、暖かい体がもたれ掛かってきた。彼女の甘い声はいつだって、飛鳥の耳には甘過ぎるほどに優しい。


「好きよ、好き。あなたのことが、一番好き」


 甘い甘い、柔らかいその声に。泊めてもらったあの日の、ブルームーンを思い出す。

 二人で引っくり返ったりするような参事にだけはならないように、飛鳥は優花の方に体重を傾けて釣り合いを取る。優花は下から、飛鳥は上から顔を覗き込むような体勢になった。

 そうして、優花が急に真面目な顔になるので、飛鳥は疑問の意を含んだ眼差しを向けてみる。そうすれば、優花はそっと身を起こして、飛鳥に向き合った。


「あの……お願いが、あります」

「何?」


 また敬語になっているなと思いつつも、優花があまりにも真剣な顔をしているので、飛鳥も笑いを抑えて続きを促す。優花は何故か正座までしているので、気が付けば飛鳥の背中もぴんと伸びていた。


「あ、あの、ね……」


 よほど言い出しづらいのか、赤くなったり白くなったり、教室にいる間は絶対に見せないだろう取り乱した様子で、優花は一人で狼狽えている。

 多分飛鳥には解らないだろうと思っていたことを差し引いても、月につれて行ってとは比較的容易く口にできていたのに、それよりももっと言いづらいことなのだろうか。何となく不穏な気配に座り心地が悪くなってきた飛鳥が、何か軽口でも叩こうかと思った時、優花が口を開いた。


「あの」


 あの、と。もう一度繰り返して、白い手が益々白くなるほどに拳を握り締めて、そうして顔を上げる。


「もっと、触ってほしいの……」


 思わぬ一言に、飛鳥は少しばかり噎せそうになったが、一体どういう意味かいまいち解りかねたので沈黙を守った。どこを?と尋ねた日には話がとんでもない方向に転がりそうな気がしたので、先ほどまで触れていた茶色い髪に手を伸ばして、口を開く。


「今までも、触ってたでしょ?」

「あの、髪じゃ、なくて」


 あの、あの。真っ赤な優花は居心地悪げに俯いて、何とか言いたいことをまとめようと懸命になっている。白い手がおろおろと宙をさ迷っていて、飛鳥は自然とその手を握ってあげたくなったが、余計取り乱してしまいそうだったので我慢した。


「私、本当に……平べったくて……」


 平べったいのではなく、細いのだろうと飛鳥は思うが、自らの胸元を抑えて俯くその様子から、優花の言わんとすることは理解できる。ふと、お風呂場のてるてる坊主を思い出した飛鳥は突発的に吹き出しそうになったが、何とか堪えて真面目な素振りを保った。平べったくても何もなくても、とにかく可愛いことには間違いがないのだから、特にそんなに気にすることではないと飛鳥は思う。けれど、優花にとっては大きなお悩みなのだろう。


「それで、岩倉さんに、どうしたらいいかしらと、聞いてみたの」


 そんなことを尋ねられて、さぞかし有住は困惑しただろう。

 優花と比べても凹凸のない次子とは違い、目立たないが中々のスタイルをしている眼鏡の少女を思い浮かべて飛鳥は笑ったが、同時に、このお姫様に有住は一体何を言ってくれたのかと、嫌な予感がした。


「……何て言われたの?」

「ど……どきどきすると、いいって」


 教えてもらったわ、と。真面目な顔で呟く優花の顔は赤いままで、いっそこのままでもどきどきの基準は満たしているのではないかと飛鳥は思う。しかし、何か考え込んでは手で顔を覆ったり、目線を困ったようにうろうろさせたりするその様子から察するに、まだ何か具体的なことを聞いてきているのだろう。やはり有住は苦手だと思いながら、今さら話の腰も折れずに大人しく続きを待っていたら、優花はどこか的外れに真剣な眼差しを飛鳥に真っ直ぐに向けてきた。


「だ、から……どきどきするように、触ってほしいの」


 あの眼鏡は、本当に何を言ってくれたんだ。

 今度こそ飛鳥は噎せ込んだが、今の一言で一杯一杯らしい優花は再び俯いてしまっていて、そんな飛鳥に気付かない。

 何の決意を固めたのか、俯いたまま一つ頷いた優花はきらきらと熱を帯びた眼差しを今度はしっかりと持ち上げて、飛鳥を一心に見つめて勢いよく微笑んだ。


「さあ、いざ!」

「ちょ……っ」


 いざと言われても。

 制止するつもりで持ち上げた右手を、それ以上どうしようもできなくなって、飛鳥はそのまま硬直した。何とも間抜けな状態で掲げられたままのこの手をどこに置けば正解なのか、飛鳥には解らない。そもそも優花が、どんな話をどのように理解してこんな状況になっているのかが解らない。

 話の流れの都合上、どうしても胸元に行ってしまった視線を逸らして違う違うと己に言い聞かせる。きらきらとした眼差しでこちらを一心に見つめている優花は怒らないかもしれないが、こんな間抜けなムードの中で何をしろというのか。しかも、素晴らしく健全な青空の下だ。今が平日の昼休みということを思い出して、飛鳥はますます混乱する。

 けれどそのとき、平日の昼休みならではの出来事に助けられた。

 午後の授業開始五分前の、予鈴。


「……お昼休み、おしまいね」


 少しがっかりしたように、優花がそう呟いて、それでもさすがに優等生らしく、すでに教室にいるときのような顔に戻っている。予鈴にこんなにも助けられたことはないという安堵と脱力感と共に、優花に同じくどこかがっかりしている自分に呆れながら、すでにてきぱきと人がいた痕跡を片付けて始めている彼女に倣い、飛鳥も荷物を片付けた。

 優花は立ち上がって、誰にも見られずに戻れるかしらと言いたげな難しい顔で、それでも割と楽しんでいるような顔で校内へと戻るドアを見つめている。そんな優花を見上げながら、飛鳥がいつまでも立ち上がらずにいると、それに気付いたのか不思議そうに首を傾げた。


「飛鳥、行きましょう?」

「……今日は、ここにいるわ」


 先程の妙な脱力も手伝って、すっかり授業に出る気がなくなってしまった。

 言い掛かりのレベルで物申せば優花のせいでもあるが、理由なく授業を休むなど思いもよらないらしい優花は、駄目よ、と驚いたように瞬く。涼しげにつり上がっている綺麗な目が丸くなっていて、秋空の光がちらちらとその目の中で光っているのがよく見えた。


「いいの。体調不良ってことでね」


 実際お腹も痛いし、と。腹部に手を当てれば、それが嘘ではないと知っている優花は、それでも落ち着かない様子で狼狽える。

 まあ、お嬢様とサボタージュは縁遠いことは間違いない。冗談めかせば、少しは気が軽くなるかなと考えて、飛鳥は小さく笑って口を開いた。


「お嬢様と仲良くなってから、先生方に厳しい目で見られることも無くなったしね」

「そ、そんなことに私を使っちゃ駄目……!」


 逆に気を重くしてしまったらしい。優花は狼狽えた顔をして、余計におろおろと手を惑わせた。茶色い瞳は本格的に困惑していて、続ける言葉が見つからないのか口は開かないが全身からどうしましょうどうしましょうという気配が滲み出ている。

 ああもう、本当に、この子はどうしてこんなに可愛いのだろう。


「冗談よ」


 でも、授業に行きたくないのは本当。そう呟いて、立ち上がる様子を見せないまま何気無い調子で腹部に手を当てれば、取り敢えず何か言おうとしていたらしい優花が言葉を詰まらせた。

 全くもう、という顔をして、優花は見逃そうか連れて行こうか悩んでいる様子だ。そんな姿を見ながら、このままでは優花も遅刻になりそうだなと思ったとき、ふと本日二度目のいけない考えが頭を過る。それを実行しようかどうしようか、考える前に、手が延びていた。

 膝立ちになった飛鳥に手を握られて、お姫様は、え?という顔をする。下から覗き込むようにして眼差しを合わせて、飛鳥は笑った。


「一緒にいて?」

「え?」


 今度は口に出して困惑した優花は、恐らく駄目よと言おうとしたのだろうが、半端に開かれた口からは結局何の言葉も発されることなく、首も縦にも横にも振られる気配がない。もう行かないと、と。そんな目でドアを見遣って、それでも飛鳥とここに残りたいという気持ちもあるようで、動けずにいるようだ。

 正直五分五分かなと、飛鳥がそう思ったのと同時に、本鈴が鳴り響く。驚いたように体を跳ねさせた優花は、それでもある程度思い切りがついたのか、数秒迷った挙句に覚悟を決めたと言わんばかりに固い表情で腰を下ろした。チャイムが飛鳥の味方をしたのはこれもまた本日二度目で、明日は真面目に授業を受けようと、飛鳥はそう思った。

 鐘の音に、余程気まずいものを感じているのだろう。顔は赤いし、掌に触れる優花の体温はとても高い。混乱を浮かべて、どうしましょうと涙ぐむその姿が何だか可愛くもあり可哀想でもあり、飛鳥は両手で耳を塞いであげた。少しは楽になった様子で、それでもまだ音が聞こえていたのだろう。優花が飛鳥の手に手を重ねて、強く押さえつけた。

 そんなことをしている内に鐘は鳴り終わったのだが、気付いていないのかどうしたのか、手を押さえつける力が全く緩まない。優花、と呼べば目線を上げるので、聞こえていないわけではないようだ。ならばやはり混乱しているのだろうか。期せずして、優花の望みを叶えられたのではないかとそう思うと、何だか愉快な気分だった。


「どきどきした?」

「このどきどきは、多分、違うわ……!」


 体によくないわ、と。そう言って飛鳥を見つめる茶色い瞳は、まだ少しばかり潤んでいる。狼狽が抜けないのだろう、強張ったようなその手から力が抜ける気配はなく、そんな己の状態に疲れたように目蓋まで下ろしてしまう。そんな優花を見ていたら、悪戯心がふと飛鳥の胸を過った。

 気を紛らわせてあげよう、なんて。言い訳にもならないようなことを考えながら、飛鳥は優花に顔を近付ける。

 耳を塞いだ手はそのまま、閉じられている目蓋に口付けを贈ったら、優花が寝ぼけた猫のような声を上げた。

 その声を笑いながら、飛鳥は優花の心臓の辺りに手を伸ばす。


「これなら、正しい?」


 手を当てなくても解るくらいに脈打っている左胸に、それでもそっと手を当てれば、明らかな心拍が響いてきて笑ってしまった。怒られるかなと思ったが、優花はそこまで考えが至らない様子で、先程までは伏せられていた目蓋をぱっちりと持ち上げたまま固まってしまっている。閉じた目の上なら、憧憬のキス。そんなことを謳った詩人のことを、飛鳥はぼんやりと思い出す。比喩表現が苦手な飛鳥は、詩も好きな方ではなかったが、中学時代の現実逃避に近い乱読の成果か、知識としては詩もそれなりに知っている。詩人の名前までは覚えていなかったが、優花は詩集が好きなので、多分この一節だけでも名前を教えてくれるだろう。

 そんなことを考えながら、飛鳥は何か反応が返ってくるのを待つ。しばらくして、ようやく顔色が落ち着いてきた優花が、少しむくれながら口を開いた。


「いきなりは、ずるいわ」


 ずるいわ、と。もう一度そう呟いた優花が、飛鳥を見つめて、だから、と続ける。

 だから、何だろうか。飛鳥がそう思った次の瞬間には、優花は口を開いていた。可愛らしい声が、小さく響く。


「もう一回……」


 吹き出した。

 おかしくておかしくて、耐えられずに声を出してしまい、いけない、と思って腹部に力を入れたら血の流れる気配がして不快な感触がした。しかし気分は不快とは真逆で、あまりの幸福に目眩がする。もしかするとただの貧血なのかもしれないが、本当の所なんてどうでもよかった。


「いいよ」


 怒られる前に笑いを納めて、短くそう答える。改まると恥ずかしいので、できれば目を伏せてほしいのだが、優花は今度は騙されないとばかりに目をしっかりと開いているので仕方がない。

 驚いたのか、恥ずかしいのか、照れているのか。それともやっぱり少しは怒っているのか、その全部か。茶色い瞳は涙に潤んで、赤く滲んでいる。ああ、高い所と月が好きなお姫様は、馬鹿でも煙でもない。


「月の兎ね」

「え?」


 優花が不思議そうに瞬いたその隙に、短く口付けて、すぐに離れる。明るい日の下では、これくらいが飛鳥の精一杯だ。これ以上だと、飛鳥の脈の方がおかしくなる。そもそも、今のどうしようもなくセンスに欠ける比喩に突っ込まれでもしたら厄介だ。

 結局不意打ちのようになってしまったせいか、優花は最初の内は怒ったような顔をしていたけれど、飛鳥と目が合ったら、いつまでも怒っていられなくなってしまったらしい。

 赤く染まった顔で、赤く滲んだ瞳で、どうしたらいいのか解らないと言いたげに、困った顔で優花は瞬く。


「どきどきし過ぎて、逆に止まりそう……」


 こういう時はどうしたらいいのかしら、と。優花は恥ずかしそうに染まった顔をそっと傾げた。

 可愛いなと思ったら、また目眩がした。




 口にするのは、愛情の口付け。そんなの、詩人じゃなくても解ってる。

(恋しい恋しい、あなた一人に贈るもの)


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