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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第一章
2/37

1-1

 関わることなんてないだろうと思っていたお姫様は、何故かいつだってあたしの視線の先にいた。

 毎日、毎日、苛立ちで息が詰まる。




 夏の頃の激しい明るさを失いつつある日光が、窓から斜めに差し込んで影を作っている。新学期が始まって、二週間で文化祭、さらに二週間で体育祭があり、その二週間後が中間試験だった。

 今日はその試験が終わって一週間、結果が発表される日だ。詳細な結果は明日から授業の中で答案用紙と共に個人個人に返却されるが、それよりも先に、成績上位者の名前は掲示板に貼り出される。

 先生方が眉を顰めない範囲をきちんと守りながら、生き生きと全ての行事をこなす真面目な少女たちも、さすがにそろそろ疲れてきていた。いつもよりはやや集中力を欠いた状態で、それでも大人しく放課後のホームルームを終える。担任が退出した途端に、緩んだ空気が教室中に溢れた。

 学期毎に行われる席替えの結果、飛鳥の席は真ん中の列の一番後ろになっている。一学期は前から二番目だったが、後ろから刺さる視線がないこの席の方が飛鳥は好きだった。

 やはりいつもよりも心なしか騒がしい少女たちが、試験の結果を見に行こうと笑い合い、それぞれ小さな集団に纏まってから楽しげに廊下に足を運ぶ。そんな光景を後ろから見るともなしに見ていた飛鳥は、廊下から声が遠ざかるのを待って、最後に席を立った。

 奨学金を受け続けるための学習や、奨学金では賄えない分を何とかするためのアルバイトなど、放課後にもすべきことは数多くあるが、人混みを掻き分けるような真似をしてまで急ぎたくはない。


「大丈夫だと、思うしね」


 毎回、限りなく上位の成績を維持し続けなければならないという重圧はあるが、解けなかったという気はしていないのでさほど緊張感はなかった。教室の電気を消してドアを開け、人気は少なくなったがまだ騒がしい気配の残されている廊下を通って、一階の掲示板まで歩く。時間を少しずらしたおかげか、混雑はしていなかった。

 中間試験の時と同様に、上位二十名の名前のみが記されている紙が、一年生用の掲示板に貼り出されている。書道科の教師が書いているという、妙に気合の入った筆文字を視認できる程度まで近づいて、点数と順位を確認した。教科別に貼り出されたそのどの紙にも自分の名前が記されていることを認めて、飛鳥は軽く息をつく。国語は四位だが数学は一位、あとは二位だ。これなら、おそらく奨学金は問題ないだろう。

 そうして、数学以外の科目全てで、一位として記されている少女の名前にどうしても注目してしまう自分に気付いた飛鳥はため息をつき、さっさと目を逸らした。用は済んだと、さっさと昇降口に向かう飛鳥の背に、はしゃいだ少女の声が届く。


「桜川さんが、また一位」


 自分のことでもないのに、何故そんなはしゃいだ声が出せるのか解らない。

 折角目を逸らした名前を浮かれた声で耳に入れられたことが気に障って、数学は二位でしょ、と胸中で言い捨てる。空しさに呆れて、さっさと帰ろうと顔を上げた。

 その瞬間に、この学校全体を探しても一人しかいないような茶色い瞳とかちりと目が合ってしまい閉口する。

 つくづく自分は間が悪い、と。飛鳥があからさまに眉根を寄せれば、茶色い瞳のお嬢様の右隣にいつものように並んでいる小柄な少女が、実に分かりやすく視線を尖らせた。


「邪魔よ」


 どいて、と。噛み付くような剣幕で睨みつけて来る大きな瞳は、涼やかに切れ上がって美しい。間違いなく美少女と呼ばれる部類に入るのだろうが、いかにも気の強そうなきつい顔立ちをしている。これで背でも高かった日には迫力があるのだろうが、いかんせん規格外に小さい。小学生のようだ。


「九条さん……」


 お嬢様の左隣が定位置の眼鏡の少女が、窘めるような声で小さな少女に声をかける。その、どこか高貴な名前の通り、子供のような激情を浮かべていてもどこか品のある彼女の様子に、つい笑いが漏れた。小さな彼女は、お嬢様の取り巻きとしてこの上なく相応しい。

 そんな彼女にさっさと見切りをつけて、飛鳥は背を向ける。学校での用事はもう済んでいるし、面倒事は御免だ。今までの、半年ほどの経験から考えれば、彼女はお嬢様を置いてまで追い掛けて来るようなことはない。飛鳥がここから離れてしまえば、話は終わりだ。声をかけられる前に歩き出して、速めの歩調で昇降口を出た。

 秋と言ってもまだ紅葉も完全ではない時期だが、学内の桂の木は落葉が異様に早い。登校時にはすでに枯れ葉がうっすらと積もっていたが、毎週担当を変えながらきちんと割り当てられる掃除当番によって、枯れ葉は左右に寄せられている。量が増えてくれば、ある程度は焼却炉まで運ばなくてはならなくなるのだろうが、この程度であれば箒で寄せておくだけで事足りるのだろう。

 実際、その白い石が敷き詰められた道は、朝よりも歩きやすくなっている。昇降口から校門まで、無駄に長いように思える道のりにも慣れてきた飛鳥は、左右に寄せ集められた枯葉の塊を見るともなしに見ながら歩いた。冷たくなってきた風に吹かれて、かさかさと微かな音が響いている。

 その、枯れ葉の触れ合う音に混じって、後ろの昇降口から追い掛けるような足音が聞こえてきた。


「あ……あの」


 待って、と。いかにも控えめな、愛らしい声に呼び止められて、思わず足を止めてしまう。少しばかりの驚きと共に首だけで振り返れば、声の通りに愛らしく、茶色い瞳を瞬かせるお嬢様が立っていた。

 面倒な、と。反射的に思ったものの、取り巻き二人の姿はない。大分後方となった昇降口からこちらを凝視したまま動く気配のない二つの人影を見る限り、待っていて、とでも言われたのだろう。丁度人の途切れる時間帯だったのか、その二つの視線を気にしなければ人影はなく、お嬢様と一対一の状況だ。このパターンは初めてだったので、飛鳥は少し驚いている。

 面倒なことに変わりはないが、わざわざ二人を置いてまで追い掛けてきたことが珍しかったので、取り敢えず向き直ってあげた。


「何」


 言いたいことでもあるのかと、少し威圧的に問い掛ければ、びくりと分かりやすく体を跳ねさせたお嬢様が、それでもめげずに顔を上げる。入学式のあの日から変わらず長い髪に結わえられた、赤いリボンがひらりと揺れた。

 小さな口が、そっと開く。


「九条さんが、ごめんなさい」


 吉野さんは、別に何もしていないのに、と。続けられるその声は、優しく甘く可愛らしい。名前を覚えられていたことには少し驚いたものの、このお嬢様なら全校生徒の名前くらい覚えているのだろうと思い直した。

 不思議にゆっくりとした調子で話すお嬢様の声は、秋も深まりつつある今日の冷たさを含み始めた空気の中、妙に暖かくて気持ちが悪い。そんな不快が顔に出ていたのか、お嬢様が緊張したような面持ちで黙ってしまった。

 それ以上、中々話し出そうとしないことに苛々して、こちらから話を終わらせてやるつもりで飛鳥は口を開く。とにかく、この妙な状況を一刻も早く終わらせてしまいたかった。


「それだけ?」


 なら帰らせてくれと、言外に告げてため息をつく。これで終わるかと思えば、お嬢様が違う、と言うように首を横に振った。

 じゃあ何、と突き放すように問い掛ければ、飛鳥の声の冷たさに一度だけ戸惑った眼差しが真っ直ぐに前を向く。飛鳥の姿を、その硝子玉のような瞳に映して口を開いた。


「あの。……数学、一位、おめでとう」


 白い頬を和やかに微笑ませて、清らかな声でそう呟く。茶色い瞳は優しさだけに満ちていて、飛鳥に甘く纏わり付いた。

 出会ったその日から、何故かこの茶色い瞳が柔らかい優しさを宿して飛鳥を見つめていたことを思い出す。あんな最低な初対面をすれば、関わることなんてもうないだろうと思っていたのに、それなのに。その瞳が抱く優しさは損なわれることがないまま、飛鳥に向けられ続けていた。背中を妙なものが駆け上がる気配がして、気持ちが悪くなる。

 嫌い、嫌い。暖かいものも、優しいものも、みんな嫌い。


「私、数学、苦手なの」

「……あのさ」


 何の話、と。苛立ちも隠さずに話を切る。優しいお嬢様の声が、堪え難く気持ち悪い。苦手と言いながら、貼り出された数学の順位は飛鳥と僅差の二位だった。一学期の数学は、このお嬢様が一位だった。褒められるのは嫌いだ。そこに妬みや羨望の色がなければないほど、蔑まれているような気分になって不快になる。

 暖かいものも、優しいものもみんな嫌い。それが自分に向けられるものなら、尚更。

 話を切られて、戸惑いと躊躇いにお嬢様が眼差しを伏せる。その状態が長く続くようならば踵を返そうと飛鳥は考えたが、お嬢様は予想したよりも早く顔を上げて決意したような眼差しを向けてきた。


「私のことが、嫌い、って……」


 そこまで言って、俯いてしまったお嬢様の小さな口が一度きつく結ばれる。ああ、泣いてしまうだろうかと飛鳥は思ったけれど、僅かな沈黙の後に再び上げられたその瞳は凪いでいた。


「どうして……?」


 小首を傾げるようにして問い掛けてくるその言葉に、何の話かと一瞬思って、一度だけ口に出して嫌いだと告げた入学式のことを思い出す。あの時と同じ、校則の見本のような制服の着こなし、それなのに茶色い髪と赤いリボン。

 きらきらと輝く、優しさに満ちた茶色い瞳。涙の気配もないその瞳を見たら、何故だか不快な苛立ちが胸に満ちた。


「嫌い、じゃなくて、大嫌いって言ったんだけど」


 殊更冷たい声を出せば、白い顔を青褪めさせたお嬢様が、それでも今度は俯かずに飛鳥を真っ直ぐに見つめ返してくる。茶色い瞳、硝子玉のように綺麗な瞳。

 まるで素直な子供のように大人しく答えを待つ、その瞳を見返すのが煩わしくなって目を逸らした。ああ、苛々する。


「……いかにもお嬢様です、っていう、その感じが嫌い」


 一度絶えてしまった人通りが戻る気配はなく、いつまでも奇妙な静寂の満ちるその空間では、自分の声が耳の近くで聞こえる。嫌い、という言葉が、無駄にはっきりと飛鳥の耳に響いた。

 目を逸らしてしまったため、お嬢様がどんな顔をしているのかは解らない。けれど、きっと悲しそうな顔をしているのだろうと思ったら、余計に気分が悪くなった。


「みんなに愛されてて、私もみんなを大好きよ、って態度が嫌い」


 そう、嫌い、大嫌い。好きとか、愛してるとか、そんな優しいようなものはみんな嫌い。数多の人から向けられる愛を当たり前のように受け入れて笑う、優しさと愛情に満ちたお嬢様なんて見ていたくもない。

 だから、あたしにまでそんなものを求めないでよと。皮肉を含んだ笑いでこの場を終わらせてしまおうと顔を上げたら、まだ飛鳥をじっと見つめていた茶色い瞳と目が合ってどきりとした。

 悲しそうな顔を、している。けれど茶色い眼差しは、何故だか未だに優しく柔らかい。優しいその目で、お嬢様は飛鳥を見る。いつも、いつでも、どうしてか。

 ずっと、どこからか、優しい眼差しを感じる。


「……その目も嫌い」


 言うつもりのなかった言葉までが、つい零れた。

 一度口を開いてしまえば自分の意志で止めることのできない、悪意に満ちたその声は、飛鳥自身の耳にも毒を含んで突き刺さる。いつのまにか冷えて固まってしまっていた指先を、痛みに耐えるときと同じように強く握り締めた。


「育ちが違うって、言われてるみたい。……あたしなんかの言葉に傷付くまでもないって、見下されてるみたい」


 お嬢様が、茶色い瞳を大きく見開いて、大きく首を横に振る。顔色は血の気が引いて青白く、茶色い瞳は縋るような色を湛えて、必死に否定の意を示していた。


「そんなこと……!」


 一瞬だけ強くなった語調に自分で驚いたのか、お嬢様がはっとしたように口をつぐむ。躊躇うような間を置いた後、小さな声でゆっくりと、ないわ、と呟いた。

 一拍遅れた否定の言葉は弱々しく、けれど明確な意志が宿っている。その言葉が嘘ではないことくらい、飛鳥にだって解った。

 解った、けれど。


「……みんなに愛されているなら、それでいいじゃない」


 どうして、わざわざあたしに関わろうとするのか、解らない。

 そう告げた飛鳥を、瞬きもしないでただ見つめてくるお嬢様の様子にため息をついて、背を向けた。何故か、何故か、胸の辺りが変な脈を打って痛い。何故だか、もう二度と振り返れないような気持ちになった飛鳥は、俯きがちに歩を進めた。

 勉強とアルバイトと学校と、退屈で忙しい日々を過ごす内、秋分の日はとっくに過ぎていた。最近はすでに大分日が短くなっていて、斜めに目を刺す煩わしい光にはもうオレンジが混ざっている。涼しいものを多分に含んだ風に首筋を撫でられて、寒気がした。

 足元に新たに落ちてきた枯れ葉を踏みしだいて、逃げるように門に向かう。飛鳥に踏まれた枯れ葉の砕ける音に混じって、後方に二つの駆け足が聞こえた。


「……嫌いよ」


 目に見えて落ち込んでいるだろう可愛いお嬢様に、あの二人が何と話し掛けるのかを知りたくなくて歩調を早める。乱暴に踏み出した足の下でまた枯れ葉が粉々に砕ける音がしたけれど、苛立ちと不快から気を逸らすための手助けにもなりやしない。

 飛鳥は走り出したい気持ちを必死に押さえながら、足早にその場を去った。




 優しいものに触れたくない。暖かいものにも触れたくない。

 だって、それはきっと、あたしのものじゃない。


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