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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第二章
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【幕間】総一郎

 父が「妹」を連れて来ると言ったとき、何を考えているのかと思った。

 そうして、その茶色い髪と瞳を見て、何を考えていたのか解ってしまった。




 急に知らない家に連れて来られて緊張しているのだろう、大人しげな子供の顔は強張っていて、おどおどと竦んだような眼差しを伏し目がちにして立ち尽くしている。

 茶色い髪、茶色い瞳。そして人形のように綺麗に整ったその顔立ちは、病で娘を産むことが叶わなかった母にそっくりで、そんな子供を家に連れて来るなり病院に向かうと言い出した父に呆れるやら頭が痛むやら、つい不機嫌な顔をしてしまったら、大人しげな子供があっさりと恐怖を瞳に浮かべたので、総一郎は少し怯んだ。弟曰く、自分は顔が怖いらしい。


『ゆうか、っていうの?』


 かつて兄の心を、恐らくは何の悪気もなく傷付けた明るい弟が、すっかり竦んでしまっている子供に近付いて話し掛ける。大学受験を次の冬に控えている総一郎とは違い、中学校に上がったばかりの彼は、まだ七歳だというその子供とは我が家の中では一番歳が近く、何より人当たりが柔らかい。


『俺はゆずる。……少し、似ているね』


 ね、と。腰を屈めて目を合わせながら、何だかよく解らない同意を求めている譲に、茶色い目をした子供がやはりよく解っていない様子で取り敢えず頷き返している。

 まあ、任せておこうと、総一郎が目を逸らそうとした辺りで、譲が何故かこちらに話を振ってきた。


『あっちが、総一郎兄さん。挨拶できる?』


 このタイミングでそんなことを言うものだから、総一郎は目を逸らし損ねてしまう。おどおどと顔をこちらに向ける子供の姿に、ああもうこれで泣き出したらどうするのだと総一郎は思った。自虐的でも構わない、多分、総一郎の顔が怖いのは事実だ。

 けれど、茶色い瞳の小さな子供は、予想したよりもずっと怯えのない眼差しを総一郎に向けてきた。


『はじめまして。……総一郎、お兄様』


 滑らかに優しい声でゆっくりとそう言って、頭を下げる。


『……ああ、はじめまして』


 そこまで畏まらずともと思いつつ、それでも返礼のためにそう呟いたら、何故だか譲が吹き出して、子供がびくりと肩を震わせた。

 不可解なことばかりだったが、取り敢えずその日、妹ができた。




 新しく妹となった優花は大人しくて優しい子供で、とても賢く礼儀正しく、母の見舞いに幼い心を砕いていた。母が亡くなったときには、可哀相なくらいに泣いて泣いて、それでも何の言葉もかけてやらない父を恨めしく思いつつ、総一郎は譲と一緒になって不器用なりに必死に宥めた。ある程度は覚悟を決めていた総一郎たちと、小さな優花はそもそもの前提が違うのだ。

 けれど、総一郎はその時、大学に入ったばかりで忙しかった。優花はほどなくして泣き止んだし、譲がよく構っていたようだから、見ていなくても平気だろうと思っていた。

 けれど、ある日、譲に泣きそうな声で呼び止められた。


『兄さん、どうしよう』


 どうしよう、どうしたらいいだろう。いつも明るい弟が、今にも泣き出しそうだというのは本当に稀なことで、総一郎は驚いた。

 何があったのかと尋ねれば、優花が死ぬかもと返され、心臓が冷える。いきなりどうしたというのか。問い詰めようとしても、どうしようと狼狽えるばかりの譲からは何も聞き出せそうにない。とにかく優花の所に連れていけと告げれば、頷いた譲が小走りに駆けて行く。いつもなら室内を走るなと言うが、状況が状況なので総一郎も小走りに後を追った。


『優花』


 もとは母の部屋だった、優花の部屋のドアを叩いて声をかける。ノックに返る声がないことを気にしつつも、いるのかいないのかを早く確認しようとドアを開けた。

 足を踏み入れた途端、広い部屋の片隅で、ぐったりと壁にもたれ掛かっている優花の姿が視界に入る。部屋の大きさに対して小さ過ぎるその姿は、以前と比べてもさらに小さくなっているように見えた。


『お兄様……』


 二人に気付いた優花が、立ち上がろうとしている。けれど、足に力の入っていないその様子に、総一郎は血の気が引いた。

 優花が立ち上がるのを待たずに、大股で歩み寄る。優花の顔色はまるで紙のようで、元から細かったその腕には骨が浮いていた。屈み込んで顔を覗けば、ぼんやりと潤んだような茶色い瞳の下に、子供のものとは思えないような隈が薄暗く影を落としている。小さな口元は血が滲まんばかりに乾いていて、いつ倒れてもおかしくないほどに衰弱して見えた。

 おそらくはもうずっと、眠れていない。いつからかと考えて、まさか母が死んだその日からだろうかと思い至って心臓が嫌な脈を打った。上から見下ろすだけでは、この異常に気付いてやれない。しばしば屈み込んで優花に話し掛けていた譲に感謝すると同時に、こんな顔色になる前に気付いてやれなかった己への怒りが込み上げ、舌打ちをしたら優花の茶色い瞳に涙が滲んだので総一郎は焦った。しかし慰め方が浮かばない上、悠長に構えていられるような顔色をしていないので、言い訳は諦めて優花を抱え上げた。


『病院だ』


 車庫を開けてくれと告げれば、譲が即座に部屋を飛び出していく。今走らなければいつ走るのかという状況なので、咎める気は皆無だ。むしろ、今走らなければ怒る。あ、え、と。困惑したようなか細い声を上げる優花に目を向ければ、茶色い瞳と視線が合って、そしてその瞳がじわりと涙ぐんだ。

 ごめんなさい、ごめんなさいと。か細い声で呟く優花に、総一郎としては精一杯に優しく謝らなくていいと告げる。可哀想なことをしたのは、こちらなのだから。

 両親を亡くして、誰一人として頼ることの出来ない状況で他人の家に放り込まれた小さな子供。そうしてさらに、もう一度母を亡くしたのだ。

 気遣ってあげなければいけなかった。庇ってあげなければいけなかった。どんなに大人しく賢く見えても、この子は幼い子供なのだから。訴えたいことを言い出せず、救いを求める眼差しを向けることもできないような子供なのだから。



 父は「妹」を連れて来た。

 怯えながら、竦みながら、それでも総一郎を「兄」と呼んだその子を、総一郎は気遣ってあげなければいけなかった。



 優花は本当に大人しくて優しい子供で、総一郎のことを兄として慕ってくれた。反抗もなければ不機嫌でいることすらなく、いつだって控え目に笑いながら、お兄様、とゆっくりとした声で丁寧に総一郎に声をかけた。

 だから総一郎は、妹に口を利いてもらえない経験なんて初めてだった。


「何かしたの、兄さん」


 目も合わせずに食事を終え、黙り込んだまま部屋に戻ってしまった優花を訝しんで、譲が困惑したように総一郎に話し掛ける。あまりに重い空気に、家族の内では一番に賑やかな譲も、優花がいる間は口を開けなかったのだろう。己の行動を振り返り、何もしていないと判断したらしい譲は、総一郎に疑念の籠った眼差しを向けてきた。


「――ノックはしたんだ」

「は?」


 何を言っているのか解らないと言わんばかりに譲は瞬いたが、総一郎にはそれ以外答えようがない。確かに、ノックはした。そして返事を待たなかったのは早計だった。

 けれど、総一郎は、今まで聞いたことがないような楽しげな笑い声に驚いて、不思議に思ったのだ。誰が、あんな風に優花を笑わせられるのかと、そう思った。


「ノックはしたんだ……」


 悔いて俯く総一郎の様子に、何を聞いても納得の行く答えの返らないことを悟った譲が、一人で不可解そうに首を捻っている。

 明日は、口を利いてくれるだろうか。全く予想できない僅かな未来に思いを馳せて、総一郎は重たい気持ちでため息をついた。




 ああ、だけど、安心した。

(優花が、元気に笑っていた)



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