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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第二章
16/37

2-7(お風呂)

 時間的に遅く、量としてもかなりのものであった昼食のためか、正直あまり空腹ではなかった。しかし招かれておきながら食事を残すのも申し訳ないので、大分無理して胃に入れる。かつてないほどに美味しかったが、量はもう少し控え目であってほしかった。優花は普段の昼食の様子を見ていても、小食そうな外見に反して意外と健康的な量を食している。しかしやはり多過ぎるようで、かなり一生懸命飲み込んでいるのが見て取れた。

 最後に用意された紅茶からは、柔らかい湯気がふわりと立ち上っている。その茶器はいかにも高級そうな一揃いで、飛鳥は落ち着かなかった。というか、この食堂に入ってからずっと落ち着かなかった。

 自宅に食堂がある時点で、もう色々と可笑しいが、ご飯が不味くなるような食堂という優花の言葉が、確かに気には懸っていた。何かを否定するということがまずあまりない優花に、そこまで言わせる食堂とは一体どんなものかと身構えてはいたのだが、それでも飛鳥はつい一瞬呆然としてしまった。その時の衝撃を思い出して、飛鳥は小さく笑いながらため息をつく。


「ご飯が不味くなる、って意味、解った」

「……ごめんなさい」


 そう言いながら、優花も少し笑っていた。本当に、ここまですごいともう笑えてくる。

 家の中央に位置している、窓のない広いその部屋は、壁面のそこここに白黒の写真が飾られていた。それがまた、どうにも難しい顔をした爺さんの写真ばかりで、どう頑張っても美味しくご飯を食べようという雰囲気ではない。食事を口に運ぼうにも、優花と会話をしようにも、その複数の爺さんに見張られているようで全く落ち着かなかった。

 早々にお茶を飲み干して、さっさとその空気の重い食堂から出るべく腰を上げる。随分と丁寧に、時間をかけて注がれたそのお茶は、これまでの紅茶のイメージを覆すほどに美味しかったので、少しもったいなかったかもしれない。高級品には高級品の意味があるものだと、飛鳥は少し感心した。同じように慌ててお茶を飲み切った優花が、急ぎながらも音を鳴らさずに椅子から立ち上がる。


「カップ、台所まで運ぶ?」

「いいえ、蔦枝さんたちが片付けてくれるわ」


 お仕事に踏み込んだら、とてもお怒りになるわ、と。かつてそのお怒りに触れたことでもあるのだろうか、優花の顔は少し強張っている。確かにあの老女なら、私達の仕事を奪うおつもりですか、とかなり強烈にやられるような気がしたので、飛鳥は大人しくその言葉に従った。先に扉を開けて、優花が出るまで支えていてあげる。そうして、再び玄関ホールに出た。

 玄関ホールも、白い廊下も、日が暮れて明かりが燈されているためか、昼間よりも随分と華美に見える。落ち着いて見回してみれば、廊下にも所々に白黒の写真が飾られていて、上からの明かりに照らされて余計に薄暗く陰って見えていた。

 それらを何気なく眺めながら長い廊下を歩いて、最初に飛鳥の荷物を置いた、屋敷の東端に当たる部屋に案内される。あの時は優花が一人で入ってしまったその部屋に今度こそ足を踏み入れれば、柔らかい絨毯の感触がスリッパ越しにも判った。

 白が基調の、綺麗な部屋だ。そして広い。ざっと全体を見回して、違和感に気付いた飛鳥は首を傾げた。


「……隣の部屋と繋がってるの?」


 何故か扉が、今入ってきた扉とは別に三つもあるのに軽く驚いて、そう尋ねる。そうしたら、優花は穏やかに首を横に振った。


「右の壁の、窓側がお手洗いで、廊下側がお風呂。左手のドアはウォークインクローゼットっていうの」


 洋服箪笥がお部屋になっている感じよ、と優花が説明する。確かにその片仮名もよく解らなかったのでそれはそれでいいのだが、それ以上に引っ掛かることのあった飛鳥は首を傾げた。


「お風呂?」

「ええ」


 優花はにっこりと笑うのだが、飛鳥にはどうにもよく解らない。


「あっちにもなかった?」

「向こうのお風呂は、お客様用なの」


 そう、優花は言う。そう言えば、その浴室の横が客間だと説明していたように思い出した。なるほど。

 トイレが複数あるのだから、浴室もまあ複数あって普通なのだろうと、飛鳥は納得する。むしろ、この広い家では、四隅に一つずつくらい無いと不便なのかもしれない。ここの浴室が優花のためのものならば、恐らく二階にも浴室は用意されているのだろう。

 そんなことを考えていた飛鳥の手を引いて、優花は天蓋の付いた、それこそお姫様のお城にあるような寝台に足を向けた。書庫のソファーも、食堂の椅子も良い座り心地だったが、こちらの寝台はちょっとびっくりするくらいの心地良さだった。優花の隣に座り込んだ飛鳥は、天蓋から下がる綺麗な半透明の白い布に何気なく触れてみて、その美しさと滑らかな手触りにびっくりして手を離す。本当に、お姫様のための寝台だ。

 どきどきしてしまった胸を誤魔化すために、飛鳥は顔を上げて室内に目を向ける。全体的に明るく柔らかいイメージの色で統一されている部屋の中で、唯一灰色めいているのは白黒の風景写真だ。ここにも白黒写真か、と思って、食堂のしかめっ面の爺さんたちの写真を思い出して、飛鳥は笑った。


「テレビもカラーな時代に、何でこんなに白黒写真?」


 飛鳥はそう笑って、そして自分で口走ったその単語に、少しだけ気が滅入ってしまう。そうしたら、その気配に聡く気付いた優花が、茶色い瞳を瞬いた。泊まりに誘ってくれたあの日も、同じ優しい眼差しを飛鳥に向けていたなと、飛鳥はふと思い出す。そう言えば、飛鳥は優花にまだ何も話していないし説明していなかった。そのことに今更ながらに気付いて、苦笑する。

 飛鳥は、敢えて話すこともないだろうと思っていたのだけれど、心配そうに、不安そうに瞬く優花の瞳を見て、気が変わった。話すのも聞くのも、間違いなく愉快でないことは確かだが、誤魔化しても意味がない。

 茶色い眼差しを真っ直ぐに向けて、無言で問い掛けてくる優しい気遣いに甘えて、飛鳥は口を開いた。


「……カラーテレビ、買ってきたの」


 唐突な言葉に、優花が瞳を瞬いて首を傾げた。けれど、すぐに姿勢を正して、大人しく飛鳥の言葉を待つ体勢を作ってくれた。

 随分、昔な気がする。少しだけ、本当に少しだけ、和やかだった時間。


「四年前、父親が、カラーテレビを買ってきた。……その次の日、両親が大喧嘩した」


 考えないように、思い出さないように。飛鳥はずっと、そう思って来たけれど。大人しく飛鳥の言葉を待っている優花を見ていると、口に出しても大丈夫な気がしてしまう。飛鳥は、記憶から溢れ出す音に眉をひそめそうになるのを意識して抑えながら、言葉を続けた。

 嫌な、不快な、暗い記憶。今もまだ、あの時の金切り声が耳に残っている。


「母がテレビを壊して、父が出て行ってしまってから、あたしは両親どちらとも口を利けてない。……だから、実は、宿泊の許可をもらえてないの」


 今更なことを告げて、ごめんね、と。短く謝罪すれば、優花が身じろいで口を開こうとする気配がしたので、手を握ってそっと宥める。もう少し、優花がこのままじっとしていてくれないと、飛鳥は何も言えなくなってしまう。

 機械の壊れる音、夜中まで続いた両親の口論、ドアの閉まる音。機械よりももっと大切な何かが壊れる音を、飛鳥は聞いた。喧嘩の原因がテレビだったのか、それとも違う何かだったのか、耳を塞ぎ続けた飛鳥には最後まで解らなかった。


「それ以来、父は別の所で暮らしていて、年に何日も家にはいない。別の場所に、他の人が一緒にいるのかは、知らない」


 年に数回、帰ってきたとき。その度に繰り返される口論の中に聞こえる、母の憶測と罵詈雑言だけでもう沢山だ。本当のことなんて知りたくないし、興味もない。知ったって、飛鳥にはどうしようもない。


「でも、生活できない訳じゃない。よく解らないけれど、家賃に困ったことはないし、母は毎日料理を作ってる」


 多分、金銭面では何らかの話がついているのだろう。家を追われるようなことはなかったし、母は毎日台所で、何らかの料理を作っていた。

 だから、もしかしたら学費も、払ってくれと頼めば払ってくれたのかもしれない。


「そこで生活できない訳じゃない。屋根も、食事もある。……だけど、あたしは、それをあたしのものだと思えない」


 父が出て行ったその時、飛鳥は中学一年生。飛鳥と目も合わせようとしない母に、修学旅行の積立のことを言い出せなくて、提出できなかった飛鳥を心配した担任が自宅まで来たことがある。その時母は、担任に額を尋ねて、その通りに支払った。

 でも、飛鳥に、何故言わなかったのかとは尋ねなかった。その時も、教師が帰ってからも、次の日も。

 それから飛鳥は、母の食事に口を付けられなくなった。


「……泊まりに行きたいとは言ったし、優花の家に、とも言った。だから、許してね」


 それが精一杯だったと、飛鳥は精々明るく笑ったが、優花があまりにも動揺しているので、可哀想になってしまう。

 返答の有無の前に、まず目が合わないような状況では精一杯の努力だったことは確かだ。何の反応もなかったが恐らく聞こえてはいただろうし、中学時代、飛鳥が何日家を空けても無反応だったのだから、多分今回も何の問題もない。だからそんなに気にする話でもないのだが、優花は目に見えて狼狽えているし、今にも泣き出してしまいそうにも見えた。

 優花がそんな顔をすることはないのに、と。そんな想いを込めて、飛鳥は目線の下にある優花の頭を優しく叩いたが、優花は首を横に振った。


「違うわ」


 頭上にあった飛鳥の手を下ろさせて、優花が一度立ち上がる。スリッパを足から抜いて、寝台の上に膝立ちになった優花のことを、何をする気なのかと見つめていたら、その白い手が飛鳥にそっと伸ばされた。

 柔らかい髪が頬に触れて、甘い香りがする。


「私が、こうするの……」


 飛鳥の頭を抱きかかえた優花は、小さい子にするように優しくとんとん、と背中を叩いた。そんなことしなくても平気なのにと、飛鳥は笑ってしまう。

 だけど、何だか離れるのが勿体なかったので、しばらくそのまま大人しくしていた。




 少し時間が経って、こんな話よりも部屋を案内して欲しいと飛鳥が言えば、優花は少し躊躇って、そうして解ったわと頷いて立ち上がった。

 壁の片一面を埋め尽くす本棚と、そこに綺麗に並べられた多くの本。外国のものだという綺麗なオルゴールや水差し、国内のものならパズルのようになっている細工箱や優花の眼の色に似た硝子玉。綺麗なものが、それこそ次から次へと姿を見せる。兄に貰ったという件の鉱石ラジオは、音が小さすぎて何を言っているのか全然解らなかったけれど、雑音混じりに確かに意味を持った言葉のようなものが聞こえるのが興味深かった。

 ウォークインクローゼットは、つまりは洋服部屋ということらしい。一般家庭にはまずないだろうその部屋は、まるで未知の領域で、ちょっとしたデパートの展示場のようだった。優花の服らしいものは手前に集中していて、奥の方の洋服たちは優花には大きい上に長い間放っておかれている気配がした。

 あの服は何なのかと飛鳥が尋ねれば、優花は少し寂しく笑う。


「ここは元々、お母様の部屋だから……」


 洋服も、家具も、全て母のもの。けれどそれを、全部私にくれたのだと、優花は優しい眼差しでそう続けた。

 それならばつまり、奥にあるのが母の服で、手前が優花の服になるのだろう。しかし、同型の色違いが五着ほど並んでいたり、ピンクや白の同じような服ばかりが並んでいたりとよく解らない。洋服は全て父兄の贈り物とのことだが、どうにも過剰だ。優花に似合いそうなものから、誰が考えても似合いそうにないものまで様々に揃っている。それがあまりにもでたらめなので、洋服屋でもバイトをしている飛鳥としては言いたいことが色々ある。裕福であることとセンスというものは結び付かないものなのか、それとも棚一つとかそんな適当な買い方をしているのだろうか。

 そんな風に飛鳥が首を捻っている間に、優花は何やらワンピースのようなものを二枚持ってきた。同型の色違いで、ブルーグレーとホワイトベージュの二色がある。ひらひらと裾が長く、胴回りが随分と緩く見えた。


「何、それ?」

「私の寝間着よ」


 いつもは白い方、と笑った優花が、ひらひらとしたそれを体に当てる。袖口と衿周りには淡い色のフラワーレースがあしらわれていて可愛らしく、なるほど優花によく似合った。しかしブルーグレーの方はあまり似合わないのではないのかとぼんやり思ったら、優花がじっと飛鳥を見つめてくる。

 何事かと、飛鳥が目線を合わせれば、優花は嬉しそうに微笑んで口を開いた。


「お揃いにして、寝ませんか?」


 お願いがあるときに、敬語のようになるのは癖なのだろうか。小首を傾げたその姿と、期待に輝く眼差しが愛らし過ぎて胸が痛い。

 そんなひらひらのものを、と。思わないわけではなかったが、断ればその茶色い瞳が悲しそうに俯くのだろうかと思ったら、嫌だと言えなかった。

 少しだけ悩んで、飛鳥は結局いいよと頷く。それが飛鳥に似合っても似合わなくても、優花が嬉しそうに笑うのならそれでいい。

 しかし、次の言葉に、飛鳥は動揺した。


「じゃあ、そろそろお風呂に行きましょう?」


 動揺した自分に殺意に似た羞恥心を覚えつつ、表向きは何でもないように頷いたが、正直心の内は荒れ模様だ。どんな顔をすれば良いのか分からず、実に冷静な表情を意識してはいるつもりだが、正直狼狽え過ぎていて何が何だかという状態になっている。一緒に寝るのは想定内だが、お風呂のことなど正直考えていなかった。いや、考えなくはなかったが、意識しないように努めていた。

 手を引かれるままにクローゼットを出て、優花はタオルを確認しにお風呂場に向かう。飛鳥は持ってきた荷物を開けて下着を取り出しながら、タオルも寝間着もいらなかったなと、現実逃避にそんなことを思った。


「飛鳥」


 もう来て大丈夫よ、と。声をかけられて、飛鳥は風呂場に足を向ける。白いタオルと、折り畳まれたブルーグレーの寝間着とを、着替えを入れるらしい箱と共に渡されて、飛鳥はありがとうと礼の言葉を呟いた。

 動揺したまま服に手をかけて、そうしてもう、いっそ開き直る。昼間も思ったが、飛鳥は男ではないのだから、見られて直接的にまずいものはない。それより、このような変な気分でいて、うっかり醜態を晒す方が問題だ。飛鳥は何も考えず、さっさと服を脱ぐことにした。

 薄着だった飛鳥はすぐに下着だけになり、その下着にも手をかけたところでふと気付けば、優花は服のボタンに手をかけてもいない。自分だけ半裸の状態が何だか滑稽で、脱がないのかと問い掛けたら、優花は頬を赤らめて肩を跳ねさせた。飛鳥は、自らの内心の動揺は棚に上げて、それを笑う。


「別に、変なことなんてしないよ」

「……してもいいのよ?」


 真っ赤な顔で、この子は何を言うのだろう。

 少し余裕を取り戻したところにそんな不意打ちを返されて、飛鳥は吹き出した。幸いなことに、優花はからかわれたものだとばかりに思ってますます赤くなっているが、赤くなりたいのは飛鳥の方だ。


「先に入るね」


 家主に失礼かもしれないが、これ以上は耐えられないので、下着を脱いでさっさと浴室に足を踏み入れる。逃げ込むように曇り硝子のドアを閉めて、飛鳥はその場に座り込んだ。脈がおかしい。


(心臓、もたない……)


 もうのぼせたような気分になりつつ、飛鳥はシャワーの方に近寄った。まずは水を浴びたい。そうでもしないと、平常心で彼女を待てない。

 シャワー台は二つあって、曇りのない鏡がそれぞれの台の前に設置してある。そもそも綺麗で明るい浴室というだけでも飛鳥には初体験だが、それに加えて規格外に広く、一般的な浴室のイメージとは大きくかけ離れていた。化粧台の上にある方が似合うだろう綺麗な容器には、日本語でも英語でもない言語が金色や銀色の文字で表記されていて、何がシャンプーなのか、どの順番で使えば良いのか、さっぱり解らない。優花に聞けば解るのだろうが、何故か優花は中々浴室に入って来なかった。

 ひとまず、ボトルの並び順と液体の感じで、何となくそれらを使い分ける。もしかするとシャンプーで体を洗うような真似をしたかもしれないが、多分大丈夫だろう。特に違和感はなかった。飛鳥は泡を綺麗に洗い流して、五人で入って足を伸ばしてもぶつかりそうにないような大きさの浴槽に足を向けた。優花はまだ来ないのかと、さすがに訝しみながら入口のドアに意識を遣れば、かた、と開く音がする。

 一体何にそんなに時間がかかったのかと思いながら、飛鳥はそちらに目を向けて、そして、浴槽に沈みそうになった。

 別に、爛れた理由じゃない。むしろ、笑いが勝る脱力だ。


「何、てるてる坊主みたいになってんの……」


 タオルを体に巻き付けるくらいまでは予想の範囲内だが、あまりにもしっかり巻き付け過ぎだ。器用に腕まで中に入れているせいで、まさにてるてる坊主のような、非常に笑いを誘う姿になっている。小学校の頃、プールの時間の度に、器用な少女たちは確かにあんな感じにタオルを巻き付けて着替えていたし、親によってはゴムなどを取り付けて解けにくいような工夫を凝らしていた気がする。しかし、少なくともお風呂場でこれはない。

 あの、あの、と言い訳を考えているような優花は可愛かったが、どこからどう見てもてるてる坊主だ。どうしたって、色気の欠片も見当たらない。どきどきしながら優花を待っていた、数瞬前の己が馬鹿みたいだ。むしろ低俗すぎて憐れだ。

 飛鳥はため息をついて、意趣返しのために浴槽から上がった。優花が、すでに湯に浸かった後みたいな顔色になった挙げ句に、慌てたように目を逸らす。視線が実に解りやすく狼狽えているので、飛鳥はわざと眼前に立ってやった。


「その格好の理由は?」

「あの、だって……わ、私」


 優花の目線がうろうろと彷徨って、そうしててるてる坊主状態の自分の姿を映すように俯く。

 だって、ないんだもの、と。まあ確かにぺったんこな胸元に目を遣りながら、消え入りそうな声で呟いて、俯く優花は首まで赤い。


「……ないなら、余計恥ずかしがることないでしょ」

「えっ?」


 手を伸ばしてタオルに手をかけようとすれば、優花は慌てて身を引いた。優花の手はタオルの内側にすっぽりと入ってしまっているので、転んだら危ないだろうなと思いながら、やめる気はない飛鳥はもう一度手を伸ばす。


「へ、変なこと、しないって言ったわ」

「してもいいって言ったでしょ」


 さっきの言葉尻を捉えて意地悪く笑えば、言い返す言葉が浮かばなかったらしい優花が、でも、あれは、とおろおろした。あれは何なのと問い掛けながらさらに詰め寄れば、優花は位置を入れ替えながら慌ただしく後ずさる。浴槽の方に追い詰めながら、湯気で滑りやすくなっている足元のことを飛鳥は思った。いかにも優花が転びそうだ。

 そうして、予想した通りに足を滑らせた優花を、飛鳥は危なげなく支えてやる。優花は手が使えない状態なので、転べば本当に危ないのだ。そうしたら、優花が一瞬にして、もう何十分も湯に浸かったような顔色になった。


「……真っ赤」


 湯に浸かっていたのは飛鳥なのに、これではどちらがのぼせているのか解らない。小さく笑ってからかえば、はっと我に返った優花が抗議するように飛鳥を見上げてきた。

 言葉が出てこないらしい。潤んだ茶色い瞳を惑乱に煌めかせて、口を開けたり閉じたりする優花は可愛らしく、飛鳥はもう一度微笑んだ。


「何して欲しい?」


 そう悪戯めかして囁きながら顔を近付ければ、驚いたように仰け反った優花がもう一度足を滑らせて浴槽に尻餅をつく。派手な水飛沫が上がって、辺りに飛び散った。


「きゃんっ」


 途端、優花が仔犬のような声を出すので、飛鳥はついに声を出して笑ってしまう。そうしたら、優花が目尻が赤く染まった眼差しで見上げてきたので、これ以上からかうのは駄目かなと、のんびり思った。

 浴槽に浸かってしまった優花の肌に、水を吸ったタオルがぺたりと張り付いている。ざば、とお湯を滴らせながら優花が立ち上がり、浴槽から出ると、大分肌蹴た状態で張り付いてしまったタオルから少しだけ足が見えた。優花の体つきは本当に、どこもかしこも驚くほどに細い。


「本当、ないのね」


 そんなことを言いながら、飛鳥が平たい胸元に手を伸ばしたら、優花が飛び跳ねた。


「だっ……だから、だから……!」


 隠したのに!と、羞恥か憤怒が、あるいはその両方の感情を宿して輝く茶色い眼差しは愛らしい。

 ああ、からかうのはやめにしようと思ったばかりだったのに、と。苦笑しながら飛鳥は詫びた。


「ごめんごめん」


 怒らないで、と。精一杯真面目に懇願すれば、優花は本当に怒っている様子で飛鳥を睨む。けれど、恐らくは文句を言うために開かれた口は、結局何も言えないまま再び閉ざされた。


「そんな風に言われたら、怒れないわ……」


 ずるい、と。何だか悔しそうな優花が、そんなことを飛鳥に言ってくる。可愛らしい顔がそっぽを向くその様子は、幼く見えて愛らしかった。

 すでにすっかり濡れてしまった茶色い髪に触れながら、飛鳥は一つ提案する。


「怒らないでくれるなら、お詫びに髪の毛洗ってあげる」


 その途端、本当? と、優花が飛鳥を見上げてきた。そうして、思い出したようにむくれた顔になったが、一度嬉しそうにしてしまった顔は、どうしても不機嫌な顔にはならなかったようだ。しばらく変な沈黙が落ちて、中途半端に怒っていた優花の顔から、諦めたように力が抜ける。

 そうしてもう一度、ずるいわ、と呟いて、優花は笑った。



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