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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第二章
15/37

2-6

 台所は屋敷の西奥にあり、裏口とつながっていた。学校の教室よりも大きいその台所の西側には、半地下になっている食材庫が併設されている。

 その広々とした台所で、ひとまず無事に練習は終わった。はらわたを取り出す際の力加減に多少苦戦はしたが、まあ問題なく捌けるようになっただろうと飛鳥は思う。一匹目の際は、千切れたはらわたを手に半泣きだった優花も後半は、確かにややグロテスクな内蔵にも少しは慣れたようだった。残る問題は捌いた四匹の魚の始末だが、昼食夕食二回に分けて食べれば、まあなくなるだろう。用意してもらっていた昼食はサンドイッチがメインなので、いかにも和食な焼き魚は間違いなく合わないと思うが。

 魚が焼けたその時点で、すでに昼ご飯時は大分過ぎていた。昼食一式を、東寄りの扉から食堂に運び出そうとし始めた優花を引き止めて、台所のすぐ隣にある割合控えめな大きさの部屋での食事を提案する。


「こっちでいいんじゃない?」


 そう言いながら、台所の西側の扉を開けた。少しだけ傾いた気配のする光が差し込む、明るい部屋が広がっている。

 台所に向かったときは、手洗いの案内も兼ねて、和室と収納庫を一つ通り抜けてきた。それは食堂の外側をぐるりと迂回する格好になっていたのだが、それだけでかなりの距離があった。どこが何の部屋なのか説明しながら案内してくれた優花によれば、広々とした玄関ホールの前面のドア四つの内、三つのドアが食堂のドアだという。つまりは玄関ホールの四分の三ほどが食堂の横幅、細長かった収納庫が縦幅という計算だ。二人しかいないのに、何故そんなにも常識はずれて広々とした場所で食事をとらなければならないのか。手にしていたサンドイッチの皿を、家主の許可なくその小部屋の机の上に置きながら、飛鳥は改めてそう思った。

 台所のドアは、全部で六つ。裏口のドア、半地下になっている倉庫に下りる階段に続くドア、食堂に続くドアと収納庫に続くドア、屋敷の東側に抜ける廊下に続くドア。そして収納庫の西側、屋敷の西端に面した場所にある、割合控えめな大きさの部屋に続くドアだ。その部屋は使用人の食事用なのだろう、清潔で、机も椅子も窓もある。もちろんそこでさえ、二人で使うには十分過ぎるほどに広かったが。

 そもそも、自宅に食堂とは何事かと飛鳥は思うが、いらぬことを口走って優花を落ち込ませることになっては不本意なので、その辺りの言葉は全て飲み込む。どう?と改めて尋ねれば、飲食は食堂で、と躾られているのだろうか、優花が逡巡する。


「でも……怒られてしまうかも」

「十五時までは、平気なんでしょ?」


 それまでに片付けまで終えてしまえば大丈夫だと、飛鳥はそう言って唆した。夕食時は行儀良く食堂でとることを了解した上で、もう一度昼食はここがいいと希望すれば、優花は少し考える素振りを見せる。

 そうしてほどなくして、うん、と少し遠慮がちに頷いた。


「蔦枝さんたちには、絶対に内緒ね」


 念を押して、そして笑う優花の眼差しは、躊躇っていた割には随分と楽しげに明るい色を滲ませている。飛鳥は、小さな違和感に瞬いた。

 飛鳥のそんな引っ掛かりに気付いたのか、優花は、あ、という顔をする。少し恥ずかしそうに眼差しを伏せて、それこそ十五時になるまでは誰に聞かれる心配もないだろうに、何故か耳打ちをしてきた。優花は次子とは違い、決して小さいという訳ではないが、飛鳥の背が大分高いので、結局背伸びをするような格好になる。


「食堂はね……すごく、ご飯が美味しくなくなるようなお部屋なの」

「……食堂なのに?」

「ええ」


 すごいのよ、と。背伸びをしながら、あまりにも深刻な顔をしてよく解らないことを言うその姿が、大切な秘密を打ち明けようとする小さな子供のように見えて、飛鳥は軽く吹き出した。信じていないと思ったのか、本当なのよ、と優花がさらに真面目に言ってくるので、軽口を返す。


「じゃあ、夕ご飯は不味いのを覚悟しておいた方がいいの?」

「私は飛鳥と一緒だから、美味しく頂けるわ」


 はっきりとそう言い切ってから、でも飛鳥はどうかしらと、優花は不安そうに呟いて首を傾げた。

 言われた言葉に驚いてしまっていた飛鳥はため息をついて、その不安を浮かべた困り顔を突つく。驚いたのだろうか、きゃ、と短い声がした。

 突つかれた額を押さえた優花が、どういうことか解らず、疑問符だらけになっている。飛鳥はあえて言いたいとは思わなかったが、そんな優花を見兼ねて渋々口を開いた。


「……あたしだって、優花と一緒なら、美味しいと思うに決まってるでしょ」


 余計な心配は良いから、まずは昼ご飯よと言い捨てて、飛鳥はさっさと配膳を始める。恥ずかしくて顔が上げられない。やっぱり言わなければよかった。

 己の言葉を反芻して、顔を引っ叩きたいような水を被りたいような気持ちになる。とにかく配膳を終わらせて、さっさと食事に持ち込もうと動いていたら、白い手が伸びてきて飛鳥を抱きしめた。騒いだ心臓に気付かない振りをしつつ、ちょっと、と冷静に咎めようとしたら、下を向いているため表情の窺えない優花が、囁くような掠れ声で叫んだ。


「好き……!」


 何の捻りもない、そんな一言に、脱力しかけた体が意に反して緊張した。

 目の前がぼやけるような熱が、頭の中に雪崩込む。一瞬で体中に渦巻いた甘いものに、惑わされて目眩がした。危険な感じのする熱に自分で慌てていたら、飛鳥、と。この上なく柔らかい声で名前を呼ばれて、また心臓部がおかしな音を奏でてしまう。まずい。


「そういうのは、後で!」


 十五時になっちゃうでしょ、と告げれば、はっと我に還ったような優花が背筋を正した。ごめんなさい、と真っ赤な顔で早口に言って、残りの料理のお皿を取りに台所に姿を消す。飛鳥はその背を見送って、そして一番近くにあった椅子に崩れ落ちるようにして座り込んだ。


「……後で、って何よ……」


 己の発した言葉を振り返って、あの一瞬に頭に雪崩込んだ熱を思い返して、飛鳥は今なら真冬の池に飛び込めると思った。この動悸が治まってくれるなら、心臓麻痺でも何でも良い。

 後で自分は何をする気だったんだと考えて、すぐに考えるのを止めて、飛鳥はそっと頭を抱えた。

 まだしも、身体が男のそれじゃなくて良かった、と。胸元から足先までびりびりと熱を持つ身体の芯を恨めしく思いながら、飛鳥は机に顔を伏せて優花の足音を待った。


(性欲なんて滅びれば良い)





 昼食を終えて、食器を片付けて、洗い物まで済ませようとしていたら、タイムリミットらしく数人の女性がどこからか現れた。本当は台所を綺麗にしておきたかったのだが、気にせず遊んでいらっしゃいませと追い出されたので諦める。女性たちの年齢はまちまちだったが、還暦も過ぎていそうな老女が一番に手強そうだったので、多分彼女が蔦枝さんだろうと飛鳥は思った。

 台所を追い出されて、それから、優花がこの広々とした家の中を改めて案内してくれた。足音を立てないように気を遣う様子を見せながらも、飛鳥を先導する優花はとてもはしゃいだ様子で、色々な部屋を紹介してはよく笑う。

 書斎だとか、応接間だとか。一般家庭には有り得ないような部屋が当たり前のように存在しているところはさすがにお嬢様がお住まいの豪邸で、飛鳥は一日で全ての間取りを覚えるのは無理そうだと悟った。案内表示がある分だけ、学校の方がまだ親切だ。取り敢えず、みっともない質問をしないで済むよう、複数あるお手洗いの位置だけはしっかりと頭に叩き込む。

 どの部屋にも、本が多い。書斎そのものも複数あるようだが、書斎でない部屋にも必ず一つは本棚があった。


「すっごい本ね……」

「お父様が集めているの」


 部屋によって、本の種類が違うのよ。優花が笑って、本を一つ取り出してくれる。古びてはいるが綺麗に保管されているそれは外国の詩集で、有名なものだった。小学校・中学校時代は図書館で時間を潰し、今は高校の図書館棟に入り浸っている飛鳥もそれなりに読書家なので、版は違うが目を通したことはある本だ。本棚をざっと見る限り、ここは翻訳書の部屋らしい。


「下手な図書館よりたくさんありそうね」

「読みたいものがあれば、言ってね」


 好きに読んでいいわ、と笑う優花の眼差しは生き生きとしていて、本への愛情に満ちている。優花はこの本の山をまさか全て読んだのだろうかと、そんなことを考えていたら、あ、と。優花が思い出したように声を漏らした。


「でも、私が入っちゃいけない部屋は、案内できないの」

「入っちゃいけない部屋?」

「ここの本は駄目って、お兄様たちに言われている部屋があるの」


 だから、そこは駄目なのよと、真面目な顔で優花は言う。飛鳥はその部屋の本の内容が非常に気になってしまったが、優花が真面目な顔をしているので解ったと頷いておく。笑ってしまったのがいけなかったのか、本当に駄目なのよ、と優花が念を押してきたので、はいはいともう一度頷いた。ちゃんと大人しくする意思表示として、すぐ後ろにあった深緑色のソファーに腰を下ろす。ふわりと柔らかくて、この椅子の上ならば長時間読書をしても体が痛くなることはなさそうだった。

 そんな飛鳥の隣に座って、約束よ、と愛らしく小首を傾げた優花が、天井を見上げて口を開く。


「譲お兄様のお部屋にも、たくさん本があるのよ。星の本とか、英語で書かれた本とか」

「二階はお兄さんの部屋なの?」


 目線を追ってそう尋ねれば、そうよ、と優花は柔らかく頷いた。二階はね、と。頭上の天井の大まかな位置を指差しながら、間取りを説明してくれる。


「西側が、お兄様たちのお部屋と、お兄様たちが共有している書斎。東側はお父様のお部屋と、お父様の書斎と……色々。あと、北側にはバルコニーがあるわ」


 聞きなれない単語、というよりも、本当にお姫様のお城にありそうなものの存在にくすりと笑えば、優花は飛鳥が興味を示したと思ったらしく、あのね、と笑って言葉を続けた。


「夜は、星が綺麗に見えるの。……でも、私が一人でお留守番の時は、鍵がかけられていて出られないの」

「留守番って……夜も、一人ってこと?」


 家人がいないことは既に何となく察しがついていたが、その状況が夜になっても変わらないのだとは思わなかった。使用人は何人か残るのだろうとは思いながらもそう尋ねれば、優花は一つ頷いて、記憶を辿るように宙に視線を送る。


「お父様は、今月はもうお帰りになれないし、総一郎お兄様は出張から明日お戻りになる予定だし、譲お兄様も大学の研究で、明日の晩までお帰りになれないから……」


 そのように確認して、やっぱり今夜はちょっと駄目だわ、と。そう申し訳なさそうに呟くので、別にいいよと飛鳥は笑った。慣れてくれば、優花の家は興味深いものが色々あって普通に面白いが、いかんせん色々有り過ぎて、全てを一日で消化するのは不可能だ。だから、優花がそれを説明してくれるだけで十分に楽しい。

 そんな飛鳥の思いが、どうも伝わっているように見えない優花が、ええと、と話題を探して考え込む。


「譲お兄様は理科がお好きで……面白いものを、私に分けてくれることもあるわ」


 鉱石ラジオ、ゲルマニウムラジオ、クリスタルイヤホン。優花は、自分が目にした面白そうなものの名前を、指折り数えながら羅列していく。その中に、気になりながらも買おうとまでは思えなかったものがあったので、へえ、と飛鳥は思った。


「鉱石ラジオ、見てみたい」

「一つ、私のお部屋にあるわ!」


 嬉しそうにそう言って、優花はじっと飛鳥の様子を窺っている。楽しいと思ってくれているか、喜んでいてくれているか。多分優花はずっと、それだけを気にしている。

 別に、そんなに意識して頑張ってくれなくても飛鳥は楽しいのだけれど、一生懸命な姿がどうしようもなく可愛いので、頑張らなくて良いよとは言えなかった。


「じゃあ、後で見せて」


 変わりにそう言って笑えば、一生懸命だった優花の表情がぱっと明るくなる。

 そうして、少し躊躇う素振りの後に、甘えるようにくっついてきたので、飛鳥は少しどぎまぎした。あのね、と囁く優花に、何?と尋ね返したら、優花は飴色の瞳を少し不安に染めながら首を傾げた。


「今なら、数学、教えてくれる……?」


 まだ気にしていたのかと、申し訳ない気持ちが込み上げるのと同時に、もしかしたら彼女は本当に数学が苦手なのだろうかと思ったら、何だか可笑しくなってしまった。

 甘いばかりの思いが、自然と胸に込み上げる。可愛い、可愛い、綺麗な人。


「いいよ」


 そう短く答えて、飛鳥は首を傾けて茶色い髪に頬を擦り寄せる。少しくすぐったくて、甘い香りがした。


「その代わり、国語教えてね」


 古文が嫌いなのよと、冗談めかしてそう言えば、もちろんいいわと答えた優花が茶色い瞳を輝かせて笑う。私、古文は得意なのよ、と。良い出来事を報告するときのように、きりっとした明るい顔を向けてくるので、知ってるよと言って頭を撫でた。

 ふと顔を上げれば、本の保存のためだろうか、申し訳程度の窓から差し込む光はいつのまにかもう随分と傾いていて、オレンジ色よりも夜の色の方が濃いくらいだ。白っぽい電燈によって部屋の中は均等な明かりが保たれていたために意識していなかったが、この書斎だけで随分と長い時間を過ごしてしまったようだ。

 ぼんやりと、どうしてこんなに早く時間が過ぎるのだろうと思っていたら、同じように窓の色に気付いたらしい優花が何か大事なことを思い出したように素早く身を起こした。部屋の奥の壁上部に取り付けられた時計を見て、目を見開いた。


「大変」


 短くそう呟いて、優花は飛鳥に向き直る。何かとても焦っている様子なので、飛鳥は何事かと首を傾げた。

 そうして、その理由が優花の口から発せられるよりも先に書斎のドアが開いて、驚いた飛鳥は身を固くする。それと同時に、優花の背筋が緊張にぴんと伸びたので、何だか二人して奇妙なポーズになってしまった。

 こんな所にいらっしゃったのですか、と。それはそれは張りのある声で呟いた老女が、唐突に開かれた書斎のドアの前で眉間にしわを寄せている。老女はそのまま、渋い顔で、時計を指差した。


「お食事の時間を過ぎていますよ」

「はい、今行きます」


 まるで教師にするように、優花は敬語になっている。時間にはいつでもお気を付けるようになさいませ、と。厳しい顔で言葉を続けて扉を開け支える老女の堂々たる姿に、やはり間違いなく苦手なタイプだと飛鳥は思った。学校の教師よりもよほど厳しそうだ。このピアスを見咎められた日には出入り禁止にされるのではないかと、高校初日にも感じなかった緊張が胸に去来して、飛鳥の背は自然と伸びた。

 けれど、すれ違う時に頭を下げたら、老女が笑っていることに気付いた。


「……楽しいのは、解りますけれど」


 時間は守っていただかなくては、と。すぐに顔を引き締める老女の声に、二人して姿勢を正しながら食堂へと急ぐ。優花の姿勢は特に美しく、速足のはずなのに足音もなく優雅だった。同じく足音を立てていないのに、優花よりも速足の老女は二人を追い抜かし様に、くれぐれも走ってはいけませんよ、と厳しい声を出した。抜かしてどうする気なのだろうと訝しむ飛鳥の目の前で、老女は食堂の扉を開け支えて二人を招き入れてくれる。そして礼を言う間もなく、今お出ししますからね、と言い残して奥の台所と繋がっている扉の中に姿を消した。

 実によく動く、健康な老女だ。あまりにもよく働くその様子に、飛鳥は苦手意識を通り越して、何だか笑ってしまった。

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