【幕間】譲
譲の妹は、とても大人しい少女だった。我が儘を言ったこともなければ、望みを口にしたこともない。家に引き取られてきたその日から、ずっとそうだった。
だから、望みと呼ぶにはあまりにささやかなことだけれど、友達を家に呼びたいのだと初めて言い出したときには、譲は正直なところ驚いた。
「いつもの二人は休み?」
車を運転しながら、助手席に座る妹に話し掛ける。大学に入って最初の夏に運転免許を取得し、慣れるまでは運転中は口も利けずにいたが、今はもうすっかり慣れた。それでも優花を乗せている以上、安全運転を意識しない訳にはいかないが。
譲の問いに頷いて、心配そうに眉を曇らせている優花はとても良い子だ。友達と遊びたいだとか、そんなことを決して言ったことのなかった優花だけれど、それでも仲の良い子はいるようだったから、そうした意味で心配をしたことはない。
けれど初めて、まるで悪いことだと誤解しているかのように臆病な様子で、家に呼びたい人がいるのだと譲に告げた優花の挙げた名前は、少し意外なものだった。
「吉野さん、だっけ」
目線は前方に向けたまま問いかければ、その名前だけでうっすらと微笑んだ優花が頷くのが視界の端に映る。軽く横目に見遣れば、随分と幸せそうな顔をしていて、譲は少し面食らってしまった。短期間で、よくもこうまで仲良くなったものだ。
譲が彼女のことを知ったのは半年ほど前の秋の日のことで、それより前から仲が良かったとしても一年に満たない付き合いだろう。外見からはそんなに気が合うようには見えなかったけれどと思いつつ、優花に続けて声をかける。
「家に呼びたいなんて、よっぽど仲良くなったんだね」
家に、というところで、迷惑をかけてしまったと思ったのか、優花が声を沈ませてごめんなさいと呟く。迷惑ではないし、むしろ譲としては誰かが優花と一緒にいてくれた方が有り難い。
「優花が一人で家にいるより、俺は安心だよ」
仕事ばかりで父はあまり帰ってこないし、すでに父を手伝っている兄は今海外に出張している。譲だって、大学に入ってから急に仕事を教え込まれ始めて、学業との両立で一杯一杯だ。水曜日しか送迎はできないし、お手伝いさんはいるにはいるが通いで食事と掃除くらいしか頼んでいないから、どうしたって優花を一人にする時間が長い。だから、仲の良い友人が優花の傍にいるというなら、譲はその方がよかった。
優花は、何も言わずに静かにしている。また余計な気を遣わせてしまったかと譲は心配になったけれど、少ししてから、ひそやかに柔らかい声がか細く呟く言葉が聞こえた。
「好きなの」
丁度よく赤信号で停車したので、譲は優花の方に顔を向ける。眩しいくらいの夕日が差し込んでいる車内はオレンジ色で、優花の茶色い髪はとても明るい色に透き通っていた。
優しい輝きを持つ瞳を微笑ませて、優花はもう一度繰り返す。
「とっても、好きなの……」
譲は、優花の声が好きだった。いつでも優しく柔らかく、譲の心を穏やかにする。
譲は、妹を可愛いと思っている。父がしたことは、酷いことだったとも思っている。母の寿命がもうないことを知っていて、それでも母を慰めるためにこの子を引き取ったということを、譲は知っていた。
譲も母を亡くしてとても悲しかったけれど、棺に縋って泣いた小さな優花がどれほど悲しかったのかは、今でも解らないままだ。
「……そっか」
だから、優花が幸せそうでよかったと、譲は思う。
母が亡くなったその時から、優花は悲しみのあまりか上手く眠れなくなってしまった。そんな優花に気付いたのは譲だったけれど、病院に連れていったのは譲の兄で、その後定期的に医者を家に呼んでいるのは父だ。呼びたい人がいるのだと、優花が打ち明けてくれたのは譲だったけれど、申し訳なさそうに顔を曇らせる優花を微笑ませる術が譲には解らなかった。
だけど、だから、優花が幸せそうでよかったと、そう思う。
「よかったね、優花」
譲は、優花の救いには、きっとなれない。
でも、優花が幸せなら良いと、願っている。




