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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第二章
12/37

2-4

 何となく離れがたく、表に出ても手は繋いだままだったので、人との接触自体に耐性のない飛鳥は気恥ずかしさを拭えない。けれど、優花がそれはもう可愛い顔で飛鳥を見つめて微笑むので、今更その手を解くことなんてできなかった。

 真っ直ぐ帰宅する生徒にとっては遅く、部活を行っている生徒にとっては早い半端な時間に、しかもバスではなく徒歩で帰るとなると、通学路と謂えども同年代の人影などほとんど視界に入らない。むしろ、歩道に沿って図書館と並んでいる小さな公園で遊ぶ子供たちの姿の方が目立つくらいだ。

 立夏も過ぎて、日は大分長くなっている。まだ沈み切るには時間がかかりそうな、それでもオレンジの気配を纏い始めたような陽光の気配を感じながら、並んで歩いた。


「二人だけって、久し振りね」


 そう笑う優花に、そうねと飛鳥は頷いた。以前、二人だけで歩いた時のことを思い返して、飛鳥は苦笑しながら次の言葉を続けた。


「あの時は、こんな風にのんびり歩けなかったしね」


 集団生活を送りながら、二人きりの時間を取ることは案外難しい。前回の二人きりは――優花を泣かせてしまった、あの日の夕方だ。

 何とか泣き止んだものの、その時にはすっかり日が暮れてしまっていて。暗くて道が解らない、こんな顔で帰れない、と。半泣きのまま、再度涙を零しそうになっていた優花の手を引いて、飛鳥が最寄りの駅まで連れて行ったのだった。

 一通り思い出したのか、優花が今度は赤面している。飛鳥がそれを笑えば、恥らった顔のまま咎めるように手をきつく握り締めてきたので、それ以上のからかいの言葉は向けず宥めるように握り返した。


「いつもは四人だしね」


 当たり障りのない言葉を向けつつ、飛鳥は意識して、少しだけゆっくりと歩を進める。飛鳥の中の冷めた部分が、馬鹿みたいだと嘲笑する声が聞こえたが、好きに言わせておくことにした。飛鳥は多分、今、とても幸せだ。

 二人でいることを幸せと思うほど、何故いつも四人行動なのかと嘆きたくもなるが、あの二人に何と言えば済むことなのかは検討もつかない。特に次子の反応なんて想像することすら面倒で、飛鳥は小さくため息をついた。

 そうこうしている内に、つないだままの優花の手が緊張を纏ったので、ため息が聞こえてしまったかともう片手で口を抑える。聞こえたため息を、何か悪い方に解釈してしまっただろうかと飛鳥は心配したが、しかしそれはどうやら違ったらしい。

 風邪の具合は心配だけれど、と。優花がぎこちなく前置きをして、飛鳥の手をしっかりと握り締めてきた。


「二人でいられるのは……嬉しい、わ」


 そう呟いて、恥じ入るように優花は俯く。ごめんなさいと、ここにいない二人に告げているのか飛鳥に向けているのかよく解らない謝罪を囁く声を聞きながら、飛鳥はあまりの心地良さに眩暈がした。

 優花といると、今まで抱いたこともないような感情ばかりが容易く溢れてしまう。少なくとも道端では曝せないような醜態を曝しかねない己を律して、飛鳥は平常心を装った。


「あたしだけじゃ、会話が弾まなくて申し訳ないけどね」

「そんなこと!」


 照れ隠しの一言に、即座に反応した優花が顔を上げる。飛鳥が話さないなら私が頑張ってお話するわと、何故か一生懸命に告げる優花は小さな子供のようで、飛鳥を一途に見つめる瞳はきらきらと愛らしい。細い茶色の髪は夕日に透き通って、赤いリボンとの境界を曖昧に滲ませていた。

 心臓がまた平静を保てなくなってきたので、飛鳥は誤魔化すように優花の手を引き、再び歩き出す。そんな飛鳥とは反対に、すっかり落ち着いたらしい優花が、優しい綺麗な声を飛鳥に向けた。


「私の家で、お魚捌くの教えてもらって……そのまま、泊まって行かないかしら? って、思ったの」


 どうかしら、と。やはりまだ少し緊張しているような優花が、ことりと首を傾げながら飛鳥に問い掛ける。

 優花の家と聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、飛鳥が足を踏み入れてはいけないような豪邸だった。己のその貧困な想像だけで飛鳥は少し愉快になってしまったが、優花がとても真剣なので、笑ったりはせずに考えた。

 足を踏み入れては、いけないのではないかと。そう思ったけれど、そんなことを思っていると知れたなら、きっと優花は悲しい目をして否定をするのだろう。その姿がいとも容易く目に浮かんだので、飛鳥は臆する感情を綺麗に隠して頷いた。


「うん。行くよ」


 ぱあっ、と。優花の顔が輝く。その眼差しが、本当に本当なのかと、子供のように念を押して来るので、視線を合わせて笑いながら頷いた。あまりにも簡単に笑ってくれる優花のその様子を見ていると、飛鳥は嬉しくなってしまう。飛鳥が笑うだけで、同じように笑ってくれるのならば、飛鳥だっていくらでも努力できると思った。

 土曜日は午後から、日曜日はほぼ終日、いつもならバイトを入れている。次の土曜日は学校の記念日で休日となっているため、一日バイトを入れるつもりだったが、何とか休ませてもらおうと心に決めた。日曜日は、掛け合えば午前中くらい休みにしてもらえるだろうと、頭の中で算段を付ける。

 そうして、そんなことを考えていたせいか、次の話題への対応が少し遅れてしまった。


「飛鳥のご両親は許してくれるかしら?」


 もっと早く誘えたら良かったのだけど、と。そんなことを言われたときに、きっと飛鳥は、隠しきれなかった感情を見せてしまった。

 すぐにしまったと思っても後の祭りで、何か違和感に気付いたらしい優花が、じっと飛鳥を見つめている。失敗したという気持ちが、苦い感情と混ざって胸に渦巻いた。

 両親。父親と、母親。――さあどうしたものかと、飛鳥は重い気持ちになったが、気遣うような視線がずっと向けられているので、取り敢えず優花を宥めなくてはと顔を上げる。

 そうして、それと同時に、優花にぎゅっと手を握り締められた。


「飛鳥」


 名前を呼んで、首を傾げて。優しい優しい心配そうな眼差しで見つめてくる優花を見ていると、誤魔化す気がなくなってしまう。聡い、賢い、優しい瞳。

 心に灯った苦いものが、いとも容易く溶けてしまう。


「……大丈夫」


 聞いてくるね。そう答えると、気遣う色は消えないまま、それでも少し笑ってくれた。

 飛鳥だって、優花のために頑張りたい。本当に、本当に、そう思う。


「大丈夫だよ、優花」


 そう繰り返して無理矢理に納得させる。優花はまだ何か言いたそうだったけれど、もう駅が見えてきたので時間切れだ。小一時間の道程も、二人で歩けば驚くほどに短い。

 駅まで歩き、飛鳥はいつもそこで下りの電車に乗る。次子と有住は上りの電車、本来なら優花も二人と同じ電車に乗るが、日によっては車で帰ることもあった。いつも決まった日と言うわけではない様子だが、水曜日は必ず車で迎えが来る日だったので、待ち合わせの時間よりも早く着くように学校を出たはずだった。しかしすでに迎えは来ていたようで、優花が焦ったように目を瞬く。


「譲お兄様」

「お帰り、優花」


 そう言って笑うのは、優花の下の兄で、去年の秋、優花を大泣きさせてしまったあの日も、駅に彼が迎えに来ていた。後から聞いたところによれば、待ち合わせの時間を過ぎても中々来ない妹を心配して、危うく交番に駆け込む所だったらしい。

 黒い髪に黒い瞳、賢く優しげな顔をしていて、身長は多分有住と同じくらいだろう。


「遅くなってごめんなさい」


 遅刻してしまったかしらと呟いた優花が、駅前に備え付けの時計で時間を確認する。一度心配をかけてしまった負い目があるためか、優花は少し狼狽えていた。


「いや、ちょっと早く着いたんだよ」


 大学が早く終わったから、と笑った優花の兄は、その笑顔のまま飛鳥に会釈する。優花を連れて駅まで早足に歩いたあの日は、状況が状況だったためか、それとも妹の友人としては見たことがなかったタイプだろう飛鳥の見た目のためか、少々面喰ったような顔をされた。しかし、顔の腫れも気にしてのことだったのだが、飛鳥の背に半ば隠れながらぴったりと身を寄せて懐いている様子の優花の姿に、警戒を解いてくれたらしい。それ以来、飛鳥は特に不審がられることもなく、妹の新しい友人として認識されている。

 それでも特に話し掛けられるようなことはなかったのだが、今日は珍しく、声を掛けられた。


「泊まりに来てくれるって?」


 飛鳥に向けながらも、半分は優花に問い掛けるような声音で、そんなことを問う。さっき持ち掛けられたばかりの話題に飛鳥が目を瞬けば、お兄様、と慌てたような優花の声が聞こえてきた。


「まだ今日、お誘いしたばかりよ」


 飛鳥と兄に交互に目を向けながら、優花は少し慌てている。それはまるで秘密を知られてしまった幼子のようで、いつもより幾分か稚い表情が可愛らしかった。


「何だ、そうなのか」


 もうとっくに誘っていたものだとばかり、と。優花の兄は、意外そうに呟く。優花が随分と長い間、どう誘うか悩んでいたらしいことを知った飛鳥は吹き出しそうになったが、優花の顔色がただでさえ赤くなっているので咳をする振りで誤魔化した。

 そんな二人の様子を、優花の兄は可笑しそうに見つめている。顔を上げようとしない優花から飛鳥に視線を移して、口を開いた。


「もう父には言っておいたので、いつでもどうぞ」


 その言葉に、ぱっと顔を上げた優花を見てもう一度意外そうに瞬いた優花の兄は、許可してくれたよと安心させるように告げて笑う。喜びに瞳を輝かせた優花を見て、嬉しそうにしているこの人は多分とても優しい。


「じゃあ、帰るよ」


 普段ならば一緒にいる次子と有住の姿がないのを心配してくれたのか、よければ送ろうかと言ってくれた優花の兄に、反対方向なので、と失礼でない程度に短く断りを入れる。

 反対方向は嘘ではないが、家を見られたくないというのが一番の理由だ。けれど、そこまでは口にしなかった。


「飛鳥」


 車の扉を開けようとしていた優花が、振り向いて笑う。さっきの飛鳥の態度を気にしているのだろうか、その眼差しはいつもに増して優しく甘い。


「また、明日ね」


 優しさも、甘いものも、飛鳥はずっと苦手だった。今もまだ、苦手なことには違いがない。けれど、優花を見ていると、どんなに苦手でも心が騒いでも、触れていたいとそう思う。

 もう一度手を伸ばしたくなる気持ちを抑えて、拳を緩く握り締める。また明日、と。呟き返して、優花の乗った車を見送った。

 ゆっくりと遠ざかっていく車の影が見えなくなってから、ようやく改札をくぐって駅に入った飛鳥は、丁度ホームに入って来ようとしているらしい電車を待ちながらため息をついた。


「……家族の許可、ね」


 家族という言葉に、苦痛しか感じなくなったのはいつだったかと考えて、考えるのが嫌になって早々に思考を放棄する。苦い記憶しか蘇らないことに辟易して、その記憶を振り払うように小走りに電車に乗り込んだ。

 飛鳥はそもそも、物心着いたときから、父というものを見た記憶そのものがあまりない。確かに母と婚姻関係にある父がいるのは事実のはずなのだが、とにかく父は母の元に帰ってくるということがほとんどなかった。そして帰って来たら帰って来たで、必ず母との言い争いで夜が明けるので、いっそ一生帰って来てくれない方がマシだと飛鳥は思っている。父がいなければ母は大人しいが、帰って来るなり別人のようにヒステリックになる。

 泣いても喚いても、手に入るものなんてない。それを理解するまで、飛鳥は自分が泣いていたのかをもう忘れてしまったけれど。少なくとも今はもう、飛鳥は手に入らないもののために泣きたくなんてなかった。

 授業のノートを無心に見直し続け、四十五分くらいで到着した、灰色の小さな駅で電車を降りる。家に帰りたくないのはいつものことだったけれど、高校に入ってからはちゃんと毎日家に帰っている。けれど、友達の家に泊まりに行きたい、なんて。そんな白々しいことを、今更どんな顔をして言えるのだろう。

 駅を出ても、町並みは灰色で、駅から少し離れればすぐに砂利道になり歩きづらい。飛鳥は白く乾いた石を一つ蹴飛ばして、古びた木造アパートまでの道を陰欝な気持ちで歩いた。


「……ただいま」


 呟いても、返事なんてあるはずがないことを知っている飛鳥の声はささやかで、自分の鼓膜を僅かに震わせる程度でしかない。こうした呟きに言葉が返ってきたことはないが、飛鳥は何となく、家に帰るときは自然とこう呟いてしまう。きしむ廊下に不快感を覚えながら、居間か台所にいるだろう母親のもとへ飛鳥は歩いた。

 この人と飛鳥が、普通に会話をしていた時代もあったのだろうかと記憶を探ろうとして、早々に諦める。記憶が見つからなければ惨めだし、もし見つかっても虚しいだけだ。

 ずっと昔の記憶の中にも、優しく笑う優花がいればよかったのにと考えて、あまりに馬鹿げた思考に苦笑してから、飛鳥は居間に続くドアを開けた。



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