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Fly me to the moon  作者: 月城砂雪
第二章
10/37

2-2

 昼食を共にするようになってから、飛鳥は別に知らなくてもいいようなことを色々と知ることになった。

 お嬢様と、取り巻き二人。いつも一緒にいるようだったこの三人は、全員が同じクラスではないということを、まず知った。優花と小柄な少女だけが同じで、眼鏡の少女はその隣のクラスらしい。昼食は元々三人で取っていたのだろうとも飛鳥は思っていたのだが、それも決して毎日のことではなく、毎日一緒に取ることになったのは飛鳥が加わってからのことらしい。


(だからって、あたしがそれに付き合わなきゃいけないってこともないんだけど)


 しかし優花が飛鳥の席を訪ねる形式では、クラスが騒然として鬱陶しくなるのは身を持って知っていたし、小柄な少女の視線もさらに面倒なものになる。だから、飛鳥は諦めて、昼休みだけは自分から優花のクラスまで出向くことにした。

 そんな状況になっても、飛鳥は人との間に壁を作ることを怠らなかったが、それも今となっては何となく微笑ましい目で見られているような気がする。非常に不本意なのだが、優花の前でどんな顔をしているかの自覚は多少あるので、やむを得ない。

 あまりに毎日一緒に食事をするものだから、いつでも攻撃的な小柄な少女の名前も、悩みのなさそうな眼鏡の少女の名前も、気がつけば覚えてしまっていた。飛鳥は名前を聞かなかったし、向こうもあえては名乗らなかったのだが、季節が冬に差し掛かった頃に、偶々彼女たちの名前を知る機会が訪れてしまった。

 昼休みは、いつも同じ席順で、四人が向かい合うように座っている。飛鳥から見て正面が眼鏡の少女、右側が優花、そして左側が小柄な少女で、その日の日直だったらしい彼女はその時せっせと日誌を書いていた。その様子に、そんなに忙しいなら無理して昼休みを一緒に過ごすこともないだろうにと眼差しを向けた飛鳥の目に、日誌に記入されていた彼女の名前が映ったのだ。

 それが少し珍しい名前だったので、飛鳥は何気なくこう呟いた。


「あんた、次女なのね」


 九条次子、と。気の強い彼女らしい尖った文字を見ながらそう呟いたのは、飛鳥にしては珍しく何の他意もない一言だった。しかし、小柄な少女が日誌を書く手を止め、眼鏡の少女が息を呑み、優花が目に見えて動揺したのを見る限り、飛鳥はどうやら地雷を踏んだらしい。

 太陽がほぼ真上にある今の時間帯は、教室に差し込む光はそれほど多くない。けれど、白熱灯に真上から照らされた教室はいつだって一定に明るい。しかし、俯いている小柄な少女には、何故か暗い影がかかっているように見えた。


「……次女でしょ?」


 妙な空気に不可解なものを感じつつ、そう呟く。次子という名前で次女ではないというならなんなのかと、ただそう疑問に感じただけなのだが、小柄な少女は、きっ、と苛烈な眼差しで飛鳥を睨み上げた。何故か泣きそうになっているその顔に、飛鳥は面食らう。


「そうよ!」


 怒気を含んだ肯定に続けて、姉さん一子よ何か文句ある! と。自棄を起こしたような声で叫ばれた。あ、あ、と。眼鏡の少女が隅っこで狼狽えている。

 姉が一子で、妹が次子。なるほど、とても解りやすい。

 しかしその名前がコンプレックスだったのだろう、いつもとはまた違った様子で、癇癪を起した子供のような次子の顔を見て、飛鳥は笑ってしまう。


「何、じゃあ、長男は太郎?」

「長太郎よ!」


 冗談混じりに言った軽口にさえ真面目に反応して怒り狂う次子の姿と、同じく解りやすい長男の名前の破壊力に、飛鳥は声を立てて吹き出した。

 小さな顔を赤く染めて、小動物のような黒目がちの瞳を潤ませて怒っているのを見る限り、本気でコンプレックスであることは確かなのだろう。けれど、非常に解りやすいその名前は、反応が単純な彼女らしくて飛鳥は少し気に入った。少なくとも、九条さん、なんて気取った呼び方よりも。

 しかし、その気取った呼び方はおそらく、名前コンプレックスの彼女のための気遣いだったのだろう。眼鏡の少女が、狼狽えた様子を隠すこともできないまま会話に入ってきた。


「わ、私はいい名前だと思うわ?……あの、とても、解りやすくて」


 何故か疑問形で言ってしまった言葉が火に油を注いだのか、フォローにもなっていない一言が止めを刺したのか、いよいよ真っ赤になった次子が涙目で眼鏡の少女を睨んだ。


「アリスなんて可愛い名前の女に、私の気持ちなんて解んないわ!」


 何よ何よと言いながら、次子は全く力の入っていない手でぺしぺしと眼鏡の少女を引っ叩いている。端から見ればじゃれ合いにしか見えないが、彼女たちにとってはそれなりに深刻な話題らしい。

 かなりの大音量で騒ぎ散らしている二人、というか主に次子が叫んでいるせいなのだが、そんな彼女たちがあまりにも騒がしいため、注目が集まるのではないかと飛鳥はげんなりしたが、予想に反して教室の中の少女たちに動じる気配はない。優花も、何と声をかけようか困っている様子だが、特に悲壮感はない。おそらくは、これが彼女たちの日常風景なのだろう。

 その一員として見なされることになってしまった事実に、飛鳥は違う意味でげんなりしたものの。まあ絡んで来られるよりは幾分か気が楽だと割り切ることにして、水筒のお茶に手を伸ばした。

 目の前の騒ぎは収まる気配なく、主に次子が一方的に怒り続けている。眼鏡の少女は何も言い返せないまま、いかにも情けなく眦を下げていた。何度も言葉を遮られた挙句に、やっとの思いといった様子で一言呟く。


「ありすと言っても、字面は結構ごついのよ……」


 その声も物言いも、打ちひしがれたように情けなく頼りない。狼狽からそれなりに立ち直ったらしい優花が、二人から隠れるようにして、飛鳥の手の甲に指で眼鏡の少女の名前を書いて教えてくれた。


 ――岩倉有住


 なるほど、この字面は確かに中々厳つい。飛鳥は笑ってしまったが、じゃれ合う二人は気付いていない。気付かれて、ただでさえ興奮している次子に過剰な反応をされては面倒だ。飛鳥はすぐに笑いを引っ込めて、眼差しを下に向けた。

 机の影に隠れるようにして、飛鳥に眼鏡の少女の名を教えた優花の指は、白くて細い。色が抜け落ちたようであり

ながら、確かに生き生きとした血の色を帯びて柔らいその手に触れられたことを思い出した飛鳥の右手が、何やらくすぐったくなった。


(――何これ……)


 どうしようもないその感覚に、飛鳥は困惑して頭を抱える。

 心臓が痛くて、顔が熱くなって、死にたくなる。


「飛鳥?」


 俯いて黙り込んでしまった飛鳥を心配したのか、優花がそっと声をかけてくる。目の前で壮絶に派手でくだらない言い争いが繰り広げられる中、飛鳥に注目してくれていることが素直に嬉しいような、そんな自分が気持ち悪いような、煮え切らない感情が渦巻いた。

 少し眼差しを上げれば、白い綺麗な顔を微塵も崩すことなく飛鳥を気遣う優花と一瞬だけ目が合う。その茶色い瞳が凪いでいたことに何となく苛立って、脈絡なくその白い左手を右手で掴んで握ってみた。ふわりと柔らかい感触がして、少し冷えていた飛鳥の指に暖かさが緩やかに伝わってくる。

 優花は、身じろぎもしないし声も上げない。驚いてはくれなかったかと、飛鳥は少し意地の悪い残念さを感じながら眼差しを優花に向けて、そしてまたすぐに逸らした。


「あ、飛鳥?」


 どうしたの、なんて台詞は、飛鳥が言いたい。どうして、手を握ったくらいで、そんなにも嬉しそうに頬を赤らめているのか問い詰めたい。俯きがちにきらきらと潤んだ茶色い瞳を見てしまった飛鳥の胸は、さっきから妙に騒がしい音を立てている。

 この騒動がさほど注目されていないということに、飛鳥は深く感謝した。何が悲しくて昼休みの度に教室を移動しなければならないのか、全く面倒なことに巻き込まれたと嘆く心が、今だけは霧散した。ここが飛鳥の教室ではなくて本当に良かった。

 とても人には見せられないような顔を自覚した飛鳥は、顔を腕で隠して俯く。つないだままの右手はすっかり熱くなってしまっているが、優花はそれにも気付かないのか、困惑を浮かべた声音で飛鳥の名前を繰り返し呼んでいる。その声が次第に悲しそうな響きを帯びてきたので、飛鳥は折れて顔を上げた。他人には、特に次子と有住には、死んでも見られたくない表情をしていると自分で思う。

 飛鳥の表情が予想外だったのか、優花はきょとんとした幼い顔で瞬いて、飛鳥をじっと見つめてくる。

 可愛い、可愛い、優しいお姫様。何て綺麗で、素敵な人。


「優花」


 好きよ、と。口元だけで囁いたら、優花が天使みたいに笑った。




 恋ってなあに?今なら解る。

 あたしがあなたを、想う気持ち。



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