第三話 疑念
そんなに気になるのか。
前頭葉に問いかけてみたが、返事がない。
今度は髪の毛の生え際を辺りを、人差し指で突いてみる。何度か繰り返していると、ようやく気配が復活した。
おい。聞いてるのか。
《ん? なんだって?》
そんなに小鳥が言ってた「アオさん」とやらが気になるのか。
前頭葉が無言のなったタイミングが、その話題になった瞬間だったからだ。
ところが前頭葉自身もはっきりしないらしい。曖昧な返事が来た。
《どうだろうな。ただ、知ってるヤツに『青鴉ってのがいるんだよ》
アオガラス──ずいぶん変わった名前だな。
《オレが付けてやったんだ。かわいそうな奴でな、ある日忽然と姿を消しちまったんだ。もしかすると『アオさん』ってのが青鴉かもって思ったんだ》
その後は、ただ湿り気を帯びた吐息が聞こえるだけだ。
凸守は「なるほど」とうなずくと、すぐに思考を今回の依頼に切り替えることにした。
前頭葉が積極的に話さないこともそうだが、佐藤一郎が働いているという、街外れにある鐵工所に到着したからだ。
《車、隠しとくか?》
辺りを見回して、いや、とかぶりを振った。
住宅は数軒しかない。
何より、こんなボロい車を盗もうというバカはいないだろうと思ったからだ。前頭葉も同意らしく、しつこくは食い下がってこなかった。
凸守は改めて目の前の敷地を見る。
ここは鉄筋などに溶接をして、建物を造る会社だ。
火属性の眷属と契約している者らしい職場だと言えるだろう。
小鳥はこの鐵工所と取引きのある会社で事務をしているそうだ。依頼には関係ないため二人の馴れ初めはあえて聞かなかった。が、打ち合わせなどで互いの会社を行き来しているうちに、二人は親密な関係になったということかもしれない。
敷地の片隅にプレハブがある。
砂利が敷き詰められた道路を歩いて行き、プレハブの窓から中を覗いてみた。
数人いる事務員らしき中年の女性の一人が、こちらに気がついたようだ。
探偵さん?
声は聞こえなかったが、口の動きでそう言ったのがわかった。
凸守はやや大袈裟にうなずくと、中年女性は敷地の奥の方を指差す。
そちらへ行け、ということなのだろう。
言われた通り、プレハブを通り過ぎてさらに奥へと進む。
大きな建物が見えてきた。
とは言っても、鉄骨で組んだ柱に鉄板の壁と屋根を貼っただけ、といった簡素なものだ。
遠くからでも、職人たちが器用に指先から出した火で鉄骨に向かって溶接しているのが見えた。
さらに進んで行くと、正面の大きく空いた入り口に男が立っているのを見つけた。
柱にもたれ、タバコを吸っている。
凸守を見つけると、ほうれい線が目立つ男の口元が「おっ?」と動く。
「先ほど連絡した凸守です」
小走り駆け寄って軽く会釈すると、男は指にタバコを挟んだまま、薄くなった頭をピシャリと叩いた。
「どうもどうも、社長の梶と言います」
「こちらで働いている佐藤一郎さんのことで伺ったんですが」
「聞いてる聞いてる」
年齢は凸守より一回りほど上の世代だろう。
だとすると五十代の半ば、といったところか。
わずかに残っているこめかみの髪の毛や、伸び放題の眉毛には、白いものがチラホラと見える。
作業着にはあちこち汚れが見える。太い首にぶら下げたタオルは使い込んでいるらしく、刻んでいた。
この姿を見る限り、この梶という男はエアコンが効いた部屋で、椅子にふんぞり返って従業員ニ指示を出しているだけの社長ではないようだ。タバコを挟んでいる指も黒ずんでいる。節が太く、乾燥してささくれ立っていた。
働いている男の手だな、と凸守は思った。
「探偵さんが来るってことは、佐藤の奴、まだ帰ってないってことだよね?」
小鳥から話を聞いているようだ。
婚約者が帰って来ないとなると、真っ先に職場に連絡するのは当然だろう。
凸守はうなずいた。
「どうやらそのようですね」
「かわいい嫁さんもらうってのに、何をやってんだよ、アイツは!」
咥えタバコをしたまま、苦々しい表情を浮かべて凸守の方を見た。
「探偵さん、オレたちにできることがあったら、何でも言ってよ。ね?」
ボサボサの眉毛がハの字になっている。
梶が本当に佐藤のことを心配しているのは理解できた。きっとこの言葉に嘘はないのだろう。
人探しをしていると、探偵が来たと聞いて露骨に嫌な顔をする者も少なくない。親類縁者でさえ話すら聞かせてもらえないこともある。
まして従業員ともなれば、心配するどころか無断欠勤に腹を立てるケースがほとんどで、凸守はこれまでに何度も「見つけたらクビだと伝えておけ」と怒鳴られたことだってある。
にも関わらず、社長がここまで親身になるとは。
小鳥が言っていた佐藤は「真面目で優しい」というのは本当なのかもしれない。
《てことは、結婚詐欺の線はナシと見ていいのか?》
どうかな。
とことん疑うなら、佐藤がよほどのペテン師で、梶や同僚を騙してるって可能性もあるがな。
前頭葉から、微かな笑い声が凸守の頭蓋骨に響いた。
《結婚詐欺をしようって輩は、楽して金儲けしたい奴なんだろ? こんなところで働くかね》
おまけに他人と接すればそれだけ自分の身バレに繋がる可能性があるため、やはり結婚詐欺の線はかなり薄くなったと見ていいだろう。
「確か佐藤さんは、子供のころの記憶がないとか?」
「うーん」
梶は唸り声を上げる。
足元の水が入ったバケツに、タバコを投げ入れた。
ジュ、と音を鳴らして火が消える。
「記憶がなってのはそうなんだろうけど……どう言ったらいいのかな、『モノを知らない』って感じかな」
「それはつまり、世間知らずってことですか」
「まあ、そういうことになるんだろうけどね」
凸守は苦笑した。
「含みのある言い方ですね。何か気になることでも?」
すると梶は作業着の胸ポケットからタバコを取り出した。
咥えると、「一本どうです?」と言ってくれたので、遠慮なくいただくことにした。
梶は人差し指に火を灯すと、凸守と自分のタバコに火をつける。
さすがは鐵工マンといったところだ。
完璧に火属性の眷属を手懐けている。
未熟な者なら、一瞬にしてタバコが灰になっていたことだろう。
梶は茶色のフィルターを大きく吸い込むと、ため息と一緒に煙を吐き出した。
「競馬に誘ったことがあるんだよ。給料日にね。そしたら『何ですか、それ』って言うのさ。なんと佐藤の奴、馬を知らなくてね」
凸守は意味を測りかねた。
「競馬をしない人もいるのでは?」
「じゃなくて、パカパカって走る馬だよ。生で見たことないってことかと思ったら、馬自体を知らないんだよ」
「まさか」
何かの冗談かと思っていたが、梶は大真面目だった。
「でしょ? オレもてっきりギャグだと思ったから、みんなで『何言ってんだよ』ってツッコミ入れたんだけどさぁ」
「本当に知らなかった、と」
「そう。他にも電車に乗ったことがなかったり、自動販売機で飲み物が買えなかったりすんだよね」
「みなさんをからかってるのでは?」
その可能性が一番高そうだと思ったが、梶の見解は違った。
「いやぁ、アレは本当に知らないって感じだったな。そもそも人をからかうようなタイプじゃないしね、佐藤は」
記憶を失ったとしても、日常生活に必要な知識まで失うことはない、とどこかで聞いたことがある。
もしも梶の話が本当だとするのなら、生まれた時からずっと文明のない無人島にでも隔離されていたといった状態でもない限り、到底説明できないことだった。
「佐藤さんについて他に気になることはありませんか。誰かが訪ねて来たとか。あるいは借金があるとか」
「佐藤に会いに来るのは小鳥ちゃんくらいだなあ。あの二人、仲が良いからね。借金の方は、なかったと思うよ。佐藤は真面目だから」
梶はそう言って新しいタバコを咥える。
火をつけようして、「あっ!?」と声を上げた。その拍子に唇からタバコが離れ、地面に落ちる。
「そういえば、佐藤に聞かれたことがあるんだよ。『眷属と契約を解消する方法ってあるんですかね』って」
「なんと答えたんですか」
梶はバツが悪そうに頭を撫でた。
「てっきり冗談だと思ったから、『天国』に行きゃあ、モグリの医者がいるんで眷属を外してくれるかもって言っちゃったんだよね……」
唇を歪めている。
顔には「余計なこと言っちゃったな」という後悔の念が張り付いているような気がした。