第一話 悪夢の始まり
《私たちって、きっと神さまが設計ミスをしたんだよ》
《だから生きてちゃいけないの……》
《ごめんね、リュウちゃん……》
その後も、彼女の口は動いている。
だが、何を言っているのかはわからない。
やがて口元に笑みを作ると、潤ませた目を細めた。
そして手に持った拳銃を、ゆっくりと自らの頭に当てる。
《じゃあね》
引き金を引く。
強烈な破裂音。
火薬の臭い。
放たれた弾丸は、右のこめかみから入り、左の側頭部から抜け出る。
血と砕けた肉片と、それから脳の一部が辺りに飛び散るのだった。
肉の塊となった女の体は、糸が切れた操り人形のように力無く床に崩れ落ちる。
すでに屍となったはずなのに、どういうわけか唇がまた、微かに動く。
ラザロ兆候? それとも単なる見間違い? あるいは誰かが意図したものなのか──
*
*
*
「待ってくれ! 羊!」
凸守龍太郎はソファから体を起こす。
慌てて周囲を見回し、肩を落とす。
そこは物が散乱して足の踏み場もない、いつもの探偵事務所だったからだ。
「クソッ! またあの夢か……」
妻の羊が自ら命を断ってからというもの、同じ夢を見てはうなされているのだった。
すると前頭葉の辺りで、気怠いため息が聞こえる。
《だからオレを使えって、何度言わせるんだよ。すぐにでも悪夢をオレの靄で隠してやるってのに》
余計なことはするな!
《そうは言ってもだな──》
これは消させない! 何度言ったらわかるんだ!
瞬き数回ほどの沈黙の後、ハッと鼻を鳴らす音と共に、凸守を咎めるような声がする。
《女々しい男だな、お前は。女房が死ぬ場面を記憶に残しておくなんて異常だ》
黙れ──
前頭葉に言い返そうとしたら、吐瀉物が込み上げてきた。
とはいっても、もう何ヶ月もまともに食事なんてしていない。だから上がってくるのは、ほとんどが胃酸だ。
喉が焼ける。
消化液は、口や喉、そして食道に容赦なく刺すような痛みの轍を作っていく。
そこに頭痛が追い打ちをかけてきた。
こめかみが脈打ち、ギリギリと頭が締め付けられる。視界が定まらない。
再び前頭葉から吐息が聞こえてきた。呆れを通り越し、もはや憐んでいるような口振りだ。
《何回同じことを繰り返すつもりなんだよ。そのうち本当に死んじまうぞ》
大きなお世話だ。
二日酔くらいで死ぬか。
こんなもの、迎え酒をすればすぐに治るんだ。
床に落ちているスキレットを手探りで拾い上げる。口に運ぶが、一滴も出てこない。
昨晩のうちに、飲み干してしまったようだ。
仕方がない。買いに行くか……。
ソファに沈んだ鉛のように重たい体を、どうにかこうにか持ち上げる。フラついてしまい、思わず壁に手をついた。
前頭葉から、《おいおい》と呆れた声がする。
《酒を買いに出る前に、『タマ』があるか確認したらどうだ》
凸守はズボンのポケットに手を突っ込む。
チッ!
舌打ちをしたら頭に響いた。顔をしかめる。
《オケラかよ。どうしよってんだよ》
無言が逆に凸守の考えを語っていた。
察した前頭葉が、凸守と同じように舌を打つ。やはり脳内で、ドラが鳴らされた気分だ。
《デコ。まさかその辺りにいる生意気そうな奴を捕まえて、いくらか「貸して」もらうんじゃないだろうな》
だとしたならなんだ。
《で、オレに記憶を隠せるんだろ? ふざけんな! 『眷属』は神の使いだと学校で習わなかったか!?》
嫌なら消えろ!
金を稼ぐ方法はいくらでもある。
《ほう。昔みたいに尻をだすのか!?》
生意気なことばかり言いやがって!
凸守は顔をしかめた。
頭痛が酷い。
一刻も早く、アルコールが必要だ。
コンコン。
凸守はハッとする。前頭葉からも息を呑む気配があった。
事務所のドアがノックされたのだ。
《誰だ? ケツ? ひょっとしてツユさんとか?》
凸守は時計を見た。
とっくに止まっているため、今度は窓の外に顔を向ける。
ずいぶん明るい。
凸守の中耳は、窓の外から聞こえる子供たちの声をとらえていた。
ということは、午後二時を過ぎといったところか。
ケツでもツユさんでもなさそうだ。
これには前頭葉も同意らしい。《だな》と相槌が聞こえる。
「ケツ」と「ツユさん」というのは、妻が死に世捨て人のような生活を送る凸守を心配してくれる、数少ない奇特な人たちだ。ただ、どちらも真昼間にでこもりのような廃人のため、貴重な時間を割いて会いに来るほど暇ではない。
《てことは、ノックしているのは『招かれざる客』ってことになるな》
異論なしだ。
凸守は事務所の机の引き出しから拳銃を取った。
手にはヒンヤリとした鉄の感触と、ズッシリとした重みが伝わってきる。人の命を容易く奪える武器は、凸守の背筋を真っ直ぐにさせた。
忍足で近づき、ドアに体を寄せる。
「何の用だ?」
できるだけドスの効いた声で呼びかける。
耳を澄ましていると、ドアを挟んだ向こう側で、かすかに息を呑む気配があった。
「あ、あの……こちら『凸守探偵事務所』でしょうか?」
《女?》
声の感じがすると、二十代半ばといったところか。
「わ、私、小鳥遊小鳥って言います。人を探していただきたくて──」
《依頼人、てことか》
前頭葉の口振りからすると、「そんなわけないよな」と言いたげだ。
凸守も同意せざるを得なかった。
こんな廃墟同然の貸しビルの一角に巣くった探偵事務所なんかに、しかも若い女が来るなんて裏があるに決まってる。
「今は依頼を受けてない。他をあたれ」
素直に帰るなんて思っちゃいない。
簡単に引き下がるなら、わざわざここには来ないだろう。
凸守としては、できれば手に持った鉄の塊を使わないに越したことはないのだ。何より、こんな震える手では、まともに撃てやしない。
戦闘になったら、こちらがかなり分が悪いはずだ。
ところが、凸守の願いは通じなかった。
ドアの向こうから、すぅ、と息を吸い込む音が聞こえる。
《来るか!?》
前頭葉の言葉に、張り詰めたモノが混じる。
凸守は壁から体を離すとドアの正面に立つ。拳銃を両手で握りしめ、両足を肩幅に広げて腰を落とした。
「『デコさん、断ったら今までの『貸し』は一括で返してもらいますから』」
女は妙な声色でそう言った。
精一杯、低いトーンで話したつもりなのだろうが、いかんせんうら若き女だ。
バリトンには程遠い。
結果、アイドルタレントがやるモノマネのモノマネのような、いかにも妙竹林な声になってしまっていたのだった。
凸守はもちろん、前頭葉も静かだ。唖然としていたのだろう。
こちらの反応がなかったからか、ドアの向こうから慌てた調子で女が言った。
「あ、あの、あの……ここに来る前に、警察に行って来たんです。
そしたら『おっきな刑事』さんから、さっきの言葉を言えば、きっと引き受けてくれるはずだからって……」
凸守は拳銃を持っていない方の手で目頭を押さえた。
忘れていた頭痛が復活したからだ。
それは二日酔いだけが原因ではなかった。
つまり女の変声は、「おっきな刑事」のモノマネだったというわけだ。
前頭葉から時折「くっ……」という声が聞こえる。必死に笑いを堪えているようだ。
アイツめ……。
凸守は心の中で憎々しげにつぶやいた。
面倒なことを押し付けるつもりだ。
やはり追い返そう。
そもそも『アイツ』に返さなきゃならない貸しなどない。
「悪いな。やはり引き受けることはできない」
《おいおい。断れる立場かよ。酒買う金もねぇ貧乏人のクセに》
前頭葉を無視してドアに背中を向ける。
「お願いします!」
悲痛な声だった。
「彼、今まで外泊なんてしたことないんです! それなのにもう二日も連絡が取れなくて」
二日って……。
中高生ならともかく、大の男が二、三日外泊した程度では警察は動いてはくれないだろう。一応、捜索願いは受理するだろうが、真剣に捜査するは怪しい。やはり面倒なので、こっちに丸投げしたというわけだ。
《かわいそうじゃねぇか。話くらい聞いてやったらどうだ》
そんな気分じゃない。
《あのなぁ……》
「いなくなる前に、変なこと言ってたんです」
女の声のトーンが、急に暗くなった。
声に痛々しさ混じる。
「『僕はきっと、神さまが設計ミスした人間なんだ。だから生きてちゃいけないのかもしれない』って」
《お、おい! デコ!》
前頭葉が叫んだため頭に激痛が走っていた。それでも凸守は構わなかった。
「私、もしかしたら彼が馬鹿なことを考えてるんじゃないかって心配で──」
気がつくと、ドアを開け放っていた。
あまりに勢い良く開けたものだから、女は目を丸くしていた。
黒目がちの大きな瞳を、戸惑ったように小刻みに揺らしている。口をパクパクとさせているが、なかなか言葉が出てこない。
凸守は息を呑んだ。
女は、死んだ妻によく似ていた。