第三十九話 XXXXX――ベルゼブブ 8
X.D. L
ショッピングモールの天蓋の上空を四機のヘリコプターが旋回していた。
救助作業が始まった頃だろう――玻璃山ケンはなんとなく思った。その瞬間、痛みが走る。ダークブラウンの短髪に巻いたシュマグ――イスラム圏の装身具――の右の頭部からは血が染み出ていた。
モールの外ではいくつかのビルが崩壊していた。折り畳まれるようにして倒壊した建築物は、爆破解体によるもの。つまりは人の手によることを意味していた。
ケンは見上げる。あそこにいたら自分も今頃は救助されていたはずだ。しかしそれが叶わないことなのは十分に承知していた。
ケンは自分一人が生き残るため、他のすべてを犠牲にするつもりだった。だがその計画すらもあえなく破綻した。
処刑人――油窯タギル――は容赦もなく、自分の頭を黒バットで振りぬいた。
最後の瞬間、タギルは言った――『借りは返した』と。理解はできていない。だがそれは間違いなくタグリの――チームメイトの蜘蛛糸倫理の――声だった。
タギルの姿をしたタグリに殴られ、ケンは気絶した。それでも生きていた。
タグリは言った――借りは返した、と。
許した、とは言わなかった。次はない。つまりはそういうことだろう。
だからケンには、モールに残るという選択肢は存在しない。誰にも知られぬよう一人モールを後にした。出ようとしていなかっただけで、建物からの脱出自体は容易だった。裏口をピッキングし、ケンは在庫管理人に管理されていた天国と地獄に別れを告げた。
外の世界はどこか荒野のようであったが、空気感染されているわけでもない。
「最初から、みんなを連れて脱出すべきだったんだ……」
ケンは後悔の言葉をひとり呟く。裏切り者にならずに済んだ未来を。ハッピーエンドを想像して。
同時に、それが永遠に叶わぬことを理解する。ケンの頬を雫が伝った。
「俺はなんてことを……」
自責の念に駆られる。もう二度とタグリやハギトに合うことはないだろう。懸衣の爺様やリンとバトにも。
時間は元に戻らない。それでもケンは思う。少しでもマシな人間になれるよう――タグリにそう思ってもらえるよう――贖罪の旅を続けよう、と。振り返ることすら許されないのなら、前を向いて歩き続けるしかなかった。
その時だった。後ろから誰かが歩いてくる足音が聞こえた。振り返らない、そう誓ったばかりのケンは激しく動揺した。チーム颱風の誰かが――タグリが――自分を探しに来てくれたのでは、そう思ったらもう振り返らずにはいられなかった。
だが、そこにいたのはタグリとは別の女性だった。
比良佐嘉詠――六炎六の少女。
セーラー服に黒タイツ。全身黒づくめの少女は目に生気もなく歩いていた。
「ヨミか? お前、どうしたんだ? 救助されたんじゃないのか?」
ケンは声をかけるが、ヨミは何も返さない。尋常じゃない様子にケンは質問を重ね続ける。
「ゴウカは? タグリやハギトはどうなったか知らないか?」
やはりヨミは答えない。下縁眼鏡の奥の瞳に感情らしさは微塵も感じられない。
ひしひしと緊張感に包まれていく中、ヨミは左手に肉叩きを構えた。
ぎょっとしたケンだが、すぐに冷静さを取り戻す。一瞬だけ迷って、アーミージャケットのポケットのうち左――対人用武器――を選択する。ボイスレコーダーを改造したワイヤー針タイプのスタンガンを取り出した。
肉叩きを振り上げたヨミが駆け出してくる。
「ヨミ、ゴメンよ」
言いながらケンはスイッチを押した。
ヨミの体に電流が走る。だがヨミが立ち止まることはない。
「なんで……?」
呆然としたケンの右側頭部を肉叩きが殴打する。
X・DAY-CLOCK
混濁する意識の中、ケンの体は地面を擦り続けていた。
ヨミは少女のものとは思えぬ力で、軽々とケンを引きずっている。
タグリに黒バットで殴られた箇所を、再度殴られたことが致命的だった。ケンの意識は朦朧とし、手足を自由に動かすことすらままならない。
成すがままにされるケンが連れてこられたのは、倒壊した建物の隣に立つ古びたビルだった。朦朧とした意識と沈みかけの赤黒い夕焼けが建物をなおさらおどろおどろしく映す。
廃墟のような雰囲気を醸し出す屋内、塵の積もったコンクリートの床の上で空になったヌードルの容器と一緒にロケット・ランチャーが転がっていた。
唯一動かせる瞳を瞬かせる。フロアの大部分を占めるのは、ケーブルで連結されたいくつもの使途も不明な機械と巨大な水槽。作りかけのプラモデルのように積み重なるドローンの山。そして部屋の角にはネットカフェの個室を連想させる内装が施されてあった。
個室の脇には黒い布を頭から被った集団が並んでいる。歌舞伎の黒子のようでもあり、これから銃殺される捕虜のようでもあった。そして無言のまま立ち尽くす姿は葬列のようでもあった。
ケンの間近には白い毛で覆われた丸い物体が転がっている。トイプードルか何か、動物のぬいぐるみだと思った。おそらくヨミの私物的な物だと。
間もなくして、個室からツナギ姿の男が騒々しくも姿を現す。伸ばしざらした長髪と無精髭。顔に刻まれた皺から、若くとも三十代後半と思われた。
「あらあららァ、どしたのそれェ?」
ケンを一瞥した男の問いに、ヨミが答える。
「作業の材料に必要かと思って持ってきた」
「残念ながらァ、自衛隊が来ちまったからねェ。実験は一旦中止だなァ。ここは廃棄して第二研究所に移動だよォ。無駄な荷物は持っていかれないなァ」
男は苦笑いを浮かべたが、鼻をすんと鳴らすと困ったような顔をする。
「あらら、臭うなァ。ちゃんと屍肉消臭用のスプレー使ってるのォ?」
ヨミはスカートを捲し上げる。黒タイツの張り付いた太もも、そこに取り付けたホルダーから消臭スプレーのボトルを持ち上げる。
「効果がなくなってきた」
男は首にぶら下げた溶接用マスクをつけてヨミを眺めた。アナログな作りに、数字や記号がレンズに浮かぶハイテク使用。
「コイツァよろしくないぞォ、だいぶゾンビ化が進行しちまってるなァ。そうと分かりゃあなおのこと、急いでα-2.0培養槽のある第二研究所に行かなくっちゃあ」
男の話に後ろ髪惹かれることもなくふらと歩き出すヨミ。はあ、と溜息を吐いた男がそこでようやく転がったケンに興味を示す。
「で、ところでこれ誰なのさァ?」
ヨミは葬列に混じるように集団の最後尾で体育座り。電池が切れたように膝に顔を埋めている。
再び溜息したあとで、男が声を上げた。
「んもォ……Sくゥん、Sくゥん、ちょっときてェ」
機械の裏から別の男が姿を現す。ぼやけた視界にもケンはその姿を見て呆然とした。似合いもしない白衣を纏った人物は、短髪に左目を縦断する傷跡、掛けたロイドグラスに知性の欠片も感じさせない大男。彼の死がスパルタン・Zの開催を決定づけたと言っても過言ではない。その男のことを当然ケンは知っていた。
「……奈羅國一直」
ケンは呂律の回らない言葉をどうにか絞り出す。
モールの一派閥を形成した荒くれ者グループのリーダー、奈羅國一直。蜂の巣にされた上で見せしめのようにモールの二階から吊るされた彼の体は、ゾンビのエサとなったはずだった。
「なんだいSくゥんの知り合いかァい?」
ツナギ姿の男の問いに、奈羅國が返す。
「獄門卿、そいつはケンです。チーム颱風のケンですよ」
「ふゥん、そうなんだァ」男の発したまるで関心もなさそうな言葉に、ケンは愕然とする。その男こそが在庫管理人だった。だがケンの思惑とは裏腹に、彼はケンの名前すら覚えてはいなかった。
大柄な奈羅國がケンを見下ろす。ロイドグラスの位置を直しながら言った。
「俺が生きていることが不思議か? 生物工学の専門家たる獄門卿にかかれば死体の肉片での偽装工作など造作もないことだ。すべてはモール内での獄門卿の実験のため。俺だけが最初から獄門卿の仲間だ」
使い捨ての駒に過ぎなかったチーム暴食のメンバーたち。そしてそれ以下の存在に過ぎなかった自分。ケンの左目が涙でにじむ。視界に映るすべてがまやかしのようだった。
朦朧とする意識。それは絵空事にも似た舞台で、感情もなくケンは眺める。他人事にしか思えなかった。ケンの視界に――非現実な舞台に――さらなる悪夢の登場人物が姿を現す。
奈羅國の背後に立ち並んだ三人の異様な怪人たち。
一人は黒色の肌と、それよりも濃い黒真珠のような瞳が印象的な女。緩く長いカーリーヘアを後ろでひとつに束ねられていた。細くも六つに割れた腹筋が露わとなったセパレートの上下、カナリアイエローを基調としたタンクトップとレギンス――ヨガインストラクターのような姿。その上に黒い毛皮のコートを羽織っている。額と鎖骨の間、臍には縦に並ぶ――開眼した三つの瞳の――白色刺青
点滴代をいくつも括り付けたような器具に、下着姿の男女を四人、磔にしていて、ペットでも散歩させるように括り付けたリールを女性の腕力でやすやすと引いていた。
もう一人は奈羅國以上の大男。2メートルを軽く超える長身に、隆起した筋肉ではちきれんばかりの黒いティーシャツとワークパンツ、立たせた髪の毛は紅蓮の色をしたモヒカンヘアー。右の側頭部と、モヒカンの生え際に瞳の刺青。端正な顔立ちと、潤んだ子犬のような優し気な双眸がなおさらに異様さを醸し出す。左右の手に規格外の大鉈と山刀をぶらさげていて、終始、鼻を鳴らし続けていた。
最後の一人は、素肌の上にオーバーオールを着ている。だが素肌の部分はすべからく白く塗られていて性別が男という以外、年齢も国籍も分からない。
きっちりとセンターで分けた銀髪と、感情らしさが微塵も感じられない碧眼。左目の上には、笑っているような三日月の――下弦の月のような――瞳の刺青が彫られ、太陽を模した青い宝石が埋め込まれている。左目の下には、泣いているような三日月の――上弦の月のような――瞳の刺青と涙の雫の形の青い宝石。
両手の甲にも同じ刺青が彫られていたが、それは顔の物とは非対称になっていて、男が左右の掌で両目を覆うと、泣き目と笑い目が逆になる。両目を覆ったまま、色のない唇を薄く開け白い歯を覗かせた。錯覚を覚える。一人で演じる泣き笑い。悲しみに歯を喰いしばっているようにも、喜びに微笑んでいるようにも見えた。
奈羅國がついでごとのように尋ねる。
「で、どうします、獄門卿。殺しときますか?」
一気に現実へと引き戻されたケン。全身から汗がどっと噴き出す。
奈羅國の隣へと歩み出たのは白塗りの男。手元で目には見えないロープを結ぶようなしぐさをしたあとで、カウボーイの真似事みたく振り回す。ケンには男が何をしているのか理解できない。
男はケンへと向かってロープを投げた真似のあとで、これまた見えない梁にでも通すように演じて見せる。理解の出来なさにケンはに恐怖しか感じられない。男が見えないロープを宙でつかみ、一気に引き下ろす。「ちょっ、まっ――」さえずりほどの懇願を発しようとした瞬間、ケンの首は一瞬で締められた。気道を塞がれたままケンの首が持ち上がっていく。口からあぶくが滴る。意識を失うその間際だった。
「てか、埋夢サンさあ、待ち合わせ場所が廃ビルって、この辺廃ビルしかネーじゃん。ガチで見っけんのしんどかったんですけどォ」
騒々しい声が聞こえて、ケンの首が地面に落下する。
横目にいつの間にか巻き付けられていたロープの端と、それを握っていたと思われる丸太のような腕が映った。大きく咳き込みながら、ケンは酸素を求めて呼吸を繰り返す。
騒々しい女の声に気おされるように丸太の腕の男が後退していく。代わりに視界に入ってきたのは、くすんだ金髪に錆びた鉄の色を散らした小柄で若い女だった。
ローファーとルーズソックス。グリーンのチェックスカートと、クラシカルなセーラー服。その上に羽織ったキャメル色のカーディガンはピチピチで。統一感もなく、ありあわせといった様相。深紅と茶褐色の瞳は虹彩異色症ではなく、片方のカラコンを落っことしただけらしい。
反応したのは、黒色の肌にカーリーヘアの女だった。
「あら? あなた一回死んでるじゃない」
ありあわせJKと同じ声で言って、点滴代に磔になった男女のうち酸素マスクを着けていた男の胸元へ舌を這わせる。男の額には『喜び』と刻まれていて、チューブの伸びたボンベの中身のせいか目は虚ろだった。
「音迦羅、テメー、殺すゾ! ガチでっ! あーしの声でしゃべんじゃねーつってんだろが。ジョーダンとかマジいらねーから、こっちはガチで傷心中だかんナ」
金髪の女の首には横に切り裂かれたような傷跡があった。それを肉の塊で出来た巨大な創膏で塞いだような。
「再生のために、可愛いセフレ犠牲にしてんだゾ、こっちは。っても火薬で顔焼けただれてからヨォ、ドッチがドッチだかも分かんなかったけどサァ」
しゅんとしていた女が一転して、喚き声を上げる。
「てか、閃虚サマ死んでんじゃん!!」
すぐ近くに落ちていた白い毛で覆われた物体。その正体にケンも気づく。それは人の頭部だった。白く長い頭髪と繋がったような髭で覆われた壮年男性の顔、その表情は苦悶に醜く歪んでいる。
白塗りの男がそこでようやく口を開いた。背筋を貫くような冷たく高い声だった。
「偽りの教義を広めた閃虚はヨミ様の手によってに成敗されました。すべてはまやかし。白檀、キミもボクも騙されていたのです。ボクらが求めるものは――六識は――閃虚、いや閃臥獣蔵の教えでは決して辿り着けない。閃臥は最初から分かっていながら自分の地位を守るために、ボクたちを騙し続けた」
「ふーん」言いながら白檀と呼ばれた女は色違いの瞳をきつくしていく。
「分裂したってわけだ。でも閃虚サマ信者は黙ってなかったろ? 特に溶鉄、オマエって根っからの心棒者だったんじゃネーの? オマエまで埋夢サンについたんかァ? らしくネんじゃネ……てか、オマエ! デカくなってネ? やけにゴツゴツしてんし」
コロコロと移ろう白檀の問い。埋夢と呼ばれた白塗りでなく、溶鉄と呼ばれた紅蓮モヒカンの大男が答える。
「よ、溶鉄じゃない、オ、オレの新しい名前、『剣劇』。み、右手の指食ったら片っぽだけデカくなったから、も、もう片っぽも食った。そ、そしたら釣り合い取れたけど、くく食った部分の痛みがずっと引かないんだ」
溶鉄は悲しそうに話した。
目を丸くして白檀は、「ッブね、あーしァ自分の肉食わなくて正解だったなァ」
溶鉄が続ける。
「せ、閃虚様言った、『往生際の悪い奴と嘘つきはダメだって』。で、でも閃虚様嘘つきだった。う、嘘つきだからヨミ様に負けた。手も足も出なかった」
いつの間にかセーラー服姿のヨミがそこにいた。奈羅國の脇で無感情な視線を白檀へと向けている。その後ろに控えるようにして黒い布を頭から被った集団が立ち並んでいた。
「ふーん、ヨミサマ、ねェ」言うが早いか、白檀は右足を軽く上げる。ローファーの踵を突き破って、先の尖った刃が出現する。白檀はそれを床のコンクリートへと叩きつける。音叉のようにカツン、という音が広がっていく。
一転して慄然とした表情を浮かべた白檀が呟く。
「ガチかよ、コイツ……エグいとかってレベルじゃねェゾ」
白塗りの泣き笑い――埋夢が後を引き継ぐ。
「閃賀の偽りを信じてボクらはありあらゆる人の肉を食し続けました。でもそこな生物工学の専門家たる獄門卿のアドバイスによると、閃賀が元・天使と呼んだボクたちはいくら人肉を食べたところで肉は肉にしかなりえないそうです。しいて挙げるなら脳を食べた方がまだ進化の余地はあるそうですが」
薄汚れたツナギ姿に、溶接マスクをカチューシャ状にして長髪を後ろに流した獄門卿がうやうやしく礼をして見せる。
「閃賀の教えを信じて刻みつけた『眼紋』、それを自らの恥辱として隠さなければならなくなった憐れな彼らを見てもキミは何も感じないんですか?」
埋夢の声に応じるように、黒い布を頭から被った集団からすすり泣きが聞こえ始める。伝播していく。
ありあわせのJK衣装でふてぶてしく対峙する白檀はチッと軽く舌打ちして見せたが、結局は主導権を握った埋夢の言動を見守ることしか出来なかった。
「ボクたちが進めべきは閃賀が提唱した根源への深化でなく、新たな種としての進化だったのです。そして進化の果てに六識へと導く唯一の存在こそがヨミ様なのです」
白檀は動揺を隠せない。それでも虚勢を張るように声を張り上げた。くすんだ金髪を振り乱して。
「さっきの質問の答えになってネーゾ、埋夢サン! 他のォ、黙ってなかった閃虚サマ信者はどーなったかって訊ーたよなァ、あーしはァ!」
埋夢は感情のない碧眼で白檀を見据える。そして淡々と話した。
「愚かな殉教者は獄門卿の実験の一環としてリサイクルされました。巨大ゾンビ兵器の肉袋としてツギハギにされ、閃虚派は完全に消滅しました。どっちつかずの派閥もあることはありましたが、こっち側に文楽さんがついたことで大勢は決しました」
「ガチかよ、閃虚サマの右腕だった第五の文楽サンまでソッチ側かよ」
白檀の勢いは完全に失われた。
「ボクらは紛い物の教義で身を堕とした底から這いあがらねばならないのです。それこそ梯子を掛けるようにして一段ずつ。キミにもその梯子となってほしいのです。このボク、聖梯・黙劇。そして――」
両手を広げると、黒色の肌の女と紅蓮のモヒカンの大男が不敵に微笑む。
「――聖梯・歌劇、聖梯・剣劇と共に」
白檀は「ふーん」と言いながら先刻まで音迦羅と呼んだ――聖梯・歌劇のもとまで歩くと、点滴台に貼り付けにされ目隠しされた――額に『恐怖《Fear》』と彫られた――若い女の腋へと舌を這わせる。
「突出した片鱗の他にもあーしらの五感はそこそこ上がってっからなァ、テメーほどじゃなくともあーしにも恐怖の旨味ッくれーは感じられる。レベルの差はあっても、味覚がある以上、クソマジー人肉食わなくて済むならァ、ま、いんじゃネ?」
白檀の返答を聞いて、黙劇は左の碧眼を閉じ、右目を右掌で覆った。笑いだけが残される。白い歯を覗かせて言った。
「こちら側へようこそ、聖梯・舞踊」
ケンを置き去りに舞台に一応の幕が閉じられる。
と、獄門卿が厭いたように口を開く。
「んもォう、いいかァい? 時間が差し迫って――」
だが着信音が鳴り響いた。獄門卿の発言を遮るように。
「まったくもォ、いったいぜんたい今度はなんだい」溜息をひとつ吐いてツナギのポケットからスマホを取り出す。通話に応じると、電話の向こうからは捲し立てる声が聞こえた。焦りを隠そうともせずに。
「すいません、比良佐嘉さん、緊急事態で……」
今度は獄門卿が相手の発言を遮るように、ふたつ目の溜息を吐いた。
「Tくゥん、何度も言ってるじゃないかァ。オイラの名前を呼ぶときはァ、セカンドネームじゃなくてェ、フランクにィ、ファーストネームでってさァ」
「ご、獄門卿、すいません。ただ本当に緊急事態なんです」
フランクに敬称づけで言い直した丁寧語の奥では、ほとんど怒鳴り声に近い苛立った数人の男の声。そのすべてが別の回線の相手にも「緊急事態で――」と繰り返している。重なった声がノイズのようで聞き取りづらい。
しかめ面を浮かべたあとで、獄門卿は訊いた。「でェ、Tくゥん。どうしたっていうのさァ?」
「それが、マスターマインドとの連絡が途絶えてしまって。約束の場所にもまだ来られてないんです。指揮系統も混乱をきたしてしまって、短針の中で唯一連絡がついたのが獄門卿というわけでして。壊古軒さんにも電話はしているのですが……」
くつくつと獄門卿は笑った。
「ったりまえだろォ。抹殺されかけてェ、銃弾が今も頭蓋に残っちゃってる壊古軒くゥんは言わば眠り姫。海馬に影響でちゃって記憶も曖昧でェ、起きてる時間のが少ないんだからさァ。そもそもα版の創造主たる壊古軒くゥんが元気いっぱいだったらさァ、α版のデータ盗むなんて七面倒くさいことしとらんでしょーがァ、藍全くゥんも。まったくもォ、Tくゥんたら焦りすぎィ。冷静になればわかるでしょおが、我らが眠り姫が電話に出るなんて期待するだけ無駄だってさァ」
通話の相手は少しの沈黙のあとで「……すいません」とだけ言った。
「しっかしィ――」獄門は僅かに思案したあとで、
「――鳩にでも狩られちまったかねェ、藍全くゥん。でもソイツはおっかしいよなァ? 確か政府側のイヌ……」
言いかけて床に転がるケンを見下ろす。「きみらァの間ではそれを『蠅』と呼ぶんだっけかァ?」
朦朧としたままでよだれを垂らすケンの顔が面白かったのか、愉快そうに獄門卿は続けた。
「どっちにしろォ、ソイツが藍全くゥんと鳩がバッティングしないよう、情報操作してたはずだろォ? 鳩側にはあえて時間をズラして藍全くゥんの位置情報を伝えてたはずだろォ? ってこたァ想定外の事態でも突発的に発生してェ、藍全くゥんの赤羽を離れるタイミングが遅れた、ってことかァ?」
「で、獄門卿、我々はどう対処すれば?」
通話先のTに向けて、獄門は言った。
「そんなん知るかァ。オイラはしがない技術屋だァ、戦略指揮だのなんだの埒外だぜィ。まァ藍全くゥんに限って死んだりはしてないでしょ。とにかくオイラたちは取りあえず約束の場所、第二研究所に向かうからよォ。んじゃあねィ」
食い下がるTの言葉を遮って通話を終えると、獄門はヨミを見た。苦笑いを浮かべて。
そんな獄門へとヨミが言った。
「行きましょう獄門」
「そうだねェ、ママ《・・》」
ヨミをうっとりと見つめた後で、思い出したように獄門はケンを見下ろす。
ケンは懇願した。回らない呂律で。
「お願いします。助けて下さい」
必死に繰り返す。
タグリにもらった命だから――贖罪の旅に出なければならないのだ。
だから、一生懸命に願う。
生きる目的が出来たのだ――少しでもマシな人間になるために。
獄門は言った。
「長旅になるなァ、ママ。腹ごなしはしといた方がいいぜィ」
肉叩きをぶら下げたヨミが、ケンへと近づいていく。
倣うように悪夢の登場人物たちが続いた。
集団は黒い布を被っている。すすり泣いている。まるでケンの葬列のように。




