第三十話 山吹虎徹――ニルヴァーナ 4
赤いランドセルを背負った少女は、山吹虎徹へと力いっぱいしがみつく。
上野アメ横の路地裏、ゆっくりと傾きつつある陽光。走馬灯のように時間はほとんど止まって見えた。
巨躯の放つ右拳。重爆撃機の一撃は既に射程圏内にあった。
あと一歩で巨大な六角レンチに自分の顔面が潰される――そう頭では理解していても、虎徹は身じろぎひとつできない。
だが、そのとき予想外の反応が起こった。
純白の巨体は、くの字に折れ曲がる。
同時に悲鳴に似た軋り音。折れ曲がった姿勢からの反動で男は後方に吹き飛ばされていく。背中にゴム紐でもつけていたかのように。路地裏の両脇、ふたつのビルディングの一部で粉塵が上がる。
少女は虎徹にしがみついたままで言った。蒼玉のような左目を細めながら。
「むぅー、おっかしいなー。輪切りにするつもりだったのにぃー」
だとしてその衝撃。どうにか態勢を立て直した巨躯も、立ち上がるまでには至らない。すぐに動く気配はない。立ち膝のまま回復に徹している。
動きがあったのはその上空だった。
「て言うか、結局なんなんだよ、コイツは?」
傾き始めた陽光を背に、少年が立っていた。偏光レンズで読めない表情にも、ぶかぶかのパーカーのポケットに両手を突っ込んだ散歩のような気軽さで。路地裏のビルとビルとの間、四階部にあたる空中に。
「そんなのワタシが知るわけないでしょー」
ふてくされる少女をしり目に、ナスカンにウサギのぬいぐるみを留めたランドセルを少年は漁り始める。左手で掴んだランドセルから取り出したのは、ダーツの矢。右の人差し指から小指の指間に三本の矢を握ると、宙で引き絞る。そこに弦があるかの如く。
少年が指を開くと、ダーツの矢は飛んだ。鋭い速度で。
純白の男が、金床程の重量はあるだろう両腕の籠手で辛うじて矢を弾いた。
少年は自分の放った矢の所在など目で追うこともなく、降りてくる。ライン入りのスパッツで軽快に。まるで学校帰りみたいに。左の肩にランドセルを引っ掛けながら、見えない階段を三段飛ばしで。
「ま、なんでもいいけどさっ。どーせブッ殺すことは変わりはねーし」
少年はかけていたスポーツサングラスを放り捨てた。
「むぅー、バーバ・ヤーガじゃないことだけは確かだよねー。まあ連中の雇った暗殺者って線はあるかな。でも銃火器の跡を追ったら、連中のとこに辿り着けるって言ったのは卵男だからねっ、ワタシじゃないよ」
ようやく少女はしがみついていた虎徹から離れる。ヘッドドレスから伸びた美しい白金のツインテールと、ピンクのジャンパースカートの裾がふわりと舞う。そして右目にかけたハート形の眼帯を外した。
呆然と立ち尽くしていた虎徹が乾ききった口を開く。
「きみらがバーバ・ヤーガじゃないのか?」
頬を膨らませる少女。その右の瞳は義眼。描かれていたのは――赤い『鎌』
「むぅー、節操のないクソ魔女と一緒にしいてほしくないぞっ」
少年は、男が吹き飛んだ位置に向けてダーツを番える。
「て言うか、て言うか、ボクらは裏切者どもの処分に遣わされた、雷帝からの使者だよ」
不愛想に答えながら、引き絞った指を離す。やや細めた双眸の左は義眼。描かれた――赤い『槌』
純白の男が矢を弾いた。余裕をもった振る舞いに回復具合が見て取れる。すでに立ち上がっていた。逆三角形をした見事な筋肉の鎧。巨躯は岩のようにそびえる。
虎徹が訊いた。
「雷帝――、いま、そう言ったのか?」
少年は答えない。だが最悪の答えであることに間違いはない。内心で毒づく。
(雷帝イワンだと? くそったれ、ロシアマフィアの総頭目じゃねえか)
『十月革命』――異なる革命信念を柱とした十の機関、それを支配するロシア最大最悪の組織。
十月革命の機関のひとつが、『武装蜂起』の信念を基柱とするバーバ・ヤーガ。
見当違いだった。茨木組とバーバ・ヤーガの軋轢じゃなかった。初めから、十月革命とバーバ・ヤーガの内輪揉めだった。
少年がランドセルから新たな得物を取り出した。折りたたみ式のそれを可動させると、半円を描くように大きく湾曲した――イスラエルの両刃剣に似た――二対の刀が完成する。
少年は巨躯を見据えて湾曲刀を軽く振ると、小首を傾げた。僅かに悩んだ素振りを見せた後で、別の得物を取り出す。
スプリングとハンドル。踏板はない。緩いカーブを描く、中途半端な形状のホッピングに似た部品がふたつ。それは二対の湾曲刀を接続するためのアタッチメント。間もなく刃付きのフラフープ――巨大な円月輪――が完成する。
少年はランドセルを背負いながら言った。
「そんじゃま、さっさと口を割らせて殺処分といくか。あっちに一本追加な、『罪』」
少女は抱っこ紐のように胸側にランドセルを持ってくると、肩にベルトをかけた。ランドセルの中からサプレッサー付きの自動拳銃――MP‐443『グラッチ』――を取り出す。黒光るスチール製の引き金にかかるロリィタネイルで飾られた細い指。
少女が告げた。
「了解だよー、『罰』
少女――罪――の言葉を合図のように、少年――罰――が跳躍。先刻、男が吹き飛んだ宙空にかかとを揃える。張り詰めた空気に、キリリと引き絞られる音。路地裏へと差し込む陽光が、一瞬だけ足元に銀色の線を浮かび上がらせる。罰の身体は弾かれたように真上へと飛んだ。
確認するでもなく、前身に背負ったランドセルから罪が取り出したのは手のひらサイズの円盤。ヨーヨーのような形状をしたそれをぞんざいに放り投げる。曖昧なやりとりに、しかしすでに互いを理解する――完全なる感覚共有。宙空で対の円盤は弾け飛んで、壁に突き刺さった。ビルの三階部に流れる一筋の光線。
罰はそこへ着地する。ぐらつくことなく。
「て言うか、覚悟しとけよ。回転上げてくかんなっ」
少年はキシシと笑いながら跳ねた。背丈ほどはある輪の内側に身を転じる。二対の湾曲刀を接続するハンドルの一方を両手で握り、もう片方の上で足を揃える。レーシングバイクに跨るような姿勢で反動の力を溜めこむ。引き絞られる軋り音。そして射出された――今度は罰自身が。高速で前転を繰り返す、凄まじい回転運動。まるで電動丸鋸の刃。
巨躯は両腕の籠手で防御の態勢。回転エネルギーが倍増させた衝撃を強引に逸らす。それも束の間、がら空きになった胸に9ミリパラベラム弾が四発命中。巨躯の上半身がのけ反った。
銃口を向けながら無邪気に笑う罪。その姿を視界に捉えたときには、飛んできた罰に後方から削られる。巨躯は完全に防戦一方だった。
少女の後方支援を受けながら、自由自在に宙で跳ね回る少年。そのカラクリ。罰がかかとを揃えた空間に虎徹は触れた。
不快と感じた――。
そこにはピアノ線より細く、それ以上の強度を誇る鋼線が張ってあった。罰が自在に跳ね回るのを見るに、蜘蛛の巣が如くそこいら中に鋼線は張り巡らされているはずだ。
虎徹は瞳を細める。陽光に反射することで微かに知覚できるレベルの微細で強靭な繊維。だとして双子は配置を完璧に把握して動いていた。
だが双子の優勢は感覚共有に寄るところだけではない。あの目だ――虎徹は理解していた。鎌と槌の義眼は、鋼線を可視化するための映像装置なのだと。微かな知覚すら不可能な夜間だったら既に決着はついていたはずだ。
しかし体を揺らすことはあっても、決して倒れぬ巨躯。常人ならすでに十回以上は殺されていてもおかしくはない。
虎徹は呻くように呟く。
「化け物どもめ」
四次元的に空間を行き来する罰と、罪の精密射撃。場は完全に双子が支配していた。甘く見積もっても巨躯の劣勢は確か。だが、そこに動じる気配は感じられない。
無地のキャンバスに記された二つの点。赤い眼光だけが常に輝いていた。フルフェイスで覆われた無表情の名も無き巨躯。
薄闇ではライダースーツと見誤ったその装備。純白のそれは、むしろ水着と呼んでも差し支えない程の薄さで全身にぴたりと張り付いている。名無しの巨躯を形成する肉の塊をくっきりと、筋繊維の一本までを繊細に浮かび上がらせていた。
罪の放った弾丸が、名無しの胸元で爆ぜる。その瞬間、命中した弾丸を起点として純白のスーツ上で波紋が生じた。巨躯は呻く。だが、やはり倒れない。
間髪入れずの連撃。罰の回転を踏みとどまり、巨大サイズのレンチが溶接されたような籠手で凌ぐ。捌ききれないノコギリの刃は巨躯の右肩に若干食い込んだものの、その箇所からはやはり波紋が広がって消えていく。
「銃撃にしろ斬撃にしろ、面として捉えられる攻撃は、その瞬間に衝撃を全身に散らすことが出来るってわけだ」
眺める虎徹が呟く。理屈が分かったところで激痛には違いない。全身を覆った筋肉の鎧の成せるわざだとしても、スーツの下は痣だらけのはずだ。
虎徹に思考という概念はない。双子と名無し、見たままの両者のカラクリを理解したに過ぎなかった。
「再帰性反射材を用いた疑似光学迷彩技術が裏で出回り始めたってのは知ってたが、伝播式の対衝撃スーツにお目にかかるのは初めてだな」
鋼線をピンと弾く。途端に広がっていく不快感。
「終わりじゃねえか、こんなもん」
だが、そんなこと分かりきっていたことだった。茨木組の本部、その扉を開いた瞬間から。
□■
広域指定暴力団。那狼会系、茨木組。組長の茨木吟仔から直電での招集を受け、虎徹は三ヶ月ぶりに茨木組の本部を訪れた。まだ日も高い頃合いだった。
到着すると、幽鬼のような――先日までそこかしこを徘徊していたゾンビのような――顔色をした若衆に案内され虎徹は奥の間へと通される。
扉を開いた瞬間に虎徹の目に映ったのは、壁に飾られた――『風神雷神図屏風』
国宝として京都国立博物館に展示される江戸時代初期の画家、俵屋宗達の代表作のひとつのことをぼんやりと思い出しながら、虎徹の口から自然と呟きが漏れる。「こいつはヒデェな」
『この男が『涅槃』だよ』
父の仇の対立組織を個の暴力で蹂躙し、齢十八にして茨城組の三代目組長となった女傑。歌舞鬼寵の女王の通り名で新宿に君臨するこの屋敷の主、茨城吟仔が言った。
吟仔は豪奢なプレジデントデスクの脇に座っていて、その両脇に双子がいた。ウサギの耳つきカチューシャをつけた罪と、大きなシルクハットをかぶった罰。当の吟仔といえば水色のエプロンドレスにボーダーのハイソックス姿。異常に発達した筋肉ではちきれんばかり。ミスキャストにしてもここまでひどいアリスを見たのは初めてだった。まったくもって似合ってはいなかった。
虎徹が会釈した先で、口ひげを蓄えた小太りな男が品定めでもするように、威厳たっぷりに話す。
『初めまして、ワタクシは、イイツオー・スヂバー。使者だ。君たち日本人には言いにくかろうから、卵男とでも呼んでくれたまえ』
卵男の話を他人事のように聞きながら、虎徹はプレジデントデスクの奥の壁を見ていた。
壁に貼られた二枚の額縁、那狼会と茨城組の代紋。そして茨城組の任侠精神を表した『不退転』の掛け軸に、被せるようにして貼られた風神雷神図。安物のアクリルケースに入れられていたそれは、風間と雷同から剥がされた墨入りの背中。あからさまな冒涜だった。
『淑女・吟仔。彼で良いのかね? 本当に彼が適任だと?』
信用の欠片もないように卵男は訊いた。
吟仔は艶っぽい笑みを浮かべた。口元のホクロが、真っ赤なルージュのひかれた唇を際立たせる。艶めかしく上唇を舐めた後で、ゆっくりと告げた。
『もちろん問題ないわ。彼に任せればすべてが上手くいくから』
懸命に言葉を選ぶように。
しかし卵男は人差し指を立てる。黙考のサイン。吟仔は息を飲んだ。似合いもしないリボンカチューシャで飾られた顔にありありと浮かぶ緊張――選ぶ言葉を間違えたか?
卵男は思考を一時切り替えるように、話題を変える。
「ところで、君もどうかね? 淑女・吟仔と同じもので良ければすぐに用意するが」
卵男が一瞥すると、吟仔は慌ててティーカップを啜った。左手で。茨木組の象徴だった右手は切断され、不器用に止血されていた。吊るされた点滴から伸びたチューブが腕につながっている。
虎徹が部屋の隅に目をやると、既にこと切れた裸の雷同があぐらをかいていた。その死体はヘタな落書きを顔に施され、両目はボタンで縫い付けられていた。巨大で可愛げもないテディベア。
その頭部に茨木組の象徴はあった。鬼太鼓枹と呼ばれた日本刀。吟仔の右手が今も握ったたままのそれは、これまた下手くそな生け花のように雷同の頭に突き刺さっていた。
吟仔はえずきながらティーカップを啜り続ける。えずくたび「ごめんなさい」と繰り返しながら。
「紅茶に直接ジャムを入れたもの、とよく勘違いされるが、スプーンですくったロシアの果実煮を直接舐めながら紅茶を味わうのが正式なロシアンティーの作法なのだよ。本場のロシアンティーを味わってもらいたかったのだが、日本では適当なものが用意できなかったのでね。不本意ながら、淑女には代用品で我慢してもらっている――」
卵男は雄弁に語り、残念がって見せた。わざとらしく。だが愛嬌すら感じさせる彼の小さな両目には、邪悪な色がはっきりと浮かんでいた。
「――淑女・吟仔には果実煮の代わりに、風間という男だったモノを舐めてもらっている」
風間という男だったモノ――虎徹にはそれが何を意味しているのか分からなかったし、知りたいとも思わなかった。
狂った茶会。
歪んだ表情で風間入りの紅茶を啜る吟仔。
少女は吟子の左手にマニキュアを施しながら、「おねえさんかわいい」
少年は吟子の黒髪に櫛を入れながら、「おねえさんかわいい」
双子が触れるたびビクビクと体を震わせ、吟仔は上唇を舐める。そして媚びへつらいながら繰り返す。「ありがとうございます」
双子は、虎徹の知るどれでもなかった。
変態どもの愛玩動物でも。
後学の為、社会の闇を覗きにくる企業の令息や令嬢でも。
ましてや、流れに身を任せるだけの屑から引き離された子供でも。
一目見て、そういうんじゃないと理解した。
余興に満足したように、卵男が手にしたステッキを振りながら、大仰に告げた。
『まあ良いだろう。今回は淑女・吟仔の顔を立てて君に任せてみよう。取りあえず今夜一晩は待つ。零時を過ぎるまでに何か一つでも調査の進展が見られたなら、明日一日期限を延ばしてやろう。ただ何も見つけられなかった場合は、そこで君との契約は終了だ。その意味が分かるな?』
静かに頷いたあとで、虎徹は吟仔を見る。
吟仔は虎徹を見据えて、言った。
『頼んだよぉ、涅槃のにいさん……』
切迫感を募らせて。椅子から転がるようにして、虎徹の足元へと這いよる。点滴台が倒れ、留置針が抜け落ちた。
「……妾の、茨木組の運命はにいさんに――」
虎徹を見上げる吟仔は、だが言葉を詰まらせる。卵男と双子、三人の冷めた視線を背中越しに感じたからに他ならない。
ロシア式の厳格なテーブルマナーで躾けられた吟仔の人格なんてとっくに矯正済みだった。
「頑張ってくれにゃいとぉー、ぎんこが怒られちゃうにゃんっ♪」
顔の横で左手を丸め、小首を傾げつつ言った。引きつった笑顔を浮かべながら。
虎徹がどうこうする以前の問題だった。茨木組はすでに終わっていた。




