第二十六話 XXXXX――ベルゼブブ 4
玻璃山ケンは駆け出す。
同時に二度目の号砲が響いた。
王子駅の程近く、全国展開するヘボンモールの三層ガレリア式都市型ショッピングモール。ゾンビで溢れる一階フロアを走りきる命がけのレース、第八回スパルタン・Zは始まってしまった。誰しもが、準備らしい準備なんてほとんど出来てはいない状態のまま。
それでも各チームの二番手たる、ウィングがスタートエリアから飛び出してくる。
畜生モトルが物干し竿を改良した長獲物を手に。
他化自在天が二振りの刺身包丁を両手に。
比良佐嘉詠が調理用の肉たたきを手に。
飛び出してくる集団を背にケンは走り続けた。
X
懸衣の爺様が代理のウィングとしてスタートして十五秒後、蜘蛛糸倫理がスタートを切った。特殊ルールを利用してのハギトにバトンを託すいつものレース運びは出来ない。最初からポイントアタッカーとして直接ゴールを目指すつもりだった。準備は万全とは言いがたい。それでもいつもの戦闘服――シャツにミニスカート、ブーツに至るまで全身黒のコーディネート――に身を包み、ロックな強気女子メイク――ダーク系のアイシャドウとハネ感を意識したアイラインにリップは濃いめ――で自分自身を鼓舞する。マニキュアも黒で統一する気の入れようだった。
なのに、フルスロットルでスタートエリアを出た瞬間、タグリの足は止まる。目に映った光景に愕然とした。モールの一階は混沌と化していた。
焦熱ゴウカは言った――次遭うときは敵同士だ、と。風格に相応のスポーツマンシップじみた言葉に、他意もありありで。だとしたってそこに広がるのは混戦などでなく泥沼状態の乱闘だった。
床に放置された垂れ幕に足を取られて転ぶプレイヤー。二人がかりで囲んで襲う別プレイヤーたち。次の瞬間にはその二人が争い、袋にされていたプレイヤーが転がる空の洋酒瓶を投げつける。どこもそんな有様だった。視界に入ったものから始末していくという発想はただの殺戮しか生み出さない。最後に残った者がゴールすれば良いという割り切り。それはもはや試合ですらない――蟲毒とでも呼んだほうがしっくりくる。
イベントスペースの手前で、ゴウカと対峙する挽臼ナタクを見つけた。ブルーのロングへアーと盛られたツケマで飾った瞳。だがそこにタグリの姿は映らない。わずかの隙すら命に係わる。余裕なんてない。拮抗する両者の実力。まるで異次元。他のプレイヤーは寄ってこられない。睨みあう長身の二人に圧倒されるように、そこだけぽっかりと空白が存在している。
「動け! タグリ、動け! 立ち止まったらヤられるぞ!」
棒立ちのタグリを我に返したのは、二階の観客からの声。
タグリが見上げると、ガラスフェンスに寄りかかるようにして見下ろす男の姿。顔の半分を包帯で覆った――脱衣ハギトが叫ぶ。ヘアスプレーでホウキみたいに立たせた金髪はスパルタン・Z用のいでたち。試合には出れずとも共に戦うという意思の表れのように。
「ケンは真っすぐ走っていった。お前もゴールを目指せ!」
タグリが頷く。ハギトを支えるように寄り添う少女と少年――リンとバト――も何か言っていたが、その声は観客の声援に搔き消される。
だから、タグリは前だけ見据えて駆けだした。ホワイトアッシュにバイオレットが混じるショートヘアが腐った肉の臭いが充満するフロアでなびく。
走り出して間もなく、視界の端、左外周よりの一角にゾンビの群れを見留めた。そして長い黒髪と小柄で華奢なセーラー服――ヨミの姿も。ゾンビの群れへとヨミが切り込んでいくのを見て、衝動的にタグリは追いかけた。
手にした肉たたきで抵抗するでもなく、あっさりとゾンビに囲まれるヨミ。セーラー服とタイツ、タグリとは別の意味での黒づくめ。それを目印に、タグリは少年用の軟式バットを振り回しながら特攻していった。怯むこともないゾンビを半ば無視して、ヨミの手を掴むや群れから離脱する。
ゾンビたちから距離を置いた衛生用品コーナーに一時身を隠したタグリとヨミ。だが、開口一番ヨミの口から発せられたのは、
「余計なことをして。何のつもりですか、タグリさん?」
切り揃えた前髪越しに覗かせる冷めた瞳。裏も表もない非難の表情。
キョトンとするタグリへと、ヨミはアンダーリムの眼鏡を持ち上げながら嘆息する。
「レモングラスとジャスミンの精油。次亜塩素酸ナトリウムとエタノール。それに微量のアンモニアを混ぜ合わせたものを全身に振りかけることでゾンビの嗅覚を騙すことが出来るんです」
スカートを捲し上げると黒タイツに包まれた太ももが露になる。ヨミは太もものホルダーに収納していた消臭スプレーのボトルを取り出して見せた。
まじまじと見つめたタグリが納得する。
「アンタが今まで生き残ってきたのって、それのおかげってワケ?」
「一番の安全圏であるゾンビの集団に紛れてゴールを目指すという六炎六の作戦はこれで無に帰しました。権利の移譲のためにスタートエリアで隠れて待っていた時間も、囮のために中央に突撃していったウチのポイントアタッカーも、これで全部が全部無駄になってしまいましたよ」
「乱戦を演出しといて、ちゃっかりと冷静にゴールを狙ってたのかよッ。私ら全員、ゴウカに乗せられたってワケだ。あの煽り、あれはみんなの冷静さを欠くための演技だったんだな」
言いながら感心するタグリ。その隣でがっくりと項垂れるヨミ。
「ああ、ゴウカさんに怒られてしまいます」
慰める風でもなくタグリはヒィと笑うと、
「しっかし文学少女だとばかり思っていたけど、実は化学少女だったとはね」
「化学……少女……」むくりと顔を上げたヨミは納得するように呟く。
「化学少女、確かにそうかもしれません」
別段面白くもなさそうなフレームの奥の座った瞳。ヨミへと苦笑いを浮かべていたタグリに、一転して緊張が走る。
「伏せろヨミッ!」
ヨミが身を低くすると同時に、頭上を通り過ぎた物が棚を叩き鳴らした。衝撃で落下する洗剤。ケルベロスのメンバーが手にした棒を構え直すより早く、子供用のカーボン製黒バットが火を噴いた。ホームラン級の音を響かせ、ケルべロスのウィングが吹っ飛んで行った。
「さて、肩慣らしも終わったとこだし、私は先を急がなきゃな。じゃあな、ヨミ」
踵を返したタグリを、「待ってください」とヨミが呼び止める。
「借りは返しておきます」
言いながら、ポケットから取り出したものを投げた。
タグリが受け取ったのはペーパーナイフ。まるで実戦向きではなかった。それでもその気持ちが嬉しかった。
「サンキュ」すでにそっぽを向いたヨミへと短く言うと、タグリは走り出す。
(借りは返す、か。確かに借りたのなら、返さなきゃな――)
タグリは思う。
(――少なくとも前の試合で助けてもらったケンに、私は何も返せてない)
だから駆けた。ケンの下へと。
中央付近へと至ったとき、手ぬぐい頭に甚平姿で立つ懸衣の爺様を見つけた。瞳を閉じて深い呼吸を繰り返す爺様は、食品エリアの一部と化しているかのように誰の目にも捉えられていない。
「爺様ッ!」タグリの声に、付近のプレイヤーが反応する。タグリの存在に気づいて襲い掛かろうとした瞬間、爺様の瞳はかっと開いた。双眸に光が宿るや爺様の周りにいたプレイヤーたちは宙に舞った。
「真っ直ぐ最短で征けい!」
言われた通り、タグリは爺様の脇を駆け抜けた。
タグリを、ゴールを目指して駆け出そうとする集団の前へと立ち塞がる爺様。白く伸びた髭を撫でる好々爺の表情で、しかしきっぱりと言い放った。
「腰痛でな。儂ゃあ走れんがよ。お前らもこの先へは走ってゆけんよ」
XX
フィールドの三分の二以上を走り続けたケンが足を止める。
ゴールも間近というところまで来て、先発隊たる各チームのフォワードたちもゾンビの群れで足止めを食っていた。
短く呼吸を整えて、ケンもまたゾンビの群れへと突っ込んでいく。
普段なら中央に張っているはずの完全防護で身を固めた八寒レイドが、ケンの後を追って駆けてくる。ポイントアタッカーがタッチダウンを決めた後でなければ、チームの他プレイヤーにゴールの権利は発生しない。スパルタン・Z参加者にすれば周知の事実。しかし重い体を揺らしてやってくるレイドは必死の形相で繰り返していた。「レースなんて知ったことか。死んでたまるか」
そのすぐ後ろをウィング陣――ソラとモトル――がすでに迫りつつあった。
レイドを抜きざま、行動を起こしたのはモトルだった。ダメージ加工の施されたデニムジャケットとレザーパンツのロックスタイルな衣装。口元を覆ったバンダナと立たせた金髪、その間で目が暗く光る。振り上げたのは、物干し竿を改良した長獲物。ゾンビ目掛けて振り上げたはずのそれが、軌道を変えてケンの後頭部へと振り下ろされる。
「モトル、お前のやり口なんてお見通しだよ」
長得物はダークブラウンの短髪を掠めた。だがケンの躱す動作に切迫感はない。完全に見切っていた。不意打ちなど、自身の後ろにモトルが張り付いたときから想定済みだった。
モトルが長獲物を脇に締め、突きの構えに移行するのを目に留めながら、ケンはアーミージャケットの左のポケットへと左手を突っ込む。
「せやあ!!」
気勢を上げながらモトルが突き出す瞬間、ケンはポケットから取り出した物のスイッチを入れる。ボイスレコーダーを改造した改造スタンガン。ワイヤー針が発射される。針が命中すると同時に流れる電流。デニムジャケットに施されたダメージ加工が迸ったが衝撃の強さを演出して見せているようだった。ガクガクと全身を振るわせた後で、モトルは倒れた。
ケンのグリーンのアーミージャケットには自作の武器が忍ばせてあった。右ポケットにはミンチ銃。背中に括り付けられたホルダーにはコードレスの電動包丁にチェーンソーブレードを取り付けた、超小型の改造チェーンソーがしまってある。どちらも対ゾンビ用の武器だが、今回は左ポケットに忍ばせた対人武器を使用した。両利きのケンにすれば選択からの初動など、早撃ちみたいなものだった。改造スタンガンは予備の物がもう一つ残っている。
胸を撫で下ろしたのも束の間、響いた悲鳴にケンは振り返る。
「うわあぁぁぁ、た、助けてっ、誰か助けてぇぇぇぇ」
ゾンビの群れに呑みこまれていく重武装。重ね着たスノボウェアとプロテクターの数々、機動性のなさに抵抗もままならない。なりもふりもかまわず、絶叫するレイド。
軽く舌打ちするケン。だがケンが動くより先にその前へと別の影が躍り出た。重なる視線――ソラだった。
サイドをクロスのヘアピンで留めたサラサラの髪がなびく。ソラはゾンビを切り刻んでいった。纏った少し大きめのライダース、その裾から凶器が突き出ている。手の甲に鍵爪状に取り付けられた三叉の刀身――三本の刺身包丁を固定した突き刺す刃物。小柄な体躯がアクロバティックに躍動する。双腕を薙ぐたび、左右六本の爪がゾンビをなます切りにしていった。自然とゾンビの意識がそちらに向く。
「ケンッ!」
後方からの声に振り返る。シャツにネクタイ、ミニスカートからショートブーツに至るまで全身黒のコーディネート。そして駆けるたび揺れるホワイトアッシュにバイオレットが混じったショートヘア。タグリの姿を認めて、ケンは小さく頷き返す。
そしてゾンビの壁が手薄になった場所へと特攻していった。後ろにタグリが続く。ちらと向けた視線の先で――ソラが嗤う。
「みんなくたばっちまえ!」
不意に上げた怒声はモトルだった。電撃の後遺症で立ち上がることはできない。それでも右手を高く伸ばしていた。握られていたのは、レザーパンツのポケットにしまってあった――携帯電話。
ケンは誰ともなしに呟く。
「言ったはずだぜ、モトル。お前のやり口なんてお見通しだってな」
スパルタン・Zの開催が突如として知らされたのは、当初の予定より七日も前、前回のレースが開催されたのは昨日の話だった。誰もが、そしてケンも準備らしい準備なんてほとんど出来てはいなかった――ただのひとつを除いては。
モトルが携帯電話のボタンを押した。しかし何も起こらない。
繰り返しボタンを押し続けるモトルへと、ケンは声を張り上げた。
「誰かに先にゴールされるくらいなら全部ぶっ飛ばしちまおうと思ったんだろ? お前がしかけた即席爆発装置《IED》なんて、とっくに使い物にならないぜ」
在庫品の携帯電話で通話なんてどだい無理な話。だが任意で信号を送るリモコンの代わりくらいにはなりえる。モトルが携帯電話を持っていたのを見た瞬間から、ケンはその可能性を疑っていた。発信するリモコンがあるなら、受信する何かがあるはずだ、と。
そして一番シンプルな回答へと至った――爆弾。受信する爆発装置は階段の程近く、消防用のホースの中に仕込んであった。だからサラダ油が充填されたポリタンクふたつを、ケンは昨夜のうちに処理しておいた。
呆然とするモトルを置き去りに、ケンとタグリはエスカレーターを駆け上った。




