ヒトの味を知ってしまった熊
「ヒトの味を知ってしまった熊の話を知ってる?」
そういって彼は、少し首をかしげて微笑んだ。締め切ったカーテンから漏れる、淡い光に照らされた頬は、ゼロ距離でも少し陰って見えた。私は首を振りながら、彼から目を背ける。枕に髪の毛がこすれる音が耳に響いた。タオルケットからはみだした素足に寒さを覚え、這わせるようにして彼の足に絡ませる。
「人里に降りて人を食ってしまった熊は、そのあまりのおいしさに木の実では生活できなくなってしまうんだって。」
彼はささやくように言葉を紡いだ。私は右手で握っていた彼の指をほどき、そのまま彼の頬を軽く包んだ。もう一度彼と目が合う。今度はそらさずに数秒見つめあった。
「その熊も不幸ね。ヒトの味を知らなければ、木の実で満足してずっと幸せに生活できたのに。ヒトの味を知ってしまったら、もう後戻りはできなくなってしまう。人里に何回もおりてきたら、捕まえられて殺されてしまうわ、きっと。」
吐き出した言葉は、仄暗い部屋に思ったよりも強く響いた。彼は微笑んだままだった。
「知らなければよかった、と思う?」
彼はまた、たずねた。私は、彼が本当にしたいのは、ヒトの味を知ってしまった熊の話ではないことを、とっくの昔に気づいていた。
「ううん。やっぱり思わないわ。」
「そっか。」
彼は私の身体を深く抱きしめた。しかし、どれだけ貪欲に抱き合っても、この空虚な何かが永遠に埋まることはないのだと、二人ともわかっていた。
「それでも、知らなければよかったとは思わない。」
ささやいた声は、彼の喉元に吹きかかって消えた。彼にもきっと聞こえていただろう。
窓の外から、電車の音だけがかすかに響いていた。