子爵子息とティモス家
しばらくルーク視点の話です
僕の名はルクハルト・アストリッヒ。東部公爵、アストリッヒ家の息子だけれど、「フォス」の名を持たないことから分かるように、僕は公爵家の嫡子ではない。四歳の時に公爵家の養子に入った。それまでは、アストリッヒ公爵領の北部にある小さな村に領地を持つティモス子爵家で生まれ育った。ティモス元子爵夫妻が、僕の両親だった。
ああ、違う。彼らは今も変わらず僕の両親だ。
他の誰でもない、僕のたった一人の義姉、ジュリア・フロス・アストリッヒ公爵令嬢が、それを認めてくれた。
僕の生家のある地方は、温暖な気候のアストリッヒ公爵領の中でも、寒冷な場所だった。アストリッヒという古語で「豊かな大地」という名前を持つ領なので、土壌の状態はそこまで悪くなかたったけれど(そりゃ、中央部の肥沃な土地に比べたら劣るけど、不毛地帯ということはなかった。)、すぐ北にある冷山、ザミェーク山脈の影響を受けて、たびたび冷害の被害を受ける土地だった。そして、祖父の代に特に酷い冷害が起きた。麦の収穫間近に起きた冷害で、育てていた麦の半分以上を駄目にした家もあった。
冷害で収穫量が落ちる年に備えて、ほとんどの家では備蓄をしているから直ぐに食べ物に困ることが無かったのは幸いだっただろう。子爵家の備蓄もあったので、領民で餓死者が出ることはなかった。
ただ、冷害の影響で採れる籾種の量も少なく、収穫量が回復するまで数年がかかった。そしてその間に、農地を離れ南下する農夫も多くいたらしい。農業を主産業とする土地は、農夫の流出がそのまま税収の減少を意味する。力の弱い小貴族は離れていく農夫を引き止める力もなかった。実際に彼らを雇い入れることができるだけの資力もなかった。
そうして、ティモス子爵領は少しずつ先細り、父の代ではティモス家が持つ畑と、僅かな使用人と領民が残るだけになった。家には麦畑を始めとするいくつかの畑と、家畜もいたから食うに困ることはなかった。けれど、子爵家として必要な資力を得るには足りなかった。
爵位を返上してしまえば、貴族としての責務が免れ、生活そのものは楽になっただろう。貴族と言っても名ばかりで、その地位そのものに未練はなかった。それでも、それを簡単に選べないほどに、父はこの土地に思い入れがあった。
「この畑だけは守らないとな」
黄金に輝く畑を見ながら、眩しそうに目を細めながら、父はよくそう言った。
他の畑を売ったり、貸し出したりしながら、何とか領地経営をやりくりしてきた。何も出来ない幼子の自分が悔やまれた。爵位なんかなくても、家族三人で暮らしていけたら、それでいいと思っていた。
父さんはいつも
「大丈夫だ。お前は何も心配する必要ないからな」
そう言って陽だまりのように笑って、大きな手で頭を撫でてくれた。
それがとても嬉しくて、そして同時に悔しかった。父さんの手と比べものにならないくらい小さな手。何も支えることの出来ない手。
小さなこの手で両親を助けることは出来なかったから、せめてもと知識を蓄えようと思った。簡単な読み書きや算術は両親に習い、両親が仕事で忙しくしている時は、近隣の領地と共同の教会に行って、併設されている図書館で本を読んだ。図書館、と呼べるほど立派なものではなかったけれど、田舎ではこれが精一杯だった。
早く大人になりたいと願っていた。もっと大きくなれば、領地経営の手伝いもできる。両親は、農夫としての腕はそこそこあったのだろうけれど、優しすぎるせいか、領地経営はあまり得意なようではなかった。大きくなれば出稼ぎに行くこともできる。貴族のくせにと笑われたって構わない。
パリアルド側のザミェーク山脈の地脈では氷の精霊石が採れる。鉱夫の仕事はきついが、それでも収入はいいと聞いた。少しでも領地の足しになることをしたかった。
だけど、現実は厳しく私財を切り崩してやりくりしてきたツケが回ってきたのか、子爵家の財政は傾くばかりで、僕が大人になるまでは待ってくれなかった。
夜更けに目が覚めた時に、両親が麦畑を手放すしかないのかと苦悩している姿を見た。
そうして、それからしばらくして、アストリッヒ公爵家から、僕を養子に迎えたいという話が来た。
父さんは直ぐに返事をしなかったが、断りもしなかった。
「お前が行きたくないないと言うのなら、この話は断るつもりだ。ただ、公爵家に行けば、もっといい暮らしも、もっといい教育も受けることができる」
両親と一緒にいられるのなら、今の暮らしのままで充分だった。だけど、それを言うことは出来なかった。
両親は、僕がアストリッヒ公爵家に行くことを望んでいるのだと感じてしまったから。
爵位を返上し、領地を公爵家の預かりとし、僕が公爵家の養子になれば、両親はそのままここの農地管理者として暮らせるという話だった。屋敷も、畑も、あの麦畑も、手放すことなく暮らしていける。
行きたくなかった。でも、両親を悲しませて、苦しませたくもなかった。
僕が「だったら行くよ」と言った時、両親がほっとしたような、喜ぶような顔をしたようなに見えた。
ああ。あの麦畑のために、僕は売られるのか。
領地も、両親のことも好きだったけれど、あの麦畑だけは、ほんの少しだけ、嫌いだった。何よりも大事に守られるあの麦畑が。




