【零】三年前
アーバイン・スミスは部屋を出てすぐに、小さな声で悪態をついた。胸中にはやりきれない思いが渦巻いている。スミス家の老頭首、つまりは彼の父親であるクライブ・スミスのことである。
クライブ・スミスは御年八〇を超え、病床に伏せりながらも、スミス家においては絶対的な発言権を有していた。その息子であるアーバインは今ほども、その頭首から頭の痛い苦言を受けてきたばかりである。
「孫娘に資質無しと認めた場合、シビル・カーペンターズを次の頭首候補として考えている」
それが、アーバインが老頭首に先ほど言われた言葉である。スミス家の血を引く長女、ラモーナを差し置いて、孤児の小娘に家督を継がせようというのだ。
……何を考えているのだ、あの老体は!
そんな憤りすら覚えながら、アーバインが乱暴に扉を開けて書斎に入ると、室内には二人の男がいた。執事服を着た男と、ソファに腰掛けるローブ姿の男である。浅黒い肌をした壮年の執事は、主の来室を認めると恭しく頭を下げる。
「お役目、お疲れ様でございます、旦那様」
「アルフワーズ、お茶を」
「すぐに」
執事、アルフワーズがポットとカップを用意するのを尻目に、アーバインはソファに穴を空けるかのような勢いで腰を落とした。目頭を揉みながら大きく溜息をつく。 その様子を見ながら、対面に座ったもう一人の男が口を開いた。
「ご機嫌は宜しくないようですな、アーバイン殿」
「まったくだ!」
言葉尻に憤りを露わにする旧友の姿に、男は苦笑を浮かべる。アーバインよりも少し年上の、老年の男である。その目尻には皺が時を刻み始めていたが、その瞳には理知的な鋭い光が宿っていた。
彼、イアーゴ・デリックはスミス家に使える魔法使いの一人であり、アーバインが心を許す数少ない友人の一人でもあった。
「また、頭首様の叱責ですか?」
イアーゴの問いに、アーバインはソファの肘掛けにもたれるように脱力しながら、うんざりしたように首を縦に振る。アルフワーズが差し出した湯気立つ紅茶に口をつけ、そこでようやく人心地ついたように吐息をもらした。
「頭首殿は例の予言水晶の戯言を、未だに真に受けているらしい」
予言水晶はスミス家に伝わる家宝の一つだ。魔力を源にした演算機能により、近い未来を予測する魔法機械。スミス家がかつて魔法貴族として隆盛を誇ることが出来たのは、ある意味ではこの道具のおかげでもある。しかし、それが今はアーバインにとっては頭痛の種でしかなかった。
「まったくもって忌々しい。あんな硝子玉、今すぐにかち割ってやりたいくらいだよ。あの水晶に従った結果に今のスミス家の衰退があるのだ」
アーバインはそう吐き捨てる。かつて「最果ての島にスミス一族あり」とまで謳われた、王国有数の優秀な魔法使いの血統、それがスミス家である。しかし、それもまた今は昔の話だ。当世のスミス家は歴史に名を残すような魔法使いを一人たりとも世に送り出せていない。今から七年前の災厄にしても、それを収めたのはあの若き粒子と波の魔女である。
「しかし」と、イアーゴは真剣な眼差しで対面を見やる。「あくまで中立的な意見を申し上げますと、私の見立てでも、おそらくご息女よりあの居候の方に先天的な資質があることは事実です」
その言い回しには、しかして揶揄の色は無い。
イアーゴ・デリックはかつて王都ディンカムシンカムで、魔法騎士の育成に携わっていた人物である。『数字と星の魔法使い』の異名を持つ彼は、その優れた分析力と指導力で数多の魔法騎士を世に送り出してきた。彼は特に、人の持つ魔力を綿密に『視る』目を持っている。そんな彼の言葉には、どこか公平な説得力があった。
「魔法とは一を百に、或いは千や万、億にするものです。最初の一があってこその魔法———しかしあの娘、シビル・カーペンターズは根源の零を一にすることが出来る。いずれ育て上げれば、零から無限を生み出す希有な魔法使いになりましょう」
その冷静な分析は、むしろアーバインにとってはある意味では頼もしくもあった。アーバインは紅茶をまた一口啜り、昂ぶりを落ち着かせる。
「確かに、魔力具象化は得がたい才覚だ。思えば分家のカーペンターズ家の歴々には、そのような魔法使いが多かった」
カーペンターズ家の忘れ形見である十三歳の少女、シビル・カーペンターズ。その両親は七年前の災厄によって亡くなり、今や彼女は天涯孤独の身である。スミス家はその後見人として彼女を屋敷に住まわせているが、もし正式にシビルをスミス家の養女に迎え入れ、魔法使いとして育て上げることが出来たならば、それはかなり有益な話だ。しかし———。
……ああ、ラモーナ! 我が愛娘よ!
アーバインの胸中に渦巻くのは、シビルと同い年のひとり娘のことだった。七年前の災厄で彼は伴侶を亡くしている。母親のいないラモーナに対して、アーバインは並々ならぬ愛を捧げて育ててきた。彼の人生はラモーナの為にあったと言ってもいい。彼女を偉大な魔女に育てあげ、スミス家の頭首として時代に名を残すことが出来れば、彼の人生の本意は果たされるだろう。
それが、見ず知らずの、自分と異なる血が流れる小娘に、家を継がせねばならぬとは!
「ラモーナ様もまた、非凡な才能をお持ちです」と、イアーゴが言う。「すべての魔法系統の資質が、平均より抜きん出ています。しかし、やはり特異な一の資質と見比べると……」
「分かっている」と、アーバインはその先を押しとどめるように掌を上げた。「———して、娘にその特異な資質を与える方法は、どうなっている?」
アーバインの投げかけに対して、イアーゴは内なる自信を滲ませる笑みを浮かべた。
「順調です。ご覧になりますか」
「無論だ」
アーバインが立ち上がると、寡黙なる執事が慇懃に頭を下げながら、静かに上衣を差し出していた。
◆
スミス家には長きに渡って代々、王国から与えられた使命があった。グレンシー島中央にある、英雄の神殿の管理である。それは数千年前に邪竜を倒し世界を救った英雄、グレンシーを讃えた神殿だ。神殿とは言いつつも、それは小高い丘の上にぽつりと立つ小さな建造物で、彫刻が施された大理石の柱が数本建ち並び、屋根の下には英雄グレンシーの墓碑が置かれているだけである。おまけにそこはスミス家の私有地であり、観光客の立ち入りを禁じているため、端から見ると随分と寂しい建物だった。
外は生憎の雨であった。泥濘む山道を歩いてきたせいで、神殿にたどり着く頃にはアーバインとイアーゴのブーツは泥まみれになってしまった。しかし、二人はその泥を落としもせず、冒涜的なまでに荒々しい足取りで神殿の中に入っていく。墓碑の前でイアーゴが呪文を詠唱すると、その墓石が低い音を立てて動き出し、目の前に地下への階段が現れた。イアーゴが指を鳴らすと、壁の松明が次々と明かりを灯していく。
長い階段を下り終えると、大きな空間に行き着いた。その空間には、まるで大樹の根のような、あるいは生物の血管のような茶褐色の管が、壁中を覆っていた。その壁の一画に、淡く緑色の光を放つものがあった。その周囲を取り囲むように、魔方陣が描かれている。
「邪竜の心臓の一部、その結晶です。間もなく摘出できるかと思います」
イアーゴの言葉にアーバインは満足げに頷いた。
「一年か。長かったな」
スミス家の使命である、英雄グレンシーの墓守。実はそれは表向きの姿で、真の責務はまさにこの地下の大空洞———通称『竜の心臓』にあった。
数千年前、世界を暴れ回り、大地を焼き払い、天空に『空の破裂』のヒビを入れた邪竜、ジャメヴラグナ。英雄グレンシーによって打ち倒され、その身体はやがて大海の果てで島となり、人々はそこをグレンシー島と名付けた———それがこの島に伝わる伝承である。多くの人々はこれを単なる伝説、一つのおとぎ話のようなものと捉えている。
しかし、事実は大衆の認識とは異なった。その伝承は紛れもなく過去に起きた出来事であり、この島は紛れもなく邪竜ジャメヴラグナの身体が朽ちて出来たものなのだ。しかし、身体は朽ちていても、幾星霜の寿命を持つ竜の生命は完全に消えたわけではない。言うなれば、竜は『永遠の眠りに就いている』状態なのである。スミス家に与えられた責務とは、この邪竜を監視し続けることだった。もっとも、竜が再び目覚める確率など、万に一つも無い筈だったのだが。
アーバインたちが『竜の心臓』でこの結晶を見つけたのは、今からちょうど一年前だった。心臓こそ動いていなかったものの、イアーゴの目は大空洞の壁、すなわち心臓の片隅に魔力の存在を感じ取った。分析してみると、それは僅かではあるが魔力を生成しており、胎動をしていたのだ。
イアーゴの分析によると、これは高位の魔法使いたちが生成する『魔法の心臓』に限りなく近いものであるらしかった。何故、こんなものが数千年も経った今になって胎動を始めたのか、そんな疑問はアーバインの脳裏を過った『とある計画』の前に霧散した。
この膨大な魔力の製造機構があれば、スミス家のかつての威光も取り戻せるのではないか。
そう———これを『魔法の心臓』として愛娘のラモーナに移植することが出来れば。
そのアイディアを実行に移す為、アーバインはイアーゴにこの結晶の調査を命じた。イアーゴの『眼』によれば、どうやら結晶は壁(つまりは、竜の体内である)と完全に一体化しており、その摘出は困難を極めるらしかった。既に膨大な魔力を内包しており、下手に取り出そうとすると暴発を起こしかねない。よって、魔術師イアーゴは持ち前の知識をすべて動員し、一年をかけて慎重に摘出作業を行った。もちろん、秘密裏にである。竜の墓守であるスミス家自らがその墓を暴こうなどと、王都に知られたら一大事だ。
だが、それもやがて報われる時が来る。そんな感慨深さから、アーバインは殆ど無意識に結晶に指先を触れまいと手を伸ばしていた。
「なりません」その手首を、イアーゴの手が捕まえる。「まだ魔方陣での制御が不安定です。迂闊に触れると、何が起こるか分かりません」
アーバインは胡乱に彼を睨む。
「そんな正体不明のものを、愛娘に本当に移植出来るのか?」
「それはご安心を」と、イアーゴは自信ありげな笑みを浮かべた。「『魔法の心臓』の移植は確かに難しい。火事場で火薬の塊を移動させるようなものです。しかし、その作業は私は初めてではありません。正しい手順を踏めば、何も心配はありませんよ」
イアーゴ・デリックは大魔法使いとして名を残すほどの才覚は持っていないが、殊、その知識と小手先の技術においてはこの世界でも数本の指に入るほどの術士である。アーバインはそんな彼を見つめながら、ぽつりと訊ねた。
「他に誰がいる?」
「はい?」
「その『魔法の心臓』の移植が出来る魔法使いだ」
イアーゴはしばし考え込んだ後、やがて恐る恐るその名を口にした。
「……例の、粒子と波の魔女くらいでしょう」
アーバインは思わず舌打ちを漏らしそうになった。
忌々しき大魔女ジャムカめ! 我々スミス家を差し置いて、英雄扱いなどされおって!
それは完全にアーバインの逆恨みであった。それを知るイアーゴは、内心で溜息をついていた。
「陽も暮れてきました。主、あとの作業は私に任せて、そろそろお戻りください」
「ああ、そうさせてもらおう」
ジャムカのことを思い出し、苦々しい思いを歯の奥で噛み砕きながら、アーバイン・スミスは竜の心臓を後にする。
———それと時を同じくして。
その男の苦々しさの原因たる魔女が、七年ぶりにグレンシー島を訪れていた。
◆
老魔法使い、マイクロフト・デ・ラ・パスは目に映る文字がぼやけてきたのを覚えて、顔を上げて窓の外を見やった。雨雲が陽の光を遮っているせいもあり、既に書斎の中は薄暮に包まれていた。老魔法使いは立ち上がり部屋の中央まで行って、杖を天井に向けて振るう。室内に備え付けられた七つのランタンが、一斉に燦々とした明かりを灯した。
さて、書物の続きを読もうと机に戻ろうとしたとき、思わず彼は驚きの声を上げてしまうところだった。
「———お久しぶりね、お師匠さま」
先ほどまで彼が座っていた机には、一人の魔女が座っていた。
まるで竜のような深紅の瞳を持つ、美しい女性である。豊満な胸を強調する、さながら下着のような衣装の上に、豪奢な金装飾が施された漆黒のコートを羽織っていた。その背中まで伸ばした長い髪は、ランタンの明かりの下で紅から蒼へ、そして碧へと柔らかに彩りを変えている。端から見ると悪趣味とも思える魔法だが、彼女にとってはこれが自分なりの洒脱な装いらしい。
マイクロフトは七年ぶりにその人物を認めて、驚きの後に細やかな怒りが湧いてきた。だが、その感情もやがて訪れた辟易の前に霧散する。老魔法使いは諦めたような口調で、その名前を呟いた。
「……七年ぶりかの、ジャムカよ」
粒子と波の魔女、ジャムカ・レット・ディンケルスビュール。かつて夢と呪いの魔女ルナヤ・プラウダを打ち破り、グレンシー島を災厄から救った英雄。そして、マイクロフト・デ・ラ・パスの最初の弟子だった。
「懐かしいわね、この椅子」と、ジャムカは自分が腰掛ける樫の椅子の肘置きを撫でる。「よく悪戯をしたのを覚えているわ」
「そのたびにぶち壊してくれておったな。粉々に爆破されたときなぞ、よっぽどお前の頭を万力で締め潰してやろうかと思ったわい」
椅子を奪われた部屋主は、手近にあった籐の椅子を魔法で近くに呼び寄せた。腰を下ろして一つ溜息を挟んでから、彼はじろりとジャムカを見やった。
「それで、何の用じゃ。まさか里帰りをするような殊勝な人間でもあるまい」
「酷いわね。少しは愛弟子と旧交を深めようとは思えないの?」
「お前とそんなものを深めようとすると、儂は心労で寿命が縮むわい」
師のうんざりした視線を受けて、ジャムカは可笑しそうに笑った。
「それは失礼。それじゃ早速、本題に入らせてもらうわね」と、ジャムカは机の上に頬杖をつき、瞳に鋭い冴えを宿した。「———ついさっき、ジャメヴラグナの存在を感じたの」
その名前に、マイクロフトはぎょっとする。
「何じゃと? そんな、まさか」
「正確には、感じた気がしたのよ。それで途中の仕事を放って飛んできたの」
虫の知らせ、という奴だろう。しかし、マイクロフトは彼女の虫の知らせの精度を知っている。
「……となると、スミス家か」
老魔法使いが口にした名前に、ジャムカは顔を顰める。
「そういうこと。ちょっと調べに行きたいところだけど、私、苦手なのよね、あの家の連中」
「向こうもそう思っていることじゃろうて」
「私、特にあの家に何もしてないんだけどなぁ。なんでこんなに嫌われてるのかしら」
「それを理解する為には、おまえには弱さが足りんよ」
ジャムカは師の言葉を反芻する沈黙を置いてから、なるほど、と手をぽんと叩いた。
「それじゃ、考えるだけ無駄ね」
相変わらずの業腹な言葉にやれやれと首を振りながら、老魔法使いは言う。
「あまり問題は起こしてくれるなよ。あの家の連中からは、儂もただでさえ肩身が狭いんじゃ」
おまえのせいでな、という言葉だけは呑み込んだ。
その言葉をさながら川の水の上に浮かべるかのように、魔女ジャムカは不敵に微笑んだ。
「そうね———それは、相手の出方次第かしらね」
◆
その翌日は、打って変わって快晴だった。
朗らかな昼下がりの太陽が世界を照らす頃、大魔女ジャムカは正面からスミス家の門戸を叩き、現れた使用人に名乗ると、文字通りの門前払いを喰らった。
スミス家の大理石の門が大出力の魔力で粉々に吹き飛んだのは、その数分後である。
◆
魔女ジャムカによる門破りから数時間前、ラモーナ・スミスはいつも通り、シビル・カーペンターズを屋敷から連れ出していた。ラモーナの気まぐれに付き合わされることはシビルにとってはいつものことであったが、それでも今日はあまり気が乗らなかった。あの場所には絶対に入らないようにと、メイド長のセシルからもきつく言いつけられているのだ。
「ねぇ、ラモーナ。やっぱり良くないと思うよ」
シビルの不安げな言葉を、しかし、ラモーナは鼻で笑い飛ばす。
「いいから、あなたは黙って付いてきなさい。命令よ」
昨夜の雨のせいで、地面はまるで二人の華奢な両足を引き止めるようにぬかるんでいた。しかし、ラモーナはそれを振り切るかのように足を早める。その向かう方向は雑木林を抜けた先、英雄の墓碑の丘だ。
シビルは弱々しくも、その傍若な友人に忠言を続ける。
「引き返そうよ。旦那様からだって、あの丘の墓碑には行っちゃ駄目だって言われてるんでしょ?」
「私の家の敷地の中よ。私が入っちゃいけないなんて、そんな理屈が通るものですか」
ぶっきらぼうに言って、ラモーナは更に足を早める。
シビルには見せないようにしていたが、この数日間、ラモーナは内心で焦燥のようなものを抱いていた。魔法女学院への入学はもう三ヶ月後まで迫っている。今までは屋敷の中で、顧問魔法使いたちが個別指導で魔法を教えてくれていたが、これからはそうではない。その実力を多くの他人と比較されていくことになる。
自分は大魔法使いの一族、スミス家の魔女だ。私は周りの誰よりも秀でた魔法使いでなければならない。そんな自負が、今は不安となって彼女を焦らせていた。
額に浮かんだ汗を拭いながら、ラモーナは独り言のように呟く。
「あそこにお父様が何かを隠しているのは、もう知っているんだから……!」
数日前、ラモーナは書斎の扉の前で父親と顧問魔法使いの会話の一端を聞いていた。曰く、墓碑の地下に、自分のための『何らかの魔法』を隠している、という話である。
――その『何か』の正体さえ分かれば、この雨雲のように暗澹とした焦燥もかき消せるかもしれない。安心できるかもしれない。
「でも、ねぇ、ラモーナ……」
「うるさいわね、居候の分際で、私の言うことが聞けないの!」
怒鳴って、ラモーナは忌々しげにシビルを睨む。
イライラの原因は、このシビルという少女にもその一端があった。
シビルはスミス家の分家であるカーペンターズ家の一人娘で、今はスミス家の居候だ。同い年のラモーナとは奇妙な幼馴染関係である。しかし、幼馴染とは言いつつも、分家であり居候であるという認識は、幼い頃からラモーナを増長させていた。シビルもまた、居候という負い目からラモーナに歯向かえずにおり、そこには暗黙の主従関係のようなものが形成されていた。
自分にとってシビルは格下の存在。それがこれまでのラモーナの認識であった。
しかし、そんなシビルが最近は著しく魔法の力量を身に着け始めている。何より決定的だったのはつい先日のことだ。シビルがラモーナの目の前で魔力を具象化し、羽ばたく蝶を作ってみせたのである。同じ魔法をラモーナも隠れて練習してみたが、一度も成功したことはなかった。
――何故、シビルに出来ることが、私に出来ないのよ!
幼さゆえの狭量な世界観が、彼女に初めての、そして痛烈な劣等感を与えていた。
やがて二人は林を抜け、開けた丘陵に出る。丘の上に見える小さな神殿を見据えて、ラモーナは言う。
「あと少しね。行くわよ」
シビルはもう引き止めることは諦め、大人しくラモーナの後に続いた。そのままラモーナを置いて帰ってしまおうかとも思ったが、そんなことをしたらセシルにくどくどと文句を言われかねない。
そして何より——。
「……泣いてる?」
シビルが呟く。目の前の神殿、その地下の方で、誰かが泣いているような気がした。
◆
書斎のソファで午睡を取っていたアーバインは、突然屋敷を揺るがした爆音に飛び起きた。
「何事だ!」
咄嗟に叫ぶと、それと時をほぼ同じくしてイアーゴが部屋に飛び込んできた。彼は入るなり、伝聞された情報の欠片を叫ぶ。
「賊が屋敷の門を破ったようです!」
「馬鹿な、結界は?」
「力ずくで破られたようで……」
アーバインは愕然とした後で、はっと気づく。スミス家の邸宅を守る防壁はそう簡単に破れるものではない。そんなことが出来るのだとしたら……。
「——ノックの音が大きすぎたかしら?」
書斎に突然響いた凛とした声に、二人は思わず振り返る。いつの間にか、机の上には一人の魔女が艶めかしく足を組んで腰掛けていた。
「お邪魔するわよ、スミス家の皆さん」
そう言って、彼女は不敵な笑みを浮かべる。一方で、アーバインとイアーゴは忌々しげにその闖入者を睨みつけた。
若い女である。七色に変わる長髪と、肢体を露わにした下着のような衣服の上に、男物の無骨な黒いコートを羽織っている。その瞳には烈火のような強い意志の光があった。その異貌を、この島の人間が知らぬはずがない。
曰く、粒子と波の魔女。世界を救った英雄。数多の世界を渡る大魔法使い。
「魔女ジャムカ……!」
アーバインが憎々しげにその名を口にすると、当の本人は涼し気な笑みを浮かべた。
「覚えていてくれて光栄よ、アーバイン・スミス。ちょっとあなたに訊きたいことがあってお邪魔したの」
アーバインは小さく息を吸い込んだ。そして、その場の主導権を奪われぬよう、慎重に口を開く。
「私の屋敷の者たちは?」
「ああ、わざわざ正面玄関からお邪魔したっていうのに門前払いするものだから、全員石になってもらったわ」
「全員、だと?」
目を見開くアーバインに、ジャムカは得意げに胸を張る。
「『時との離別』は私の得意な魔法でね。その気になれば、島にいる全員に一斉にかけることが出来るわよ。大丈夫、用が済んだら戻してあげる」と、そこで魔女は戯けるように微笑む。「あと、さっきの爆発のけが人もいないわ……たぶんだけど」
あまりにも傍若な言葉にアーバインは頭に血が上りかけたが、すぐに冷静になる。ここで反を呈したところで、彼女を止められるわけではない。
しかし、その隣のイアーゴは喩えようもない屈辱を覚えていた。自身が全霊を込めて作り上げた結界を、まるで薄氷を割るが如く容易く打ち破られたのだ。理性を上回った感情は、彼のローブに隠された右手に密かに魔力を走らせていた。刹那の後にそれを目の前の魔女に向けて放とうとした瞬間、ジャムカの瞳が妖しく瞬いた。
「——無駄よ、数字と星のデリック」
彼女が呟くと同時に、イアーゴの右手は空間に縫い留められたかのように動かなくなってしまった。顔を歪めるイアーゴを、ジャムカは冷徹に宥める。
「意趣返しのつもりなんでしょうけど、秘匿術式が脆すぎる。それじゃ暗闇の中でマッチを擦るようなもの、容易に先手が打てるわよ」
「ならば——」と、イアーゴは怒気を込めて彼女を睨む。「これはどうだ」
イアーゴの言葉に次いで、ジャムカの背後の窓硝子が砕けた。それをぶち破って突入してきたのは、浅黒い肌の壮年の男である。——執事、アルフワーズはその拳に大出力の魔力を迸らせて、獰猛な勢いでジャムカに殴りかかる。
予期せぬ奇襲に一瞬、ジャムカの表情に驚愕が宿った。しかしその驚愕に焦りは無い。さながら、玩具のびっくり箱を目の当たりにした程度のものだ。これくらいは慣れたものである。
「まだ脆いわね」
魔女が呟いた次の瞬間、アルフワーズの拳は見えない壁に弾かれ、彼は体勢を大きく崩す。そこにジャムカの足が絡みつくように振るわれ、あっという間に彼は彼女の尻に敷かれ、床に組み伏せられてしまった。
「——ふん、なるほど、これが例の魔女か、たしかに生半可では勝てる気がせんな」
アルフワーズの身体が床に向かって呟いた言葉は、誰の耳に届くでも無く消えていった。
「くっ……旦那様、不甲斐なき有様、面目次第もありませぬ」
本来の役回りとしてのアルフワーズが、苦渋の表情で主に言う。その傍らのイアーゴもまた、苦虫を噛み潰したような顔で悔しげに俯いている。それらの様子を見て、アーバインは大きく息を吸い込んだ。
「——わかった、貴様の言い分を聞こう、ジャムカ。我が執事を離せ」
「ようやく交渉の席が空いたわね。さすがは名門スミス家、椅子に着くのも大変だわ」
茶化すようにいって、ジャムカがアルフワーズの身体から腰を上げる。
「それじゃ、単刀直入に聞くわ——あんたたち、竜の心臓で何をやってるの?」
ジャムカが切り込んできた話題に、不覚にもアーバインとイアーゴの息が一瞬だけ止まった。それを見逃すジャムカではない。彼女は大きく溜息をついた。
「やっぱりね。おかしいと思ったのよ。あれがそう簡単に動き出すはず無いもの。それで、何をやったの?」
逡巡するイアーゴの視線を受け、アーバインは観念したように俯いた。やがて、重々しく口を開く。
「……一年前、竜の心臓の壁面に、胎動する『魔法の心臓』のようなものを見つけた。その調査をするために、現在はその摘出を試みている」
墓守としての体裁を繕うような言い訳だったが、ジャムカは意にも介さなかった。
「『魔法の心臓』?」と、ジャムカの目が疑念に細められる。「あり得ないわ。邪竜は永遠に眠っているのよ。微量の魔力すら宿る筈がない」
「しかし、事実だ」反論したのはイアーゴである。「魔力の膜が張られていたが、たしかに——」
「魔力の膜ですって?」ジャムカの目が驚愕に見開かれる。「それは何層だったの?」
気圧されるように、イアーゴは答える。
「な、七十七層だが……」
それを聞いた瞬間、ジャムカは立ち上がって身を翻した。
「最悪だわ!」
次の瞬間、魔女ジャムカの身体が粒子のように散り散りになり、空間に溶けるように消えていった。
それを確認し、アーバインの口が彼自身のものではない言葉を紡ぐ。
「——ここまでは予定どおりだ。俺たちも竜の心臓に向かおう」
イアーゴとアルフワーズの身体が、頷きを返した。
◆
ジャムカがアーバインの書斎を訪ねる数分前に、ラモーナとシビルは英雄の丘まで辿り着いていた。神殿に足を踏み入れ、二人は墓碑の前まで歩みを進める。ラモーナが懐から紙片を取り出し、たどたどしく呪文を詠唱した。父親たちの会話から盗み聞きしてメモしていたものだ。何度か言い直して、最後の一行まで詠唱を終えると、やがて目の前の墓碑が重々しい音を立てて動き出した。足元にぽっかりと口を開けた地下への階段を前に、二人は息を呑む。階下は暗闇で何も見えない。
「……行くわよ」
自分に言い聞かせるように言って、ラモーナは一歩足を踏み出す。杖を振るってその先端に周囲を照らす光を灯した。シビルは無言で彼女の後に続いた。
不思議なことに、シビルに恐怖は無かった。一歩一歩、地下へと下りていく度に強まっていったのは、奇妙な共感だった。
最後の一段を下りたとき、二人の前に現れたのは半球形の空間だった。二人が足を踏み入れると、魔法仕掛けであるらしい松明に勝手に灯が点っていき、周囲の有り様を照らし出した。
その空間は広大で、あるいは民家の一つや二つくらいならこの中に建てられそうなほどであった。その壁面は木の根のようなものでびっしりと覆われており、まるで巨大な生物の身体の中のようである。シビルは頭上高くにある天井を見上げながら、呆然と呟く。
「丘の地下にこんな空間が……」
「あれは、何?」
ラモーナが訝しげに見やった先の壁には、淡い緑色の光を放つ球体が埋め込まれていた。光は脈動するように明滅を繰り返し、その周囲の空間には四つの魔法陣が浮かんでいる。それを前にして、二人はぴりぴりと皮膚を刺激するような魔力を感じていた。
シビルは、その形状と緑色の輝きをどこかで見たことがあるような気がした。やがて、それが知識として自分の奥底に静かに沈んでいるのを見つける。
「これ、『魔法の心臓』……?」
シビルがぽつりと呟く。かつてスミス家の図書室で読んだ文献に記されていたものだ。曰く、所有者に莫大な魔力を与える魔法機関。それを魔法使いの身体に埋め込めば、自分の魔力源と合わせて無尽蔵に近い魔法を使うことが出来る、と。
それを聞いて、ラモーナは抱いていた疑問が胃の腑に落ちる。
「きっとこれだわ、お父様が私に用意してくれているものって!」
彼女の中で凍りついていた不安が、まるで雪解け水のように流れ去っていく。肌で分かるほど膨大な魔力量の源——これさえあれば、自分は特別な存在になれる。スミス家の偉大なる魔女という立場が保証される。ラモーナが覚えたのは、歓びよりもそういった安堵だった。
一方で、シビルは怪訝な顔を浮かべていた。先程からずっと感じている奇妙な共感のようなもの、それがまさに目の前の物体から放たれているように感じられたのである。しかも、その共感は彼女の中のとある閾値を超えつつあった。そう——恐怖に近いものに変わりつつあったのだ。
「ラモーナ、もう戻ろう。ここ、何だか凄く嫌な感じがする」
シビルがラモーナの袖口を引っ張る。しかし、彼女はそれを振りほどいて鼻を鳴らした。
「何よ、自分が追い越されそうで怖くなったの?」ラモーナは得意げに嘲笑してみせる。「見てなさい。これさえあれば、私にだって魔力の具象化くらい簡単に——」
と、ラモーナが一歩、その脈動する光球に近づいた時だった。ラモーナの着る服の裾が、球体を囲む魔方陣に微かに触れる。シビルの全身が総毛立ち、彼女は思わず叫んでいた。
「駄目、ラモーナ!」
「え?」
その四つの魔方陣が、魔法使いイアーゴ・デリックの構築したものであることを、このときの二人はまだ知らなかった。そしてそれが光球の防壁魔法を解除するためのもので、極めて微妙なバランスを維持しながら展開されているものであることも。
ラモーナが引き起こしたその微弱な接触は、それまでの精緻な均衡を崩すのに充分だった。空中に浮かぶ魔方陣の一つが微かに震えだしたかと思うと、それは他の三つに伝播していく。四つの魔方陣は強風に煽られる木の葉のようにぐらぐらと揺れだし、やがて硝子のように砕け散ってしまった。と同時に、球体に異変が起きる。
——纏う輝きが一際強くなったかと思うと、その翡翠色が、やがて黒い闇のような色合いへと変わり始めた。
「何、これ……」
呆然とするラモーナにも、その魔力の変質がありありと分かった。迸る魔力はやがて肌にヤスリを押しつけるかのような禍々しさを帯び始る。あふれ出した暗闇は球体を呑み込み、やがて一つの形を具象し始めた。
シビルは戦慄と共に呟く。
「魔力の……具象化……」
目の前に現れたのは、シビルでさえ未だ具象化できたことの無い形状——すなわち、人型だった。
その暗闇が形作ったのは、髪の長い女の姿だ。頭の先からつま先までが完全な漆黒で、言うなればその空間に人型の穴が空いているようにも見えた。しかし、人型と形容するにはその四肢はあまりに細長く、両の手の指はそれぞれが短剣のように巨大で鋭い切っ先を持っている。
その異形は髪を振り乱して、甲高い絶叫を空洞内に響かせる。女性の哄笑のような、或いは獣の断末魔のような、悍ましさすら覚える叫びだった。
それはシビルにとって警鐘のように聞こえた。恐怖に硬直するラモーナめがけて、シビルは咄嗟に動く。
「ラモーナ、危ない!」
衝撃と共に突き飛ばされたラモーナの視界に、凄まじい速度で横切っていく暗闇が見えた。それが異形の怪物が伸ばした腕だと気づいたのは、その切っ先が空中に真っ赤な花を散らした後だった。遅滞する世界の中で、ラモーナの目が惨劇を目撃する。
それは、暗闇の爪がシビルの左胸を貫いた瞬間だった。
愕然とするラモーナの目が、悲壮に何かを訴えるシビルの目と合う。しかし、そこで時間が本来の速度を取り戻した。シビルの身体は鮮血を吹き出しながら後方に吹き飛んでいき、床を転がった後に、そこに血だまりを作って動かなくなってしまった。
「そんな、なんで……」
足下が崩れていくような錯覚が、ラモーナを呑み込む。
いったい、何が起きているのか。自分はただ、父親の隠していたものを覗き見しようとしただけなのに。それなのに、どうしてシビルが血だまりに横たわっているのか。この怪物は何なのか。何故、私たちを襲ってくるのか。ああ、シビル、どうしてあなたが——。
混乱と絶望の狭間で、よろよろとシビルに駆け寄ろうとするラモーナ。その背後で、再び異形の絶叫が木霊する。ラモーナは思わず振り返った。そこには暗闇が凶器の両腕を広げ、今まさに彼女を抱きしめようとしていた。
……誰か、助けて。
それが、ラモーナの思考を過った最初の言葉。そして同時に、そんな『誰か』など何処にもいない、という確信が彼女の胸中を満たす。故に、彼女はただ呆然と、迫り来る恐怖を見つめることしか出来なかった。
しかし。
「——やれやれ」
突如として響いた女の声が、その諦観を涼やかに打ち破る。
いつの間にか、ラモーナと怪物の間の空間に、見慣れぬ人物が立ちはだかっていた。黒い男物のコート、その下の露出の多い扇情的な服装、そして七色に変わる長い髪。
「なるほど、忘れ形見、といったところかしら」
現れた救い手は背後の少女に目をやった後で、さらに後方、血だまりに横たわる少女を見やる。その口が舌打ちを漏らしたかと思うと、今度は突き刺すような視線が眼前の怪物に向けられた。
「品の無い魔法ね——今すぐ、打ち消してあげるわ」
魔女、ジャムカは宣告と共に、その杖を振り上げた。