Blackend:2
暗い部屋の中、その光景だけが異様に脳裏に焼き付いた。
「あら、まだ居たのね」
血に濡れたナイフを手に持った女。
彼女の足下には、見知った両親の姿があった。
捨てられた人形のように手足を放り出し、血溜まりの中に倒れている。
その光景を見た幼い少女は、恐怖に震えた。
自分も殺される。両親と同じように、この女に殺される。
一歩、また一歩と女は少女へと近付いていた。
この距離が縮まる程に、彼女の残された寿命もまた縮まっていく。
逃げようと後退る少女。
恐怖で足はもつれ、何度も躓く少女に女が追いつくのはいとも容易いことであった。
少女は必死に抵抗するが、成す術なく無様に組み伏せられた。
――死にたくないっ……!!
少女は抵抗をやめなかった。
泣き叫び、震える両手で、今にも自分を殺そうとする女に掴みかかる。
今まで生きてきた中で、これほど力を入れて何かを握ったことがあっただろうか。
幼さを残す丸く小さな指が、女の腕へと食い込んでいく。
爪が人の皮を突き破り、肉に食い込む嫌な感覚と痛みに少女は歯を食いしばって耐えた。
ここで躊躇すれば、自分もまた両親と同じ運命を辿ることになる。
「……」
少女の抵抗をものともせず、女はナイフで顔を切りつけた。
少女は何が起こったのか理解出来ず、顔を押さえた。
鼻筋から頬に掛けて、ジクジクとした痛みが襲う。
それは少女の短い人生の中で、未だ感じたことのない大きな痛みであった。
顔を押さえて、呻き苦しむ少女の傍らに立った女は口を開いた。
「これで、女のあなたは死んだわ。今日からはこう名乗りなさい」
少女の血濡れた視界の中、女が囁く姿だけが鮮明に映っていた。
この日、死ぬ運命だった一人の少女。
辛いことなど何も知らず、両親に愛され、ただ与えられた幸福を享受してきた可憐な少女。
彼女は死んだ。愛していた両親と共に死んだ。
ただ誰かの利益のために、呆気なく、端金額で、ナイフ一本で殺された。
この日、死ぬ運命だった少女は確かに死んだのだ。
痛みと悲しみの中、少女は生まれ変わった。
――ブラック・プリンス
顔の傷と共に新たな名を刻み付けた女。
その後は、人ではなく組織の剣として生きるように教えを受けた。
それが、少女に許された生への道程であった。
両親を殺した憎むべき相手。
それでも、いつしかブラックは彼女の生き様に憧れを見いだしていた。
組織で共に過ごす打ちに、認められたいと思い始めていた。
エルフリーデを師と仰ぎ、姉と呼び、いつの日かその存在を超える日を夢見て過ごした。
彼女が組織を裏切り、姿を消すまでは。
「エルフリーデ姉様……」
「起きたようね」
華子が、目を覚ましたブラックに声をかけた。
朦朧とした意識の中、ブラックは首元へ手を当てる。痛みは感じるが包帯が巻かれ、血は止まっていた。
彼女が意識を失っている間に、華子によって手当を受けたのだろう。
「どうして、私を殺さない……」
ブラックが横になったまま華子に問いかける。
冷たく硬い床の感触が自分の身体から熱を奪っていったのか、抵抗する気力は沸かなかった。
もはや起き上がる力はない。今、彼女に出来るのは口を動かすことだけだった。
「この国は平和なのよ。お洒落の為に爪の手入れをする余裕だってあるわ。そのせいで、どうやら殺し損ねてしまったみたいね」
華子は、自らの爪に付いた血を拭き取りながら言った。
組織に暗殺を依頼されれば、武器を持ち込めない環境に赴くこともあった。
その際には実際に、鋭利に研ぎ澄ました爪で相手の喉を掻き切るという荒技だってやってのけた女が、そう嘯いた。
「それにずっと気がかりだったの。私が居なくなった後、あなたがどうしていたのか。突然のことで、あなたには何も言わずに出てきてしまったわ。そんな私の身勝手な行動が、あなたを苦しめていたのね」
「今更、何を……」
僅かでも彼女の中に自分の存在が残っていた。
それを知らされ、ブラックは言葉を失う。
自分のことなど彼女にとっては切り捨てられた過去なのだと思っていた。
今更、何を言われようとも突然姿を眩まし、見捨てられた記憶は消せない。
それなのに、華子の口から紡がれた言葉を強く撥ね除けることが出来なかった。
「この前も話したわね。組織という狭い世界に囚われていてはいけないわ。私も組織に居続けていれば、どうなっていたか分からない。人を殺すことでしか自分の存在を肯定できない。そんな人生に何の疑問も抱かずに何処かで死んでいたかもしれない」
華子が、遠くを見つめながら言った。
昔を思い出しているのだろう。その瞳に光は無く、何の感情も宿していなかった。
「モノクロの世界で、色と言えば血の赤だけ。そんな世界しか知らなかった私に、源六様やこの街の人達は新しい世界を見せてくれたわ。あなたには私を恨む理由はある。何度だって復讐に来ると良いわ。でも、人を殺すこと以外にも生きる道があることだけは知って欲しいの」
モノクロの世界。
関わる人間の大半は殺し、殺される。
命の奪い合いをする日々、そんな世界に彩りなどない。
「……私には、関係のない世界だ。組織を抜けたところで、生きていく術を知らない。何のために生きれば良いのか、分からない。姉様のようには生きられない」
ブラックは素直な感想を洩らした。
彼女のように上手く立ち回れるほど、自分が器用な人間ではないことを自覚していた。
いつだって彼女の背中を追いかけていた。恨んでいないと言えば嘘になる。
二人を奇妙な関係だった。色の無い世界で、ブラックは彼女と一緒に居るときだけは世界が色付いて見えていた。
「あなたは相変わらずね……。もし、興味があるのなら私のところへ来なさい。また鍛え直してあげるわよ」
そう言って華子は立ち去ろうとする。
「なっ、そんな私を引き込むような真似をすれば、組織だって黙ってはいない……!!」
ブラックは、声をあげて反論した。
組織を抜けるというのは簡単なことではない。
裏の情報に触れていた人間を、そう易々と手放すことはしない。
それは華子も理解しているはずなのだ。
「……妹分のためですもの、それくらいどうってことないわ。あなた次第だけれど、ね?」
「エルフリーデ姉様……」
華子はそう言うと、ブラックにウィンクをしてみせた。
とうに忘れると決めていた、姉と慕っていた彼女が帰ってきたようで、自然とブラックは涙腺が緩んでしまっていた。
涙を流す姿を隠すようにブラックは、思わず腕で目元を隠す。
そんな仕草を微笑みながら見つめたあと、華子はブラックに背中を向けて歩き出した。
まだやるべき事が残っているからだ。華子は源六を連れ、騒動の鎮静化に動かねばならなかった。
「……銀城蓮。それが、この街のクライアントです」
ブラックが目元を隠したまま、華子に喋りかけた。
「銀城……そう、ありがとう」
僅かに歩みを止めた華子は、それだけ言うとブラックを残して消えていった。
遠のいていく足音を聞きながら、ブラックはゆっくりと瞳を閉じる。
組織の人間として、この街での任務は失敗に終わった。
勝負には負け、クライアントの情報も相手に渡した。もう戻ることなど出来ないほどの失態だ。
だというのに、心は靄が晴れたように安らかな心地がした。




