15歳
彼女と初めて出会った小学六年生の僕は、絵を描き上げてしまい、彼女が自分の別荘に戻ってからも、しばらくベンチに座りボーッとしていた。しかし、何かを考えていただけでもない。ただ、夢から覚めたような心地で座っていただけである。
それから歩いて別荘に帰ったのだが、しばらく彼女の事が頭から離れなかった。
やがて、別荘への滞在する二週間が終わり東京に帰るのだが、夏が終わり季節が秋、冬と移り変わってからも、ふと彼女の事を思い出してしまう事があった。
翌年の夏も僕は別荘に滞在するのだが、前の年に彼女と出会った日が来ると、僕は独りで湖畔を歩きあのベンチへと向かった。
ベンチに座り湖を眺めていたが、やはり彼女は現れなかった。三年に一度しかこの湖には来ないという彼女の言葉は本当なのだろう。
翌年も同じくその日が来るとベンチに向かう。彼女と出会ったお昼頃にベンチに座って彼女を待ったが彼女は来なかった。しかし、僕はがっかりはしていなかった。彼女が三年に一度しかこの湖には来ないという事に確信を強める事が出来たからだ。もし、この年に彼女が現れていたら、彼女の言葉を信じる事が出来なくなっていただろう。
来年は絶対に会える、確信を強めた僕は満足して別荘へと戻って行った。
そして、また一年が過ぎた。僕は中学三年生になっていた。
小学生から中学生になる時期は、子供から少しずつ大人を意識するようになる時期でもあり、中学生になると小学生時代とは大きな変化が起きる。
中学三年生の夏、当然僕は家族と別荘に滞在していた。そして、あの日が近付いて来た。
僕はあらためて三年前の夏のあの日の事を思い出していた。
三年前、僕はまだ小学生だった。中学三年生になった僕から見れば、当時の僕がいかにガキだったか恥ずかしくなるくらいだった。
三年生出会った彼女は年上であるが、目上の人に対しずっとタメ口で話していたし、挨拶もきちんと出来ていなかった。彼女はそんな僕を見て、まだまだ子供だなと思ったに違いない。
今年も彼女に会えるならば、そのあたりを改善して彼女と同じ目線で会話出来るようにするつもりだった。
別荘に来る前には、散髪に行き髪型を整えていたし、渋谷で当日着る服も買っておいた。
こうして、準備万端で当日を迎えた。
当日は母親に弁当を作ってもらい、午前中の早い時間に別荘を出た。
高原の湖畔とはいえ、8月の日射しはきつく、汗をびっしょりかきながらあのベンチまでの道のりを歩いた。途中、湖畔の駐車場脇にソフトクリームを売る屋台が出ていたので、400円という観光地価格を見て買うか迷ったのたが、涼を取りたい誘惑に負けてバニラのソフトクリームを買った。
ソフトクリームを食べながら炎天下の湖畔を歩き、別荘を出てから40分くらいかかってようやくあのベンチに着いた。
遠くからベンチを見ると人影が見えたので、彼女が既に来ているのかと焦ったが、近くに来てみるとベンチにいたのは中年の男性だった。
男性はベンチに座って休憩していたが、僕がベンチに座るのと入れ替わるようにベンチから立って僕が歩いて来た方に向かって歩いて行ってしまった。
僕はベンチから立ち上がりキョロキョロと周りを見渡した。しかし、僕が見える範囲に彼女の姿はなく、僕はベンチに座り込んだ。
ベンチは白樺の木の下で日陰になっており、蒸し暑い東京とは違い、高原の湖畔は日陰に入ると涼しく感じる事ができる。日陰のベンチで高原の心地良いそよ風に当たりながら湖を眺めていると、三年間待ち続けた彼女と間もなく会えるという興奮した状態にもかかわらず、ついうとうとしてしまった。
それからどのくらい時間がたったのだろうか、数分か数十分たったのかわからないが、僕は人の気配を感じて目が覚めた。
目を開けると、目の前に人が立っていて僕は驚いた。
「うげっ……」
僕は驚きのあまり間抜けな声を出してしまった。
「あっ……」
目の前に立っていた人物も驚いた表情を見せた。しかし、すぐに優しい笑顔を僕に向けた。
「まさか、あなたが本当に来てるとは思わなかったし、三年前のあなたよりずいぶん大人びていたから、最初誰だかわからなくて声を掛けるのをためらっていたの」
三年ぶりに見る彼女は僕が想像していたより大人びていた。彼女は僕を見て大人びていたと言うが、それは僕のセリフだと思った。
「お、お久しぶりです」
僕は立ち上がってお辞儀をしながら挨拶をしたが、自分でも恥ずかしくなるくらいぎこちなかった。
彼女は僕のぎこちない挨拶を見て内心笑っていたのかもしれないが、それを表情に出す事なく優しい笑みを僕に向けたまま挨拶をした。
「こちらこそ、お久しぶりでこざいます」
丁寧な言葉使いで自然に挨拶をする彼女はやはり僕とは違う。
「あっ、どうぞ」
僕は彼女にベンチに腰掛けるように勧めた。
彼女は笑顔で小さく会釈してからベンチに腰掛けた。
僕は彼女と並んでベンチに座ったものの、言葉が口から外に出て来ない。
話したい事、聞きたい事はたくさんある。しかし、ベンチに座ってすぐに何か話そうとして、まずは再会を喜ぶ挨拶の方が先かと躊躇してしまい、言葉に詰まってしまった。一度言葉に詰まると、何か話さなければと焦ってしまい、自分が何を話したいのか、何を聞きたいのかわからなくなってしまった。
高原の湖畔の日陰には、都会では感じる事の出来ないような爽やかなそよ風が吹いているのだが、僕は背中が汗びっしょりで顔からも汗が滴り落ちていた。
不自然な沈黙が30秒くらい続き、僕はパニックを起こしそうになったのだが彼女がそこから救ってくれた。
「三年経ってあなたもずいぶん大人びたわね。最初、ベンチに座って居眠りしているあなたを見て、一瞬違う人かと思ったわ」
彼女から話し掛けてくれて僕としては助かった。
「そうですか? 僕としてはそんなに変わってないと思いますけど」
僕は謙遜して言った。この日のために、髪をセットして、渋谷まで服を買いに行って来たとかは恥ずかしくて言えない。
「フフフ……そんな事ないでしょ?」
彼女が面白そうに微笑んだ。僕に向ける笑顔がとても爽やかだ。
「その服だって、今日のためにわざわざ買ったの?」
彼女が僕の着ている服を指差しながら言った。
「えっ?」
僕はなぜ彼女がこの服が買ったばかりなのかわからなくて、目を丸くしながら彼女を見つめた。
「だって、その服、まだ着慣れてなくて汚れも解れも折り目も付いてないパリパリの新品だもの」
彼女が笑いを堪えながら指摘した。
「なるほど、それでわかったんですか。確かに、ここに来る前に渋谷で買ったんです」
僕は素直に白状した。意地を張る必要がないからだ。
慣れないお洒落なんてしようとしても、やはりお洒落のプロともいえる現役女子高生の目は誤魔化せないようである。
「ちゃんと、お弁当持って来てるのね。三年前の事なのに覚えてるなんてすごいわ」
彼女は感心したように言う。もちろん、彼女も弁当を用意していた。
彼女は小さな手提げ袋から、僕なら一口で食べられそうなくらい小さな弁当箱を取り出した。僕も母親に作ってもらった弁当を開いた。僕の弁当は弁当箱の大部分がご飯で占められており、おかずは玉子焼きにウインナー、鶏の唐揚げといういかにも庶民的な弁当だった。ご飯が多くおかずのバリエーションが乏しく、彼女に見られるのは少々恥ずかしかった。
「あら、食べ応えありそうなお弁当ね。美味しそう」
「そ、そうですかね……」
彼女は僕の弁当を見て、男子中学生らしい食べ応えのある弁当だと思ったようである。
(母さん、もう少し上品な弁当にしてくれよ)
彼女の二倍くらいある弁当を見ながら僕は心の中で嘆いていた。
僕は彼女よりはるかに大きな弁当を食べるのが申し訳ないのと、いかにも食い意地が張ってるようで恥ずかしい気持ちで弁当に箸が向かわない。
「いただきます」
彼女が箸を取る前にきちんと両手を合わせた。そして、膝の上に乗せた可愛い弁当箱を開けてから箸を取った。
僕も恥ずかしながら箸を取り弁当を食べ始めた。
「弁当、それだけで足りるの?」
彼女が僕の弁当を見ながら言った。僕の弁当は彼女のより二倍くらいあるのだが、彼女から見ればそれでも足りなく見えるのかと僕は少々驚いた。
「充分ですよ」
僕は本当はもっと食べられるのだが、小さな弁当箱の彼女に気を遣ったつもりだった。
「私にはあなたより一つ下の弟がいるけど、それくらいの弁当じゃ足りないくらいよく食べてるわよ」
「そ、そうですか……」
「ひょっとして、私よりたくさん食べる事を申し訳なく思って気を遣ってる?」
「あ、いえ……」
彼女はあたふたする僕を優しく見つめていた。
「そういう気遣いって嬉しいわ。ありがとう。でも、お母様に作っていただいた弁当でしょ? 残さず食べなきゃダメよ」
彼女は僕の気遣いをわかってくれていたようだ。彼女の言葉を聞いて気分が楽になった僕は弁当を美味しく食べる事ができた。
弁当を食べながら、そして食べ終わってからも僕は彼女とベンチで色んな話をした。
彼女は僕が話す東京での暮らしに興味津々で、どんな所に遊びに行くのか、買い物ををする時はどんな店に行くのか等、僕の話を身を乗り出して聞き入っていた。
「私は両親から愛知県外へ遊びに行くのは禁じられてるので、東京へは両親に連れられて一度行った以外は中学の修学旅行でしか行った事がないのよ」
彼女の言葉に僕は更に得意になって東京の事についてどんどん喋り続けた。彼女は僕のどんな話でも常に相槌を打ちながら熱心に聞いてくれた。
しかし、僕は得意になりすぎて僕が話すばっかりで、彼女の事について全然聞いていない事に僕が気付くのは、そろそろ話題が尽きようかという頃になってからだった。
僕は喋りすぎて彼女に話す機会を与えていなかった気まずさもあったが、彼女の事について色々知りたかったので、聞きたい事を素直に質問した。彼女は僕のどんな質問にも誠心誠意答えてくれたので、僕としても意地悪な質問は出来ず真面目に質問した。
僕も女の子の体に興味のある年頃なので、胸の大きさはとか、水泳の授業がある時は下の毛は手入れするのかとか、聞きたいのだが彼女が僕の質問に一生懸命答えてくれるので、そのような質問は控えざるをえなかった。
彼女は相変わらず華道を続けているようであるが、勉強もちゃんとしているようで、友達と遊ぶ時間が少ない生活のようである。これは三年前と変わっていない。
彼女が話した事で印象に残っているのは、彼女が将来にしっかりとしたビジョンを持っていた事である。
僕が彼女に対して勝手に抱いていた印象だと、彼女は高校を卒業してから大学には進学するが、大学を卒業しても就職はせず、家事手伝いという名の花嫁修行でもさせられる事になるだろうと想像していたが、話してみると彼女は僕が思っていたのとは正反対の人物だとわかった。
彼女は大学ではエネルギー工学を学ぶつもりらしい。僕はエネルギー工学と言われてもどのようなものかよくわからないが、彼女は太陽のエネルギーの効率的な利用が将来は必要になると考えているようだ。
今後、地球の人口が更に増え、発展途上国が発展して行くにつれて地球全体でのエネルギー使用量は増大する。その使用量を賄うには石油や天然ガスだけでは足りなくなる。そこで、原子力の利用が不可欠になるが、原子力は放射能の危険性があり、手軽に利用出来るエネルギーではない。そこで、太陽エネルギーの利用が必ず脚光を浴びるはずだと彼女は力説した。
僕は彼女の話の半分もわからなかったが、将来にやりたい事がちゃんとあって、そこを目指し日頃から勉強している事は僕にもわかり、親から勉強しろと言われるから叱られない程度には勉強している自分自身との違いを感じたのである。
何時間もお喋りをして、互いにお喋りのネタが切れてしまい、しばしの沈黙が訪れた。
僕は湖畔を眺めながら、まだ帰るには早いしどうしようかと考えていた。
「カフェ、行きません?」
彼女が小腹が空いてきたのか、カフェに行く事を提案した。
「いいですよ」
僕も何か冷たいものが欲しくなっていたので彼女の提案に賛成した。
二人とも弁当箱と水筒を手提げ袋にしまい、ベンチから立ち上がった。
「カフェってどこにあるんですか?」
僕はカフェなど無縁な人間であるから、この湖畔のどのあたりにカフェがあるのか知らなかった。毎年この湖に来ているが、カフェの場所など気にもした事がなかったのである。
「歩いて5分もかからない場所に最近オープンしたカフェがあるのよ」
彼女が僕が来た別荘がある方角とは逆の方を指差しながら言った。
二人で湖畔の散歩道を並んで歩いてカフェに向かった。
少し離れた所には道路があり、ちゃんと歩道があるので舗装されていない散歩道よりは歩きやすいのだが、真夏の日差しを避けるために、湖畔に生える木々の木陰を歩ける散歩道を歩く方が良いと彼女が判断したようで、彼女はカフェの前に着くまで道路には出なかった。
湖畔を一周する道路沿いにの白い木造の平屋立てのお洒落なカフェである。
建物の中だけでなく、建物の前にもテーブルがあり、大きなパラソルで日陰を作りその下で飲食出来るようになっている。
彼女が先導するかたちで店内に入った。店内を見渡すと四人がけのテーブルが10近く配置されていて、空いているテーブルは壁際に一つしかなかった。
外の景色を眺める事が出来ない位置なので最後まで空いていたのだろうが、彼女は迷わずその席に座った。
若い女性の店員がすぐにメニューを持って来て、注文が決まったら呼ぶように言ってから立ち去った。
まずは彼女にメニューを渡し、先に注文を決めてもらう事にした。彼女は2分くらい考えていたが、ようやく注文が決まったようでメニューを僕の方に向けた。
僕はメニューを見て何を注文するか考えようとしたが、メニューを見るとどれも高価で驚いてしまった。
ポケットに入っている財布の中のお金で足りない事はないが、高いものを注文すると財布の中身がかなり寂しくなる事になってしまうので、僕はなるべく安いものを注文しようとメニューの隅から隅まで調べてみた。
「すいません」
僕は注文を決めて店員を呼んだ。
「どうぞ」
僕は注文の順番を彼女に譲った。
「ケーキセットを……飲み物はアイスコーヒーで、ケーキはモンブランで」
「かき氷、イチゴで」
彼女は1000円もするケーキセットを注文したが、僕はメニューのなかで一番安い400円のかき氷しか注文出来なかった。
ケーキセットとかき氷が同時に運ばれて来て、僕と彼女はしばし無言で飲食に集中した。二人ともしばらくケーキとかき氷を味わってからお喋りを再開した。
彼女も弁当はかなり少ない量で、これで足りるのかと思っていたが、間食も考慮して昼ごはんは控え目にしていたのかもしれない。
やはり、女の子は甘い物に目がないようで、彼女はケーキを食べながらご機嫌だった。
カフェで楽しいひと時を過ごし、割り勘で支払いを済ませて外に出た。
まだ帰るには少し早いので、カフェの近くにある土産物店を二人で見て歩いたりした。別に何か買いたいわけではないが、彼女と二人だと僕は何をやっても楽しい。しかし、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい、そろそろ太陽が傾いてきた。
「そろそろ帰らなきゃ」
彼女がお洒落な赤い腕時計を見てから言った。
「そうですね」
僕も左の手首にはめた腕時計を見た。『18:12』とデジタル表示されていた。そろそろ別荘に戻らないと晩ごはんに間に合わない。お開きにするにはちょうど良い時刻だろう。
彼女の方を見ると携帯でどこかに電話している。親に迎えに来てもらうのかタクシーを呼んでいるのかはわからないが、僕が詮索する必要はない事なので気にしない事にした。
「今日は楽しかったわ。暑かったから、水着があればあそこのプールで泳ぎたかったわ。今度は水着を用意しなきゃ」
彼女が遠くに見えるレジャー施設を指差しながら言った。その施設はレストランや小さなショッピングモールの他に、小規模の水族館と二つのプールがある。
「こちらこそ、楽しかったです。ありがとうございました」
僕は彼女に軽くお辞儀をした。
「それじゃ、また三年後に」
「はいわかりました。ではこれで失礼します」
互いに別れの挨拶をして、僕と彼女は反対の方向に向けて歩き出した。
僕は別荘に戻り今日の事を振り返った。12歳の時とは違い子供丸出しの態度で彼女と接する事はなかったものの、彼女と話していると、彼女はしっかりと将来を見据えており、将来云々より毎日を楽しく生きる事をまず考えてしまう僕はまだまだ彼女には追い付けないと痛感した。
三年後は彼女と同じレベルで会話が出来る人間にならなければと思っていた。
やがて僕は高校生になった。高校に進学してからも、毎年夏休みには別荘に滞在した。高校一年と二年の夏は彼女はやって来ないとわかっていたので、あのベンチに行く事もなかった。
僕は高校生になってから、将来について一生懸命考えて、最初はこのような職業に就きたいという大まかなビジョンだったが、それが日を重ねるうちにだんだんと明確なものになって行った。
そして、高校三年生の夏休みを迎えた。