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12歳

僕の家には信州のある湖のそばに別荘がある。


毎年8月に家族で別荘に行き、約二週間をその別荘で暮らす。


小学六年生の夏、この年も真夏になると東京から逃げ出すように別荘に向かった。ちなみに、父は仕事があるので合流が数日遅れた。


別荘で暮らす二週間もあとわずかとなったある日、僕は独りで散歩に出掛けた。


別荘にはうちの一家だけでなく、前日から叔父の一家が泊まりに来ており、夕食は庭でバーベキューをしたり、夜は花火大会をしたり、楽しい事はたくさんあったが、叔父夫婦には小さい子供が二人いて、小さい子供が苦手な僕は避難するかのように独りで別荘を出た。


小さな子供の相手は二つ下の妹がいるので心配ない。妹としても、幼児二人を相手にお姉さん気分を味わえるので、自ら進んで遊び相手を買って出るくらいである。


僕は散歩に出るにあたり、小学校の夏休み宿題の写生をするために、景色のいい場所に行ってみるという口実を見つけた。


そして、その日は朝日が高くなってきた頃、図画セット一式を持ち別荘を出て湖畔の散歩道を歩いて行った。


一日で絵を完成させたいので、夕方までかかりそうなので、僕は母に弁当を作ってもらっていた。


図画セット一式に弁当を持って歩くのはけっこうキツい。湖畔を歩いて、うちの別荘がある場所から正反対の位置まで行って見たかったが、時計回りにその半分くらい歩いたあたりでそこから先に進むのを断念した。


散歩道から湖面寄りの場所に、ちょうど良い木陰があり、その木陰に湖面に向かって四人掛けくらいの大きさのベンチが二つ並んでいた。


僕はそのベンチに座り、ボードと呼ばれる図画用紙を固定する板状の道具に用紙を固定して、ボードを持ってベンチに座った。


湖面、対岸、遠くにそびえる山々……まずはベンチから見える全景を漠然と眺めた。


そして、少しずつ焦点を絞りながら細部を眺めてみる。10分以上かけて、ベンチから見える景色を眺めてから、鉛筆を出して図画用紙に対峙した。


まずは下書きから始める。僕は図画はわりと得意であるが、人工物に比べ自然の風景は下書きが難しい。


下書きは鉛筆で薄く描く方がいい、しっかり描くと失敗して消しゴムで消しても汚れてしまう。それでも、何度も描いて消してを繰り返すうちに汚れてしまう。


それでも、二時間も湖面に向かっていると、それなりの下書きが完成した。昼食にはやや早い時間であるが、下書きに絵具で色を塗り始めたら最後まで塗り切ってしまわなければならない、そのため、僕はボードをベンチに座る自分の横に置いて弁当を出して食べ始めた。


湖を見ながらの昼食は子供の僕でも気分が良く、母の作ったハムとタマゴというシンプルなサンドイッチが普段より美味しく感じられた。


「わぁ…凄く上手ね」


僕は突然後ろから声を掛けられて驚いたため、口の中のサンドイッチが少しであるが、口から出て膝の上に落としてしまった。


そして、声の主を確かめるために後ろを向いた。


「あっ、ごめんなさい、いきなり声を掛けて驚かせてしまったわね」


声の主は僕よりは明らかに年上の女の子だった。


小学六年生の僕より少し背が高いくらいで、顔立ちが整っている。髪は肩に掛かるか掛からないかくらいの黒髪。顔を見るとクリッとした瞳に見詰められている事がわかり、僕は顔が熱くなるのを感じた。


「驚かせてごめんなさいね。散歩をしてたら、絵を描いてるあなたを見かけて、興味があったけど邪魔してはいけないと、しばらく声を掛けるのを待ってたの」


彼女がベンチに座る僕の正面に回り込んで来た。


その女の子はヒラヒラとした飾りの付いた白い服にフワフワしたピンクのスカート、僕は女の子が着る服には詳しくないが、育ちの良い女の子だろうとは一目でわかった。


「あ……そう……」


僕は年上の女の子に話す機会など無く、間抜けな返答しか出来なかった。


そんな僕を彼女はニコニコしながら見詰めていた。そして、僕の描いている絵をのぞき込んだ。


「上手ね、あなたには絵心があると思うわ。素敵ね」


彼女は僕の方を向いて、優しく微笑みかけながら言った。僕は何が何だかわからなくなって、彼女に返す言葉が出なかった。


「今日のうちに描き上げるの?」


「うん……」


僕の返事に彼女は満足げな表情を見せた。


「絵が完成するまで、横で見ててもいいかな?」


思いもよらぬ彼女の言葉に僕は混乱した。


「あ、いや……その、別にいいけど」


女の子に見られながら絵を描くなど、恥ずかしいから断りたかったのだが、口からは正反対の言葉が出てしまった。


彼女は僕のぎこちない言葉を笑う事もなく、僕の隣に置いたボートの向こう側に座った。


僕は昼ごはんの残りを急いで食べた。


「あなたはこの近くの学校に通ってるの?」


昼ごはんを食べ終わり、絵具の用意をしていた僕に彼女は尋ねた。


「いや……別荘に来てるんだ」


僕は答えたがやはりぎこちなく無愛想だった。


「私も別荘に来てるのよ」


彼女は僕の態度が良くないのはわかってるはずだが、相変わらず優しく言葉を掛けてくれた。


それから、下書きを済ませた絵に絵具を塗り終わるまでの約三時間、僕は彼女と色々な話をした。


彼女は絵を描く邪魔にならない程度に話し掛けてくれた。僕からは気の利いた話題など持ち合わせていないから、専ら彼女から話し掛けて僕が答えるというスタイルではあるが、それでも、彼女がうまく会話を繋いでくれたおかげで、逆に絵を描く事に集中できた。


彼女は描いている絵については完成まで何も言わなかった。だから、逆にお喋りしながらでも集中して絵を描く事が出来たのだろう。


お互いに自己紹介をしたり、どんな遊びをしているのかとか、好きな食べ物とか、小学生の僕にも答えやすい話題を彼女は提供してくれた。


彼女との会話でわかったのは、彼女は名古屋に住む中学三年生で、僕と同じく別荘に来ている事。他の場所にも別荘があって、毎年違う別荘に行きそこで過ごすので、この湖にある別荘に来るのは三年に一度である事などであった。


話していて、彼女の家庭環境について詳しく聞いたわけではないが、彼女はかなりのお嬢様なのだろうという事は小学生の僕でも察する事が出来た。


彼女は学校が終わると習い事を週二回しており、その習い事が僕にはよくわからなかったが、花を花瓶に生けるのを習っているらしい。カドー(華道)というらしいが僕は聞いた事がなかった。習い事がない日は学校から帰ると家庭教師が来て勉強を教えてもらうので、友達と遊べるのは日曜日しかないと彼女は話した。


家庭教師とかカドーとかで忙しいにもかかわらず、それを楽しんでいると彼女が言っていたのだから、親に無理矢理やらされているわけでもないみたいだった。そのあたりから、彼女がかなりのお嬢様なのだろうと僕は思ったのである。もっとも、別荘を三つ持っていると聞いた時点で相当なお金持ちなのだろうと気付いてはいたのだが。


僕の描いている絵について、完成まで彼女は一言も話題にしなかった。だから、お喋りをしながらでも絵を描く事が出来たのかもしれない。


絵具を塗り終わり道具を片付けていると、ベンチに置いたボートの上で絵具を乾燥させている僕の描いた絵を彼女がじっと見詰めているのに気付いた。


何か声を掛けようとしたが、邪魔しては悪いと思い僕は言葉を飲み込んだ。そして、黙って片付けを続けた。


絵具を絵具箱に納め、パレットを折り畳み、絵具をゆすいだバケツの水は別荘まで持ち帰るためそのままにしておいた。


片付けが終わってからも、彼女はしばらく絵を眺めていたが、やがて僕の方を向いた。


「ありがとう」


彼女は優しさに溢れる笑みを浮かべながら一言だけ言葉を発した。


僕の描いた絵について批評はしなかったが、それは彼女の配慮だったのだろう。ここで、上手だと言葉にされたら僕はお世辞として受け取っていたかもしれない。しかし、絵の完成までずっと見ててくれたのだから、少なくとも僕の絵を見る価値が無い物だとは思ってないはずだ。僕にはそれだけで満足だった。


「ずいぶん時間が経ってしまったわ。じゃあ、私はこれで。楽しい時間をありがとう」


彼女は最後に軽くお辞儀をしてベンチから離れようとした。


「あ、あ……あの、明日もまたここに来れる?」


後になって思えば、僕が彼女に掛けた言葉のなかで最も積極的な言葉だったように思う。自分でも、なぜそんな言葉を掛けたのかわからないが、自然に口から発していたのである。


僕の言葉に向こうを向いて歩き出そうとしていた彼女は僕の方に振り向いた。そして、少し驚いた表情を見せた。


彼女が驚くのも無理はないだろう。発言者である僕自身が驚いているのだから。


「ごめんなさいね。家族と一緒にどこかに行ったりとかしないといけないから。独りで自由に過ごせるのは今日だけなの」


彼女は僕の言葉に驚いたはずだが、すぐに柔和な表情に戻り優しく言った。


「あ、そ、そうなんだ」


僕はこの後何を言えばよいか、気の利いたセリフを持ち合わせていなかった。


「三年後……」


彼女が真面目な表情になって静かに言った。


「え?」


「三年後の今日、ここで待ち合わせしない? 今度はお弁当を持って来て、二人でゆっくり楽しみましょうか?」


三年後の約束など半ば冗談であるのが普通であるが、彼女の表情と言い方から、本気で約束するつもりだろうと僕は考えた。


「うん、いいよ」


僕は断る理由がないので承知した。


「じゃあね」


彼女が僕に軽く手で合図をしてから再び向こうに歩き始めた。僕はそれを黙って見送っていた。

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