−夢の追憶− 第3話
そして、まるで他の人のことを聞かせるように、私〈青年〉のことを話し始めた。
「彼方は、書生さんなのよ。そして、先生をとても尊敬して慕っていたの。先生は見かけは、あんな粗暴な感じだけど私たち貧しい者たちに、とてもよくしてくださるの。そんな先生のように将来なりたい。人から必要とされる医者になりたいと言うのが彼方の口癖だったわ」
《彼は、学生だったのか……。しかし、書生とはまた、ずいぶんと古めかしい呼び方だ な。先ほどの路面電車といい、此処は私のいた時代ではないのかもしれない。もしかしたら、彼はこの時代の私だったのかもしれない……。それならば、私はこの時代のことをもっと知らなくてはならない。何故なら、もう元の時代に戻れないかもしれないのだから……》
そんなことを、ふと考えていた。
「そうですか。私は医学を志していたのか。ところで、先ほどから気になっていたことがあるのですが、よろしいですか?」
「どうぞ」
彼女の顔には、また笑みが戻っていた。
「此処に入ってきて、オレンジジュースを注文した時に、先生がまるで此処で頼む物ではないようなことを仰っていましたがどうしてなんですか。普通、カフェというからには、お茶や、ジュースを頼むところでしょ?」
そう言うと、彼女は少し唖然とした様子でこちらを見ていたが、やれやれといった表情で説明を始めた。
「あのね、普通はお茶が飲みたければ『お茶屋』さんに、ジュースやミルクといったものを飲みたければ『ミルクホール』に行くわね。此処に来るのはお酒が飲みたい人達がやって来るの」
なるほど、この時代では『カフェー』とは、アルコールを提供する場所だったらしい。これで、またひとつ疑問が解消された。今度は彼女について質問してみようと口を開いた。
「わかりました。今度はさよさん、あなたについて聞いてもよろしいですか。私のことを存じてらっしゃるようなので、それが私を知ることにもなりそうですから」
彼女はしばらく迷った仕草を見せたが、承知してくれた。
「では、まずさよさんの『さよ』は、どんな字を書かれるのですか?」
すると、小走りに店の奥へ走って行き、紙とペンを手に持って戻ってきた。その表情はとても嬉しそうで、瞳が輝いて見えた。そして、興奮気味に口を開いた。
「彼方がこの店に来るようになった頃に、私も此処にやって来たの。まだ、名前の決まってなかった私に彼方が付けてくれたのよ」
そう言って、紙にペンを走らせた。その紙の上には、決して上手とは言えないが優しさを感じさせる字で『沙世』という文字が書かれていた。
《私が名づけた……。ということは、源氏名みたいなもので本名ではないのか……》 てっきり、本名だと思っていた私は少し残念に思ったが、ここは私の知っている『カフェ』というより、『バー』や『スナック』に近い雰囲気を醸し出しているのだから、当たり前と言えばそうなのだろう。そんなことを考えていると、彼女は更に話を続けていた。
「さよの『沙』は、弁天様の別名でサラスヴァティーからとったもので、この神様は豊穣や財運と流れるもの全て、言葉や音楽なんかを司るそうよ。私が裕福になれるようにと。それに、美しいんだって……」
最後は呟くように小声になり、俯いた。彼女に目をやるとほんのりと顔に赤みがさし、照れているのがわかった。その顔がなんとも愛らしく、そう名づけた訳がわかったような気がした。
「ふふ、なるほど…。では、さよの『世』は?」
彼女は、はっと我に返ったようにピクリと動いたかと思うと、また話を続けた。
「それは、サラスヴァティーのように世の中の人々を見守り、明るく励ましてくれるようにと……」
そう小声で言うと、また俯いた。先ほどより更に赤みが増し、まるで顔から火が出そうなほどに火照っているのがわかった。
私のことを意地悪な人間と彼女は思ったのではないかと心配になったが、程なくしてその火照りも冷めたようで、
「だから、私この名前すごく気に入ってるの。世の中の人を全部なんて私には到底無理だろうけど、お店に来てくれるお客さんにはそうでありたいなって」
そう言って、にっこりと微笑んだ。