白鳥乙女
駅前のパン屋で、りん子はいつもあんパンを買う。
その日は程よい日差しで風もなく、人通りも少なかったので、線路裏の公園で食べることにした。
噴水前のベンチに座り、何か光るものが落ちているのに気づいた。拾い上げてみると、羽の形をしたペンダントだった。
「綺麗」
今着ているワンピースに似合いそうで、付けてみたくなった。金具をいじっていると、急に手元が暗い。空を見ると、灰色の雲が集まってきていた。
りん子はペンダントをポケットに入れ、パンの袋を持って立ち上がった。今日は傘を持っていない。
降り出す、と思った時、雨ではないものが目の前に降り立った。白い影と羽ばたきの音に、鳥かと思ったが、それも違った。
「ようこそ、私の楽園へ」
大柄な女性が、バレエのチュチュのようなドレスを着て立っていた。頭の両サイドには羽の飾りを付けている。胸の模様も、広がったドレスの裾も美しい。しかしとにかく大柄なのだ。肩も腕も筋肉質で太く、脚は今にもタイツをはち切りそうだ。
「楽園って……あら?」
噴水があったはずの場所は、がらんとして何もなかった。公園の木々も見当たらず、道も線路もない。荒涼とした白い大地が広がり、冷たい風が吹いている。
「まだ作りかけなんだけどね。ゆっくりしていって」
「寒くて無理よ。あなた誰?」
りん子は腕をさすりながら言った。息が白く、氷の粒になっていつまでも漂っている。
「私はシラトリ。明日にはお城ができるから、それまでの辛抱よ」
女性はノースリーブのドレスで平然としている。肉づきのよい頬は赤く染まっているが、少しも寒そうではない。
「私もう帰りたいんだけど」
「だめよ。あなたにはここで働いてもらうの」
シラトリはきっぱりと言った。りん子はパンの入った袋を握りしめた。そうしていないと手が凍えそうだった。
本当に何もない場所だ。せめて風よけの木でもあれば、と思って目を動かすと、遠くのほうに何かの行列が見えた。首の長い端正な姿と、陸の上を歩き慣れない足どり。白鳥の群れだ。
「ねえ、あれは何?」
「うちの社員よ」
シラトリは得意気に言った。
「今、お城を作らせてるところなの」
「お城? 冗談でしょ」
白鳥たちは懸命に歩き、小山のようなところまで行くと、頭に四角いかたまりを乗せて引き返してくる。よく見るとそれは、白いレンガの山だった。そこからひとつずつ運び出し、広場の中央に並べて組み立てているのだ。背景に同化して、今まで気づかなかった。
「あれを手伝えって言うの?」
「そう焦らないで。仕事はいくらでもあるのよ。給仕係に畑番。軍事に外交、道路整備に環境保護、悩み相談員にご当地アイドル、それからそれから」
りん子は途中で聞くのをやめた。帰る道がどこかにあるはず、と目をこらす。このままでは手足が冷えて仕方ないし、何よりあんパンがだめになってしまう。
「もしかして逃げるつもり? 無駄よ、拾ったでしょ私の羽」
シラトリは言った。髪をてっぺんで結っているので、細い目が上に引っ張られて、ますます意地の悪い顔になっている。
りん子はポケットに手を触れた。シラトリの頭飾りと同じ、羽の形をしたペンダント。そういえば、白鳥たちも皆同じ飾りを首にかけている。
「あっ、捨てようと思ってる? 早まらないほうがいいわよ。それがあればあなたも白鳥になれる」
「何のことかしら」
りん子はポケットに当てていた手を離した。シラトリはドレスをばさばさと揺らして近づいてくる。
「凍え死ぬ前にペンダントを付けなさい。お城が完成したらあなたも雇ってあげる」
「完成するわけないわ。あの子たちもうフラフラじゃない」
白鳥たちはやっとのことでレンガを並べると、また次のを取りに戻っていく。ひいひいとあえぐ声が聞こえてきそうだ。
ははーん、とシラトリは太い腕を組む。
「うちのエリートたちを見くびってるわね。心配ご無用よ。あなたよりは優秀だから」
りん子はむっとして、シラトリの丸い顔を睨みつけた。
「じゃあこうしない? 明日までにお城ができなかったら、私を元の世界に帰して」
シラトリは胸を反らし、私と取引するなんて百年早いわ、と鼻で笑う。りん子は怒りで爆発しそうになるのをこらえた。
「いいから約束よ。お城ができたらあなたの言う通りにするわ」
笑い続けるシラトリをあとに、りん子は白鳥たちのいるほうへ向かっていった。
近くで見ると、白鳥たちは思っていたより大きかった。疲れた様子ではあるが、目はしっかりと開いている。頭の上にレンガを乗せて、慎重に歩いている。
あのペンダントよ、とりん子は思う。ペンダントが白鳥たちを操っているのだ。
じりじりと近寄って手を伸ばすと、一羽の白鳥が素早く振り向いた。鋭い目つきに、りん子は一瞬たじろぐ。ペンダントをつかもうとすると、固いくちばしがりん子の腕を一撃した。
「い、いたたっ」
他の白鳥たちも一斉に集まってきて、ぎいぎい、があがあと騒いだ。羽を広げ、威嚇しながらりん子に向かってくる。蹴られ、つつかれ、りん子は為す術もなくその場を離れた。
「ああ、びっくりした。白鳥ってあんな声で鳴くものだったかしら」
遠くから見て、ぎょっとした。レンガがもう、人の背丈ほどの高さまで積み上がっていたのである。
まさかと思って何度も見たが、目の錯覚ではない。本当に城壁が出来上がりつつある。
「どうして……いつの間に」
白鳥たちは脇目もふらずに働いている。スピードも能率も上がらないが、下がることもない。まるでベルトコンベアに乗っているようだ。全部で何羽いるのかわからなくなるほど、絶え間なく動いている。
りん子の肩に、肉厚な手がのしっと乗った。
「早くも恐れをなしたようね」
シラトリが笑みを浮かべて立っていた。りん子は気にしていないそぶりで答える。
「もう日が沈むわ。明日までなんて無理でしょ」
「楽園の夜は長〜いのよ。せいぜい凍死しないように気をつけることね」
シラトリは足を上げ、踊りながらどこかへ行った。りん子はイーと歯をむいてから、白鳥の群れを眺めた。レンガの壁は刻一刻と高くなっていく。内部の部屋や廊下の仕切りまで、いつの間にかできている。
「早く手を打たなきゃ」
暗くなると、辺りは一気に冷え込む。りん子はかじかむ手に息を吹きかけて、再び白鳥たちに近づいていった。
「ねえねえ、ちょっと休憩しない?」
案の定、白鳥たちは振り向きもしない。返ってくるのは、ぺたぺたと規則正しく歩く音だけだ。
「いい加減にしなさいよ。白鳥の努力は人に見せるものじゃないのよ。水面下に隠しておいてこそ価値があるの!」
りん子の声は、白い息になってむなしく漂う。どの白鳥も黙々とレンガを運び、今ではアーチ型の窓や、塔の部分も作っていた。
月がのぼってきた。冷え冷えとした光に照らされて、太い木の枝が落ちている。こうなったら、とりん子はそれを拾った。
わたしは白鳥 社畜です
一夜城など お手のもの
りん子はリズムよく歌い、木の枝を振った。そばにいた白鳥が、歌に合わせてぴょこんと跳ねる。続いて一羽、また一羽とつられていく。整然としていた列に、わずかな乱れが出始めた。
冷たい空気を吸い、りん子は歌った。白鳥たちは翼を振り、調子をとっている。それが少しずつ、少しずつ大胆になる。やがて右へふらつき、左へふらつき、一羽の白鳥が自らりん子のほうへ寄ってきた。
わたしは白鳥 社畜です
一夜城なら ぶっち割ろ
あ それ
りん子は木の枝を振り上げ、白鳥の頭をぽかりと殴った。続いてもう一羽、さらに一羽、よろめくようにやって来たもう一羽も殴った。白鳥たちは首をうなだれ、倒れていった。
次の一羽は、既にレンガを頭に乗せていた。りん子は歌に夢中だったので、よく見ずに枝を振り下ろしてしまった。
ぎゃあ、と白鳥が悲鳴を上げ、枝の先が折れて飛んだ。その途端、全ての白鳥が足を止め、鋭い目でりん子を見る。
「あ、えーと、これは、その」
白鳥たちが一斉に飛びかかろうとする。ごめんなさい、とりん子は叫び、残った枝を投げ捨てて走った。
乾いた地面に倒れ込み、もう大丈夫だろうと思って振り返る。何事もなかったように働き続ける白鳥たちを、月が真上から照らしていた。
まずいことになった。
朝には自分もあの列に加わり、シラトリに奉仕する。自分の手羽先を焼いて串に刺すのか、エプロンを着て掃除をするのか、羽毛を取ってダウンコートにするのか、考えるだけでもおぞましい。
でも、とりん子は思う。
白鳥になってしまえば何も気にならなくなる。シラトリに言われるまま、働くのが当たり前になる。不満も疑問もない。
この寒さからも解放されるのだろうか。りん子は口を手で覆い、温かい息を溜めた。
月が西の空へ傾く。りん子の腹が小さく鳴った。すっかり冷えてしまったあんパンの包みを開けようとして、ふとひらめく。
「どうして今まで思いつかなかったのかしら」
りん子は立ち上がり、歩いていった。
白鳥たちは、最後の仕上げに取りかかっている。左右の塔が完成し、あとは屋根だけだ。レンガを頭に乗せ、首でバランスをとりながら飛んでいき、積み上げる。
白鳥の目の前に、りん子はパンをちぎって落とした。白鳥は気づかずにパンを踏みつけ、飛び立ってしまう。りん子はがっかりしたが、その次にやってきた一羽が足を止めた。
その白鳥は片方の翼を上げ、後続たちに合図をした。首を曲げ、地面に顔を近づけ、くちばしの先でパンをついばむ。その拍子に、頭からレンガが滑り落ちた。
「そう来なくっちゃ!」
りん子はまたパンをちぎって落とした。白鳥が追いかけてきてついばむ。後ろの白鳥たちが騒ぎ、押しのけ合う。
りん子はパンをちぎりちぎり歩いた。白鳥たちは、われもわれもとレンガを捨てて追いかけてくる。りん子は足を速めた。
「ほらほら、こんなあんパン食べたことある? もっちもちの照り照りで、粒あんがぎっしりよ。どこ見てるの、こっちよこっち」
スキップをするりん子の後から、白鳥がよたよたと走っていく。くちばしは掃除機のように、地面を小突き回してパンを拾う。
「ほら後ろの子、早くしないとなくなっちゃうわよ」
白鳥たちはお互いにつつき、転ばせ合い、りん子を追いかけた。道をそれ、城を離れ、白み始めた東の空へ向かっていく。足下を見ると、草が生えていた。淡い色の花がぽつぽつと咲いている。りん子はいつしか、寒さを感じなくなっていた。
「待ちなさい! りん子、あなた卑怯よ」
ドレスをひるがえし、シラトリが立ちはだかった。額から汗をだらだら流している。
どいて、とりん子は言った。白鳥たちは前へ進みたがり、があがあ鳴いた。
「あんたたち! 仕事をさぼったらどうなるかわかってるんでしょうね」
シラトリが足を踏み鳴らすと、白鳥たちは一斉に翼を広げ、舞い上がった。その首から、ペンダントがほどけて落ちていく。朝日を受けて、見違えるように白く輝きながら飛んでいく。屋根のない城を越え、一羽残らず空へ消えていった。
「ああっ! 私の白鳥が……私の楽園が……」
シラトリは汗を流しながら身をよじらせる。細い目がさらに細くなり、顔がなくなっていく。日差しが当たったところから、雪像のように崩れ出す。汗の水たまりが広がり、濡れた地面に草が増えていった。
りん子は手を貸そうとした。シラトリはほとんど形状を失った顔で、激しくかぶりを振った。
「あなたねえ、白鳥にあんパンなんか、あんパンなんかあげて……」
声と一緒に小さくなっていくシラトリを、りん子はただ見ているしかなかった。ドレスまでが雪のように溶けて、地面に染みこんでいった。りん子はポケットからペンダントを出し、空へ投げた。
見渡すと、世界はずいぶんと変わっていた。完成間近だった城は、溶けて丸みを帯び、噴水になっている。まばらだった花が集まって花壇になり、周りには木も生えている。日差しの下を人が行き交い、高架線路から電車の音が響く。
そこは、元の公園だった。
子どもを連れた夫婦がやってきて、隣のベンチに座る。おにぎりの包みを開けて楽しそうに話す横を、若い男と大型犬が通り過ぎていく。今日はこんなに人通りが多かったかしら、とりん子は思い、席を立った。
ゆっくりと、噴水のほうへ歩いていった。水があふれる中央には、女性をかたどった像がある。細い体と優しげな笑みは、一見すると誰だかわからない。が、羽のようなドレスとてっぺんに結った髪で、りん子はすぐにわかった。
「シラトリさん、美化しすぎ」