窓
やっと仕事が終わった。携帯を開く。20時38分。マジかよ。クソ課長!いつまで残業させんだよ!労働法違反だろ!悪態をつきながら俺は会社を出た。小さな一階建ての事務所であるけど、忌々しいその姿は俺にとって強大な悪の権化なのだった。
でも、そんな俺の怒りも長くは続かなかった。明日は5日ぶりの休み。
5日・・・。なんて長かったろう。地獄の日々。俺のデスクの横の壁に掛けてあるカレンダーには、日付の上にファンシーな猫の顔をした小さなマグネットが乗せてある。毎朝女子社員どもが今日の日付に合わせてマグネットをスライドさせていくのだが、それは別に誰が頼むわけじゃなく、女どもが可愛いからと勝手にやってること。そんな物置かなくても今日が何日かなんて誰だって分かる。それに、これ見よがしに月曜や火曜の欄に置かれると、未々休みが遠いことが実感され不愉快になるのだ。 能天気な猫の笑顔が更に怒りを増幅させる。
でも、それも全部水に流してやろう。何せ明日は休みなのだから。今日は徹夜でネトゲして、明日は一日爆睡しようか。それか、レンタルショップで見たかったアニメを全巻借りて徹夜で見て、明日は一日爆睡しようか。ああ、至極の選択なり。
俺は停留所にてバスを待った。この時間になるとバスの本数も減り、時間の間隔も長くなる。ここでまた苛々。バスは僅か3分前に発ったばかりだったのだ。次まで30分待つ必要がある。舌打ちして暗い夜道を睨み付ける。だが、まあいい。許してやろう。何せ明日はfreedom holidayなのだから。
繁華街の喧騒から抜け出してきたバスが目映い光を携え向かってきた。ヴァンパイアが見たら溶けてしまいそうなほどの光。目を反らし俺は深い溜め息をついた。やっと帰れる。会社を出てから40分位は経つのに、まだそこの角を曲がれば忌々しいその姿が見えてしまう位置に自分が居るのが我慢ならない。早く来いよと気が急いていたその時だった。
ポケットに入れていた携帯が震えた。見ると井之上からの電話だった。俺は出るか迷った。ここで出てしまうとこのバスを乗り過ごさなくてはならない。チラッと停留所に張られた時刻表を見る。次のバスまで更に30分だった。なら答えは一つ・・・。
(よう!久しぶりだな!今ちょっとバスに乗っててな。電話できないからメールしたよ。なんか用だったか?)
これならバスにも乗れて井之上とも連絡が取れる。完璧な計画。
井之上は中学からの友達。なんていうか、ちょっと変わった奴だ。明るくて皆から好かれる奴だったが、偶に度を越した馬鹿を披露した事があった。
例えば二人で道を歩いていて、マンホールが道にあると、その上に乗って「波乗り、波乗り〜♪」と言いながら腰を降ってサーファーの真似事を始めるし、学校の昼休みに突然机の上に立ち、ノートを丸めてマイクに見立てて、(井之上悟ランチタイムショー)などというリサイタルをやったりもしていた。
そんな底抜けに明るい馬鹿の井之上。女子からもすごい人気だった。大抵、こういうお調子者の馬鹿は、本人の顔も笑われるためにあるような残念な顔と相場が決まっているが、井之上は違った。はっきり言って良い男なのだ。テレビで見るスマートなイケメン漫才師みたいで、笑いも取れて格好いいという2拍子揃った人間だった。本当は後1拍子付けて3拍子揃ったパーフェクト人間と伝えたかったが、そのもう1拍子が見つからない。勉強はお世辞にも良いというわけじゃなかったし、運動もそこそこで目立たなかった。なので、女子たちから人気があったというけれど、イケメンでもただ馬鹿で面白い奴というレッテルを貼られた井之上は、そうモテ男というわけでもなかった。中高女に縁がなかった俺だけど、井之上も意外と女と付き合ったことはなかったらしい。やはり、世の女どもの選考基準は相当高いということだ。
俺と井之上。全く相反する人種。アニメやゲームもやらない。人付き合いが苦手で、オタク趣味で、不恰好な俺とどうして交わるものか。でも、交わったのだ。最初のきっかけはもう覚えていないけど、多分あいつの持ち前の明るさで俺に近づき、いつの間にか心奪われてしまったというところだろう。
(やっほ~!おひさ!俺今出張でS県に来てるんだ。さて、それは何処でしょう?いや~、出張費も少なくて給料も少ないだろう?折角の出張も全然羽が伸ばせないんだ。全く滋賀ない生活さぁ〜。)
しばらくして井之上からの返信が来た。メールを見て思わず噴出してしまった。車内には俺一人しか乗っていない。時間も時間だし仕方ないけど、今の俺には幸いだった。一人で笑っている姿は明らかに不気味だ。
それにしても相変わらずの男だ。
井之上は、全国展開をしてるアパレルショップの本部で働いていた。仕事ぶりは見たことがないけど、地元を離れ、一人都会へ赴いた井之上は、嘗ての馬鹿一辺倒だった自身は鳴りを潜め、その端正な顔も活かしつつ、真面目に営業マンをしているらしかった。それでも、こっちに帰ってきたり、俺みたいな旧友と連絡するときは、往年の馬鹿を見せてくれる。それは俺にとっても、社会のストレスに精神を磨り減らされる毎日故、日毎の悩みなど皆無だったあの頃を思い出させてくれる貴重な時間なのだった。そんな井之上からの久々の連絡。弥が上に俺の頬も緩むのだった。
(そうかぁ、大変そうだな。全国チェーンの店だもんな。これじゃあ美味しい牛肉も食えないじゃないか。ほら、なんと言ったけ?)
(はははっ!なんだお見通しかぁ。近江牛の事だろう?確かに一回は食して見たいものざんす。そりゃあそうと、そちらは最近どうざんす?)
(したくもない仕事を毎日頑張ってるよ。ゲームやアニメが唯一の生き甲斐さ。そっちこそ、彼女とうまくやってんの?)
と、そこで俺は今自分が打ったメールを染々眺めた。
彼女も居なく、アニメやゲームだけが生き甲斐の俺。その今の状態を些かも偽らず、素直な気持ちでメールに綴っている。俺にとって恥部であり、あまり世間に発信したくない事であるが、井之上だけは違った。地元に住んでる他の友達連中には、一部の友達を除いてそういった恥部を晒すのに抵抗があった。その一部の友達とは俺と同じ趣味の奴等だが、そいつらとはお互いの傷を舐め合うように恥部を晒す事ができた。しかしそれでも、どこかでこいつらよりは優位に立ちたいという願望があり、根底のところでは張り合っている部分があった。しかし、井之上にはそういった感情は沸かなかった。裏表がなくいつも明るい井之上には本当に包み隠さず話すことができる。まあ、相談ごとには向かないキャラではあるけど。
(まあまあってとこかな。それよりさ、ちょっとボンジョルノに相談したいことがあるんだ。)
相変わらずそのあだ名で呼んでくる。なんでボンジョルノって言われたかは忘れてしまった。しかし、それよりも意外な展開だ。井之上から相談とは珍しい。相談相手に向かないと思っていたのは俺だけだったみたいだ。
(どうしたの?)
(いやさ、今出張で使ってるこのホテル、泊まるの5回目なんだけど、その時はいつも12階の3号室に泊まるんだ。一番海が綺麗に見えるっていうその部屋を気を使ってを用意してくれるんだよ。でね!その窓から斜め向かいに見えるホテルと同じ高さくらいのマンションがあるんだけど、その一室の窓からいつもホニャララが見えるんだ!)
ホニャララ・・・?それが答えを隠してクイズにしていると分かるまで数秒かかった。一体なんだ?クイズにするくらいだ、相当変わったものかもしれない。
(分かった!筋肉ムキムキのボディービルダーが見えたんだな?)
精一杯ボケてみた。
(そうそう!海パン穿いて「フンッ!」なんてやってんだよ。って、ちがわーい(笑)そうじゃなくて、実はねクリスマスツリーが見えるんだ。)
クリスマスツリー?確かに今は一月を中頃まで過ぎてはいた。しかし、クリスマスが終わってまだ1ヶ月経っていない。単に仕舞いそびれているだけではないのか?しかし、考えてみれば世間ではクリスマスツリーはクリスマスが終わったら直ぐに片付けられているイメージがある。繁華街の店々はもちろんだけど、俺の家や友達の家なんかも直ぐに片付けてたはずだ。鯉のぼりなんかは6月になっても空を舞っているのを目にすることがある。まあ、クリスマスは終われば直ぐに大晦日、そして正月と続く。いつまでも余韻に浸っている暇はないのだろう。それか、雛人形をいつまでも仕舞わずにおくと娘の婚期が遅れるというから、ツリーの場合はサンタが来るのが遅れてしまうのかもしれない。
とにかく、俺は確かに珍しいけど、そんな家も中にはあるだろうという趣旨の返事を打った。
(確かにまだ一月だから普通かもしれない。でも俺はこれ迄の5回の宿泊の全てでそのツリーを見てるんだ。その時は、4月や8月や10月だったんだよ?流石に不自然じゃナイジェリア?)
確かにそれを聞くと不自然だった。流石に春や夏にツリーは出さない。仕舞いそびれるわけもない。俺は一気に井之上の話しに興味を持った。
(確かに不自然だね。)
(だろ?俺の推理を聞くかい?)
(なんだ?)
(俺が初めてツリーを見たのは一昨年の4月だった。その前の年の12月から出しっぱなしだと仮定すると、そこの主人は既に殺されてるんじゃないか?)
(まさか。)
(いやいや、あり得るぞ!あの部屋に同棲しているカップル。愛情の縺れで片方が殺されてしまう。二人で楽しく過ご筈だった聖夜は一転して血の夜と化してしまう。今もライトが煌々と輝くツリー。しかし、その明かりは永遠に消されることはない。なっ?どうだ怖いだろ?)
よくもそんな発想が浮かぶものだ。こいつは将来小説家にでもなったらいい。なんて考えながらも、俺も井之上の予想に対しての自分の予想が浮かばなかった。それは取りあえず井之上の予想を採用することを意味する。釈然としない結論だが、それで井之上が満足ならそれでいい。折角興味があった話だったけど、井之上のすっとんきょうな推理のお陰で、なんだか冷めてしまったのだった。
会社の昼休み。先輩に誘われ俺は行き着けの定食屋へと入った。
THE定食屋といった感じの店。暖簾を潜り、引き戸をガラリと開けると小ぢんまりした正方形の店内がお目見え。古ぼけて黒っぽくなっている畳の座敷席が2つに、油っぽい床のテーブル席が4つ。元は純白であったろう壁もすっかり黄ばんで、お品書きの札やカレンダーなんかで上手く隠されている。こんな散々な所な上に肝心の飯も別段旨いというわけでもないので、客はいつも少なかった。
先輩の半ば指定席と化している入り口横の座敷席に俺達は腰を下ろした。先輩は革靴を脱ぐなり思い切り足を投げ出して開放的な姿勢をとった。俺もそうしたかったが、先輩の手前そんな事も出来ず、小豆色の座布団の上に胡坐をかくにとどまった。
別段旨くもない飯の中で、唯一個人的にマシだと思っているから揚げ定食を頼み、何気なく厨房側の天井からぶら下げられたテレビを眺めていると携帯が震えた。見ると井之上からだった。久々のメール。窓辺のクリスマスツリーの一件からもうどれだけ経ったろう?俺はメールを開いた。
(やっほ~!お元気ですかいな?)
相変わらずの気の抜けたメールだ。昼休みとはいえ先輩と行動し気の抜ける暇もない昼下がり。思いがけないホッとする瞬間だった。返信する前に俺は最後の井之上とのメール履歴を見てみた。ポチポチと携帯の下ボタンを押すと直ぐに井之上のメールが出てきた。そうか、最後は殺人事件の話になったんだな。
1月18日のメール。現在4月6日也。メール一覧の右にあるスクロールバーは丁度人差し指の爪くらいの大きさ。スクロールすれば直ぐに一番古いメールまでたどり着く。こういうのを見るとまじまじと切なさを感じてしまう。友達付き合いは歳を重ねるごとに減っていく。皆仕事に勤しんでいるのだから仕方ないが、オタクな俺には元から友達は多くなかった。なのでメルマガなんかを除いてしまえば、スクロールバーの大きさはどんどん広がり、最後にはスクロールしなくなってしまうのではないか?そう思うと絶対メルマガは消したくなかった。
先輩はレジの横に立てかけられている読み古された漫画を読んでいる。俺はメールを続けた。
(元気だよ。今昼休みで先輩と一緒に昼飯中。)
(そっか、仕事だろうと思ってメールにしたんだけどご苦労だね、先輩とランチって苦手だなぁ。)
(そうなんだよ。今も目の前で漫画読んでる・・・。そういえばこの間のツリーの件どうなった?)
(おお!それが聞いてくださいよお前さん。今さ、正にこの間言ったホテルにチェックインしたところなんだ。それでいつものように12階の3号室に入って窓からマンションの例の部屋を覗いてるんだけど・・・。やっぱりツリーが見えるんだ。相変わらず電灯をピカピカさせてね。)
(そうか・・・。謎は深まるばかりだな。これはひょっとするとお前の推理が当たってるかもしれないぞ?他にその窓から見えるものはないのか?)
(その窓はベランダに面した大きな窓なんだけどね、見える物というとそのツリーと、多分テーブルが側に置いてあるんだと思うんだけど、そのテーブルの角っこが見える。後は束ねられたカーテンが窓の両側に見えるくらいかな。薄暗くてよく見えないんだよ。)
そのメールが届いたところで飯が運ばれてきた。今から推理したいと思っていたところだったので出鼻を挫かれたが、もうすっかり名探偵になった気でいたので、同時に運ばれてきた先輩の飯を先輩が漫画を読みながら食べだしたのを見届けてから、俺は箸を動かしながら脳を回転させた。
まず一つ確認しておかないといけないのは井之上がそのツリーを見た時間帯だ。今は昼だけどいつも何時ごろに窓を見るのか?俺はテーブルの下に携帯を隠し、飯を食べながらメールを打った。
(おお!昼間に見たのは今日が初めてなんだ。今までは夜にチェックインしてたんだけど、今日は早めにこっちに来たんでね。)
ならば益々怪しくなってくる。ツリーが夜でも見えたということはつまり夜でもその家ではカーテンを閉めないという事になる。さすがにそれは不自然だ。俺はその旨をメールで伝えた。
(おお!ボンジョルノまるで名探偵だね!確かに言われたらそうだよね。夜でもカーテン開いてたし、しかも部屋は真っ暗だった。誰も住んでる気配がしないんだよね。)
(気になるな。でも、本当に誰か死んでるならもうとっくに見つかってると思うけどなぁ。ほら、腐敗臭ってすげぇ臭いらしいじゃん。)
(うん、それに身内や友達なんかが訪ねてくるだろうしね。じゃやっぱり殺人事件の線は薄いかなぁ。ボンジョルノ的にはどんな可能性があると思う?)
そう言われても困る。箸を唇につけながら俺はしばらく固まってあれこれ考えたが、そう簡単に思いつかなかった。結局先輩が固まった俺に気がつき、「どうした?」って聞いてきたので俺は推理を中断して食べる事に集中したのだった。
その夜、家に帰った俺は直接井之上と電話で話した。久々の井之上の声は少々上ずっていて俺との電話を喜んでいる気持ちが伝わってきて嬉しかった。お互いの近況はそこそこに、メインとなった話はやはりツリーの件。とりあえず殺人事件の可能性は消し、他にないものかと二人で考えた。クリスマス前に世界一周旅行に出かけてツリーを点けっぱなしにしてしまったのではないか、何か怪しい宗教にでも入っていて、あれはクリスマスツリーではなく教祖様を祭り上げるために置いているのではないか。あれこれ浮かんだもののどれもいまいちしっくりこなかった。結局、井之上はただ見ているだけの立場なので状況が変化するのを待つしかない。もどかしさはあるがそれしか出来ないのが現状というまとめに達し、電話を終えた。
ベランダに出てみた。4月の夜風は心地よく俺は大きく息を吸ったが、すぐさま近くを走る車の音や酔っ払いの奇天烈な怒号によって不快になった。国道沿いの5階建てマンション。交通の便は良いものの、窓を開ければすぐに耳に入るこういった雑音がネックで落ち着けたものじゃなかった。落ち着いた実家に帰りたいといつも考えてしまう。夜くらいは何者にも縛られずリラックスして過ごしたいのだ。
このベランダからも実に様々な窓が見える。斜め向かいに建つ巨大な新築マンションからは、カーテン越しに零れてくるオレンジ色の明かりが眩しい窓や仕舞い忘れた布団が寒そうに残っている暗い窓が見える。
このマンションの真横に経っているデザイナーズマンション。ここから見える面には擦りガラスの小窓が下から均等に並んで付いている。どうやら浴室の窓らしく、少しだけ開かれた隙間から白い湯気が漂い微かに石鹸の匂いが香ってくる。
皆狭い街に肩を寄せ合い犇めき合って暮らしている。幸せな暮らしもあれば不幸な暮らしもある。顔も名前も知らないが、親近感とまではいかないまでも近くに住む者同士、全くの他人という気はしなかった。
まあ、そんな事を思うのは俺くらいだろう。友達も少なく彼女もいない俺。会社の連中との交流は、よく振らなかったジュース缶の上澄みみたいなもので、薄くて味気ない。本能的に人の温かさを欲しているらしい。勿論それを外に発信することはないし、したくもなかった。プライドがそうさせるのか。それが自分の首を絞めることは重々承知の上での判断だった。
井之上との電話でここまで思い詰めるとは思わなかった。井之上との楽しい時間を過ごすほど、実際の俺の現実をありありと見せつけられるようで辛かった。自嘲気味に笑った俺は窓を閉め、気分を入れ替えるためにテレビゲームのスイッチを押した・・・。
意気揚々と意気消沈。対極のこの感情が、表裏一体と化して荒波の如く押し寄せる。そんな経験皆さんありませんか?
猫のマグネットが満を持して金曜日の欄に置かれた夜、先輩が飲みに行こうと後輩連中を誘い出した。その中に俺も入っていたらしく珍しく声がかかった。入社して2年。未だに社の誰とも馴染んでいない俺。仕事の話しか基本しないし、たまに昼食に誘ってくれる先輩はいるけど、先輩も別に俺と密になりたいと思っているわけでなく、一人で食べに行くのが味気ないので取りあえず連れて行っている感じ。居ないよりは良い。簡素な部屋にワンポイントに小さな観葉植物を置く。決して喋らない観葉植物。それと同じだ。
勿論惨めではある。井之上との交流で最近特にそう感じてしまう。井之上からの落差が激しすぎるのだ。でも自分ではどうすることもできない。
暗くてつまらないというレッテルはそう簡単には剥がせないのだ。天邪鬼気質の高かった過去の俺は、そんな自分の状況を変えようとするどころか、逆に孤立する方を選んでいた。アウトサイダーに生きると。
そして今、無性に後悔している・・・。
東京に住んでる友達が家に泊まりに来ている・・・。咄嗟についた嘘がそれだった。ベストチョイスの嘘。心の中で誇らしげになる。しかし次の瞬間、先輩の眉間が狭くなったのを見逃さなかった。断られて不機嫌になったのか?俺なんかがいてもいなくてもどうってことないだろうが、自分の誘いを断られたことに対する不満だろう。この俺が誘ってやってるのに断るとはどういう了見だ?って感じ・・・。益々俺への好感度が下がっていくだろう。それでもいいのだ。苦痛でしかない飲み会に行くくらいならその汚名、甘んじて受け入れよう・・・。上手い嘘がつけ得意になった俺。その後、案の定襲い掛かってくる惨めさとの戦い。意気揚々と意気消沈、美味しくないミックスジュースだった。
風呂上りにビールを一気に半分飲み干した俺は、少し乱暴に万年床の枕の上に置かれた携帯を取ると、履歴の井之上の名前を指定して通話ボタンを押した。今の俺は惨めさを通り越して妙な気の大きさに取り囲まれていた。酒の力がそうさせているのだとは思うのだが、仕事の開放感とくだらない飲み会の誘いから脱出できた喜びから気分がハイになっているのだ。もはや現状への後悔や不満など微塵もなかった。
半ば勢いで掛けてしまった井之上への電話。コール音を聞きながら冷静さを取り戻す。結局、今の俺は井之上に縋る事しか出来ないのだ。誰も俺の苦しみを聞いてくれず、癒してくれるのはビールと井之上だけだった。井之上だけが人との触れ合いを得ることができる手段。スラム街でボロボロのサッカーボールしか遊ぶものがない貧乏な子供のようだ。それじゃあ、井之上がボロボロのサッカーボールって事になってしまうけど、俺の心はスラム街と同じように、廃れて寂しい場所なのだから過言ではなかった。
長いコール音を経て、ようやく聞こえてきたサッカーボール君の声はボールのように弾んだ声という風じゃなかった。なんだか迷惑そうで冷たい口調だった。
「あっ、ごめん。もしかして忙しかったか?」
「・・・いやあ、ごめんボンジョルノ、今さ彼女と一緒なんだ。」
「あっ・・・、そう・・・。」
彼女・・・。その言葉が胸に刺さる。俺はもう一度謝った後電話を切った。携帯を置き、そのまま後ろの万年床にひっくり返った。怒りで後頭部が熱くなる。その熱はそのまま枕まで伝わっていくようだった。
嫉妬心。認めたくないけど、確実にその感情はあった。でも、それよりも許せなかったのは、そんな井之上に浅はかに近づく俺自身だった。彼女がいればこういう状況もあり得る。井ノ上は俺とは生きる世界が違うのだ。なのに自分で勝手に近づいて傷ついて・・・。とんでもなく愚かだった。
俺はベランダに出た。風の無い夜。見慣れた街の明かり。俺は手すりに手をかけ真下の駐車場を見下ろしてみた。暗いアスファルトに白のワゴンが一台停まっている。映画なんかでは建物から飛び降りて、下の車の屋根の上に落ちるシーンなんかを見るけど、実際はどうなんだろう?なんかジッと下を見ていると、どんどんアスファルトが近くに見えてきて、飛び降りても大丈夫な気がしてくるから不思議だ。しばらくそのままの姿勢で固まる。本当に死にたくなってきた・・・。
俺はその日早めに部屋の明かりを消し、床に就いた。自殺願望なんてものが少しでも心に宿る自分が怖かった。このままじゃ俺は本当に駄目になってしまう。井之上に頼っちゃ駄目だ。縋っちゃ駄目だ。自立して、本当の一人前になるべきなのだ。明日が休みでよかった。ゆっくりと自分を見つめなおしたい。そんな強い決意を胸に宿し、俺は目を閉じたのだった・・・。
喉元過ぎれば熱さ忘れる。中学生の時、学校の図書館のことわざ辞典で目にしたこの言葉。実に上手い事を言うなと意味を読んで感心したものだ。今の俺は正にその状態。昨日散々落ち込んで、今日から生まれ変わるつもりで頑張ろうと誓ったというのに、今日が休みという事が多大に影響して、朝からゲーム三昧と楽しんでいる。結局普段と何も変わらない。コントローラーを握りながら心の中で(駄目だこりゃ)と自嘲してみるが、それも思ってみただけに過ぎない。今の俺に付ける薬はないのだろう・・・。
まあ、人生なんてそんなものだ。ドラマのように一念発起して栄光を掴むサクセスストーリーなんてそうざらにあるもんじゃない。大体がこうありたいと願っても壁にぶち当たり挫折するケースばかり。
でも俺の場合は、実際その壁は触ってみれば豆腐みたいにフニャフニャで簡単に壊せるものなのに、堂々と立ち塞がるものだから、萎縮して結局諦めてしまう。そこまで自己分析できて変えようとしないのだから、もうご立派という他ないのかもしれない。
カレンダーも半分を破り捨てた7月の上旬。会社のトイレで用を足していて洗面所で手を洗っていた時に携帯が震えた。俺の携帯は電話とメールでバイブの種類を変えてある。この震えた方は久々のパターンだ。見ると井之上からの着信だった。
「よう!ボンジョルノ、急にごめんな。」
軽快な声、電話とは珍しい。この所仕事も忙しくて井之上との連絡も疎かになりがちだったので、相も変わらない井之上の様子が嬉しかった。
「いいんだよ、今昼休みに入ったところだから。絶妙なタイミングだったな。」
トイレの中では自分の声が反響してうるさかった。俺はトイレを出てそのまま事務所の外へと出た。そして真夏の太陽を避けるため事務所の壁を伝って裏へと回った。
「まあ、俺はボンジョルノの行動ならなんでもお見通しだからな!だっていつも側にいるから。ほら今も君の背後に・・・。」
嘘だと分かっていてもつい振り返ってしまう。俺は苦笑いしながら後ろを見た。
事務所の背中は、隣の民家と隔てるための石垣があるだけで、人一人やっと通れるくらいの狭いスペース。日も当たらずひんやりと涼しかった。その民家から伸びた木の枝が、青々した葉をつけてうちの敷地内に入り込んでいる。
「ところで、なんか用事だったか?」
「おう!実は一つご報告がありまして・・・。この度、井之上悟は彼女と別れる事になりました。」
「えっ!?」
意外な展開。俺はじっくり話を聞きたくて事務所の壁にもたれて腰を下ろした。突き出した膝が目の前の塀に擦れそうだ。こんな狭いところにスッポリ収まって人に見られたら恥ずかしい。
「何でまた別れたんだよ?だって将来は結婚を考えてたんじゃ・・・。」
「う~ん、確かにそうなんだけど・・・。ぶっちゃけると、俺の我侭なんだよね。」
井之上の声のトーンが少し落ちた。しばらく沈黙が続く。俺は自分から催促せず、井之上の次の言葉を待った。何気なく目の前の塀に手をやる。柔らかい土の地面との接着面から上に向かって苔が伝っている。普段日に当たらない塀はやっぱり冷たい。
「・・・ほら、前々から言ってたじゃん、例のマンションのツリー部屋。この前ついにあそこの住人を見ることができたんだ・・・。」
「へぇ~、そうなんだ。どんな人だったんだ?」
「・・・滅茶苦茶・・・・、・・・滅茶苦茶・・・。」
ゆっくりとそう言って声が遠のいてくる。俺は何が起こるんだと不安になって、眉間に皺がよった。
「タイプだったんだ!!!」
急に受話器から、叫び声ともとれる大声が俺の耳に突き刺さる。びっくりして俺は受話器を放した。そしてさっきの不安が打って変わって小さな怒りに転換された。何をこんな時にふざけてるんだこいつは?
「・・・タイプ?」
「うん、見かけたのは先週の土曜日。出張でまたホテルに泊まったんだけど、その時に双眼鏡を持って来てたんだ。」
「へぇ~、準備がいいな。」
「それでさ、しばらく例の部屋を双眼鏡で眺めてたんだ。相変わらず真っ暗でツリーだけが煌々と点いてる感じだったんだけど、なんかツリーの奥が雰囲気が変わってたんだ。」
「ほう、どんな風に?」
「前はテーブルの角っこらしきものが見えたんだけど、それの変わりにソファみたいなものが見えるんだ。暗くてはっきりとは見えないけどね。」
「成る程、つまりは模様替えをしたってことだよね。やっぱり誰か住んでるのは間違いないね。」
「流石ボンジョルノ!説明は不要なようだね。そうなんだ、確かにあの部屋には誰か住んでいる。そう思って俺は根気よく部屋を眺め続けた。そして、とうとう疲れて今日は諦めようと思ったその時!」
また電話口で叫ぶ井之上。今度は予め身構えていたので驚きは少なかった。
「電気がパッと点いてね、窓際にその人がやって来たんだ。」
「その人・・・?ああ、その美女か。」
「う~ん、美女って程じゃないな。長い黒髪を三つ編みにして、眼鏡をかけた知的そうな人さ。化粧っ気も無さそうだったし、ナチュラルさが魅力だね。ああ、思い出すだけでも胸が高まるよ。」
黒髪を三つ編みに束ねた眼鏡の女。それだけ聞くと、どうも暗い地味な感じの印象を受ける女の人だ。
「そういうわけで、その人に一目惚れをしてしまった俺は彼女に別れを告げたんだ。他に好きな人ができたとね。」
井之上の彼女・・・。付き合って5年位にはなるはずだ。一度プリクラを見せてもらったことがあるが、明るい髪色で化粧っ気が多く服装から何までとても派手な印象を受ける女だった。男遊びが好きそうなヤンキー女、ちょっと古い表現だけど、その言葉が一番しっくりくる。でも、芸能人にでもなれそうな綺麗な人だった。そんな美女が井之上と並んで写っているそのプリクラを見た時、正直にお似合いだなと感じたものだ。第一、井之上は普段は一風変わった奴だけど、黙っていればいい男で、おしゃれに気を使ってもいるし、派手めな女が側にいるのが全然違和感がなかった。寧ろそんな女の方が性に合っている気もする。いつも馬鹿なことばかりして俺と気が合っていた井之上。長年の付き合いで俺も違和感なく付き合っていたが、本来なら俺みたいな地味な男とは不釣合いな男なのだ。彼女がいるという時点でもう世界が違う。
ふと、井之上は本来なら全然友達ができるはずのない俺の為に情けで付き合ってくれているんじゃないかと思った。しかし、そん考えは直ぐ改めた。そんなこと思うのは井之上に失礼だからだ。会社が上手くいかず、人付き合いの大変さを肌身に感じている今日この頃。思った以上に俺の心は弱っているらしい。
そんな井之上が派手な彼女と別れを決めた。そして次に狙うは聞くからに地味な女。この心境の変化はどうしたのか?俺との長い付き合いの中で井之上自身も俺寄りの地味さが備わったのか?
「とにかく、もう後には引けないんだ。絶対その人とお近づきになるよ。」
「あっ、ああ。でも、どうやって?」
「それは今現在計画中。まあ、続報を待たれよ!んじゃ、またね。」
電話を終えた俺は、そのまましばらく固まっていた。いくらなんでも無茶すぎやしないか?何の接点もない二人。向こうは井之上の存在すら知らないというのに、彼女を捨てでまでやることか?絶対失敗するに決まっている。しかし、そんな思いとは裏腹に井之上の事を羨ましいとも思った。付き合っている女を捨てでも愛に走れるその行動力に。
考えてみれば井上に対しては、常に羨ましいという感情が付きまとう。何を比べても全ては井之上が勝っている現状。俺は友達として付き合っていてもどこか井之上を恨んでいたのかもしれない。どうやっても超えられない壁として立ち塞がるからだ。無論、井之上本人に自覚はないだろう。本心から俺と分け隔てなく付き合ってくれているのは十二分に伝わる。でもそんな態度が、勝者の余裕に感じられ癇に障るのだった。心が狭い俺。十二分にそれは分かっていた。でも狭い心を広げるのは容易なことではない。そんな余裕は何処にもないのだから。
今回の井之上の行動。俺は失敗を望んでいるのか?純粋に友達として上手くいく事を願っているのか?その判断はまだつかなかった・・・。
それからしばらく井之上から連絡はなかった。ただ平凡に過ぎていく日々。いや、毎日仕事に神経を擦り減らしているので、平凡というよりは消耗していく日々だった。井之上からの連絡がこれくらい途絶えることはごく普通のことだった。しかし、今回の俺は前回の続きを早く知りたくて気が急いていた。成功か失敗か?天国か地獄か?井之上が天国の場合、俺は地獄に落ちる。井之上が地獄なら俺は天国に行く。そう考えている自分がいる。何を今更張り合っているのか?井之上には既に彼女がいた経験があるというのに。俺はあまりの自分の心の狭さに嫌気がさした。そしてその全ての原因を仕事のせいにした。俺の負の要素が集約されている場であるこの職場のせいにしなくては、俺は本当の鬼になってしまうのだった。
紅葉の季節。食欲の秋とはよく言ったものだ。秋の味覚はどれも魅力的でおいしいものばかり。この時期に一気に太ってしまう人も多いだろうと思う。俺も例外ではなかった。別に秋刀魚や松茸なんか食べずとも、カップ麺やから揚げ弁当でも十分味覚を満喫していた。その結果、夏に比べて5キロも太ってしまった。オタクな上にこれ以上太ったら、もはや人生を捨てたも同然。それだけは避けたかった。
俺にだってプライドはある。女の子と付き合いたいと思うし、楽しい仲間たちに囲まれわいわいやってみたいという願望もある。でもそのプライドは別のプライドで押さえつけられていた。天邪鬼でアウトサイダーに生きようとしていた自分である。
でも最近は、井之上のおかげというか井之上のせいというか、とにかくあいつの影響で、俺は自分のこれまでをこれまで以上に恥じていた。本当にこのままでいいのか。事務所裏の日の当たらない苔の生えた石壁のように一生地味で寂しい人生を歩んでいくのか?そう考えれば考えるほど日頃の自分が愚かに思えてきて、最近じゃネトゲやアニメに手をつけなくなった。しかしこれじゃあ、ネトゲやアニメが諸悪の根源みたいで可愛そうな感じもする。彼らに罪はないのだ。ただ控えめに趣味として嗜めばいい。でも俺の場合、生活の一部と化して完全に依存していたのだ。なのでしばらくは拒絶するくらいの勢いじゃないと、嗜むレベルにまではもってこれそうになかった。
衣替えの時期に合わせて自身も心の衣替えを行っていたそんな時期に、久々に井之上からメールがあった。わくわくしながらメールを開く。もう、以前のように張り合う気持ちは捨てよう。今は純粋に井之上の話を聞いてやるのだ。それが心の衣替えの一環でもあるのだから。
(おひさだね~!!ところでいきなりで悪いんだけど、ボンジョルノにお頼み申したいことがあるのだ。)
(久しぶりだね。頼みってなんだい?)
(ボンジョルノは「愛の万華鏡」って漫画知らないかい?)
愛の万華鏡?一体いきなり何なんだ?俺はてっきり三つ編み女とのその後を聞けると思っていたのに。
(いや、聞いたことないな?何なのそれ?)
(ふむ、知らないか・・・。実はその漫画を探して欲しいんだよ。古い短編集でね。安倍みどりという人が作者なんだけど。)
(俺がその漫画を?)
(うん、こっちの本屋で滅茶苦茶探したんだけどさ、全然見つからないのだよ。オーマイゴッドさ。だから、ボンジョルノの街の本屋にないかなと思って。)
(う~ん、古本屋なら何件か知ってるからもしかしたらあるかもしれないけど。でも、どうしてそんな漫画を探してるんだ?)
(ふふふ・・・。それはお主が見事探し当てることができたら教えてしんぜよう。なんてね、真相は見つかったら話すよ。今は取りあえず探してみてくれ。)
それで井之上との連絡は終わった。訳が分からない。でもとりあえず、三つ編み女との関連性は無さそうだった。まあ、井之上が珍しく俺に頼みごとをしている。俺は今衣替え中だし、人のために頑張ってみるのも一興だろう。俺はフッと鼻で笑って携帯を閉じた・・・。
次の休みの日、俺はバスに乗って街の繁華街に向かった。用事は午前中までには終わらせたい主義の俺。そう思って早めに家を出たのだが、なんだか普段会社に行く時間とさほど変わらない時間になってしまった。でも、同じバス停で待つという行為も仕事の日と休みとでは気の重さがぜんぜん違った。普段がボーリングの玉のような重さであるならば、今日はシャボン玉みたいにフワフワと軽かった。いつもは憎憎しい通勤路も今日はなんだか微笑ましくもある。気持ちに余裕って本当に大切だなと思うのだった。
久々の街は相変わらずの若者の街だった。まあ、俺だってまだ若者の部類に入るのだけど、ギャルやチャラ男の巣窟であるこの街は、やはり居心地の良いものではなかった。濁流のように押し寄せてくる若者の波に逆らうように俺は掻き分けて前に進んだ。おしゃれなカフェや洋服屋なんかには目もくれず、俺は一直線に街外れにある馴染みの古本屋へと入った。
古本屋といっても全国チェーン店のリサイクルショップであり、本以外にも古着や家電、食器などの生活用品なんかも充実していた。入るなり少々耳にうるさい店内有線が気になった。少し音量が大きくないか?そのまま古本の漫画本コーナーへと向かう。沢山の漫画本が棚にぎっしりと詰まっている。立ち読みをしている数人の客たちの間を縫って、目当ての「愛の万華鏡」なる漫画を探した。棚の左から右へと隅々まで見て回る。
「無いな・・・。」
棚の端まで見たがそんな本は何処にもない。名前から察するに少女漫画の可能性もあるとして、羞恥心に打ち勝ちながら、立ち読みをしている女の子の間まで縫ったというのに。
店の外に出ると、入る前とで空の明るさが極端に違った。見上げると分厚い雲が太陽を隠している。今日は昼から雨だといっていた。風も出てきて肌寒くなってくる。この街にはもう一件別の古本屋がある。俺はそこまで歩くことにした。
午前中で済ます予定だったのだが、どうやら失敗に終わりそうだ。結局もう一件の古本屋にもなく、新品としてまだ店頭に並んでいる可能性も考えて普通の本屋にも行ったが徒労に終わった。ここまで頑張ったのだ。井之上には無かったと言って終わりにする手もあるが、今の俺はまだあきらめてはいなかった。
バスで次の街へ。その車中で俺は窓の外を見ながら充実感に浸っていた。
不思議なものだ。こんな感情が湧いてくるなんて。まあ、もとより俺は面倒見の良い方ではある。責任感もあって、今の会社に入る時も面接でそこをアピールしたものだ。自分で言うことじゃないのかもしれない。でも俺の長所ってそんなところしかないのだ。
しかしやはりそれ以上に今の俺を占める要因は、生まれ変わりたいという願望からだった。井之上の影響で変わりたいと願うようになった俺。こうして人のために頑張っている自分というのは、自己満足だけどやっぱりいいものだと感じる。そういうものの積み重ねで自分に自信がついてくるのではないか。その自信が俺の人間性を変えてくれる。自己満足でも井之上だって喜ぶのだから万々歳だ。なので是が非でもこの頼みは聞いてやりたかったのだった。
次の街に入って目当ての古本屋へと入る。早速可能性の高い少女漫画コーナーへ。
「あった~。」
ため息と共にでたその言葉は、今までの労を一緒に吐き出すかのようだった。案の定少女漫画コーナーにあったその本は、背表紙が少し破けていたけど、確かに「愛の万華鏡」と書かれていた。手にとって見てみる。絵柄はいかにも少女漫画の画で、大きなキラキラ目の黒髪の女の子だった。でも来ている服装が古くさい。昭和の映画なんかに出てきそうな服だ。気になって冒頭部分を読んでみる。どうやら昭和30年代を舞台にした純愛ものらしかった。
俺は少女漫画には詳しくないけど、こういった設定の漫画って今の女の子にウケるんだろうか?現代の女の子にとって昭和とは古くさいものと思っているのではないか?
自分の親は昭和生まれだろうから、身近に昭和を生きている人はいるだろうけど、自分にはピンとこないのではなかろうか?俺も生まれは昭和の終わりだけど、その頃の記憶なんてないから実質昭和は遠い存在だった。なんでこんな本を井之上が欲しがるのか?漫画を裏表ひっくり返しながら考えてみたが特に思い付かなかった。
とにかく目的は達した。俺は井之上の反応を聞きたくて、店を出た瞬間に電話をかけた。外はとうとう雨が降りだしていた。
「もしもしん・・・。」
「おう、今大丈夫だったか?」
「ノープロブレムだよ・・・。」
どことなく元気のない声だ。一体どうしたのだろう?
「元気ないな?」
「いやあ、実は風邪を引いてしまってね。今出張先のホテルで寝てるんだよ。」
「もしかして、例のホテル?」
「そうさ。ああ、こんな時にあの人に看病してもらえたらなぁ。」
「はははっ。そうだ、例の漫画見つかったぞ。」
「おお、見つけたんだ。流石はボンジョルノ。」
「でも、何だってこんな漫画を探してたんだ?あんまり面白そうじゃないし。」
「ボンジョルノ、読んだのかい?」
「まあ、パラパラっとね。」
「そうか・・・。」
暗い声。やはり体調が悪いらしい。あまり長電話は悪いと思った。
「まあ、ゆっくり休んでくれよ。で、この漫画どうしたらいいんだ?」
「時が来たらボンジョルノの家に取りに来るよ。・・・それまでにさ、きちんと読んでいてくれないか?そしたら俺がその漫画を探してもらった理由が分かるかも。名探偵のボンジョルノならきっとね・・・」
歯切れの悪い話だ。はっきりしてほしかったが、病人にこれ以上問い詰めるわけにはいかない。俺は電話を切った。
家に帰りつき、歩き疲れた足を万年床にぶちまけたときにはもう14時を回っていた。傘を持たなかったので、小雨で濡れた髪をそのまま枕に乗せたため、カバーが湿ってしまった。でも、そんな事を気にしないくらいに俺は疲れてしまった。
電気も点けず、薄暗い部屋で大の字になり天井を見つめた。
空腹が襲う。街で何か食べるべきだった。台所上の戸棚にはカップ麺がスタンバっているが、今日は気分じゃなかった。
あの漫画を読まなきゃいけない。病人の頼みだ。もしこのまま奴が死ねば、俺は一生悔いが残るだろう・・・。って、冗談はさておきだが、今は枕元にある古本屋の袋に入れられた漫画本に手は伸びなかった。疲れはてて読む気がしないのだ。
取り敢えず少し休憩だ。
俺はそのまま目を瞑った。
目が覚めたのは18時過ぎ。結局、今日は一日井之上の為に費やしたことになる。明日は何時ものように仕事。普段なら勿体ない過ごし方をしたと後悔しただろう。ゲームもアニメも見ずに、疲れて寝ただけの一日。考えられない事だ。
でも、今の俺は違う。心地よい疲れ。ゲームやアニメじゃ得られない喜び。確かに単なる友達の使いだ。でも、こんな些細なイベントでも喜びを感じるほど、最近の俺は心を失っていたんだと思う。そして、こういった些細な事でも自信の糧になる。
会社での俺は感情は必要なかった。披露する場がないのだ。事務所の隅にあるコピー機やデスクの上のパソコンと同類で、言われたことを聞き、黙々と動く機械と一緒だ。もうそんな扱いは嫌だ。生まれ変わりたい。
その為には今の会社を辞めなくてはならないと思っていた。生まれ変わったとしても、今の俺を知る人たちの前ではそれを表現できない。それはやっぱり俺のプライドがそうさせるのか。会社に息苦しさを感じていた俺が、負けを認めてみんなと協調性を持つようになった。そう周りから思われるのだけは我慢がならなかった。実際そうなんだけど、奴等には悟られず去りたい。そして新天地で生まれ変わった俺を披露したい・・・。
異常すぎる空腹。無理もない、今日は朝を食べたっきりだ。昼飯件夕飯ということになる。朝食件昼食をブランチというけど、この場合はなんと言うのか。ランチとディナーでラディナー?いや、ランナーか。今日は朝から走り回ったしピッタリだろう。
リッチに宅配ピザを平らげて20時前。お腹も膨れたしあの漫画を読むとしよう。俺は袋から取り出し漫画を広げた。目次を見る限り3つの短編漫画からなるらしい。セオリー通り始めから読む。
一話目を読み終えた・・・。舞台は昭和30年。主人公の女の子は魚屋の娘。歳は15歳。元気だけが取り柄の女の子。ある日、店の前に外国製の高級車が止まる。寂れた魚屋の前に不釣合いな車。中から現れたのはこの町一番の財閥の一人息子で、女の子と同い年の男の子。何事かと聞くと、その男の子の父親が昔、主人公の女の子の母親に恋をしていた。その恋をずっと忘れずに今まで生きてきたが、去年妻が亡くなったのをきっかけにもう一度この恋を実らせるチャンスをくれと言ってきているのだという。女の子の父親も去年事故で亡くなった為、今は母が一人で魚屋を切り盛りしていたが、女一人でやるには辛い仕事だった。もし、男の子の父親と上手くいけば一生楽な生活ができる。男の子の申し出に迷う女の子。母は父の事をとても大事にしていたしそう簡単に了承するわけがない。でも、今まで苦労してきた母に楽をさせたいという気持ちもある。どうしたらいいものか・・・。男の子と女の子は色々と協力し合ってこの恋の行く末を見守っていく。どっちに転ぶか分からないこの恋の行方。でも、そうしているうちに段々とこの二人がいい感じになっていく・・・。
少女漫画って読んだ事ないけど中々面白かった。結局、二人の父と母は付き合うことはなかったが、二人は最終的に結婚まで話が進んでいき、親の変わりに子供が恋を実らせたという結末だった。男のくせに主人公の女の子に感情移入してしまった。画も古いしベタといえばベタな話の展開だけど、読者を惹きつける力がある漫画だった。
おや?と思ったのは3話目の話を読んだ時だ。この話の舞台はやっぱり昭和30年。片田舎の古ぼけた家の2階を下宿先にしている大学受験中の女の子が主人公のこの話。高校は女子高だったし、ずっと勉学に励む生活のせいで、男性経験が全くない主人公。そんな彼女が初めての恋をする。相手は向かいの家の窓の向こうの男の子。人づてに聞いた話では彼もまた彼女と同じ大学を目指す受験生で、いつも机に向かって勉強をしているその横顔が窓から見えるのだった。その横顔を毎日見つめるうちに、彼女は段々彼を好きになっていってしまうのだった。
この話を読んでいて、ふと井之上と似ているなと思ったのだ。ホテルの向かいのマンションの窓に見える女の子に恋する井之上。それはまさしくこの漫画の設定と同じだ。男女は逆だが、更に言うならこの主人公の女の子の見た目が、眼鏡をかけ長い黒髪を三つ編みにした女の子だということ。これも井之上が惚れた女の特徴に酷似している。井之上はこの漫画とリンクするように今恋に落ちている。井之上が電話口で言っていた、読めば俺の気持ちが分かるという言葉。それはこの漫画の女の子の気持ちと同じく恋をしているということなのだろうか。それとももっと深い意味が・・・?俺は気になって更に漫画を読み進めた・・・。
翌日、いつものように会社という地獄から帰還した俺は、コンビ二弁当を手にマンションの階段を上っていた。ふと、俺の部屋の前に立っている何者かが見える。誰だ?借金取りか?いや、いくら生活苦といっても金融会社には手を出さない。さっき階段を上がる前に何と無くコンビ二袋の中を見た時、割り箸が入ってないのに気がついた。箸くらい家にあるけど、もしかしてさっきのコンビ二の店員が先回りして、箸を入れ忘れたと詫びたくて待っているのか?いや、俺より早く家に着けるわけないし、俺の家を知ってるわけもないし、そんな律儀な人がいるとも思えない。もしかして、幼稚園の頃仲良かった明美ちゃんが、俺の事を忘れられなくて会いに来てくれたのか・・・?その可能性は一番強く否定した。あの頃は女の子とも交流が会ったのになぁ・・・。
そんな冗談はさておき、本当に誰だ?俺は早く確認したくて足を早めた・・・。
「あっ!!井之上!?」
衝撃だった。まさかの井之上が俺の家の前に立っている。ジーパンのポケットに手を入れて壁を背に立っていた井之上は、俺に気がつくと頬を緩めた。
「やあ、ボンジョルノ。声を聞くのは昨日ぶりだけど、顔を見るのは何年ぶりかな?」
そこまで言って井之上は大きな咳を2回した。驚きのあまり忘れていたが、井之上は風邪を引いていたのだ。そんな体で俺の所にやって来るなんて・・・。
「どうしたんだよ?だって昨日は出張先のホテルだったんだろう?」
「時が来たら漫画取りに来るって言ったろ?その時が来たのさ。」
「いやいやもう来たのかよ!だって、昨日の今日だろう?」
「とりあえず、話はきちんとするよ。急に来ちゃってごめんな。今大丈夫か?」
「あっ、ああ、勿論・・・。入ってよ・・・。」
こうして目の前にしているのに、井之上が立っているのが信じられなかった。その上、何と無くしおらしい井之上に違和感を覚えた。一体どうしたんだ?でもまあ、それは風邪のせいだろうと解釈する事にして、俺は井之上を部屋に上げたのだった。
俺は先に部屋に入って万年床を片付けた。フローリングの床には全体的に埃や髪の毛がチラホラと落ちていた。俺はベランダの窓を開けて箒で外に掃いた。
「久々に来るなこの家。」
「そうだな、お前が上京する前に来たっきりだもんな。偶に帰ってきても街で飲んだりしただけだし。」
「ああ、そうだったね・・・。」
「お前、今日遅いし泊まっていけば?実家に帰るのは明日でいいだろう?ってか、いつまでこっちにいられるんだ?」
俺がそう言うと井之上は目を伏せた。やはり様子がおかしい。本当に風邪だけのせいだろうか?いつも馬鹿ばっかりしている本来の井之上とは別人のようだ。
井之上はまた2回咳き込むと、掃いたばかりのフローリングに腰を下ろした。
「それでさ、例の本読んだかい?」
早速その話題か。真面目な顔して言ってるところをみると、本当に大切な話らしい。俺は井之上の前にある小さなテーブルの向かい側に腰を下ろして対座した。
「まあ、読んだよ。」
「それで、何か気がつかなかったかい?」
「うん、第3話の話がお前の話してた話と似てるなって思ったよ。ほら、向かいの家の窓から見える男を好きになるやつ。男女は逆だけどな。」
「流石はボンジョルノだね。見事そこに気づいたか。」
「いやいや、あれだけお前と話してたら普通気がつくよ。それにしても、凄い偶然だな。漫画通りの経験してるんだもんなお前。」
「ボンジョルノはそう感じるわけか・・・。」
「えっ?」
小声でよく聞き取れなかったが、俺の感じ方はいけない感じ方なのだろうか?
「どういう意味だよ?」
「ボンジョルノは本当に良い奴だね。安心するよ。」
「なんだよ急に。意味がわからんよ。」
そこでまた2回咳き込む井之上。しばらくの間があった後、井之上は口を開いた。
「実は俺、会社辞めたんだ・・・。」
「なっ、何だって!?」
衝撃の事実。そしてそれと同時に、井之上の様子が変な理由が分かった。
「いやあ、世の中上手くいかないもんね。ボンジョルノも気いつけやぁ〜゜」
突然ふざけ口調になる井之上。でもそれはこの状況が居たたまれない為に、敢えて行われた事だというのを俺はすぐ見抜いていた。
「気を付けるさ。それにしても、昨日出張先から電話してきたのに突然だな。」
俺は努めて真面目にそして冷静に話を聞く構えを見せた。これ以上、井之上に悲しみの道化は演じさせたくない。
「・・・いや実はさ、辞めたのもう大分前なんだよね。3年になるかな・・・。」
「なっ!何だって!?」
またしても衝撃な一言。俺は口をあんぐりと開けて固まった。丁度、テーブルの上に置いてある卓上ミラーに自分の顔が映っていたのに気がついた。口を開けた自分の顔は醜さに拍車がかかっている。なんだか俺の方が道化を演じているみたいだ。俺は直ぐに口を閉じた。
「3年って、だって出張の話は・・・?」
「全部嘘さ。今までの電話やメールは全部自分の部屋からしてたんだ。」
「嘘って・・・。そんな素振り全然・・・。」
「ハハッ、素振りなんて見せたら嘘の意味がないよボンジョルノ。・・・でも、ボンジョルノとメールした後、ばれると思った瞬間はあったな。ほら、俺が始めて窓辺のツリーの話をした時に俺、滋賀に出張に来てるって言ったでしょ?滋賀って言ったのは洒落を言うために咄嗟に思いついた場所なんだけど、その後部屋から海が見えるってメールしたと思うんだ。でも、滋賀って海見えないんだよね。真実味を持たせる為に余計なこと言っちゃった。琵琶湖にしとけばよかったよ・・・。」
「・・・そんなこと、全然気づかなかったよ。でも、なんでそんな嘘つくんだよ。そんな無意味じゃないか。」
「無意味・・・。うん、そうだね。そう思ったからこうやって帰ってきたんだけど、ちょっと気づくのが遅かったな。3年前ってさ、俺が勤めて半年足らずなんだよね。そんな短期間で会社辞めてこっちに帰ってくるなんて出来なかったんだ。親にも迷惑掛けるし。だから、バイトで何とか食いつないでたんだけど、あっちは家賃も高いし、段々限界が近づいてきてね・・・。」
「そんなにきつかったの?」
「きつかったってもんじゃなかったよ。でも、最初は頑張ってたんだ。でも、段々俺には向いてないって思うようになって・・・。先輩や同僚も皆冷たくてね。まあ、営業って忙しいから人に構ってられないのかもしれないけど、結構孤立してたんだ。」
信じられなかった。これも嘘じゃないのか?あの明るくて人見知りなんてしない井之上が孤立していたなんて。まるっきり今の俺と同じじゃないか。俺はふと、また目の前の鏡を見た。
「それで会社辞めて、あとはずっと家でダラダラ・・・。偶にバイト行って、きつかったら直ぐ辞めて・・・。本当、馬鹿なことしてたと自分でも思うよ。」
そこで沈黙が流れた。俺が何か言う番だと思うけど、頭に色々と詰め込まれすぎて整理するのに時間がかかっていた。何か励ましの言葉を言うべきだ。俺と同じ境遇で苦しいんでいた友に対して何か一言を。でも、ここで気の利いた事を思いつけない自分。なんと情けない。俺自身も現在同じ悩みを抱えているのだから、その経験を活かして何かないものなのか。しかし、黙り込む井之上の作り出す沈黙が、段々と俺の部屋を支配しだしたために一層言葉が出ない状況になっていた。
「・・・ボンジョルノは明日も仕事かい?」
沈黙を破ったのは井之上の方だった。自ら作ったこの空気を気にして自ら変えようとして。病人にここまで気まで使わせて俺は本当に情けない。
「うん、まあね・・・。一応。」
「どう?上手くやってる?」
「いや、全然。俺も会社では浮いてる存在だから。」
「そっか、やっぱ社会人なんてなるもんじゃないなぁ。できることなら一生学生が良かったよ。馬鹿なことばっかやってれば良かったんだし・・・。それで皆が笑ってくれて、楽しかったなあの頃・・・。」
井之上自身、あの頃自分が馬鹿なことをしていたという自覚はあったようだ。井之上自身が楽しんでいるようにいつも見えていたけど、本当は努めて皆を笑わせてくれていただけではないのか?そんな風に俺は思った。今俺は本当の井之上を目の前にしているのかもしれない。そう思うと淋しい気持ちになった。
また沈黙が続く。今度こそ俺が何か言わなくちゃいけない。
「・・・彼女と別れたのは本当なの?」
何だこの質問は。沈黙を打破しようと焦った頭では気の利いた言葉は出ないかもしれない。それにしたってもっと他になかったのか?火事で逃げる前に慌てて家の物を持ち出した結果、すっとんきょうな物を持ってきたみたいだ。
「本当さ。仕事もろくに出来ないんだもん。愛想つかされるよ・・・。」
「じゃあ、ふられたって事?」
「うん、電話では俺からふったみたいに言ったけど・・・。まあ、見栄ってやつだね。」
仕事も上手くいかず、彼女にもふられた井之上。踏んだり蹴ったりな状態。ここでやっと気持ちの整理がついた俺は何か慰めの言葉を言おうと思った。
「大変かもしれないけど頑張れよ。仕事なんていっぱいあるんだからさ。こっちに帰ってきたんだし、こっちで仕事探せばいいんだしさ。」
「うん・・・。」
やっと言えた。まあ及第点ってところだろう。でも、彼女の話を聞いてからきちんとした慰めの言葉が出てくるなんて、まるで彼女の話を待っていてたみたいだ。こんな時にまだ張り合う気持ちなんてあるわけないけど、無意識というか、本能的にまだそういう気持ちが隠れていたとしたら、俺に井之上を慰める資格はないと思う。まあ、気にしすぎか。偶然だよ偶然・・・。
久々に会えた井之上と酒を酌み交わしたかったのだが、体調が悪いのでそれは叶わなかった。それでも、実家には明日帰ることになった井之上を今晩は泊めることになった。一緒に飯を食べてテレビを見て。もう少し起きていたかったが、明日朝が早い俺を気遣って井之上がもう寝よう言い出した。体調は俺と話したら大分良くなったという。そう言われると嬉しかった。
万年床を敷しいていると、井之上が一服したいから窓を開けて言いかと聞くので了承した。
「風邪引いてんのに煙草なんて吸っていいのか?」
「どうだろう?でも吸いたくてね。」
ガラリと窓を開け、ベランダに出る井之上。布団を敷きながらその光景を見つめる俺。夜風がフッと部屋に入り込み、さっき掃いた埃と煙草の匂いが部屋に入ってきた。
「俺さ、ボンジョルノに助けられたよ。」
すっかり明かりも消えた街並みの方を向きながら井之上は言った。
「助けたって何を?」
「ボンジョルノが俺の嘘を真面目に聞いてくれてさ。」
「嘘って何の事だよ?」
「あの漫画さ。ボンジョルノはさっき、あの漫画通りの経験を俺がしてて凄いって言ったよね。」
「そうだ!あの話まだ終わってなかったな。お前が仕事辞めたって聞いて、そっちが衝撃で忘れてたよ。」
「はははっ、そんな衝撃だったかい?」
「そりゃそうさ、でも嘘って今言ったよな?窓越しの恋物語は作り話か?」
「全て妄想の戯言だよ。万年床に寝転んで、彼女が欲しいって唸ってた俺が頭の中で考えた話。俺のアパートの向かいは美容室なんだ。二階を綺麗なガラス張りにして、中の様子がよく見える。そこでカットをしてる女の人がいるんだ。その人を見て思いついてね。」
「美容室の人か。」
「可愛くてね。一度、まだ俺が働いてる時に切ってもらったことがあって。美容室の人にしては全然派手じゃなくて、大人しい雰囲気の人なんだけど、話は面白い人でさ。」
「なるほどね。」
「俺の部屋には元カノがクリスマスの時に本物の代わりにって買ってきたツリーのポスターが張りっぱなしなんだ。」
「なるほど、そのポスターと向かいの女の人をくっ付けて考えたって事か。」
「そう。それでボンジョルノにこの作り話をした後に、姉ちゃんが昔持ってた漫画の内容に似た話があったのを思い出したんだ。」
「それがあの漫画?」
「ご名答!で、ボンジョルノにあの漫画を探して読んでもらったんだ。態々申し訳ないとも思ったけど、あれ読めば俺が嘘ついてたって事が分かるんじゃないかと思って・・・。」
「嘘ねぇ・・・。そんなこと考えもしなかったな。偶然だとばかり・・・。」
「元々、最初にあの話をした時にはもうこっちに帰ってくるつもりだったんだ。それで漫画を探してもらって、今日ボンジョルノに会ったらボンジョルノに怒られるって計算だったわけ。態々探させてから嘘話だと打ち明けたわけだし怒るのは無理ないだろう?でもボンジョルノは怒らなかった。まさか信じていたなんてね。」
「なんだよ、悪いのか?」
「とんでもない!・・・嬉しかった。」
「嬉しい?」
井之上にそう言われて、さっき井之上が俺に良い人だと言った事を思い出した。井之上は煙草を消すと部屋に戻って窓を閉め、その窓に凭れるように座った。井之上と窓の間にカーテンも閉めてあったので、そのカーテンが背中で微妙に引っ張られている。本人は気づいてないようだが、俺は外すなよと思いつつ、井之上が何か言いたそうなので言葉を待った。
「俺のホラ話に真剣に付き合ってくれてさ。普通なら相手にしないと思うし・・・。」
「そうか?だって俺はほんとの話だと思ったんだぞ?」
「例えそうだったとしても、俺にきちんと向き合ってくれたのは変わらないだろう?」
「・・・それが何だよ?普通の事じゃないのか?」
「普通か・・・。本当、普通なら良かったんだけど。俺の周りの人たちはそんな人いないからね。自分の事しか考えていないし、プライドが高い。」
「プライドか。仕事してる以上仕方ないんじゃない?常にプライドを保つことを考えているんだよ。」
「全くその通りだね。自分の弱さを見せないっていうか、他人から分析されるのを嫌うんだよね。お前はこういう人間だって決め付けられるのが嫌なんだ。だから本当の自分を隠して上辺だけの顔しか見せない。こいつにはまだ何かあるんじゃないか?その秘密のパンドラの箱を空けたらとんでもないことになるんじゃないかという、未知故の期待と恐怖心を植えつけるんだ。」
「うん、よく分かる。」
「俺なんかさ、こんな性格じゃん。仕事始めたばかりは早く皆と馴染もうとありのままの自分を見せようとしたんだ。馬鹿やって笑わせようとしたし、仕事でミスしてもすぐに謝って、何でも言うこと聞いた。本当に馬鹿正直に行動してた。でもそれが裏目に出たよ。元々頭良くないし要領も悪いから、同期の連中にどんどん差をつけられてね。同期の連中は本当に要領が良かった。ミスしても上手く隠してたし、絶妙のタイミングで先輩に取り入って可愛がられてた。でも心を開いてるってわけじゃなくて、上手く利用してるって感じだった。俺は完全に底を見せてしまったものだから、それまでだった。」
世渡り上手の狡猾な奴等。俺の会社にもうじゃうじゃいる。何処も同じなのだ。
「気がつけば俺はただの便利屋になってた。同期の連中には頼み辛い事を俺にだけは余裕で頼んでくる。同期の連中は口が上手くて逃げれるし可愛がられてるから。でも俺はホイホイ言うことを聞くだろう?それでも俺は頼りにされてると馬鹿みたいに信じて言うこと聞いてた。今思えばこれは断ってもいいだろと思うレベルの理不尽な頼み事もいっぱいあった。」
「そうか、苦労したんだな・・・。」
深いため息をつく井之上。真顔でここまで吐露する井之上を阻むものは何もない。俺でよかったら全部話してくれ。俺はそんな気持ちで聞いていた。
「学生の頃が一番良かったよ。ありのままの自分を見せれて。なのに社会に出たとたん全く通用できなくなっちゃった。俺他の生き方なんてできないよ。あいつ等みたいになんてさ。だって今までずっとこのスタイルで生きてきたんだぜ?」
「・・・そうだな、いきなり変えるなんて無理だよな。俺も同じ悩みを抱えて生きてるからよく分かる。俺なんか社会に出る以前から通用してないからさ・・・。」
そう言ってフッと自虐的に笑った。
「社会に出る以前って・・・?」
「学生時代からさ。俺って暗いしつまらないだろう?だからこの生き方じゃあ皆にウケないんだ。だから友達も少なかった。その友達も俺と似たような生き方をしている連中ばかり。似たもの同士じゃ生き方の参考にもならない。だからずるずるとここまでやってきた。当然会社でも浮いた存在。でも、歯を食いしばって仕事してんだ。」
「うん・・・。」
「でも、唯一お前だけは違ったんだよね。俺の友達の中で特殊な存在。俺が陰ならお前は陽。俺に持ってないものを沢山持ってた。参考になるし、羨ましいと思うことも多々あった。でも同い年の友達を羨むなんて恥ずかしいし、俺にもプライドがある。だから今まで一度も言わなかった。今日言ったのはお前がありのままの気持ちを俺に話してくれたから。だから俺も話した。」
俺も吐露した。吐露しきった。酒も飲まずによくもここまで饒舌になれたものだ。興奮で顔が高潮して火照る。心が全てを吐露してトロトロになった・・・。洒落です。
また長い沈黙があった。仕方ないだろう。これだけ全てを打ち明けたのだから。俺もこの火照りが収まるまで何も喋れなかった。
「・・・友達の特典なのかな?」
不意に井之上が口を開く。
「何が?」
「こうやって心の窓全開で語り合えるってのがさ。」
「まあ、そうかもな。友達って大切だと思うよ。数少ないからより大切にしたいって思う。」
「会社の連中の窓って嵌め殺しなんだよね。」
「それか擦りガラスな。全然中が見えないの。」
「そうそう。俺の方は常に全開にしてるからさ。最初から丸見えなんだよね。だからいけないんだ。最初から中身が分かったらつまんないもんな。只でさえ底が浅いんだから俺、開けたらスカスカなんだよ。そりゃあ、こんな扱いうけるよ・・・。」
「おいおい、そこまで自分で言わなくても・・・。」
「いや、開眼したんだ。次の職場ではもうちょっと窓を開くのを遠慮気味にしなくちゃな。」
「・・・う~ん、確かにそれも一つの手段ではあるけどさ。でも俺さ、そんな全開のお前のことを好きになってくれる人もいると思うんだ。」
「えっ?」
「お前が辞めた職場の連中の事はよく分からないから勝手なこと言えないかもしれないけどさ、皆が皆心の窓全開にしてたお前の事嫌いじゃなかったと思う。素直で良い奴だって思ってた人だっていると思うよ。そういう人が職場での友達になれる要素を持つ人かもしれないじゃん。」
「・・・そうだろうか?」
「うん、お前が内に秘めてんのはらしくないよ。彼女だってそんなお前を好きだったかもしれないじゃん。」
「彼女か・・・。」
「今回の職場は偶々、嵌め殺しや擦りガラスの窓の持ち主が多かっただけ。次の職場では割と今のスタンスでもいけるかもしれないよ?」
そこまで言いいながら、俺はハッとする瞬間があった。俺がそれを言う資格があるのかということだ。さっきは心の窓の事で井之上と盛り上がったけど、俺自身こそ会社で嵌め殺しの窓をしっ放しじゃないのか?仕事以外の話には参加せず、せっかくの飲み会の誘いも断って一人で行動していた俺。俺は井之上のように最初は窓全開にしてたわけじゃなく、入社一日目から完全に窓を閉め切っていた。勿論それには理由がある。さっき井之上に言ったように、俺は社会に出る以前から窓を閉め切っていたから、今更開ける術を知らなかったからだ。でも、井之上にここまで偉そうに言ってるのに、俺だけ頑として閉め切っていていいのだろうか?
「・・・本当にそうかな?次もこのスタンスで言っても良いのかな?」
井之上が何か言った気がするが、自問自答している最中の俺には耳に入らなかった。
俺も心の窓を開ける必要があるのではないか?あの日、井之上との久々の交流で鬱屈した日々に変化をもたらし、心の衣替えのきっかけを作ってもらった。着替えた自分を見せるのは次なる仕事場でと思ってたが、このご時勢すぐに新しい仕事が見つかるわけもないし、井之上に辞めた職場でも通用する可能性を説いたからには、俺もここで踏ん張らなければならないのではないか?
「どうした?ボンジョルノ?」
フッと名前を呼ばれ、我に返る。目の前にした井之上の表情はなんだか穏やかになったようだ。
「いや、なんでもないよ。俺も頑張らなくちゃなって思って。」
「そっか・・・。いやあ、ありがとうボンジョルノ。俺さ、今ちょっと後悔してるよ会社辞めたの。ボンジョルノの言うように、もう少し頑張ればいい風に変わったかもしれないしね。でも、次の会社で頑張るよ。まあ、俺が言うのもなんだけど、お互い頑張ろうよ。俺にここまで言ってくれたボンジョルノだからボンジョルノも絶対上手くいくよ。」
「うん、ありがとう・・・。でも、お前心の窓って言ったな。それってあの漫画と掛けてたりする?」
「あれ?本当だ。無意識にそうなってたな。いやあ、俺って落語家にでもなろうかな。座布団一枚!!」
喉に刺さった魚の骨が取れたような清清しさを感じているであろう井之上。だけど、それを導いてやった俺が今度は悩む始末。でも、悩む必要はないのは分かっていた。トンネルの出口はすぐ近く。光が見えている。人を導く力があるのなら自分を導く力もあるはず。俺は考えながら自然と組まれた両手の親指を見つめていた・・・。
井之上が実家に帰って4日ほど経った。外回りから帰ってきた俺はデスクに座って書類の整理。窓の外は秋雨が斜めに降っていた。壁時計を見ると帰社時間まで30分と迫っていた。やっと帰れる。ホッと息をついたその時だった。
「今日飲みするか!」
いつもの先輩のいつものセリフが飛び出した。今日は金曜日。明日は休みだ。いいですね!と同調する者。用事があると断る者。様々な返事が事務所を飛び交うが、それは全て書類をまとめている俺の頭の上を飛び越えていくだけ。そう思っていた。
「お前も偶には行かないか?」
不意に、本当に不意にかけられたその言葉。戦場で味方陣地にいたのに弾が飛んできたみたいな感じ。当然避け切れるわけがない。咄嗟の断る理由を思いつけなった。
「あっ、ええと・・・。」
しどろもどろになりそうだったけど、そこで思い出したのが井之上とのあの夜の事。井之上と別れた次の日から早速仕事に振り回され、もう喉元過ぎれば熱さ忘れる状態だった俺。でもその座右の銘は今度こそ払拭しなければならない。新しい服に袖を通したのだから・・・。
「行きます・・・。」
「おっ、そうか。じゃあ後でな!」
意気揚々と戻っていく先輩。飲み会・・・。新歓以来の飲み会。俺が行ったとして場が盛り上がるわけがない。昼飯の時と同じく観葉植物と化するに決まっているだろう。でもいいのだ。誘ってくれる以上、嫌われているわけじゃない。今まで心の窓をノックしてくれている人はいたという事実。これが一番大事だ。後はその窓を開き手を振ってみよう。そうすればきっと皆答えてくれるはずだ・・・。
俺は書類を早く片付けようと手を早めた。そんな様子をカレンダーの上に置かれた猫のマグネットが微笑んで見ていた。




