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銃撃少女

.No Title

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俺は小さい頃、戦隊物のアニメや特撮がとても好きだった。テレビの向こう側で躍動しているヒーローたちがばったばったと悪者をなぎ倒していく姿が、少年時代の自分にはとても魅力的であった。いつか自分も、こんなにもかっこ良く、そして強くなって、世の中の悪いもの全てを倒して世界を平和にしてやると、本気で思っていたものだ。


しかし時代の流れというものは残酷であり、いとも簡単に俺を変えてしまった。

高校二年生となった今、昔夢描いていた世界は現実とは程遠いものだとわかってしまった。ヒーローは空想上の生命体で、実際には存在しないことを。世に蔓延っている悪といえば、汚職事件や献金問題で騒がれている政治家たちが殆どで、テレビで出てくるような悪者や怪人なんて存在しないことを。

世の中の条理を知るに連れて、将来の夢も『地球防衛軍隊長』から『公務員』と、一八〇度変わってしまった。

この話をいつの日か友人に話したら、「地球防衛軍って何だよ……恥ずかしい子供時代だな」と胸に深く突き刺さる言葉が返ってきた。おそらく警官や自衛隊に準ずる何かだと思うのだが……幼い頃のことだから、本当にそういう職業があるのだと勘違いしていた可能性もある。確かに思い出としては少々枕に顔をうずめたくなるレベルだ。

余談だが、その友人の昔の夢は『ポケモンマスター』で、今は『プロのデュエリスト』らしい。現在進行形で痛い夢を追っているコイツのほうがかなり痛い奴なのではないか。


この世の中、特に日本では、よほどのことがない限り、平和に、そして不自由のない生活が送れるのだ。美味い食べ物はたくさんあるし、娯楽だって山ほどある。身の回りで起きる暴力沙汰なんて、学校内で小競り合いがあるぐらいだ。

日本は平和なのだ。怖いぐらいに。

もしタイムマシンがあって、少年時代の自分に会えるものなら言ってやりたい。

「ヒーローなんて存在しないし、たとえ存在したとしても意味はない。なんたってこの日本という国は、こんなにも平和で満ちているのだから」

と。












二学期を翌日に控えた夜が更ける少し前のこと。明日が明日だけに準備を済ませて、いつもより早めに床につこうと思い、電気を消そうとしたちょうどそのとき、携帯から着信音が鳴った。こんな時間に電話をしてくる奴なんて俺が知っている中では一人しかいないので、スルーしてやり過ごいてしまおうかと思ったが、明日どんないちゃもんをつけられるのかわからないので渋々携帯を手にとることにした。

「もしもし?」

「おー、正敏まさとし。起きてたかー、助かったぜ!」

白々しく話しかけてくるコイツの名前は『佐藤健作さとうけんさく』。将来『佐藤コーポレーション』を築きあげるつもりで、日々パックをサーチしては店員に出禁をくらっている男の名前だ。

「もう少しで一一時まわるところなんだけど……もしかして、お前の家には時計無かったりするの?」

「おいおい、固いこと言うなよ。俺とお前の関係に、時間なんてものは些細な事だろ?」

「特に深い意味はないんだろうけど鳥肌がたったからその気持ち悪い言い回しはやめろ」

不幸なことに、この『東健作あずまけんさく』と俺は中学時代からの知り合いである。友達というよりかは、悪友、腐れ縁な関係と言ったほうが正しいのかもしれない。健作と出会ったときのことは特に覚えていない。強いていえば、中学一年のころ同じクラスだったということぐらいか。そこから、ダラダラとした関係が続き、今に至るというわけだ。

「新学期初日から遅刻なんてしたくないからそろそろ寝たいんだけど……」

「おっ、ナイスタイミング。お前が寝る前に電話してよかったぜ」

 「えっ? そんなに急ぐ必要のある連絡だったのか?」

「ああ。これを新学期に入る前にお前に伝えておかないと、自己嫌悪になってしまうぐらいの大事な用だ」

珍しくシリアスな口調で話しかけてくる。いつもならここで、『じゃあ明日でいいわ』と一方的に自分から電話を切って、俺を不快にさせるところなのだが……。俺の脳裏に不安がよぎる。

「まさか……俺の知らないところで新しい宿題でもでたのか?」

「ああ、その『まさか』に近いな」

なんてことだ。新学期を明日に控えて、しかも今日もあと一時間もない。時間的にも体力的にも、今からやり終えるのは不可能に近い。今まで最終日にヒイヒイ言って無理やりに終わらせていたのを教訓にして、今年は早めに終わらして優雅に過ごしていたのに……。

それに、もし宿題を提出できないということになったら、鬼の生活指導で有名な『花形丸子はながたまるこ』教師に、夜まで熱いお仕置きをされるらしい。怖いのはそのお仕置きを受けた生徒が、翌日ショックのため誰も口を開こうとしないということである。数日たって、ようやく普通に喋れるようになっても、その日の出来事についてほとんどの生徒が覚えていないというのだ。

 たまに少し記憶が残っている生徒もいたが、そのことを思い出させようとすると、ある生徒はいきなり頭痛に襲われ保健室に、またある生徒は急に失神をしてしまったりと、誰もその日何があったのか教えてくれない。その内の一人が倒れる前、「お願いします……もうお尻だけは……」と、うわ言のように呟いていたのが唯一の手がかりだ。

筋骨隆々の花形教諭だが、生徒の一人が言ったそのうわ言、さらに女子に厳しく、そして男子には優しくするという、正常な男性教員では考えられない行動をすることから、もしかしたら花形教諭はアチラの世界の方なのではないかという噂が持ち上がっている。

まあそんな噂のお陰?で男子生徒の宿題の提出率は年々上がっていて、生徒の生活態度も良くなっている。まあ、そんな噂がある以上、花形教諭に目をつけられないように学園生活を過ごすのが吉と考えている生徒が多いのだろう。

俺もその一人だったのだが――

「――というかお前も今日になって教えるんじゃなくて、もっと早くに教えろよ! 今教えてくれてもほとんど意味ないじゃないか!」

思わず声を張り上げてしまう。あの健作とはいえ、自分が知らなかったことを教えてくれた人に対する態度ではない。

「すまん健作……言い過ぎた」

「ハッハッハ、気にするなって。お前も気が動転してたんだろ?」

健作は怒りもせず、むしろ豪快に笑った。少年の頃から変わっていないあの無邪気な笑顔が目に浮かんだ。

中学からつるんできたとはいえ、理不尽な言いがかりをつけられたら少しはムッとするだろうに。

健作……なんてできた男なんだ。明日、お前が三度の飯より大好きな『遊○王』のパックを買ってやるからな……。

「まあ、本当は夏休み前から言えばよかったんだけどな。今の今まで忘れてたからお互い様だ」

前言撤回。大事にしてるデッキを目の前で破り捨ててやるから覚悟しとけ。

「はあ……まあいいや。その追加の宿題とやらを教えてくれ」

今からやっても全部できるとは限らないが、やらないよりかはマシだ。難しそうな問題を飛ばして解く量を減らせば終わらせることもできるかもしれないし、教師も理解してくれるだろう。

俺は徹夜の覚悟をして健作の言葉を待った。

「追加の宿題? 何を言ってるんだ」

「は? だってお前、さっき新しい宿題があるって……」

「俺は追加の宿題が出たなんて一言も言ってないぞ」

会話を辿ってみる。……確かに健作は宿題に関係あることだが、新しい宿題がでたとは言っていなかったような気がする。

「それじゃ、なんだ。問題の訂正とかか?」

「違う。それにそんな問題ミスとかだったら、問題を確認しない教師たちのせいだろ。俺達生徒の責任じゃない」

確かに健作の言うとおりだ。そんな些細なことだったら教師も自分の過ちを認めて生徒に謝罪するか、知らんぷりをするかのどちらかだろう。安堵から、手から携帯がスルリと滑り落ちてしまった。

 ああ良かった……まだ俺は純潔を保ってられるんだ……。

「ふう……。それじゃ、なんでお前はこんな時間に連絡なんかよこしてきたんだよ」

思わず落としてしまった携帯を拾い上げると、健作に当然ともいえる疑問をぶつけた。こんな真夜中に、それも宿題のこととなると宿題の追加か修正しか思いつかない。

俺は健作の言葉を待った。

暫くの間、電話越しで沈黙が続く。

しびれを切らして俺が言葉を発しようとしたその時、健作は電話越しで一つ咳払いをしてからいつものような軽い口調で言った。


「いやー、宿題って最後まで残しておくじゃんかぁ。やろうやろうと思って夏休みをエンジョイしてたら、いつの間にかこんな時間になってたわけよ。あっ、本当にやろうと思ってたんだからな! でも今からやっても『火に水を注ぐ』だけじゃねぇか。だからさ、ここはちょっと大親友である正敏様のお力を貸してもらおうと思ったわけで――」

「さすが健作。火に水を注いで鎮火できるなら大丈夫そうだな。来世でまた会おう」

俺は健作の最期となるであろう言葉を聞き終えることなく電話を切ると、枕元にある充電器に携帯を差し込んでからベッドに身を投げ出した。とんでもなく無駄な時間を過ごしたせいか、瞼を閉じたら最後、そのまま昼まで眠ってしまいそうなぐらい疲れはピークに達していた。

さすがに初日から遅刻するわけにもいかないので、重い体を必死に動かして長年愛用している時計でアラームをセットする。途中、また携帯が鳴ったので、健作に黙祷を捧げながら電源を切った。

ふとこの夏休みについて思い返す。楽しかった夏休みも、もう今日で終わり。寝てしまったらまた平凡な日々が始まってしまう。大切な高二の夏、まだ他にすべきことがあったのではないか。おもいっきり楽しんだはずの夏休みも、思い返そうとすると朧気に覚えているものばかりだった。田舎でのんびりと過ごし、友達と一緒に旅行に行ったりもした。他にも色んなことをした。だけど、何月何日に誰とどんなことをしたのか鮮明には覚えていない。それに、里帰りや旅行なんて、どの学生だって体験していることなのだ。


ふと昔のことを思い出す。子供ころはヒーローというものに憧れていたことを。世に蔓延っている悪者を、正義の力でなぎ倒して世界を平和にすると鼻を荒くして意気込んでいた頃を。もちろんそんな世の中はある訳もなく、さらに日本に関して言えば平和そのものだ。もちろん平和にこしたことはないし、日々平和に過ごせているのだから後悔するなんてとんでもない話だ。

だけど……もしもそんな世界があったならば、きっと楽しいんだろうなぁ。平凡とは無縁な生活で、毎日が興奮の連続。そんな生活は、もう二度と手に入ることはないのだろう。

視界がぼんやりとしてくる。体力の限界だ。眠気に耐えられなくなった俺は、ぼんやりとそんなことを考えながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。


そんな平和な日々が、どれほど良いものなのか知ることもなく。



遠くで何かが鳴っているような気がする。それが時計だと認識するのに数秒かかった。

そういえば今日から新学期なのだ。手で時計を探し当てて、それを止める。

「ん?」

瞼をこすりながら、何かがおかしいことに気づく。確かに俺は自分の部屋で寝たはずだ。周りを見渡しても、間違いなく見慣れた自分の部屋。なのに……何かが違う。

その異質な物体を見つけたとき、俺の脳は一気に覚醒した。


なんだ、この布団の中の膨らみは!


「う、うわあああああああああ!」

転げ落ちるように急いでベッドから離れる。

なんだこれは! ドッキリか!? 誰か部屋の外で看板でも持って「はーいドッキリでーす。ビックリした?」と待ち構えてるのか!?

 まさか……麻耶!?

扉を壊れんばかりに開けて、妹の部屋に向かう。俺と違い、妹である麻耶は部活に入っている。新学期当日だというのに朝早くから練習があると、いつの日かため息混じりに言っていた。

ノックをしないで扉を開ける。長い間入ったことはなかったその部屋は、女の子が好きそうなファンシーな雑貨やぬいぐるみが至るところにあり、一般的な女子高生の部屋そのものであった。

もし膨らみの正体が麻耶なのであれば、いつもあいつが使っている学生鞄があるはずなのだが……。

「鞄が……ない」

麻耶の部屋を出て、急いで階段を降りる。僅かな希望をもちつつ玄関で麻耶の靴を探すも、すでになかった。

麻耶じゃ……ない。いや、普通に考えていきなりそんな悪戯じみたことはしないと思うが……だとしたらあれは何なのだ。

父はすでに他界して、母は朝早くから仕事に勤めているので、その線はない。リビングや寝室を覗くも、母の姿は勿論なかった。

冷や汗が吹き出る。冷静さを失った頭では、あの物体が何なのか思いもつかない。

足取り重く階段を上っていく。とにかく、正体がわからないまま学校に行くことなんてできない。もしかしたら、不法侵入者があまりにも疲れて眠ってしまった可能性もないとは言い切れない。

部屋の前で一つ深呼吸をする。もしものときの為に用意した鍋の蓋と麺の延し棒をわきに抱えて、音を立てないようにゆっくりと部屋の扉を開けた。

 さっきと変わらず、俺のベッドには膨らみがあった。足音を立てないようにゆっくりと近づいて、そしてふと思った。


あれ? もしかしてこれ、健作か?


俺が力を貸さないものだから、窓から侵入。そして宿題を探しにきたものの、夜遅いものだから思わず布団に潜り込んで眠ってしまった。

それは疑問から確信に変わった。これは健作だ、間違いない。俺は心の中で不敵に笑った。健作君、署で会おう。

俺は装備を床に置くと、掛け布団に手をかけ、一気にめくり上げた。

「健作! お前やっていいことと悪いことがあるだろうが……あ?」

結論から言おう。その膨らみの正体は健作ではなかった。そして、俺が知っているような犯罪者の風貌でもなかった。

俺のベッドには、幸せそうに寝息を立てている金色の髪をした『少女』がいた。

「ん……」

未だに現状が把握できずに口をあんぐりと開けていると、その少女がのそのそと動き始めた。

ひょっとすると、これはとてもマズい展開なのではないか? もしもこの少女がおもむろに、「助けてー! 知らない人に監禁されたー!」なんてことを叫びだした場合、間違いなくお縄につくことになるだろう。万が一、俺が無罪放免で釈放されたとしても、近所や学校内で『ロリコン犯罪者』という根も葉もない噂が広まってしまう。どう転んだとしてもこの近辺には住めないのだ。さらば俺の学園生活、さらば愛しのマイホーム。

脳内でそんなことが渦巻いて身動きできていないでいると、ついに少女がのそのそと体を起こした。少女は目を擦り、まだ寝足りないという感じに一つ大きな欠伸をした。そして、未だにだらし無く口を開けている俺と、ついに目があってしまった。

お、落ち着くんだ正敏。無駄に一七年間生きてきたわけじゃないだろうが。思いだせ、こういうときは……こういうときは……。

「す……」

「す?」

「す……すみませんでしたぁ」

俺は膝をつくと、思いっきり額を床に叩きつけた。

こんなときは古くから日本に伝わる土下座で対応するしかないじゃないか! 恥なんて知らん。とにかくこの場を凌ぐ最善の策は土下座しかない!

沈黙が続く。俺はこの態勢で少女の言葉を待つしかなかった。下手に動くと、それこそ襲われると勘違いして叫ばれると思ったからだ。

時が永遠のように感じられる。そして少女は、俺が予想だにしなかった言葉で沈黙を破った。

「……ぷっ。あはははははは!」

一瞬何が起こったのかわからなかった。思わず顔を上げると、少女は苦しそうに腹を抱えて笑い転げていた。

なんだ……一体何が起きたんだ? この少女には生まれつき突然笑い始めるという、世にも珍しい発作でもあるのか?

暫くの間、部屋が笑い声で包まれる。そしてようやく笑いの波が収まったのか、少女は少し息を整えてから、再び俺と向き合った。

「なんでいきなり土下座なんかするんです? ビックリして笑っちゃったじゃないですか」

「あ……いや、なんか咄嗟にというかなんというか……ごめんなさい」

「なんで謝るんですか。とりあえず何だか話しにくいので、土下座はやめてもらえますか?」

少女に促されたので、恐る恐る土下座から正座にシフトチェンジする。この少女の様子からは、いきなり叫んで助けを求めるということはなさそうだが……まだ油断はできそうにない。

「正座もなんだか喋りにくいので……そうだ!」

少女は掛け布団を端の方によけると、空いたスペースをポンポンと叩いた。

「さあ、どうぞ」

「……は?」

「いやいや、こんな態勢ではお互いに話しづらいと思うので。さあ、遠慮なく」

俺の部屋なのだから遠慮もへったくれもないと思うのだが、もちろんそんなことを突っ込むわけにもいかない。

「どうしたんです?」

少女の機嫌をそこねるわけにもいかないので、俺はぎこちない動きでベッドに座った。

そして、俺は隣であどけない顔をしている少女に思い切って質問をぶつけた。

「あ、あのですね、少しお聞きしたいことがあるんですが……」

「その前に、敬語はちょっとやめてもらえますか? むず痒くって鳥肌がたっちゃいます」

少女は身体を震わせて、さも苦虫を噛み潰したような渋い顔をした。気にさわらないようにと慣れない敬語で接していたのだが、どうやら逆効果だったみたいだ。

「あー……あの……だな、少し聞きたいことがあるんだが、いいか?」

「はい! 何でも訊いてください!」

少女は満面の笑みを浮かべてそう答えた。

そしてこの少女の笑顔を見た時、俺は自己嫌悪に陥ってしまった。何故か。こんな意味不明な状況であるのに、俺はこの少女のことを『なんて可愛いんだ』、と思ってしまったからだ。

ふざけんな、可愛いだと? まだ正体が何なのかわからないんだぞ? これから俺の身に何か良からぬことが起きるかもしれないんだぞ? そんな相手のことを、か、可愛いだなんて……ちくしょう。

だけど、こんな笑顔を見るのは初めてだった。今まで自分なりに生きてきて、可愛い女の子はたくさん見てきたつもりだ。テレビの中で踊り、歌っているアイドル。学校のマドンナ的存在の女子生徒。そして、どの女の子も例外なく、素晴らしい笑顔を見せてくれた。自分とは違う次元に住んでるんだなぁ、とさえ感じた。だが、この少女の笑顔は何だか違うのだ。

確かにこの少女は可愛い。端正な顔立ちに加えて、櫛を通しても引っかかることがまずないようなきめ細かくて綺麗な金髪ポニーテール。それを腰近くまで伸ばしている。まさに西洋のお人形をそのまま具現化したような姿だ。アイドルと言っても遜色ない。まさに住んでいる世界が違うような――

――住んでいる世界が違う? そうか、アイドル達が違う『違う次元』の住人だとすれば、この少女はまるで、『違う世界』の住人なのだ。

どんなアイドルでも無茶して笑っているときもあれば、作り笑いをしているときもある。本人達は気づいていないのかもしれないが、見ている側からすればその笑顔の違和感を察知してしまう。それはアイドルに限らず、どんな人間だって作り笑顔ぐらいはするだろう。俺だって作り笑いはする。顔の筋肉が痙攣しそうなぐらいしたことだってあった。どこが面白いのかわからないとしても、周りが笑っているのに自分だけ空気を読まずに仏頂面をするわけにはいかないだろ?

「? どうかしたんですか?」

しかし、この少女は違うのだ。世の不条理さなんかまるで知ったこっちゃない、面白いことがあれば笑い、悲しいときには泣く。まるで産まれたての赤ん坊のような、とても純粋で天真爛漫なものを持っている、そんな気がしたのだ。

「ちょっと! 本当にどうかしたんですか!?」

「い、いや、何でもない」

肩を揺すぶられて正気に戻る。

いや、この少女が他の人間と違う云々は、今はどうでもいい。とにかく、なんでここにいるのかを聞くのが先決だ。

「君は……何の目的があって俺の部屋に忍び込んだんだ?」

「あっ、そういえば自己紹介がまだでしたね」

そう言うと、少女はスクっと立ち上がった。そして俺の目の前に移動すると、一度お辞儀をしてとんでもないことを言い放った。


「私は『朝川鈴あさがわすず』、十六歳。佐藤正敏さん、あなたの命を守りにきました!」














「はぁ……」

憂鬱だった。できることなら、このまま鳥になって空を飛び、どこかに消え去りたい気分だった。

全校集会が終わり、今は教室で各自自由な時間をすごしているところだ。教室は生徒で賑わい、笑い声もしょっちゅう聞こえてくる。あんなことがなかったら、俺も今頃顔なじみの奴らと騒いでいたことだろう。

「おっす!」

元気な声とともに、肩を痛いほど叩かれた。俺は誰かと喋りたいような気分ではなかったのだが、シカトするわけにはいかなかったので、しかたなく振り向くことにした。

「健作……」

「なんだなんだ? 元気がないなお前。そんな顔してると幸せもどっかに逃げちまうぞ〜」

普通は俺と同じように憂鬱になっているはずなのだが、健作は宿題のことはすっかり忘れているのか、いつものように呑気に笑っている。

「お前はいいよな。たとえケツの一つ二つ失ったとしても、命までは奪われないんだからな」

「尻? 一体なんの話してるんだ?」

俺が来る前に処刑が執行されたのだろうか。だとしたら聞き出そうとしても意味がない。他の生徒のように発狂されても困るので、その話題はやめることにした。

「いや、何でもない。知らない方がお前にとって幸せだろうからな」

「変な奴だな……」

お前には言われたくない。

健作は俺の前にある椅子を引きずると、持ち主に断りを入れずにどっかりと座り込んで、再び俺の方を向いた。。

「で、だ。なんで遅刻したんだ正敏?」

ニヤニヤしながら健作が聞いてきた。このニヤケづらにおもいっきり右ストレートを食らわしたら、幾分か気分が晴れるのだろうかと考えながら、俺は今朝あったことを思い返してみることにした。



「――は? 俺の命を、守りにきた?」

「はいっ」

少女はニコニコしながらイエスと答えた。

はたしてここは笑うところなのだろうか。この子なりに考えたジョークなのだろうが、俺は笑う気にはなれなかった。

「いやいや。俺は真面目に聞いてるんだ。本当のことを教えてくれ」

「いや、本当ですよ。私、朝川鈴は佐藤健作さん、あなたの命を守る為に参上しましたんです」

「いやいやいや」

俺の命を守る? しかもこんなにも華奢な身体をした子が?

ここは平和が取り柄な日本国だぞ? 世界一平和だと言っても過言じゃないようなところで、命を守るだァ?

俺は思わず苦笑いしてしまった。

わかった、この少女は妄想病にかかってしまった可哀そう子なんだ。おそらく悪いことに厨二病を患ってしまって、自分は他人の命を守るという設定を作ってしまい、それを本当に実行してしまったのだろう。

そう思うと、今まで張り詰めていたものもどこかへいってしまった。

「……よし、わかった」

「わかってくれましたか!?」

「うん、俺も昔はそんな妄想したことがあるからな。でも他人の家に侵入するのはやりすぎだ。警察には連絡しないからおうちに帰ろうか」

「全然信じてないじゃないですか……」

少女はガックリと肩を落とした。

「信じるもなにも、さすがに設定に無理がありすぎるだろ。次はその妄想に費やした時間を違うことに使おうな」

「……では、どうしたら信じてもらえますか?」

「信じる? んー……」

腕を組んで考えこむ。こんな茶番じみたことにつき合う義理や道理はないのだが、この少女が一体どんな妄想をしているのか少し気になったので、訊いてみることにした。

「じゃあ、俺に関する情報を教えてもらおうか。俺のことを守りにきたんだったら、少なからず調べてきてるだろ?」

「情報……ですか? そうですね……私もそんなに詳しくは調べてないのですが……ちょっと待ってくださいね」

そう言うと少女は、しゃがみ込んで俺のベッドの下を物色し始めた。

俺はベッドの下に思春期の少年が好んで集めるようないやらしい雑誌は隠していないので、何も言わずにその様子をじっと見ていた。

……まあ、別の場所に隠してるんだけどな。

「んー」

「何を探しているんだ?」

「いや、ここらへんに書類があるはずなんですが……あっ、これです!」

探しものは見つかったらしく、少女はそれを笑顔で俺に手渡した。手渡されたものは赤色のしたファイルで、そこには大きく』機密事項』と書かれていた。

「開けていいのか? なんか『機密事項』って書いてあるけど」

「どうぞどうぞ。敵に見られたら困るだけで、当事者の正敏さんに見せてはいけないとは言われてないので」

ファイルを開くと、そのには数枚の紙が挟まれていた。ページを捲っていくと、そこには一枚一枚両面に、整った文字が書き込まれおり、ところどころマーカーで強調されている部分もあった。

最初のページに戻って読み始めていく。

えー、なになに……。


対象者は『佐藤正敏』。男性。一七歳。身長は一七〇センチ、体重は六〇キロ程度だと思われる。家には母と妹と一緒に住んでいる。私立宮越学園に現在通っており、対象者宅からは歩いて一〇〜一五分。


「これは……俺に関して書かれているのか?」

「はい。いやー、大変でした。書くのに丸三日は費やしましたから」

今時の厨二病患者はここまでしっかりと準備するのか。二、三年で厨二病も進化するんだな。

「さあ、もっと読んでください!」

少女に促されたので、再び紙に目を戻す。


学力は中の中。足が少し速いが、他の競技に関して得意なものは無い。どこにでもいる普通の人間といえる。


ここに書かれているとおり、確かに勉強や運動は得意でも不得意でもない。中学時代に陸上部に入っていたので、足はそこそこ速い部類に入る。


読み進めていく。


親しい友人は『東健作』。中学、高校と同じ場所に通っており、ことあるごとに一緒に行動している。対象者が中性的な容姿をしているのに対して、『東健作』は凛々しい顔つきをしているので一部の女生徒からは『カップル』と見なされており、カルト的な人気が――


「おい待てやこら」

「はい?」

俺は丁寧にもマーカーが引かれ強調されている箇所を指さした。

「なんだこのふざけた内容は。ネタが見つからないといって気分を害するような嘘を書くのはヤメろ」

「嘘なんか書くわけないじゃないですか! これはちゃんと聞き込んで得た情報です!」

「聞き込んだ……だと?」

「はい。正敏さんが通っている宮越学園の生徒に聞き込み調査しているんですから、文句はその方に言ってください」

聞き込みまでするとは、何がこの少女をそこまで駆り立てるのだろうか。最近の厨二病とはいえ、ここまで調べ上げるのはやりすぎじゃないか……? ストーカー一歩手前だぞ?

さすがにやりすぎだと注意しようと思ったが、まずはこの吐き気のするような噂についてだ。

「ま、まあ、その女生徒が嘘をついただけだろうがな。全く、悪質な嘘をつきやがる奴もいたもんだ」

「いや、信憑性はとても高いですよ。確か端の方にデータが書かれているはずです」

ちょっと貸してください、少女はそう言うと俺からファイルを取り上げた。

「えーと……あっ、ありました! では読みますよ?」

「あ、ああ……」

なぜだろう。嫌な予感しかしない。

「それでは……おっほん。『女生徒調査人数五〇人。内、対象者を知っている者は二四人。また、対象者と東健作の関係について質問をすると、一一人が怪しい関係にあると答えた』。以上です!」

「……嘘だろ?」

「嘘じゃありません! それに正敏さんも何か見に覚えがあるんじゃないですか?」

「そんなのあるわけ……ッ」

ないだろ、そう言いかけて躊躇してしまった。

そういえば、なんで健作と話しているときに限って、俺達の方を見てニヤニヤしていた女子がいたんだ?

女生徒になんで健作といつも一緒にいるのかと訊かれたこともあった。別にいつも一緒にいるわけじゃない。ただ中学が同じで、慣れ親しい関係だから一緒に行動することが多いだけ。俺がそんな感じに答えると女生徒は笑顔で一言『ありがとう』と言い、俺の前から去っていった。

訊かれた時、俺はこの質問の意図が見えなく、女生徒のただの気まぐれ程度にしか考えていなかったのだが、あれはもしかして……。

「あれ? あれ? もしかして本当に何かありましたか?」

「……ねえよ、ねえ。やっぱりそのデータは信用ならないわ」

本心は違っていた。ここに書いてあることが身長や体重ぐらいならば、俺を実際に見ればある程度の予測はつくだろう。しかし、成績、友人関係はどうだろうか。さすがにこれらを調べるには俺のことを知っている人たちに訊かないと、詳しいことはわからないはずだ。少なくともこの少女は、妄想で書いたのではなく自分の足を運んで、俺について調べ上げたのだ。

「まだそんなこと言うんですか!」

少女の言葉を無視して続きを読む。そこにはページを捲っていくにつれてより詳しいものが書かれていた。趣味や行きつけの場所、最後のページには俺自身まで忘れていた昔の友達の名前までがまで載っているこんグラフが、ページ一面にびっしりと書かれていた。

俺は怖くなっていた。なぜこの少女はここまで熱心に調べているのか。さすがにここまで来るとただの厨二病では片付けられない。

「……コレ返すわ」

「もういいんですか?」

少女にファイルを手渡すと、俺は腕を組んで考え込んだ。

だが、もしもの話だ。あまたには考えられないが、この少女が本当に俺の命を守りに来たのだとしたら……俺を殺したいほど憎んでいる奴がいないかどうか時間をかけて調べるのではないだろうか。

……ふざけんな。あまりにも非現実的すぎる。

命を狙われるほどに恨みを買った覚えはないし、ましてはそのためにわざわざ守りに来るほど、俺は偉い身分じゃない。どこかの国の王なら話は別だが。

 仮に隣にいるのが屈強な軍人だとしたら、俺も少しは信じる気になっていたかもしれない。だが俺の横で座っているのは、ただの可愛らしい少女。命を守りに来たというのを信じろというには、とてもではないが現実味のない話だ。

「……まだ信じてくれないようですね」

少女が訝しげに見てくる。

 「命を狙われていると言われて、いきなり信じろという方が無理があるだろが。たとえ俺について細かく調べてあったとしても、俺はアンタの話を信用できない」

「そうですか……」

額を手で抑えると、少女はうーんと唸りだした。

「そうだ!」

そして何か思いついたのか、いきなりベッドから立ち上がると、眩しいほどの笑顔を俺に向けた。

「実際に体験してもらうほうが早いようでなので、正敏さんはいつものように学校に行ってください。もしも危害を加えるような輩がいたら、わたくし朝川鈴、全身全霊で正敏さんをお守りします!」

少女は俺にそう告げた後、部屋に設置されている窓に近づいていった。窓を開け窓縁に足をかけると、一言俺に別れを言ってからそこから飛び降りていった。

二階とはいえ、着地に失敗すれば足を挫いてしまう可能性もある高さだ。俺は予測にもしない行動に驚き、少女の安否を心配して急いで下を覗き込んだ。……しかし、少女の姿はすでに見えなくなっていた。

俺は呆然としながらふらふらとしながら充電機に近づいてケータイを開いた。

時間は始業時刻をゆうに過ぎていた。



あれは一体何だったのだろう。寝ぼけて幻でも見ていたのだろうか。

「正敏? おーい正敏さんやーい」

子供をあやすかのように頭をポンポンと叩かれる。

「やめろポンコツデュエリスト。一生カードゲームができない身体にしてやろうか」

「おー、怖い怖い」

健作は手を挙げ降参のポーズをとった。バカにしてるなコイツ。

「で、何で真面目が取り柄のお前が遅刻なんてしたんだよ? ましかして……道角でパンを咥えて走ってきた女の子にぶつかってフラグ立ててきて遅れたんじゃねえだろうな? チクショー! なんで俺じゃなくて正敏にこんなラッキーハプニングが……」

「馬鹿かお前は。まだダンプカーに撥ねられる方が確率高いわ」

中身の全くないやり取りだが、幾分か気分も晴れてきた。冷静に考えてみれば、命なんかそうそう簡単に狙われるはずがないのだ。少女の戯言と思えば、そんなに深く考える必要もない。

健作とそんなバカな話を暫くの間していると、生徒ののざわめきをかき消すほどおもいっきり教室の扉が開かれた。

慌てて顔を上げると、そこには逞しい体つきをした男が仁王立ちしていた。首からホイッスルをぶら下げ、半袖短パンという正に体育教師そのもの。


執行人、花形教諭だった。そして生徒をじろりと見渡すと、ゆっくり教壇に向かっていった。

長期休暇後の宿題集めは基本的に花形教諭がやっており、やっていない者がわかった場合、即強制連行されるという非常に合理的な仕組みになっている。宿題を忘れた生徒側からすれば、逃げ道が無くなり覚悟を決めるしかないわけだが……この制度も宿題の提出率に大きく関わっているのだろう。

「ままま正敏」

花形教員を見て、慌てふためく健作。面白いほどに顔面蒼白だった。

俺は心の中でほくそ笑みながら健作に尋ねた。

「なんだ健作」

「大変なことを思い出した……」

それは本当に大変なことだろう。なんたってあと数時間もすれば、大事な大事な排泄機器が花と散るのだから。

俺はこみ上げる笑いをこらえ、真剣そうな表情を作る。

「ほう。とても興味があるな。言ってみろ、俺も力になれるかもしれない」

恐怖からか、肩を落とし身体をブルブルと震わせていた健作は、俺の救済の言葉を聞くとバッと顔を上げた。そして大粒の涙を流して、両手で俺の手を強く握ってきた。

「おお……心の友よ……さすがは俺の見込んだおとこだ……」

「よせよ健作。自分の友達が困ってるんだ。助けるのはあたりまえだろ?」

すすり泣く健作を見てほんの少しだけ、蚊に刺される程度に心が痛んだが、今までコイツと一緒にいて被ってきた仕打ちを思い出し、俺は心を鬼にした。

「おう、落ち着いたか健作?」

健作は目を手の甲でゴシゴシと擦り、若干赤くなった目を向けた。

「へへっ……すまないな。お前の優しさに思わず男泣きしちまったぜ」

「きっ、気にすんなって。それで……ぐっ……いっ、一体どうしたんだぁ?」

健作の何気ない一言一言に笑いがこみ上げてくる。

ダメだ。まだ堪えろ。吹き出したら感づかれてしまう……。

「テメェラ早く自分の席に座れ! 特に女子! そんなチャラチャラした格好で来るなんて学校舐めてんのか!? あぁ!?」

花形教諭の怒声で生徒の動きが慌ただしくなる。女子が注意されているのに、なぜか男子の方が動きが素早いというのは傍から見ればとても珍しい現象だろう。

「ん? そこにいるのは東かぁ? お前そこの席じゃないだろ。早く自分の席に着いて宿題を上にださんか! ……まさか、忘れたわけじゃないよなぁ」

花形教諭は汚らしく舌なめずりをして、嬉しそうに健作の後ろ姿を観察している。まさに獲物を狙う野獣の視線だった。どこかの一部分に視線が注がれているような気がするが、気のせいではないのだろう。

そして、花形教諭は教壇から降りると、ゆっくりとした足取りで健作のもとに近づいていった。健作は俺を見ているので、その様子には全く気づいていないようだ。

「早く言え健作! 大きな声で! さあ早く!」

「すまない正敏……実はだな――」

さらば健作。どんなことがあったとしても、俺達はずっと友達だ……。


「――お前の夏休みの宿題を、うっかり無くしちまったんだ!」

「スマンな健作! やっぱり助けられねえ!」


 「…………は?」

健作の言葉に耳を疑う。

今コイツは何て言った? 俺の宿題を無くした……だと?

急いで鞄の中を漁る。

……ない。昨日の夜にしっかりと入れておいた宿題が、何一つとして鞄の中に入って無かった。

「健作……どういうことだこれは」

「ああ。実は昨日の夜お前に電話した後、宿題を写させてもらおうとお前の部屋に忍び込んだんだ」

「……それで?」

「やめろ正敏! その振り上げた拳をしまってくれ! 一応ノックはしたんだ!」

ノックも糞もあるかこのやろう。

あまりのことに思わず殴りかかりそうになったが、まだ事の真相を全て聞いていないので、渋々拳をおろした。

「それでだな、無事に侵入した俺はお前の鞄を見つけた訳よ。まあ学校で会ったらそのときにでも返そうと思ったんだが……」

「……」

「徹夜で写してたもんだから、あまりの疲れでお前の宿題を俺の机の上に忘れてきてしまったんだ……」

 「すまない正敏、こんなはずじゃなかったんだ……」

「話は終わったか?」

唖然としていると、野太い声が頭上から聞こえてきた。そこにはニンマリといやらしい笑顔で腕を組んでいる花形教諭がいた。

やばいやばいやばいやばい! この状況は非常にマズい!

「あのですね、花形先生……」

「おう、何も言うな佐藤。お前が言いたいことはわかる。宿題を盗むなど言語道断。男としてあるまじき行動だ」

花形教諭はうんうんと頷いた。

よかった! この人は性癖は正常じゃないけど、話せばわかってくれる人だ!

「じゃあ!」

「だがな、しっかりと朝に確かめていれば、お前も宿題がなくなっていることは気づけたはずじゃないのか?」

雲行きが怪しくなってきた。たとえ宿題が無くなっていることに気付いたとしても、忘れたことに変わりはない。無くなったことを正直に言ったとしても、言い訳と捉えられてしまうだろう。

どう転んでも罰は執行されるのだ。

「それは理不尽です!」

「理不尽? いや、違うな佐藤。俺が言いたいのは、何事にも注意を怠るんじゃないということだ。別に東よりお前の方が好みだからうおっほん!」

 「なんですか今の! 最後までしっかり言ってください!」

 「五月蝿いぞ佐藤!」

ああ、なんということだ。きちんと宿題をやったというのに、この仕打ちはあんまりだ。

「さあ、立て佐藤。楽しいお勉強部屋に行くぞ!」

何のお勉強なのかは考えたくもなかった。

腕を掴まれると、とんでもない力で引きずられていく。

「やめて下さい! 離せええええええ!」

「おっと、元気がいいな。これは罰の与えようがあるってもんだ」

せめてもの抵抗とばかりに体のいたるところをジタバタさせるが、人間離れした筋肉の持ち主である花形教諭から逃れることは出来なかった。

そうだ、健作! 一人では無理だとしても、二人がかりで抵抗すればなんとかなるかもしれない!

おい、健作。

助けを求めようと健作を見た。


健作は必死になって目薬を差しているところだった。

 

唖然としていると、俺の視線に気づいたのか、慌てて目薬を机の下に隠すと、いきなり俯いてすすり泣き始めた。

「正敏ぃ……俺のために罪を被ってくれるなんて、お前はおとこの中のおとこだよ……うええ」

「お前絶対に殺してやるからな! ふざけんじゃねえぞこのやろう!」

「こらこら暴れんな……暴れんなよ……」

健作は役に立たないし、一人で花形教諭から逃れるすべもない。クラスメートを見渡すも、この騒動に関わりたくないのか誰も目を合わせてはくれなかった。

……いや、一部の女子は興味津々といった目でこっちを見ているが、助けてくれる素振りは全くない。

もうダメだ……完全に詰んだ……。

諦めて身体の力を抜くと、嬉しそうに花形教諭が笑った。

「なんだ佐藤。さっきまであんなに嫌がってたのに結構乗り気じゃないか! ヨーシ、待ってろ! すぐにエデンの園に連れていってやるからな!」

俺に反論する気力はなかった。

あと数十分もすれば、俺は見知らぬ世界に飛び込むことになるのだろう。普通なこともまだ知らないのに、いきなりアブノーマルな知識を見に付けてしまったら俺のこれからの生活は一体どうなってしまうのか……。

花形教諭は俺をわきに抱えて、意気揚々といった感じに教室を闊歩する。ナニを想像してそんなに元気なのか、考えたくもなかった。

そして花形教諭は勢い良く扉を開けると、廊下に足を踏み入れた。


……そして、何故か、そこで足を止めた。

「……なんだお前は。何のつもりだか知らんが邪魔だからそこをどけ」

察するに誰かが扉の前にいたらしく、花形教諭の前に立ちふさがっているらしい。

誰だ一体……。

俺は俯けていた顔をあげ、その正体を見た。


「今朝方ぶりですね正敏さん! 助けに来ましたよ!」


そこには、俺の命を守りにきたという『少女』がいた。一体どこで入手したのか、わが校、宮越高校指定の制服を着て。


「お前……なんでここに……」

「どうやったら信じてもらえるのか考えた結果です!」

えっへんと胸を張って少女は答えた。

……言ってる意味がよくわからなかった。

なんだ……もしかしてこの状況から俺を救ってくれるとでもいうのか?

……無理だ。断言できる。

まず体格差が違いすぎる。花形教諭はガチムチな体型に加えて、軽く見て一八〇センチはある。それに噂では何らかの武術を嗜んでいるらしい。その体格と武道の技で抵抗する生徒を何人も沈めて指導室送りにしているのだ。

それに対して、この少女はどうだ。華奢な身体つきで、身長も一五〇あるかないかぐらい。この少女が何かの武道の達人だとしたらまた話は別だが、そんな風には全く見えない。

勝負は一目瞭然だ。

「なんだぁ? 俺に楯突くつもりか貴様?」

「ええ。正敏さんには指一本触れさせませんよ!」

指一本どころか、もう抱え込まれてるんだけどな。

……って、そんなことを突っ込んでる場合じゃない! 早くこの喧騒を止めないと!

「なあ……もういいって」

「はい?」

少女は俺が何を言ってるかわからないかのような目を向けてきた。

「だからさ、俺が信じないからってムキになってこんな危険なことしてるんだろ? 怪我でもしたら……」

「大丈夫です、怪我なんてしませんよ! こんな人指先ひとつでちょちょいのちょいです!」

なんでわざわざ逆なでするようなことを言うんだ!

「ほう……」

花形教諭は俺を廊下の脇に下ろすと、手の関節の節々をボキボキと鳴らし始めた。

「初めに言っておくが、俺は身体を鍛えるのが大好きでな。毎日欠かさず筋トレとランニングをしている」

「はあ……」

「それにだ。俺は元気な生徒を更生させるために学生の頃から習っていた柔道を今でも続けている」

花形教諭が武術をやっているのは本当だったのだ!

「つまり……」

花形教諭が少女に近づく。

「これがどういうことかわかるか?」

「えーっと……」

少女は目を閉じて、頭の横で指をぐるぐると回し考え込んでいるようだった。

頼む! もう余計なことは言わないでくれ!

「んーっと、んーっと…………あっ!」

俺の願いが届いたのかどうか、少女は手をポンと叩くと満面の笑みを浮かべた。

「わかりました! この人は自分の力に自信がないからわざわざこんな自慢を言ったんですね! 間違い無いです! ねっ、正敏さん!」

「なんで俺にふるんだよ!」

恐る恐る花形教諭を見る。その後姿はまさに阿修羅のごとく。さらに首の至る所に青筋が立っていた。

「せ、先生……多分この少女は先生の威圧感に圧倒されて心にもない事を言ってしまったのだと……」

「こんな筋肉だけの人に威圧されるわけないです! 変なこと言わないでください!」

「ちょっと黙ってろお前!」

花形教諭がゆらりと俺の方を向いた。ヤバい、小便チビリそう。

「なあ佐藤」

「は、はいいっ!」

「お前も俺がただの筋肉野郎に見えるのか?」

「そそそそんな訳ないですっ! 断じて!」

「そうか……じゃあ、佐藤は俺がどれぐらい強いと思うんだ?」

「せ、先生は俺が知ってる中で一番強いお方です、はい!」

花形教諭の口元がニヤリと歪む。よしっ、もうちょっと煽てれば機嫌も直るはず……ッ!

「そうか……じゃあ」

花形教諭は向かいの壁で悠然と立っている少女を指さして俺に尋ねた。

「俺を散々馬鹿にしたあのちっこい女生徒と俺が戦ったらどっちが勝つと思う?」

「もちろん先生です!」

俺は声を大にしてそう宣言した。

「だとよ、そこのちっこいの」

花形教諭が再び少女の方を向いた。機嫌はなんとか直ったようで、子供をあやすかのように優しい口調なっている。

「なにがです?」

「『なにがです?』、じゃねえよ。佐藤も言ったろ。俺とお前が戦ったところで勝負は見えてるんだよ」

「そんなのやってみないとわからないじゃないですか。あなたは人を見かけで判断するんですか?」

やめろ! せっかく機嫌を直したっていうのに、また喧嘩を売るようなこと言ってどうするんだ!」

「最終忠告だ」

花形教諭がゆっくりと少女のもとに近づく。手を伸ばせばお互いの体に触れ合うかどうかの距離まで来て、ようやくその足を止めた。

「俺も鬼じゃない。もし素直に謝ってここから立ち去れば許してやろう」

花形教諭は親指を立てて昇降口のある方向を指した。

「正敏さんはどうなるんですか?」

「佐藤? 何いってんだ。もちろん罰は受けてもらうわ。それに今日は貴様のせいで気分を害したからなぁ……いつもより厳しいお仕置きになるかもしれんな」

なんということだ。思わず頭を抱え込んでしまう。記憶を失い、さらに純潔まで奪われる以上の地獄が待っているというのか。

グッバイ、ノーマルライフ……そしてウェルカム、新宿二丁目。

 

「なにしてるんですか! 顔を上げてください正敏さん!」

「お前のせいで俺の将来は暗闇のどん底だっていうのに、何が陽気な声で『顔を上げて下さい』、だよ!」

変におちょくりさえしなければ記憶を失って今後も普通に学園生活を謳歌できたというのに!変に記憶が残って妙な性癖がついたら一体どう責任をとってくれるんだ!

なにが『命を守りに来ました』、だ! 命を守るどころか、自分の気まぐれに俺を巻き込んでるだけじゃねえか!

「正敏さん……」

どうせ気がすんだらここからオサラバするんだろうよ! こっちはいい迷惑だ!

俺は向かいにいる少女を、非難を込めた目で睨んだ。


目が合う。


少女は笑っていなかった。

ただ真摯な表情で俺を見つめていた。瞳はガラス玉を彷彿とさせるような透明。その瞳からは確固とした決意が見えてとれた。

「正敏さん……しっかりと見ていてください」

 「しっかりと、私の言葉を信じてもらうために、私の力をその目に焼き付けて!」

瞬間。話し終えたその瞬間。予備動作などなにも見えなかった。目にも留まらぬ速さとはこういうことをいうのだろうか。

なんと少女の小さな拳が花形教諭のみぞおちに食い込んでいたのだ。そして花形教諭の大きな図体ずうたいはふらふらとバランスを崩して、膝から崩れ落ちた。

「なんだ……と……」

苦痛に満ちた声でその一言だけを捻り出すと、花形教諭はピクリとも動かなくなった。

「どうです正敏さん!? 見ていてくれました!?」

「あ、ああ……」

 なんだ、一体俺の目の前で何が起こったのだ? あの花形教諭を、こんな華奢な体つきをした少女が床に沈めたというのか?

信じ難い《がた》ことだった。幾人の男子生徒が歯向かっても傷ひとつつけることのできなかったあの花形教諭を、たったの一撃で倒してしまったのだから。

目の前で起きた現実に呆然としていると、いきなり教室が大歓声で湧き上がった。そして歓声を上げながら大量の生徒が廊下に雪崩れ込むように出できた。

「すげえええええええええ! なんだよ今の! なにが起こったんだよ佐藤!」

「い、いや。俺もなにが起こったのかさっぱり……」

「何知らばっくれてんだよ! お前の知り合いなんだろ、あの女の子!」

むさ苦しい男子生徒が俺の周りに視界を遮るほどの人数で質問攻めをしてくる。少女も同じようで、チラッと見えた姿は俺と同じように生徒に囲まれていた。しかし呆然として返答に困っている俺とは違い、女子生徒の質問に対して少女は意気揚々といった感じに笑顔で質問に答えていた。

「それになんだあの子! 強い上にめちゃくちゃ可愛いじゃねーか! どこで知り合ったんだよ!」

「だから俺の部屋に……」

俺のその一言で俺を囲んでいた輪が静まる。さっきまでの騒ぎが嘘のように。

「なんだ……お前の部屋に……なんだって?」

「いや、だからその……な」

失言だった。気が動転していたとはいえ、誤解を招くようなことを言ってしまった自分を責める。

俺の愉快なクラスメイト達に彼女がいる奴なんて数えるぐらいしかいない。女の子に飢えている奴らばっかりだ。つまりこの連中にとってこの少女と俺の関係はうらやまけしからんことであって……正直に言ったら最期、俺の身体は東京湾に浮かぶことになるだろう。

命が狙わている云々などこいつらには関係ない。女の子がそばに居る状況が憎いほど羨ましいのだ。

いきなり俺の周りが静かになったのを不思議に思ってか、少女を囲んでいた女子生徒の輪もとたんに静かになっていった。

「なになに? 一体どうしたの?」

不審に思ってか、女子生徒たちも俺の周りに集まってきた。

「おい佐藤! 黙ってないで早く言えよ!」

正直に答えたら間違いなく私刑リンチ決定。そして何の気の迷いか少女に助けを求めようものなら、正直にありのままを答えるか、もしくは余計に状況を悪化させるにきまってる! さっきの花形教諭とのやり取りを見て、これは間違い無いだろう。

考えろ……自分自身で考えるんだ……ッ! 誰もが納得できて、且つ男子生徒の逆鱗に触れないナイスな回答を!



「一体どうしたんですか?」

「いやな、こいつらがお前と俺との関係を言えと……」

な ん で こ い つ が 俺 の 隣 に い る !

「なんだそんなことですか」

そして少女は囲んでいる生徒をぐるりと見渡し、一礼してからこう言い放った。


「どうも皆さん、新しくこの宮越高校に転入してきた朝川鈴です! 正敏さんと私は一緒に『同居』している仲です! どうぞこれからよろしくお願いします!」

俺は少女を恨みつつ、全速力で昇降口に向かうのであった。












夏休みが終わったとはいえ、九月という夏真っ盛りのこの時期にクーラーは必要不可欠なものだろう。いつもなら帰ってすぐにリモコンをとって電源を入れるのだが、今日の俺は違った。

何故か。それは今現在、俺の体が絶賛濡れ濡れ中だからだ。

 俺はその後、男子生徒の神経を逆なでした少女の大嘘によって、市内を数十分と走り回さることになった。結果、息絶え絶えになっているところを目を血走らせた男子生徒数人に捕獲され、手足を縛られて川に流されることになったのだ。おかげで体は全身びしょぬれだ。通りがかった親切なおばさんがいなかったら、今頃俺は水死体となっていただろう。

ええい、張り付いたワイシャツがうっとおしい!

まあ、幸いにも今日も猛暑日だ。部屋干しでもすれば充分だろう……。

憂鬱な気分で部屋を開ける。


俺を出迎えたのはうだるような熱気ではなく、ガンガンに冷えたものだった。

部屋を見渡す。ベッドには救世主でもあり、俺を命の危険に晒した張本人がちょこんと座っていた。

「あっ、お帰りなさいです正敏さん」

俺は無言でハンガーにブレザーをかけてからベッドに置いてあるリモコンを手に取り、耳障りな音と共に元気に冷気を出しているその物質の電源を切った。

「さて問題です……今から俺は君を怒ることになります。さて、どうしてでしょうか?」 「へっ? なんでですか?」

少女は不思議そうに首をかしげた。

 「俺のこの悲惨な状態を見てもわからないのか?」

「そういえば雨も降ってないのになんでずぶ濡れなんです? 脱ぐのを忘れてプールにでも入っちゃいましたか?」

「俺は痴呆症じゃねえ! お前のせいでな、クラスの野獣たちに追いかけられて川に流されたんだよ!」

「あー、なるほどー」

 「おかげでドザえもんの気分が味わえたよちくしょう!」

「えーっと……ありがとうございます?」

皮肉が通じないのかコイツは!

冗談じゃなく、一歩間違えれば今頃俺は魚たちの餌になっていただろう。助けてくれたおばさまには感謝してもしきれない。

「はあ……」

いろいろな疲れから思わず大きな溜息をついてしまう。それに止めたとはいえ部屋はまだ冷たく、濡れた体にこの気温は寒すぎる。長くこの状態でいたら間違いなく風邪を引いてしまうだろう。

さすがに同い年の女の子の目の前で着替えるわけにはいかないので、少女に一旦部屋の外に出てもらうと声をかけようとしたその時、ふとある疑問が生まれた。

「……ところでさ、なんでお前がここにいるんだ?」

 「へ? なんでって、もちろん正敏さんの命をお守りするためですよ。さっきの戦いで正敏さんは納得されなかったのですか?」

「いや……たしかにさっきは助かったよ。危うく男として生きていけなかったかもしれない。それにお前の強さが本物だっていうこともわかった」

あの花形教諭を一瞬、それに一撃で倒してしまったのを実際に目にした後では、この少女の強さを信じざるをえなかった。

「ちょっと……そんなに褒めないでくださいよ正敏さん。ちょっと恥ずかしいです……」

少女は照れ隠しからか、顔に手をあて俯いてしまった。別に褒めてるわけではないのだが……。

「いやな、俺が聞きたいのはそういうことじゃなくて……まさかだとは思うが、本当にこの家に居座るわけじゃないよな?」

俺がそう尋ねると、少女は驚いたようにバッと顔を上げた。

「まさか! 何を言ってるんですか!」

よかった、学校で言ったことは少女流の嘘だったんだ。

もし少女がこの家に住むなんて言い出した日には、親になんて説明すればいいのかまた頭を悩ますことになっただろう。それにたとえどんな上手い嘘をついたとしても、俺の家族は必ず誤解するに決まっている。そういう母と妹なのだ。しかも自分たちが面白いと思う方向に邪推するので余計にたちが悪い。

俺が安心してほっと胸を撫で下ろしていると、少女はいきなり立ち上がり俺のもとに近づきてきた。そして覗きこむように俺の顔を見上げた。

「学校でも言いましたが、どこから敵が襲ってくるのかわからないのに正敏さんを一人っきりにさせるわけないじゃないですか!」

「なん……だと?」

そして少女は自信満々に自分の胸をポンと叩いて、言葉を続けた。

「安心してくだい。この朝川鈴、起きてから寝るまで、四六時中ずうっと正敏さんのお側で命をお守りしま――」

「ちょっと待て」

聞き捨てならない言葉を聞いたような気がしたので、俺は急いで少女の言葉を制止した。

何だ今の言葉は……童貞がたたって幻聴でも聞こえてしまったのか?

「なんですか?」

途中で言葉を遮られたのを不満に思ってか、少女は不満そうに頬を膨らましている。

「いやな……多分俺の聞き間違いだとは思うんだが……ニュアンスが寝るときも一緒ですよー的な感じ聞こえたもんでつい……な。は、はははっ……」

「何言ってるんですか! もちろん一緒に寝させて頂きますよ! 敵はいつ、どこから襲ってくるかわからないですもの!」

オーマイゴッド。神よ、なんという運命を俺に下してくれたのだ。

「そんなの無理に決まってるだろ! お前が住む云々だって家族どう説明したらいいのかわかんねえのに、い、一緒に寝るだなんて……」

「んー? あれれ〜、もしかして正敏さん、恥ずかしがってます?」

「バッ、バカヤロ! 恋愛経験豊富なこの俺が一緒に寝るだけのことで恥ずかしがるわけないだろうが!」

マズい、部屋はまだ冷たいというのに顔が熱くなってきた。

「ちっちっち。嘘はよくないですよ正敏さん」

すると少女は軽快にベッドの下を漁ると、今朝見たばかりのファイルを取り出してペラペラとめくり始めた。

「そこら辺のデータもちゃーんと調べあげてきたんですからね。た、し、か……あっ、ありましたありました」

目的のページを見つけたようで、少女が意地が悪そうに微笑む。そして、そのページを自信満々に俺に見せつけてきた。

「ここに書かれているとおり、正敏さんは生まれてから一七年間、ずっと恋愛関係になった女性はいないはずですよー?」

急いで向けられたファイルに目を向ける。。

そのページの頭には【佐藤正敏の恋愛について!】と書かれてあった。朝俺が見たページのほとんどには小さな文字でびっしりと書き込まれていたのだが、このページは違っていた。空白は目立ち、書かれていた文字も乱雑極まりない。

そこにはページ一杯の大きな文字で【なし!】と赤文字で書いてあるだけだった。

こ、こんな屈辱を受けたのは生まれてこの方初めてだ……。

「まあ、さすがに一緒のベッドで寝泊まりするのは冗談ですがね」

えっ、冗談なの? ここまで引っ張っておいて冗談で済ますの? 死ぬの?

「では、これしまっちゃいますねっ」

少女は呆気にとられている俺からファイルを取り上げると、そそくさとベッドの中にあるカバンにしまってしまった。そして少女は、まるで自分のもののように軽快にベッドに腰掛けてから、俺に言った。

「とにかく、正敏さんの命をお守りする以上、お互いの信頼関係を築き上げなければなりません」

少女と若干の距離をとって同じようにベッドに座る。ぐっしょりと濡れたズボンの感触が気持ち悪い。

「でもさ、そんなこと言っても俺はお前のことはほとんど知らないわけだし、ましては一朝一夕で信頼関係ってものは成り立たないだろ」

俺が知っていることといえば、この少女が『朝川鈴』という名で、俺の命を守りに来たというぐらいだ。こんな情報を知っているだけで信頼関係なんて生まれるものか。

俺は一息置いてから、続ける。

「俺はお前のことを知らないばかりか、自分が置かれている状況もまだよくわかってないんだ。なぜ俺は命を狙われているのか、どんな奴が俺を襲いに来るのか。何にもわからないのに、信頼しろなんて無茶があるだろ」

思いのほか大きい声が出てしまう。少女は真剣な眼差しで俺を見つめている。

静寂が訪れる。


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