第2節 孫策
星たちが旅立った翌日。慶次郎はいつものように屋敷の縁側に敷物を広げ、その上に寝転がって書物を読んでいた。
ふと、顔を上げて庭を眺めた。なかなか広めの庭で、中央には瀟洒なあずまやがある。屋敷は人の背丈ほどの塀に囲まれており、塀の向こうには大きな塔のような建物が見える。それは街の中心地にあり、まさに中華風といった真っ赤な五階建ての建物であった。何でも、この街一番の料理店らしい。
時刻は昼。太陽の光が心地良い。
「だいぶ、減ったな」
慶次郎は、屋敷の周りの監視の目が減ったことを実感する。
徐州の地に「天の御遣い」現る。そのことを、慶次郎は戯志才に告げられる前に知っていた。というより、それは既に街中の噂になっていた。
噂によれば、確かに管輅の予言通り、天の御遣いは小沛の街の東に白き光と共に現れた。彼は世を憂う人々の前に姿を現すと、彼らを引き連れて徐州の首都である下邳へと向かった。そして、下邳は瞬く間に空前の繁栄を迎えた。それも皆、天の御遣いのおかげ――ということになっている。
結果として、街の人々の慶次郎を見る目も変わった。「天の御遣いかもしれない異人」から、単なる「ちょっと変わった旅人」として見られるようになったのだ。それは、慶次郎にとってありがたいことだった。
そして屋敷に来た直後は十を越えていた監視の目は、下邳の天の御遣いの登場の噂とともに減り続け、今や二、三程度にまで減っていた。
慶次郎は書物を床に置く。屋敷にある書物は、ほぼ読み尽くしていた。残りは、片手で数えるに足りる。
そろそろ、潮時か。
慶次郎は立ち上がり、部屋の隅に歩いて行く。そこには、星が槍の練習用に置いていった樫の棒がある。慶次郎はそれを無造作に掴むと、天井をその先で突いた。
「きゃん」
女性の悲鳴が上がった。
「おい。降りてこい」
「……」
「降りてこぬなら、こちらにも考えがあるぞ」
「……」
一瞬の間があった。天井の隅の天井板がそろりと横に動く。と、そこから長髪の女性が飛び降りてきた。頭には、鉢金のようなものを巻いている。背負っている身長にも迫ろうとする大刀は、日の本の刀だろうか。
「おぬし、名前は」
「……」
「まあ、明かせぬよな。すまんの」
軽く頭を下げる慶次郎に、少女はびくつく。
完全に油断していた。この一ヶ月、目の前の男はひたすら書物を読み、寝転んでいた。ただ、それしかしていない。自分の監視に気づいている素振りなど、まったくなかった。
そしてこの男、見ているだけで眠くなってくるのである。とにかく、心が穏やかになってくる。この時間、慶次郎が書物を読むその天井で居眠りをするのが、ここ最近の周泰――明命の習慣になっていた。それが、気がつけばこんな事態になっている。
「今日は、良い天気だ」
「……はい?」
いきなり、妙なことを言い出した男に、明命はつい言葉を発してしまった。
「せっかくの機会だ。おぬしの主に挨拶に来いと伝えよ。そして、言いたいことがあれば言え、とな」
明命は息を止めた。
「なに。主と相談して決めれば良い。来たくなければ、それはそれでかまわぬ」
「は、はあ」
「それにしても」
慶次郎は、状況がつかめない明命の姿をまじまじと見る。
「な、何ですか」
「おぬし、傾いているのう」
「はっ?」
本当に、何が何だか明命にはわからなかった。
◆◆◆
夕刻。二人の主従が早足で慶次郎の屋敷に向かっていた。
「なんで、ばれたのよ」
「やむを得ない事情で……申しわけございません」
「それにしても、あなたが見つかってしまうなんてね。そんなに、その『前田』って男はすごいの?」
「ううう……とにかく申しわけございません」
涙目になりながら、明命は孫策――雪蓮についていく。
雪蓮は思う。ああ、面倒くさい。面倒くさがって時間を潰していたら、気がつけば夕方になっていた。
こんなことになるなら、本命の下邳は冥琳にまかせず、自分が行くべきだった。もはや天の御遣いとは思えない存在のために、無駄な時間を使いたくない。
孫家を立て直すために、天の御遣いの血を入れる。それが、彼女たちの思惑であった。そのためには、一刻も早く「本物」を抑える必要がある。実際、明日は冥琳の帰りを待ってあらためて下邳に向かう予定であった。
「そもそも、私や冥琳が徐州まで来ることないでしょうに」
「そう、おっしゃらないで下さい。天の御遣いの見極めは、恐れ多くて私たち程度では無理だとご存じでしょう?」
「だけどさー」
ぶつぶつ言いながら、雪蓮は慶次郎の屋敷に飛び込んだ。
「入るわよー」
雪蓮は声をかけると、返事もまたずにずかずかと部屋に入り込んだ。適当に話して、すぐに帰るつもりだった。
「ねえ」
と、雪蓮は息を止めた。
大きな男が一人、こちらに背を向けて座り、酒を飲んでいた。その隣には、大きな酒瓶がある。夕日の影になった背中は、さながら黒い壁のようだ。雪蓮には、その背中に見覚えがあった。それは、家族を守ってくれる壁だった。彼女は、その温かな壁が大好きだった。
「お父様……」
男が振り向いた。
◆◆◆
「雪蓮様?」
明命の声に、振り返らずに雪蓮は答えた。
「帰りなさい」
「し、しかし」
「帰りなさい。これは、命令よ」
一瞬の躊躇の後、明命は雪蓮の背中に頭を下げて出て行った。
静寂。
雪蓮はふらふらと歩き出す。そして慶次郎の側まで歩いてくると、ぺたりと座った。そんな雪蓮に、慶次郎は無言で酒杯を回す。そんな風に、時間が始まった。
気がつけば、雪蓮は慶次郎によりかかり、酒をついでいた。二人の間に、これまで会話は何もない。酒瓶が半分空になった頃、ようやく雪蓮が言葉を発した。
「あなた、天の……まあ、いいか」
「どうした?」
「名前、なんて言うの」
「人の名前を聞く前に、おのれの名前を名乗ったらどうかの」
「まだ、言ってなかったかしら。私は孫策。字は伯符よ」
「……わしは前田慶次郎」
「ふーん」
雪蓮は慶次郎の背中に、そっと腕を回す。
「あなた、私のお父様に似ているわ」
「そうかね」
「といっても私、顔は覚えてないの。覚えているのは背中だけ」
「……」
「こんな、背中だった」
雪蓮は、慶次郎の背中を優しく撫でる。
「ここには、独りで住んでるの?」
「今はな」
「今は?」
「ああ。普段はわし以外に、おなごが三人いる」
ぎゅうと雪蓮の右手が、慶次郎の背中を掴んだ。
「……どうした、孫策」
表情を変えずに、慶次郎が静かに尋ねる。
「何でもないわ。……惚れてるの?」
「誰にだ?」
「とぼけないでよ。その三人」
「いや。だが、恩がある」
「……そう」
再び、慶次郎の背中を雪蓮は撫で始める。そして、聞いた。
「惚れてる女はいるの」
「ああ」
「!」
雪蓮の手が止まる。
「……というより、『いた』というのが正しいか」
「いた?」
「もう、この世にはおらん」
「そう……」
雪蓮はまた、慶次郎の背中を撫で始めた。そして、また聞いた。
「ねえ、どんな人だった」
「ん?」
「その、女性よ」
「ふむ。わしには、うまく例える言葉はみつからん。そうだな……」
慶次郎は愛しい女の顔を思い出しつつ、ゆっくりと告げた。
「世界を得るに等しい女だった」
「!」
「そう、思う」
雪蓮の手が止まった。そして、また聞いた。
「ねえ。『雪蓮』と呼んで」
「しぇれん?」
「私の真名」
「受け取る理由がない」
「……これから、作ればいいじゃない」
雪蓮は表情を変えずに言葉を続ける。爪が背中にめりこみ始めた。
「憎い男」
「憎まれるほど、おぬしを知らん」
「……これから、知ればいいじゃない」
慶次郎の背中から、血がにじみ出した。