第1節 小沛
「へえ。今日の昼間までは、確かにそこに座っていたと思うんですが……」
酒屋の店主が答える。
星は、申し訳なさそうに慶次郎を見上げた。
◆◆◆
黄巾賊の三人組と別れた後、慶次郎は星に頼んで小沛の街まで案内してもらった。「天の御遣い」の降臨を予言したという占い師、「管輅」とやらにまず会ってみようと思ったのである。
街への道すがら星から聞いたところでは、管輅はいつも、街の中心にある広場の隅に座っているらしい。
何を聞かれても、何を言われても、黙り込んでいる。黒いボロ布をまとっており、わずかに汚い灰色の髪の毛、もしくは髭のようなものがはみ出てみえる。風呂には入らないのか、犬すら近寄らぬ異臭が漂っていたという。恐らくは、老人――星の見立てでは老婆――ではないかということだ。
管輅は時折、立ち上がって声高に予言を叫ぶ。そして、その予言は必ず当たるのである。人々は管輅を敬い、かつ恐れた。いつしか、管輅の前には小さな祭壇が築かれ、食べ物が供えられるようになった。もっとも、それは腐ることはあれ、減ることはなかったという。
その予言が必ず当たるという占い師、管輅。その人物ならば、自分がなぜこの世界に呼ばれたのか、その理由を知っているような気がした。しかし――。
◆◆◆
「これで手がかりは消えたか」
「申しわけござらぬ」
管輅の姿は、広場にはなかった。広場前の酒屋の店主によれば、今日のお昼頃、急にいなくなった。いや、気づいたらいなかった、らしい。お昼頃と言えば、慶次郎が星に会ったちょうどその時刻であった。
さて、どうするか。慶次郎がそう思ってあごをさすっていると、おずおずと問いかける声がある。酒屋の店主であった。期待を込めた表情で慶次郎を見上げている。
「あ、あの」
「何じゃ?」
「もしや、あなたさまが管輅の予言にあった天の御遣い様でございますか」
「ああ、この方は……」
「いや。残念ながら違う」
それに答えようとする星を、慶次郎が遮った。星は慶次郎の顔を見て、不服そうに黙りこんだ。
「予言通り、白い服を着ておられますが」
「いや、これはわしの国、東方にあるのだが、その旅装でな。はるばる旅をしてきてこの街の近くを歩いていたところ、黄巾賊の輩に襲われ身ぐるみ剥がされた。途方にくれていたところ、このお方に助けていただいたというわけじゃ」
「はあ」
「何でも、おこお方も天の御遣いとやらと探しに来たとのこと。最初は勘違いされて苦労したわ。難儀なことよ。……だが、せっかくの機会。この街にて、しばらく世話になろうと思っとる。よろしくな」
にかりと慶次郎は笑う。主人は納得がいかない顔をしながらも、曖昧にうなずいた。ふいに、慶次郎がぐるりを振り向く。広場の時間が動き出した。
見られている。
◆◆◆
是非、会って欲しい人たちがいる。そんな星に連れられて、慶次郎は広場からほど近い旅館に来ていた。そこには、星と一緒に旅館に滞在しているという二人の女性がいた。その二人と慶次郎、そして星は座卓で向かい合って座っている。
「あなたが、天の御遣い様ですか~」
程昱と名乗った女性がふんわりと話しかける。頭に変な置物を乗せた、なんとも眠そうな顔をした少女である。
「よろしければ、その証拠を見せていただけないでしょうか」
こちらは、戯志才と名乗った女性だ。眼鏡をかけた知的な雰囲気の人物で、にっこりと微笑んでいる。
「だから稟、先ほど言ったではないか。私は確かに見た。慶次郎殿が、天から白い光とともに降りてきたのを」
彼女たちの話を聞いているうちに、程昱と戯志才の二人は主君を求めて旅を続けていることがわかった。この小沛の街を起点として、いろいろな土地に出かけているらしい。星はいわば、彼らの用心棒である。まだここにいるということは、お眼鏡にかなう主君がいないということか。
確か「程昱」と言えば、あの……。まあ、星こと趙雲もここにいる。曹操、袁紹、孫策、そして劉備。彼ら『三国志』の英雄たちは、まだ歴史の表舞台に現れていないのかも知れぬ。それとも、目の前の二人が曹操に仕官しない歴史もあり得るのか。そんな慶次郎の思考は、星の怒鳴り声に遮られた。
「だから、何度言わせるのだ!慶次郎殿は白い光とともに天から降りてきた!天の御遣いに間違いない!」
「しかし、その証拠はどこにもありません。確かに白い服を着ていますが、その素材ならこの街でもすぐに仕立てることが可能です」
「稟!」
「光っていたといいましたが、単純に白い服が反射して光って見えただけなのでは?」
話は平行線をたどっているようだ。仕方なく、慶次郎は声をあげた。
「あ~、ちょっと良いかな」
三人が揃ってこちらを見る。慶次郎は軽く頭をかくと、話し始めた。
「まず、わしは天の御遣いではない」
「慶次郎殿!」
「しかし、別の国から来たことは確かだ。その国の名を『日の本』という、ここからずっと東にある国だ」
「ひのもと?ですか~」
「ここから東、海をへだてて浮かんでいる島国だな」
仮に今、日の本に戻っても兼続たちには当然会えぬのだろうな。そんなことを思いながら、慶次郎は東の方向に顔を向けた。
「聞いたことがあります。秦の始皇帝が、不老長寿の薬を探させるために道士を送ったといわれる国ですね。別名『蓬莱』というとか」
「蓬莱といえば天の国の別名。やはり、慶次郎殿は天の御遣いだろう」
そう胸を張る星の顔の前で、慶次郎は右手をひらひらと振ってみせた。
「だが、わしは天から啓示を受けたわけでも何でもない。髭を剃っておったら、いつのまにかこの国に来ていただけのことよ。多分、何らかの怪異にあったのだろう。すまんな、星」
「慶次郎殿……」
星が納得のいかない顔をしている。星からすれば、「自分より強い男」という一点だけでも慶次郎が天の御遣いである証拠となり得た。だが、当の慶次郎が勝負については触れるなとあらかじめ念を押していた。それが、友人に会って欲しいという星の願いに対して慶次郎が出した条件だったのである。
それゆえの、星の不服顔であった。それにはかまわず、慶次郎は彼女の友人たちに問う。
「さて、程昱殿、戯志才殿。あなた方はこの街に詳しいのですかな」
「旅の起点として長いので、いささか」
「それはありがたい。頼みがある」
「頼み?」
「うむ。職を紹介してくれまいか」
「職?ですか」
「うむ。日の本から怪異によってここまで運ばれたのはまだしも、路銀も頼るべき当てもなく、ほとほと困っておった。そんな時、お二方に会えるとは、まさにこれぞ天の配剤」
「……」
戯志才は、無言で慶次郎を眺めた。そして、ちらりと程昱に目をやった。程昱がにっこりと頷く。
「いいでしょう。職を紹介します」
「おお、助かる」
「いえ、こちらとしても『渡りに舟』」
戯志才は立ち上がると慶次郎に促した。
「ついてきて下さい」
◆◆◆
連れて来られたのは、街の外れにある屋敷であった。それほど大きな建物ではない。しかし、質素ではあるが質の良い調度品が揃っていた。富豪の洒落た別荘といった印象の建物である。
戯志才によれば、今は街を離れている知人の屋敷らしい。自由に使って良いと言付かっているが、女三人では不用心なため、使うことを躊躇していた。だが、慶次郎がいれば安全であろう、と。
「どういうことじゃ?」
「つまり、この家の警備係をして下さいということですよ。または、私たちが旅をするときのお留守番ですか」
「そんなに、わしを信用して良いのか?」
「貴重品はいつも身につけています。これまでは書物の倉庫として使っていたので、価値があるのはそれくらいですね。まあ、あなたに読めるとは思いませんが」
戯志才は、慶次郎を値踏みするように言った。
「いや、おなご三人に男一人、それで良いのかということよ」
「ご心配なく。ここにいる星はこの国では並ぶ者のない槍の使い手。失礼だとは思いますが、仮に何かあったとしても、恐らくはあなたでは相手になりますまい」
何か言いたそうな星を尻目に、慶次郎は深く頭を下げた
「かたじけない。恩に着る」
「お礼は無用です。この屋敷にいることは自由ですが、賃金は食事代程度しか出しません。ご了解を」
「稟!」
「また、この屋敷の持ち主が戻ったら、遠慮なく出て行ってもらいます。よろしいですか?」
「承知つかまつった。異論はない」
そう答えながら、慶次郎は戯志才の本心について思った。
彼女の言い方には、何かひっかかるものがある。自分を挑発しているようにも感じる。そもそも、星がいれば警備係はいらないだろう。留守番だって、もっと適役の人物がいるはずだ。
もっとも、自分は天の御遣いではないと早々に判断されたのかもしれない。賢い人間ならば、そうするであろう。屋敷に置いておくのは、友人である星への配慮。せめてもの情けということか。
無理もない。
天の御遣いであることを証明する方法は、すぐには思いつかなかった。また、それと証明するものも、やはり思いつかなかった。白い麻の服が、何の証明になるだろう。
それでも、下手に天の御遣い扱いされるよりはずっと気楽であった。そもそも慶次郎自身、自らを天の御遣いと認めるつもりは、これっぽっちもなかった。
◆◆◆
以後、慶次郎は気楽な居候として、屋敷で書物を読みながら時間を過ごした。まずは書物から、この国を知ろうと考えたのである。彼にとって、漢文の読み書きは当然の教養であった。日の当たる部屋の縁側に大きな敷物を敷いて、ごろりと横になって書物を読む。既に読んだことのある書物も多かったが、竹簡に書かれた真新しい「古典」を読むのは、なかなか新鮮な体験であった。
一緒に住んでいる筈の程昱、そして戯志才に会うことはほとんどなかった。そもそも、彼女らはあまり屋敷に戻ってこない。たまに戻ってきても、慶次郎と顔を合わせずに寝室に戻ってしまうのが常だった。時折、程昱が訪ねてきて日の本の話をせがむことはあった。しかし慶次郎がその話に付き合うことはなく、やがて訪ねてこなくなった。
代わりにというわけではないが、ほぼ毎日、星が慶次郎に会いに来た。程昱たちが旅に出ないときは、基本的に暇らしい。最初は槍を合わせたがっていたが、慶次郎に応じる気がないのを悟り、早々とあきらめた。以後、書物を読む慶次郎の傍らで槍の手入れをしたり、昼寝をしたり、自由気ままに過ごしている。
そして夜になれば、慶次郎の酒の相手などをした。その過程で、慶次郎から親しい者は彼を「慶次」と呼ぶと聞き、すぐさまそう呼ぶようになった。「真名のようですな」と喜んでいる。
慶次郎は書物に飽きると街に出て、店を覗いて回った。やはり異国、知らないもの、珍妙なものがたくさんある。好奇心旺盛な彼は、いろいろと質問をしては店主たちを困らせた。もっとも、最初に会った酒屋の主人とは懇ろになり、いまでは新しい酒について議論するまでになっている。
そのような日々を一ヵ月程続けたとき、旅装の三人がやってきた。
「慶次殿」
「ん……」
星の声に、読みかけの『孫子』から目を離す。
「どうした」
「我々はこれから徐州の首都、下邳に向かいます。一ヶ月程で戻ります」
「ほお。なかなかの長旅だな。気を付けられよ」
「はい」
星は浮かぬ表情をしている。
「いかがした」
「実は……」
そんな星の言葉を遮って、程昱が話す。
「実はですね。下邳に現れたらしいのですよ」
「現れた?」
表情を感じさせない顔で、戯志才が続けた。
「ええ。『本物』の天の御遣いが」