第3節 許婚
「ふあああ……」
霞は身体を起こすと、大きく背伸びをした。形の良い乳房が上を向く。窓から太陽の光が差し込んでいる。九月の半ばともなれば、洛陽の朝の空気は肌寒い。霞は寝台を降りると、座卓の上のさらしを手に取った。慣れた手つきでくるくると胸に巻いていく。
「おっし」
固く巻いたさらしの胸をその右手で軽く叩く。そして上下の服を着込み、壁に掛けてあった得物を手にすると部屋を出た。これから、軍の調練が待っている。
◆◆◆
現在、洛陽に駐在している董卓軍は八万である。ほかに北域の五胡と接する地域におよそ二万の兵が駐屯しているものの、実質この八万が董卓軍の主力といって良いだろう。
八万の兵は、大きく四つの軍に分かれている。第一軍は、呂布こと恋が率いる。第二軍を率いるのは霞。そして第三軍は華雄が率いている。残りの二万は遊軍として、時と場合に応じて第一軍から第三軍に所属する。
第一軍から第三軍は、日替わりで洛陽の郊外で大規模な調練を実施している。そして今日は、霞の率いる第二軍の調練日であった。
朝食をとるために将官用の食堂に入った霞は、目の前の光景に軽く目を見開いた。食卓の上に、食後とおぼしき大皿が幾枚も積み重ねられていたからである。霞は、大皿を片付けに来た給仕の中年女性に声を掛けた。
「なあ。これ、誰が食ったんや」
「あ、おはようございます。これは呂布様が」
「恋が?」
霞は首をひねる。恋の率いる第一軍の調練は、昨日終わっていた。恋は自分が担当する調練以外の日は、たいていは昼まで眠っている。したがって、恋がこのように調練もないのに朝から起き出して食事をするのはきわめて珍しいことなのである。
「ふーん。で、今はどこや」
「さあ。先ほど陳宮様と一緒に食事を終えられて、食堂を出ていかれたばかりで」
「さよか」
「……あの、張遼様。今日は、これから何かあるのですか?」
給仕の女性の心配そうな声に、霞はその顔を見た。女性の視線は、霞の右手に注がれている。
「あれ?」
霞は再度首をひねった。その手には、飛龍偃月刀がある。普段の調練であれば、刃を潰した調練用の偃月刀を使う。それを、戦場で使うものを持ってきてしまった。
それを見て、給仕の女性は不安になったのだろう。先に恋が調練の担当でもないのに早起きしていたことも、その一因になっているものと思われた。
なぜ、間違ってしまったのだろう。霞は、自分の直感を信じている。今日は、何かあるのだろうか。霞は、にわかに自分の胸が高まるのを感じた。
「何でもないで、おばちゃん。それより、ご飯大盛りで頼むわ!」
◆◆◆
霞が朝食を終えて洛陽の西門を出ると、そこには第二軍の兵士たちが整列していた。皆、直立不動である。いつもとは違うその様子に、霞は声を掛けた。
「何や。まだ調練が始まるまで半刻(一時間)はあるで。そんなに気を入れんと……って、恋か?」
整列する第二軍の兵たちの前に、恋が立っていた。その右手に方天画戟を持ち、西の方角を鋭く見据えている。普段の彼女ではない。本気の恋である。この恋の前では、いかなる兵士とて直立不動の姿勢をとらざるを得まい。
恋の左隣では、目を半ばつぶった音々音がまるで振り子のように身体を前後に揺らしている。半分、寝ているようだ。霞は二人に近づくと、声を掛けた。
「今日はどうしたんや。恋の調練は昨日やろ」
「……敵が来る」
「敵?」
霞は恋の視線を追って西の方角を見た。その先には、涼州がある。
「馬騰のおっさんが、やすやすと五胡を侵入させるとは思えへんけどな」
「五胡とは違う」
「じゃ、何や」
「……わからない。でも、敵」
恋の視線は変わらない。そうすることで、まるで千里先のその「敵」の姿を見ることができるとでも言うように、ただひたすらに西の方角を見つめていた。
「敵、なあ……」
そう答えつつも、霞は自分の直感が間違っていなかったと感じた。恋もまた、自分と同じように「何か」を感じたのだろう。再び、霞の胸は高まった。
「よっしゃ。何が来るかわからんけど、とにかく敵なんやな」
「うん」
「胸が躍るなあ。恋とウチ、どちらも満足させてくれる敵であることを願うとるで」
恋は霞の顔を見ると、無言で頷いた。そして、再び西の方角にその視線を移した。
◆◆◆
「ふう……」
午前の職務を終えると、詠は執務室の椅子に座ったまま大きく背伸びをした。そして、机の左下に置いてある木箱に視線を移す。
木箱には、涼州と司隷の州境で生じている「問題」の解決を願う洛陽の商人たちによる嘆願が記された竹簡がまとめて放り込まれている。あの、州境で涼州に向かう商人たちが行方不明になる問題だ。
彼女は、この問題の解決のため――もとい、慶次郎を亡き者とするために除軍を二週間前に送っていた。そろそろ「除軍がどのような結末をたどったのか」について、州境から報告がある頃である。
詠は司隷の州内に駅伝制による連絡のシステムを構築していた。州内のことは、その早馬を使っていち早く洛陽まで伝えられる仕組みである。そして、涼州との州境近くの駅には、除軍に問題が発生すればすぐに連絡をするように伝えてあった。しかし――。
<ボクともあろう者が>
詠は後悔していた。慶次郎を亡き者にする絶好の機会と考えたばかりに、問題が三千の匪賊によるものであるという竹簡の情報の裏をとっていなかったのである。
慶次郎が出立して後、頭が冷えた詠はその竹簡を出した商人を探した。しかし、その商人は見つからなかった。既に、二週間ほど前に州境で行方不明になっていたのである。
そうなると、竹簡を出したのは誰か。詠の執務机に届くのは、文官たちによる厳密な選別を受けて届く竹簡ばかりである。当然、そうした選別の過程でその竹簡の出所については確認がなされる。だからこそ、詠はその竹簡の情報をすぐに疑ったりはしなかったのだ。
しかし、その竹簡は出所が不明であった。となれば、その情報の真偽も怪しい。そして、除軍はまだ戻ってきていない。ということは、州境で何かが起きていて、除軍はそれに対応していると思うのが自然であった。だが、竹簡の情報が虚偽であるとするならば、何が起きているのかがわからない。それ故の、後悔であった。
詠は除軍派遣の要因となった竹簡を手に取った。そして、それをじっと見つめる。
除軍が全滅する程度ならいい。こちらも望んでいたことである。しかし、それが董卓軍の一部をそこに引き寄せるための何らかの策略であったならば――考え込む詠の耳に、慌ただしい足音が聞こえた。同時に、執務室の扉が乱暴に開かれる。真っ青な顔をした文官が駆け込んで来た。
「か、賈詡様!」
「落ち着きなさい。何があったの?」
「は、はっ!」
文官は詠の厳しい視線に我に返ると、大きく息を吸った。そして息を吐くと報告する。
「西門望楼の物見から報告です。正体不明の軍勢が洛陽に向かって進軍しております!」
◆◆◆
「何ですって!」
詠は叫んだ。西方には涼州がある。そこには、董卓陣営が盟友と頼む馬騰の強兵がいる。その馬騰を越えて、洛陽に至ろうとする軍勢がいるというのか。
背筋が冷たくなった。仮にあの馬騰を越えてきたとするならば、その軍勢の数は十万をはるかに超える規模となる筈であった。だとするならば、五胡が連合を組んで侵入してきた可能性が非常に高い。
「数は!」
「はっ!その数、目視で約四千」
「えっ?」
詠は混乱した。たった四千で涼州を越えてきたというのか。ありえない。しかし、実際に兵が洛陽に迫っていることは事実である。費用を掛けて整備した駅伝制はどうなっているの――詠は唇を噛んだ。
まさに、寝耳に水である。しかし、今は混乱している場合ではなかった。そして相手が四千の兵であれば、即応できる。詠は文官に向かって告げた。
「この時刻、洛陽の西門近くで調練がされていた筈ね」
「はっ。張将軍が調練されておいでです」
「よし。霞にすぐさま迎撃するように伝えて。もう、対応しているとは思うけど――ボクもすぐに西門に向かう」
「かしこまりました」
文官は詠に頭を下げると、執務室を駆けだして行った。詠も同様に執務室を出ようとして、右手で竹簡を握っていることに気づいた。先ほどの懸念が頭をよぎる。詠は首を振ると、その懸念を振り払うかのように竹簡を木箱に向かって投げ入れた。そして、足早に執務室を出て行った。
◆◆◆
「遅いで、詠」
「ごめんなさい。月に報告していて」
「まあ、ええわ。準備はできとる」
西門から五町(約五五〇m)ほど離れた地点。息を切らす詠の前で、馬上の霞は飛龍偃月刀を前方に突き出した。その先に、西方から近づいてくる土煙が見える。
霞は望楼の物見から正体不明の軍勢の数が四千であることを知らされると、すぐさま西門付近から第二軍を前に進め鶴翼の陣を命じた。霞の用兵には定評がある。第二軍はすぐさま陣形を整えて現在に至っている。
「遅いですぞ、詠殿」
「だから月に……って、ねね?それに恋まで」
詠は目を丸くした。霞の隣には、赤兎馬に跨がり方天画戟を手にした恋と、その前鞍に得意げに座る音々音がいた。恋は詠の方を見ず、無言で西の方角を見つめている。
「どうして、あなたたちまで?」
「ふっふっふっ。今日は朝から、恋殿が『きゅぴーん』と感じていたのです」
「きゅぴーん?」
「言うなれば、最強の武人のみが感じることのできる先見の明と申しますか」
「恋の勘、か。それは当てになりそうね」
何か言いたげな音々音を無視して、詠は西の方角に視線を向けた。霞に恋、そして音々音に詠は鶴翼の陣の要付近にいる。その要に向かって、正体不明の軍勢は進軍していた。
このままその軍勢が進んでくれば、二万の騎兵がそれを挟み込むだろう。その用兵に「神速」の異名を持つ霞が鍛え上げた兵たちである。どんな相手だろうと、その数が四千であるならば負けない自信があった。
「何か、変やな」
「えっ?」
霞の声に、詠はその顔を見上げた。霞はその左手をあごに当てて、いぶかしげな表情で首を傾げている。
「どこが変なの」
「いやな、相手は四千やろ。こちらは二万。このままじゃ、挟み込まれるのは自明の理。にもかかわらず、こっちに向かってまっすぐ進んできとる。何か、おかしくないか」
「猪突猛進の用兵とか」
「なら、いいんやけどな。けど、兵気が見えん」
「兵気?」
「ああ。なんか、緊張感がないというか。遊びから帰った子どものような感じというか……」
霞の声に、詠は改めて正体不明の軍勢を見た。確かにそうであった。こちらの軍勢を見ても、相手はまったく陣形を変えていない。騎兵中心の軍勢のようだが、四列縦隊のままゆっくりこちらに近づいてくる。先頭に立つ兵の顔が見える距離になった。恋の目が大きく見開かれる。
「!」
やおら、赤兎馬が駆けだした。
◆◆◆
「恋!」
霞が叫ぶ。二万の鶴翼の要から飛び出した赤い矢は、見る間にその速度を上げた。
「霞!この陣形のまま前進を!」
詠も叫ぶ。このまま、単騎であの軍勢と当たらせるわけにはいかない。恋に敵う武人がこの中華にいるとは思えない。しかし、正体不明の相手である。しかも、その軍勢は涼州を越えてきた。ただの相手であるはずはなかった。
しかし、霞は黙り込んだ。目を細めて、恋の駆けだした先を見つめている。
「霞!何をしているの!恋を単騎で当たらせる気?」
「……ああ、そうやな。ウチもちょっと行ってくるわ」
「えっ?」
「全軍、ここに待機!勝手に動いたらあかんで!」
そう第二軍に命じると、霞は笑みを浮かべて愛馬に鞭を入れた。
「えっ!ちょっ、ちょっと!」
詠の視野から、董卓軍の誇る二人の将軍の背中が遠ざかっていく。このまま放っておくわけにはいかない。そして、恋はともかくとして霞には単騎であの軍勢に向かっても安心だと考える理由があるようだった。
「まったく、もう!」
詠もまた、その馬に鞭を入れる。そして、二人の背中を追いかけ始めた。
◆◆◆
「れ、恋殿。い、いきなりどうしたですか?」
音々音は前鞍にしがみつきながら必死で問うた。赤兎馬の速度に、目を開けていられない。
「帰ってきた」
「……えっ!」
「慶次」
その口調は明るい。音々音は必死で目を開けた。風が目に痛い。そして、その目に正体不明の軍勢を率いる男の姿が目に入った。大きな黒い馬にまたがる大きな男。もちろん、それは――。音々音は声の限りに叫んだ。
「ち、ちちうえー!」
音々音に気づいたのだろう。黒い馬がこちらに向かって走り出した。背後の騎馬兵たちもその後に続く。愛する父の顔が、近づいてくる。
赤兎馬と松風が速度を落として交差した。次の瞬間、音々音は慶次郎に向かって跳んでいた。受け止めてくれるという確信がある。はたして、その小さな身体を大きな両手ががっしりと受け止める。
「おお、出迎えご苦労」
「父上!よくぞご無事で」
「ああ。今帰った」
そう言うと、慶次郎は音々音の両脇に手を差し込むと、空に掲げた。
「ん?音々音、少し体重が増えたのではないか?」
「もう、父上!女の子にそんなこと、を……」
音々音はその口を開けたまま言葉を止めた。慶次郎の背後に続く二人の将と目が合ったのである。
「よ、よう。ひ、久しぶりだな。ねねちゃん」
「……ねね。あんた、ホントに慶兄の娘になったんだ」
そこには、何とも言えない笑顔を浮かべた旧知の二人がいた。二人の姿を認めて、音々音の顔は一瞬で真っ赤になる。そして慶次郎に支えられたまま、その足をじたばたさせた。
「ふおおー!」
◆◆◆
「これはどういうこと?」
音々音が振り返ると、そこには眉をひそめた馬上の詠がいた。そのこめかみが、ぴくぴくと動いている。彼女は安心すると同時に腹を立てていた。なるほど、「何も問題がない」ならば早馬が洛陽に来ることもない。何せ、彼らは「味方」なのだから。
慶次郎は音々音をそっと松風の前鞍に降ろして座らせると、賈詡に対して礼をとった。
「賈詡殿。わざわざのお出迎え、痛みいる」
「……そんなつもりじゃないけど」
「賈詡殿?」
「いや、こっちの話よ。何があったのか、報告してもらおうかしら」
「かしこまった」
そう言うと、慶次郎は背後に視線を送った。その視線を受けて、詠から見て松風の左隣に紫燕と黄鵬が並ぶ。それらに跨がるのは、いずれも旧知の二人だ。
「報告つかまつる。命にありし匪賊三百の討伐、達成せり」
「三百?」
「左様。『賈詡殿にお伝えいただいた通り』であった」
その言葉に、詠の左眉が一瞬跳ね上がった。だが、すぐに戻る。慶次郎はそれを見ても表情を変えず、話を続けた。
「その際、ここにおわす馬騰殿が嫡子たる馬超殿、その配下の馬岱殿に多大なるご助力をいただいた」
詠は、慶次郎の隣の二人に視線を送る。二人とも、少し驚いたような顔をしている。詠の視線を受けて、翠がうわずった声を上げた。
「こ、こ、今回のことは……」
「わたしたちはあくまで手助けをしたに過ぎません。この度の討伐、前田殿のお手並みは実に見事でした」
翠の言葉を引き取って、蒲公英が続ける。そして、にっこりと笑った。
「そのお手並みに感心された我が叔父、西涼太守馬騰は前田殿の下で修行をしてこいと馬超、そしてこのわたしを洛陽に使わした次第です」
「……蒲公英。それは本当なの?」
「詠。わたしたちに、嘘をつく理由なんてあるかな」
確かに、嘘をつく理由はない。盟友の馬騰殿が、その主力の一部を董卓軍に貸してくれた。実にありがたい話だ。問題があるとすれば、「この男」の下にその主力が付くということであった。
「翠。こんな男の下に付かなくても、董卓軍はあなたを一軍の将として歓迎するわ」
「ありがとう。だけど、それじゃ意味がないんだ。あたしは前田殿の下に付く」
その毅然とした表情に、詠は違和感を感じた。翠はこんな女性だっただろうか。以前に会ったのは、一年前だったか。その時に比べて、ずっと大人になったように見える。
「……わかったわ。馬騰殿のお話、ありがたく頂戴いたします。よろしくね、翠」
「ああ。よろしくな、詠」
「ちょうど、兵士宿舎を増築したばかりよ。西門から入ってちょうだい。案内の者をそこで待機させておくわ」
「賈詡殿。もう一つ、ご報告が」
その声に、詠は仏頂面で慶次郎を見上げた。正直、あまり良い気分はしない。大きな黒い馬に乗ったこの大きな男と話すと、まるで自分の方が目下であるかのような気持ちになるのだ。そして、それだけの威厳がこの男には備わっていた。
「何よ。もったいぶらず、さっさと言いなさい」
「しからば。匪賊討伐の帰路、州境にて行方不明になっていた商人たちを保護いたした」
「何ですって?」
「いずれも、これまで自分たちがどこにいたのか思い出せぬ由。何でも、白装束の一団に会って後、記憶がないとか。詳しくは、賈詡殿にお任せする」
◆◆◆
詠は絶句した。除軍ごと、その身を亡き者にしようと考えての今回の派遣であった。この男が得るものは何もないはずだった。なのに、この男は匪賊を見事討伐したばかりか、無事商人を救出してみせた。無謀な命令に対して、最高の結果を持って帰ってきたのである。
さらに、馬騰からその主力の一部を引き受けている。しかも、それを率いる将は馬家の家長となることが約束されている翠、その右腕たる蒲公英である。確かに、お陰で董卓軍の力は増すだろう。しかしそれは同時に、この男の勢力を増すことを意味していた。
この男が董卓軍に加入して、わずか二週間と少しに過ぎない。それにもかかわらず、これだけのことをやってのけ、これだけのものを手に入れてみせた。このまま、この男が洛陽に居続けたらどうなるのか。
詠はぞっとした。董卓軍は実力主義だ。こうして無理難題を押しつける度にこの男は大きくなり、その地位を上げて董卓陣営を牛耳ることになるのではないか。しかもその娘は董卓軍の参謀の一人であり、それを慕う女性は董卓軍随一の将軍なのだ。
もしかして、あの竹簡はこの男の企みによるものなのでは――そんな疑念が詠の頭に浮かんだ。この男を父と慕う音々音が、偽造した情報を記した竹簡を執務机の上においたのではないか。架空の匪賊を討伐することで功績をあげようとしたのではないか。しかし、だとするならば商人の救出と翠たちの合流はどのようにして――。
「賈詡殿?」
その声に、我に返った。恐ろしい男が、詠の顔を見つめている。その穏やかな笑顔は、詠にはまるで地獄からの使者のように見えた。詠は、無理矢理にその顔に微笑みを浮かべる。
「それはお見事。ご苦労でした、前田殿。まずはゆっくり休みなさい」
そう告げると、すぐさま馬首を西門に向けて鞭を入れた。一刻も早く、この場所から離れたかった。月の側にいたかった。彼女を守らなくてはならない。そして、決意した。
――どんなことをしても、この男を董卓軍から追わねばならない。
◆◆◆
「なんじゃ。賈詡殿は、何か急用でもあったのか?」
「いや、そんなんちゃうと思うけどな」
「おお、張遼殿」
「霞でいいって言ってるやろ、慶次」
慶次郎の前に、満面の笑顔を浮かべた霞がその愛馬を寄せた。
「そういえば、霞殿」
「霞」
「……霞。あの軍勢は何じゃ。鶴翼の陣を敷いているようじゃが」
「ああ、あれは調練中や。気にせんといてや。それより」
霞は飛龍偃月刀を慶次郎に突きつける。
「帰ってきたところすぐで悪いんやけどな、打ち合うてもらえるか?いい加減、待ちくたびれてんねん」
「そういえば、約束しておったな」
「覚えていてくれたんか」
「当然じゃ。天下に名高い張遼……霞に相手を頼まれて、断るのは野暮というもの」
その言葉に、霞の顔がぽっと赤くなる。この男、真顔でほめるから始末に悪い――照れ隠しをするように、霞はぷいと横を向いた。
「……あんた、女をほめ慣れとるな」
「そんなつもりはないのだが」
「気をつけんと、いつかぶっすり刺されるで」
「そんなことは私がさせん」
「おお、星やないか」
気がつけば、霞の後ろには白馬に跨がった星がいた。武装はせず、普段着である。星は馬を慶次郎の前まで進めると礼をとった。
「無事、命を果たされたようで何より」
「うむ。そちらの調子はどうだ」
「はっ。無事、陳爺に『うまい店』を紹介してもらいました」
「それは重畳。近いうちに食べに行きたいな」
「御意」
頭を下げた星は、慶次郎の隣で自分を見つめる若い女性に気づいた。その目はきらきらと輝いている。白銀の胸甲を身につけ、その右手には十文字の刃がついた細身の槍がある。そして、一目見て手練れとわかる雰囲気を帯びていた。
「慶次殿。こちらは?」
「ああ。こちらは馬騰殿の――」
「あたしの名は馬超。西涼太守、馬騰の嫡子だ。あんた、趙雲殿だろ?」
「――いかにも」
ぶしつけな質問に答えつつ、星は不審に思う。これまで、この女を見たことも、会ったこともない。なのに、なぜ自分のことを知っているのか。
「で、あんたが張遼殿」
「そうやけど」
「そしてあんたが万夫不当、呂布殿だよな!」
「……」
「いやー、こんなにすぐに天下の英傑と会えるなんて。みんな、慶次が話してくれた通りだ」
「「慶次?」」
星と恋が同時に眉を寄せた。慶次郎からは、その呼び名は彼と親しい者が呼ぶ名であると聞いている。その名を呼ぶとは、この女は一体――。
「あ、そうそう。せっかくだからこの機会に言っておくけどさ」
翠は顔をほんのりと赤らめると、慶次郎の顔を見上げる。そして、照れくさげに星たちに爆弾を投げつけた。
「あたし、慶次と婚約してるから」
◆◆◆
「は?」
思わず、声が出た。何を言っているのだ、この女は。頭にかっと血が上った。しかし、すぐに気を取り直す。幸か不幸か、慶次郎の側で過ごすうちにこうした状況には慣れてしまっていた。そして、自分の隣で黙り込む女に視線を送る。
「……何?」
明らかに殺気を込めた目で、恋は星を睨む。慶次殿の側で過ごすには、この女にはまだまだ経験が足りぬ。恋敵の表情に満足しつつ、星は首を振った。
「いやはや。自称『正妻』に、自称『婚約者』。慶次殿も大変ですな」
「口を慎め、星」
「はい?」
「翠の言うことは本当じゃ」
次の瞬間、空気が凍り付いた。恋は無言で方天画戟を右手で握りしめている。その二の腕の筋肉は盛り上がり、ぎちぎちと方天画戟の柄を握り潰すような音が聞こえる。星は翠の顔を穴が開くほど凝視している。凝視しつつ、その右手はそこにはない彼女の愛槍を探していた。音々音は呆然と慶次郎の顔を見上げている。その口は、空気を求める鯉のようにぱくぱくと動いている。霞だけが、面白そうに微笑んでいた。そんな空気をかち割るように、翠の明るい声が響く。
「ま、そういうことだからさ。みんな、よ・ろ・し・く・な!」