第2節 背中
「何じゃ。お前ら、揃いも揃って前田殿のことを知らぬのか」
馬騰は、翠に蒲公英、そして徐栄と樊稠を前に呆れたような表情を見せた。
「仕方ねえよ、御大。俺たちゃ、いつも辺境を回っているんだぜ」
「そんなんで、よく隊長が務まっていたな。徐栄」
「だから、隊長じゃありませんて。もう、止して下さいよ」
徐栄は、その肥満した身体を小さくすると頭を掻いた。その隣で、翠が腕を組んで胸を張る。
「中原のことなんて気にする必要なし!だって、あたしらは最強なんだから!」
「すまんな、蒲公英ちゃん。いつも迷惑を掛ける」
「ううん、いいんです。叔父さま。それより、わたしも知りませんでした」
「いいんじゃ、いいんじゃ。蒲公英ちゃんは翠の世話で精一杯じゃからな」
「叔父さま……」
「なんか、あたし悪口を言われてないか?」
翠がその口を尖らせる。そんな彼女を無視して、徐栄は馬騰に問うた。
「で、御大。新入り――いえ、隊長について何をご存じなんで」
「先頃、黄巾賊の乱が治まったのは知っていよう」
「ええ」
徐栄は頷く。一ヶ月ほど前、黄巾賊はその本拠地を曹操と劉備に攻められて壊滅したと聞いていた。もっとも、辺境周りを続けている除軍には、それ以上の情報は入っていない。
「その乱において、大功を挙げられたのがこの前田殿じゃ」
「馬騰殿。そのくらいにしておいてはくれぬか」
「いやいや、謙遜なさるな。曹操殿のもと、予州においては単騎疾駆して一万八千の黄巾賊を屠り、青州においては張三兄弟を自害に追い込んだと聞く。前田殿の雷名は今や中原に鳴り響いておる。その武、呂布に並ぶとも劣らず、とな」
四人から嘆息が漏れた。皆、今回のことを通じて目の前の男が「それなり」の人物ではないかと思うに至ってはいたが、「それほど」の人物であるとまでは思っていなかったのである。
慶次郎は、居心地が悪そうにその鼻を掻いた。それを横目で見ながら、馬騰は言葉を続ける。
「正直、わしとて半信半疑であった。だが、こうも簡単に翠をあしらったのを見ると、噂は確かであったようじゃな」
「天佑に恵まれただけのこと。わし一人の力ではござらん」
「天佑に恵まれた、か」
言葉を区切ると、馬騰はにやりと笑ってみせた。
「まるで、『天の御遣い』のようなことを言う」
◆◆◆
慶次郎は西涼太守の顔を見た。まるで他意はないような顔をして、にこにこと微笑んでいる。慶次郎は、苦笑いを顔に浮かべた。
<狸親父め>
慶次郎と馬騰の間に微妙な空気が流れる。その空気を察して、徐栄と樊稠は顔を見合わせた。蒲公英も、不安げな表情を浮かべて叔父と慶次郎の顔を交互に見上げる。その刹那、そんな空気を蹴破るように明るい声が響いた。
「なあなあ、前田殿。あんた、予州にいたんだよな?」
馬超の声であった。慶次郎は内心感謝する。見れば、邪心のない顔である。それは、自分のことを岩壁に磔にした男に対するものではなかった。その目の周りはまだ赤いというのに、先ほどまでのことをすっかり忘れてしまったかのようだ。初めて話したときにも思ったがこの「錦馬超」、意外と根は単純なのかもしれない。
翠が慶次郎に話しかけるのを見て、馬騰は一歩下がる。徐栄に樊稠、そして馬岱もまた、二人から数歩離れた場所に移動した。彼らの挙動を少し不審に思いながら、慶次郎は翠に答える。
「ああ。曹操殿のもとでな」
「それじゃあさ、『天の御遣い』って知っているか?確か、予州の隣、徐州に降臨したって聞いたんだけど」
興味津々といった感じである。馬超は、先に中原のことには関心のないようなことを言っていた。しかし、それでも「天の御遣い」ともなれば話は別のようである。この北の大地ですら、その存在は注目されている。慶次郎は、この世界におけるその重要さを今更のように感じていた。
「ああ、知っておるぞ。まだ、十代の若者であったな」
「前田殿は、会ったことがあるのか?」
「ああ。一度だけではあるが」
「そりゃ、すごいな!で、腕は立つのか?」
「さて、それを知る機会はなかったな。馬超殿は、御遣い殿に関心があるのか?」
「まあ、そりゃあね」
「わしでよければ、紹介状を書くぞ」
「ホントか!」
「うむ。さほど親しいわけではないが……。名は、覚えてはくれていると思う」
「何だよ、頼りないな」
「はは、すまんな」
「いや、こっちこそすまない。言い過ぎた。……そういや、天の御遣いと言えば『武神』関羽だけど」
「ああ、強いぞ。一目見て、圧せられる強さじゃ」
「おおー!確か『青龍偃月刀』を使うんだろ?どんな感じの武器なんだ?」
「そうさな……」
矢継ぎ早の翠の質問に、慶次郎が丁寧に答えていく。若い二人の会話を、馬騰は微笑ましげに眺めていた。
◆◆◆
御大の娘が、盛んに隊長に話しかけている。その彼らを、御大が目を細めて眺めている。樊稠は、そんな光景から傍らの少女に目を移した。先に、御大から姪の馬岱であると紹介された少女である。どこか、寂しげな表情をしている。
樊稠と徐栄、そして少女の三人は、馬超が慶次郎に話しかけるやいなや、馬騰に目配せされて二人の側から離れていた。徐栄は少し離れた場所で、馬騰と一緒に来た旧知の武将と話をしている。樊稠は、少女に声を掛けた。
「なあ、クソガキ」
「何よ、おっさん」
「……」
「……」
「なあ、馬岱殿。御大の身体は、大丈夫なのか?」
「……どういうこと?」
「いやな。最初にお嬢を叱っていたとき、結構辛そうだったじゃねえか。あれが演技だったなら、いいんだ。けどよ、そうは見えなかったもんでな」
「よく見てるわね」
蒲公英は小さくため息をつく。そして、叔父にちらりと視線を送ると、樊稠の顔を見上げた。
「もう戦うこともないだろうし、いいかな。あんたら、叔父さまと知り合いみたいだし。叔父さまが、この一ヶ月寝込んでいたのは本当よ」
「……そうだったのか。じゃ、今は相当無理してるってことか」
「いや。もう、大丈夫じゃないかな。たぶん、すぐに元気になると思う」
「どういうことだ?」
「それはね……」
蒲公英は、慶次郎と翠に目を移した。男を大の苦手としている筈の従姉が、そのことを忘れたように声を弾ませている。なぜか、胸が痛んだ。
「お姉さまは、適齢期なの」
「はあ?」
思わず、樊稠は大声を上げた。御大がじろりとこちらを睨んだ。「二人の邪魔をするな」とその顔には書いてある。樊稠は慌てて頭を下げると、小声で少女に問いかけた。
「どういうことだ?」
「そろそろ、婿を迎える時期なのよ。でも、すごく男の人が苦手なのね」
「ん?うちの隊長と仲良く話しているじゃねえか」
「あ・ん?」
いつの間にか、少女の機嫌が悪くなっている。従姉をとられたことに対する嫉妬だろうか。そんなことを考えながら、樊稠は改めて問うた。
「す、すまねえ。そ、それがどうかしたのか?」
「……まあ、いいわ。一ヶ月前のことよ。そんなお姉さまのことを心配した叔父さまは、西涼の若者の中から五十人を選び出した。いずれも、血筋よろしく知勇ともに優れた人たちだった」
叔父さまは、その五十人の若者の中から婿を選べとお姉さまに告げた。いずれも、お前に相応しい男たちだと。けれども――。
「――全員、半殺しにしちゃったのよね」
「は、半殺し?」
「そ、半殺し。もちろん、正々堂々と打ち合った上で。そして、宣言しちゃったわけ」
蒲公英は目を閉じた。その時のことは、今も鮮明に思い出せる。夕日が差し込む平原に、ぼろぼろになった武具を身にまとった五十人の若者が死屍累々と伏せている。呆然とその有様を眺める叔父の前で、傷一つ負わなかった彼女の従姉はその愛槍を空に掲げて叫んだのだった。
『お父さま!翠は、自分よりも弱い男と結婚するつもりは毛頭ございません!』
「お姉さまよりも強い男なんて、いる筈ないじゃない?そして、お姉さまは一度宣言したことは絶対に曲げない頑固者だし」
つまり、翠はその父に対して一生自分は独身でいると宣言したのだった。叔父が床に伏せたのはその翌日のことである。何でも、胃に激痛が走ったらしい。心労と思われた。
「それじゃあ、何か。御大の具合が良くなったっていうのは」
「うん、多分……」
蒲公英と樊稠は口を閉じると、数歩先にいる若い二人に視線を移した。
◆◆◆
「それでそれで、呂布殿とはどうなったんだ!」
「うむ。その時は、この鉄弓しか手元になくてな」
翠は目を輝かせながら話の先をせがんでいた。関羽に趙雲、そして文醜に呂布。遠く噂に聞いていた英傑たちと目の前の男との交わりに興奮していた。
この男の話がまた、面白いのである。表情豊かに、大柄な身体で絶妙の演技をしてみせる。いつしか、翠は活劇を見ている観客のような気持ちになっていた。そんな彼女の隣に、馬騰が立つ。
「娘よ。ちょっといいかな」
「お、お父さま。……はい」
名残惜しげに翠が一歩後ろに下がる。その姿を確認すると、馬騰は慶次郎に向けて小さく頭を下げて見せた。
「すまんな、前田殿。娘の相手をして下さって」
「いやいや。あの『錦馬超』と話ができて光栄の至り」
「ん?娘は中原でそんな風に呼ばれておるのか?」
馬騰の怪訝な表情に、慶次郎は自らの過ちを悟った。考えてみれば、馬超が『三国志』に登場するのはもっと後のことである。その異名も、今はまだ流布していないのだろう。慶次郎はとりあえず、ごまかすことにした。
「……いや。輝く銀の胸甲を身にまとい、単騎疾駆する馬超殿の勇姿をつい例えてしまったまで。失言であった」
慶次郎が頭を下げる。馬騰はちらりと後ろを振り向く。娘は、真っ赤な顔をして俯いている。思いのほか、良い反応である。そのことに満足しながら、馬騰は慶次郎に相対した。
「そのように娘をお褒めいただき感謝する。ところで」
馬騰の表情が引き締まる。
「前田殿に、二つほど聞きたいことがある」
「答えられることであれば、何なりと」
「なぜに、曹操殿が元を離れられた」
「一身上の都合にて。それ以上は申すことはできぬ」
「言えぬか」
「言えぬ」
「あい、わかった」
馬騰はあっさり追求を止めた。娘のためにも、聞いておきたいことであった。しかし、若者の表情を見てすぐに今聞くべきことではないと悟った。軽々しく語れるような、容易な理由ではないように思われる。それを敢えて聞くには。まだ時期尚早であった。もう少し「こと」が進んだ後、折を見て聞けば良い。話題を変える。
「それにしても。詠ちゃんにはずいぶんと疑われているようだな」
馬騰は笑う。これほどの男が、辺境警邏隊の隊長を務めている。馬騰には、詠がこの男をどのように思っているのか目に見えるようだった。
「面目ない。わしの不徳のいたすところにて」
「あの子は頭がいい――しかし、月ちゃんのこととなると周りが見えなくなる。まあ、しばらくは自重することじゃ」
「お気遣い、痛みいる」
「わしも、お前さんが認められるように陰ながら尽力しよう」
「馬騰殿。ありがたいが、それは――」
「まあまあ、良いではないか。そうそう、そんなことよりも、じゃ」
その足を一歩進めると、馬騰は慶次郎に近づいた。二つ目の問いをせねばならぬ。彼は大きな咳払いをすると、その顔に柔らかい笑顔を浮かべた。
「今、嫁はいるのかね」
◆◆◆
「嫁、とな」
「ああ」
「おらぬ」
「……!そうか」
「だが、娘ならおる」
「えーっ!」
慶次郎と馬騰は二人揃ってその声の方向に目を向ける。そこでは、蒲公英が両手で口を押さえてその目を大きく見開いていた。
蒲公英は二人の視線に気づくと、その両手をゆっくり下げて気恥ずかしげに下を向いた。しかしすぐに顔を上げると、スキップするように慶次郎に近づく。その顔には、硬い笑みが浮かんでいた。
「ま、前田さん!そ、そんなに若いのに、子どもがいるの?」
「ああ。養女だがな」
「よ、養女?」
「ああ。馬騰殿ならご存じではないか。音々音――董卓殿配下の陳宮殿じゃ」
馬騰はすぐに答えなかった。絞り出すように、声を出す。
「前田殿。何故、ねねちゃんがお前さんの養女に」
「音々音が申し出てくれた。娘になってあげるとな。それを受けたまで」
「……そうか」
馬騰は静かな声でそう述べると、慶次郎の両肩をその両手でがっしりと掴んだ。
「……あの子にも、ようやく頼るべき人が見つかったのだな」
「馬騰殿?」
「あの子の父親は、わしの部下であった。母親もまた、わしの部下であった」
「……」
「父親はわしのために死に、母親は父親のために死んだ。それから、あの子は誰にも頼らずに生きてきたのだ」
物心がついて自分の両親の死に様を知った時、音々音は子どもであることを捨てた。両親に捨てられた――そんな思いもあったのかもしれない。子どもでありながら、そうあることを拒否した。誰かに頼って生きることを拒否した。
馬騰の庇護ですら、必要最低限しか受けようとしなかった。遊ぶべき時に学び、寝るべき時に学び、甘えるべき時に学んだ。その結果として、あの若さで董卓軍の幕僚の一人となっている。そのあの子が――馬騰は感極まると、目を潤ませた。
「ありがとう。前田殿」
「いや、感謝するのはこのわしじゃ。この男やもめに、あのようなできた娘が来てくれたのだから」
「あの子のこと、よろしく頼みますぞ」
「言われるまでもなく」
「……わしの目に、狂いはなかった。絶対に、逃しはせぬ」
「馬騰殿?」
「翠!」
馬騰は慶次郎に答えず、娘の名を呼ぶ。そして両手を慶次郎の肩から放すと、振り返って娘の前に立った。
「何でしょうか、お父さま」
「うむ。お前は前田殿に負けた。そうであったな」
「は、はい。恥ずべきことではありますが」
「恥じずとも良い。喜ぶべきではないか。この方は、お前が認めた男なのだからな」
「はい?」
「忘れたとは言わせぬぞ。一ヶ月前、わしの前で宣言したことを」
「一ヶ月前……?」
翠は首をひねる。腕を組んで長考する娘を、馬騰は辛抱強く待った。ここで焦ってはならない。娘自身に、思い出してもらう必要があった。
やがて、娘がそろそろと父親の顔を見上げた。次の瞬間、その顔が沸騰した。
◆◆◆
「娘よ。思い出したか」
「はわっ、はわわわわっ」
翠は両手を開いて馬騰に向かって突き出すと、上下に動かした。その顔は燃えているかのように赤い。
「どうなのだ?」
「いやっ、でもっ、それはっ、あのっ」
まったく言葉にならない。馬騰はため息をついた。先ほどまで慶次郎に示していた態度から、もう少し速やかにことは進むと思っていたのだが――ここは、父が一肌脱がねばなるまい。
「前田殿、頼みがある」
「何であろう」
「我が娘、翠を引き受けてはくれまいか」
「お、お父さま!」
翠は後ろから馬騰にしがみついた。そして、その背中から慶次郎の顔をのぞき見る。こちらを見る慶次郎と目が合った。即座に、翠は馬騰の背中に顔を埋める。
「今回の不手際、先に申したようにこの馬騰の責である。その責を償うために我が娘、そしてその率いる三千騎をお前さんに預けたい」
「董卓殿配下に加わっていただけるということか」
「建前上はな。実際には、前田殿の幕下に加えてもらいたい」
「それは光栄じゃ。しかし、除軍には……」
慶次郎はちらりと徐栄の顔を見た。徐栄が小さく首を振る。そう、除軍の予算は限られている。ただでさえ、戦傷者、老人を数多く抱える小所帯なのだ。
「心配ご無用。費用はこちらで負担する。無論『割り増し』でな」
そう言うと、馬騰はにやりと微笑んだ。慶次郎は苦笑する。こちらの懐具合まで、いつの間にか把握されているようだ。
「それは願ってもない申し出。しかし、馬超殿のご意志はどうなのじゃ」
「翠」
馬騰は背中に張り付く翠を引きはがすと、慶次郎の前に押しやった。
「い、いや、あたしは、その……お、お前なんか」
慶次郎と目が合った。顔を背けようとした。しかし、身体が動かない。男の瞳に吸い寄せられるようだった――意外に、まつげが長い。
翠は思う。この男はつまるところ――
このあたしを三本の矢で戦闘不能にする程度の弓の腕しか持たなくて、
あたしの銀閃を初手で使いこなす程度の槍の名手に過ぎなくて、
北の王と畏怖されるお父さまを説き伏せる程度の知謀しか持たなくて、
お父さまと西涼五千騎を相手に啖呵を切る程度の胆力しか持ち合わせなくて、
勝ってもそのことをまったく奢らない程度の心を持っているだけで、
負けたあたしの話にずっと付き合ってくれる程度の優しさしか持たなくて、
このあたしがなぜか緊張せずに話をできる程度の雰囲気しか持たなくて。
いやいや、だからこの男は――
お父さまが認める程度の男でしかなくて、
あたしよりも強い程度の男でしかなくて、
もう二度と出会えない程度の男でしかなくて、
……初めて見たときにいい男だなって思う程度の男に過ぎなくて。
つまり――
「き、きらいだ!大きらいなんだからな!」
「もっともじゃ」
「えっ?」
小さく口を開いた翠の前で、慶次郎はさもありなんといった表情で頷く。
「わしは、おぬしを人質に父上とやりあった。やむを得ぬ仕儀ではあったが、父上を尊敬する馬超殿には納得いかぬことであったと思う。まして、おぬしの武人としての誇りを傷つける行為でもあった」
「い、いや、その」
「だが、今回のことは馬騰殿のためと思え。おぬしが董卓殿に顔を見せ、配下として任に当たることを述べれば今回の責も免れよう。そのために、わしも尽力する」
「っていうか、その」
「馬超殿」
「ひゃ、ひゃい!」
慶次郎が強い視線で翠を見据える。翠は頭が茹だるような思いであった。興奮し過ぎて、何を言っていいやらわからない。そんな翠に、慶次郎はその手にあった彼女の愛槍を手渡した。きょとんとした表情で銀閃を受け取る翠の前で、慶次郎はくるりと背中を向ける。
「馬超殿。洛陽までの帰路、おぬしにわしの背中を預ける。どうしても納得がいかぬということであれば、その時は遠慮なくわしを斬るが良い」
◆◆◆
<こ、このあたしに背中を預けるっていうのか!>
翠の胸に、熱い思いが広がっていた。武人にとって背中を預けるとは、最高の賛辞を示す言葉である。どんな強い武人であっても、その背中は時として無防備となる。その場所を預けるということは、そのまま命を預けるということを意味していた。
<そんなに、信頼してくれるなんて>
自分よりも強い男。それは取りも直さず、恐らくは中華一強い男だ。翠にはそれだけの自負があった。その男が、その背中を預けてくれる。それは武人の誉れ、信頼の証し。いや、男が女に背中を預けるんだ。それは――。
<あ、愛の証しってやつか?>
ここまでの誠意を持って求婚されるなんて。あ、あたしからそうしても良かったのに。急にわき上がる感情に、翠は一瞬にして忘我の境地に達した。
「馬超殿?」
「へ?ふ、ふあーっ!」
気がつけば、慶次郎が腰をかがめて翠の目の前に顔を寄せていた。翠は口を開けたまま固まってしまう。その耳元に慶次郎が口を寄せた。吐息がかかる。
<はあ……>
気が遠くなりかけた。翠のまぶたが半分落ちる。だが続けて男がささやいた言葉は、彼女の頭に一気に血を上らせた。
「洛陽まで来たら、わしの元を離れて好きにするが良い。父上には黙っておく」
「……へっ?」
「御遣い殿への紹介状も書こう。後はわしに任せて徐州に行ってまいれ」
「あっ?」
「おぬしも若いのだ。会いたい人がいるならば、ぜひ訪ねるべきじゃぞ」
「あ、あんた。あ、あ、あたしのことを」
「ん?」
「愛してないのかー!」
「何じゃと?」
「あたしはそんな尻軽じゃないぞ!そ、そこに直れ!」
「ば、馬超殿?」
「そもそも、徐州に行けってどういうことだ!あ、あたしを他にやって、別の女に会うつもりか?う、浮気は、許さないぞ―!」
翠はその顔を真っ赤にしたまま、その愛槍を慶次郎に向けて振り回し始めた。慶次郎は鉄弓でそれを巧みに避けながら、後ろ足で後ずさりしながら坂を上る。
慶次郎は、馬超を止めてもらおうとその背後にいる面々に視線を移した。馬騰を見る。うれしげに頷きながら腕を組んでいる。徐栄と樊稠を見る。二人とも、腹を抱えて笑っている。馬騰が連れてきた武将たちも、同じように笑っていた。
馬岱も笑っていた。大笑いしているところを見られたくないのだろう。両手で口を覆っている。笑いすぎたのか、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。