第5節 馬超
崖の道を駆け上りながら、馬超――翆は眼下の光景に目を移した。蒲公英を先頭に、西涼の騎兵たちが錐形をとって進軍してくる。翆は確信する。彼らこそ、中華最強の兵たちだ。
もっとも、今日は彼らの仕事はないだろう。翆は視線を上に向けた。もう少しで、殿らしき男に追いつく。その男を一蹴して、恐らくは陣を構築中の敵軍に一槍つけることは、さほど難しいこととは思われなかった。すべて、計画通りの展開だ。
そう思っていた。次の折り返しを曲がるまでは。
◆◆◆
翆が崖の道を折り返した時、彼女の視線の半町(約五五m)ほど先に黒い馬に乗る男の姿が見えた。先ほどまで殿を務めていた男とは違う。もっと大きな男だ。見慣れぬ黒い鎧に身を包み、その左脇に大きな弓を抱えている。男は翆を視野に入れると、坂道を駆け下りてきた。
<嘗められたもんだな>
翆は、小さな怒りと嘲りを同時に感じた。あの大弓のみをもって、この馬超に対する気か。そもそも、大弓とは長距離から動かぬ的を狙う武器だ。馬を走らせながら、しかも安定しない岩山の坂道で使う武器ではない。恐らくは狙いを付けることすら、ままならないだろう。
この北の大地では、騎兵は短弓を使う。それは軽くて小さいために馬を走らせながら矢を射ることが容易であり、連射も利く。それが騎兵の弓というものだ。あのように、見かけだけが立派な代物に意味はない。
見れば、男は若い。初陣かもしれない。年は、それほど自分と変わらないように見える。しかし、十代の半ばから北の大地を走り、五胡たちと渡り合ってきた自分からすれば赤子も同然。
そもそも、自分に立ち向かってくること自体、戦の経験が少ないことを示すものだった。先に殿を務めていた男のように、相手の実力を測る力を持っていないのだ。戦いに酔い、殿を申し出たのだろう。己の実力を過信している。
なるほど、立派な馬に乗っている。男ぶりもわるくない。だが、この場に相応しくない武器を持ち、たった一人でこの自分に立ち向かうという愚を犯している。まさしく、それは「張り子の虎」だった。
距離が十丈(約三〇m)ほどに近づいた。男がおもむろに大弓を構え、矢をつがえる。その矢は、長くて太い。しかし、翆は動じない。
さあ、矢を放って見せろ。
翆は待ちわびる。お前は勘違いしている。紫燕は坂道で足を鈍らせているのではない。そう思うお前らのために足を「溜めている」のだ。矢を放った瞬間、紫燕はその足を解放するだろう。それが、お前の最後になる。
男が、矢を放った。
◆◆◆
翆にとって、空飛ぶ燕をその愛槍で四つ切りする程度は児戯の類いである。飛んで来る矢を見切ることも容易であれば、それをたたき折ることもさほど難しいことではない。だが――。
巨大な矢尻が、翆の眼前にあった。時間が止まる。
<はや……>
その矢の速度は、翆の想像をはるかに超えていた。
矢というものは、少なからず重力の影響を受けるものだ。短い距離であっても、ごくわずかではあるが必ず山なりになる。
しかし、その矢はまるで違った。放たれた瞬間、まるで、空間を跳躍したごとく翆の眼前にあった。巨大な矢尻が、ゆっくりと自分の額に近づいていく。
<槍……>
間に合わない。銀閃でたたき落とす猶予はない。翆は左手で手綱を引きつつ、身体を左にひねる。
時間が動き出す。その矢は轟音を上げて彼女の右耳をかすめていった。危なかった。しかし、これでこちらの勝ちだ。大弓は、その矢をつがえて放つまでに時間がかかる。後は、紫燕の足で――。
<な……>
再び、時間が止まった。左に身体をひねった翆の眼前に、巨大な矢尻があった。まるで、時間が巻き戻されたような感覚。
それは二本目の矢であった。男は翆がそう避けることを想定していたがごとく、次の矢を放っていたのである。考えられなかった。その連射の速度は、短弓をはるかにしのぐ。しかも、いずれもが異常に正確だった。こんなことがあり得るのか。しかし、一瞬の思考はそれ以上の時間を準備してくれない。
翆は左にひねったその身体を、強引に右にひねる。筋肉が切れる音がした。常人にはありえぬ挙動である。それでも、翆はやってのけた。
再び、時間が動き出す。二本目の矢は、翆の左の首筋をかすめていった。顔を正面に戻しつつ、翆は思う。嘗めていたのは自分だった。全力を持ってこの男を――その思考は、次の瞬間に停止した。
第三の矢が目の前にあった。もはや、時間を止めることはできない。必死で、右手の銀閃を矢尻の前にかざす。矢は銀閃を彼女の右手から吹き飛ばすと、わずかに軌道を変えた。そして、胸甲の右肩を貫いた。
◆◆◆
<まさか、すべての矢がかわされるとはな>
慶次郎は驚嘆しつつ坂道を下っていた。いずれも、一撃必殺のつもりで頭部を狙って放った矢である。それが、ことごとく外された。
もっとも、最後の矢は軌道は変えられたものの敵将の右肩を射抜いたようだ。相手はその矢の勢いそのままに後ろに吹き飛んだ。そして、崖を上る道の折り返し地点の岩壁に矢をもって吊されている。右肩を貫いた矢が、そのまま岩壁に突き刺さっていた。
偶然にも、第一の矢はその左脇の下に、第二の矢はその右脇の下にあるように岩壁に刺さっていた。自然、第三の矢とともに身体を支えるかたちとなり、まるで磔のようなのかたちで敵将は岩壁に吊されている。
坂道の途中の地面には、慶次郎を通せんぼするように細身の十文字槍が刺さっていた。敵将の得物である。慶次郎は鉄弓を後ろ腰に戻すと、その槍を右手で引き抜いた。そして、軽く振るった。その槍穂から土が払われ、その刃は太陽の光を浴びて青白い輝きを見せる。
<なかなかの逸物だな>
槍を手に、磔になっている敵将の前まで近づいた。敵将の顔は、ちょうど松風にまたがった慶次郎と同じ位置にある。その顔を見て、彼は苦笑した。
<また、おなごかね>
遠目に見て、そう思わないでもなかった。しかし、胸甲を身につけていたためにその身体の線はわからず、その可能性を感じつつも矢を放ったのである。
見れば、十代後半から二十代前半と思われる若い女性であった。その顔かたちは整っており、まず美しいといっていいだろう。気が抜けたような、呆然とした表情をしている。例えるなら、落とし穴に落ちてしまった時のような表情だ。自分が陥っている状況が理解できていないときの顔である。
右肩を見た。そこに、血の色は見えない。なんと、この女性は矢が当たる瞬間に胸甲の中の肩を下げることで、その直撃を避けていたのだった。矢は、胸甲の肩部分のみを貫いている。この若さにして、女性にしてこの技量。慶次郎は思う。
<このおなごも、『三国志』の英雄かもしれぬな>
磔になった女性の傍らでは、白いたてがみに紫の毛並みの馬が心配するように主の顔を見上げている。松風によく似ていた。松風を一回り小さくしたような馬格の馬である。思い返せば、この馬をかっての先ほどまでの一騎駆けも、実に見事なものであった。
<ならば、この将を殺せぬのも道理か>
慶次郎は槍を持った右手に目を落とす。矢を放とうとした瞬間、その右手から急に力が抜けた。それでも何とか放った矢であったが、もしこの武将を殺していたらどうなっていたのか。
その時点で、歴史は変わってしまう。その時、自分はこの世界から消えていたのだろうか。ならば、自分がこの世界から消えることを覚悟すれば、『三国志』の英雄であっても殺すことは可能ということか。そも、この世界で歴史を変えることは可能なのか。自分が矢を外したのは「歴史の必然」なのか……。
思いにふけるその耳に、崖の道を駆け上る無数の馬蹄の音が近づいてきた。
◆◆◆
後続を引き離して崖の道を駆け上る蒲公英の目に入ったのは、あり得ない光景だった。あの従姉が、岩壁に磔になっている。その前には、大きな黒馬に乗った大きな男がいた。その手には従姉の愛槍、銀閃がある。思わず、叫んだ。
「お姉さま!」
「……」
従姉は、ぼんやりとした表情を浮かべて黙り込んでいる。見れば、血は流れていない。彼女を岩壁に吊している矢は、そのいずれもが彼女の身体を外れているようだった。蒲公英は、ひとまず安堵のため息をつく。そして男をにらみつけると、再度叫んだ。
「お姉さまに、何をした!」
「ここは戦場じゃぞ。戦った。それ以外にあるまい」
「じゃ、なんでこうなっているのよ!」
「見てわからんか。わしが勝った。それ以外にあるまい」
「そんなこと、ありえるわけないじゃない!」
蒲公英は絶叫した。従姉は無敵だった。蒲公英が物心ついてから、彼女が負けたことを一度も目にしたことはない。一ヶ月前にも、叔父が西涼から選りすぐった知勇兼備の若武者五十名を、片端から病院送りにしたばかりであった。
中華最強を誇る西涼の兵、そこから選ばれた五十の強者、その彼らを歯牙にも掛けない武人、それが彼女の従姉であった。こんなにあっさりと生け捕りになるような人では決してないのである。
「どんな卑怯な手を使った!」
「小娘。われらが戦いを辱めるか」
「何だと!普通に戦えば、お姉さまがお前になんて……」
「話は後で聞こう。その前に命ずる。軍を止めよ」
「お、お姉さまを、解放する方が先よ!」
次の瞬間、男はその右手の銀閃を軽く振りかぶった。そしてやはり、同じように軽くそれを振った。銀閃が、柳のようにしなる。蒲公英の顔に、風が吹いた。
「!」
思わず、目をつぶる。同時に、その耳にすさまじい音が聞こえた。土煙の中で目を開けた蒲公英は、再度絶叫した。
「お姉さま!」
従姉の首筋に、銀閃が突きつけられていた。それは岩壁を右から左に切り裂き、その槍穂を半ば岩の中に埋めている。従姉の首は、十文字槍の主刃と横刃で挟まれたかたちになっていた。目の前の男が握る槍の柄は、折れんばかりにしなっている。
「慣れぬ槍だ。手元が狂うかもしれん」
「な……」
「もう一度、命ずる。軍を止めよ」
男の目が、蒲公英に決断を迫る。脅しではなかった。岩壁を切り裂くこの男が本気になれば、従姉の首はあっけなく地に落ちることになるだろう。
蒲公英は振り返ると、屈辱に震える右手を真上に掲げて叫んだ。
「……全軍、停止!」
◆◆◆
<静かだな>
翆は耳を澄ませた。風の音だけが聞こえる。視線を上に向けると、真っ青な空が広がっていた。雲がゆっくりと流れている。
<こんな日は、やっぱり遠乗りだよな>
そんな風に思って、歩き出そうとした。しかし、変だ。地面の感覚がない。視線を下に向けた彼女の目に、銀色の輝きが映った。まぶしい。何だろう、これ。見慣れたはずのものだった。しかし、思い出せない。
自分の左の首筋から、まっすぐ棒が伸びている。その先を辿ると、それを握る手に気づいた。ごつくて大きな手だ。正面を見据える。男がいた。なかなかいい男である。涼やかな目がいい。その男は、翆に左の頬を見せていた。
<何を見てるんだ?>
男の視線を辿る。そこには、目に涙を浮かべて男をにらんでいる従妹の顔があった。なんで、蒲公英はこんな顔をしているんだろう。怪訝に思いつつ、呼びかける。
「……蒲公英?」
「お姉さま!気づいたのね!」
従妹の顔がぱっと輝く。その顔をぼんやりと見ていた。彼女の手には、影閃がある。戦支度をしている。戦いに行くのか――あたしを置いて?おかしいな、そんなことをする蒲公英じゃないのにな……。そんなことを思いながら、従妹の背後に視線を移した。
その後ろには、騎兵たちが沈黙を守っている。崖の下にも、同じように騎兵たちが黙してたたずんでいた。
ああ、西涼が誇る精兵たち。あたしはその将として、天下に正義を――。
「なッ!」
目が覚めた。真っ正面を見据える。
憎むべき「匪賊」の男が、彼女の愛槍を首元に突きつけていた。
◆◆◆
「……ッ!」
言葉にならない。自分は、この匪賊の男に負けたのだった。銀閃を一当てすることすらできず、たった三本の矢を持って身動きがとれない状態にされている。完敗だった――いや、屈辱だった。
「どうやら、話ができそうだな」
「お、お前らに、話すことなんて何もない!」
「だが、わしには聞きたいことがある」
「あたしは何もしゃべらないぞ!」
「……ふむ」
目の前の男は、そのあごを左手でぽりぽりと掻いた。
「――『馬騰』殿ともあろう者が、何とも不手際よな」
「お、お父さまを馬鹿にするな!」
「ほう。お主は『馬超』か」
「はっ!」
「お姉さま!」
見れば、蒲公英がはらはらした表情で自分を見ている。翆は頷いた。この狡猾な男に、これ以上の情報を与えてはならない。あたしは何もしゃべらない。
「それにしても、馬騰殿は案外に怠惰と見える。おぬしのような若造に、軍を任せるとはな」
「なっ!それは違うぞ!お父さまはこの一ヶ月、原因不明の病で寝込んでいるんだ!あたしが勝手に、軍を動かしただけだ!お父さまを侮辱するのは許さない!」
「ほほう。それは失敬した」
「お、お姉さまぁ……」
蒲公英が涙目でこちらを見ている。翆は頷く。蒲公英の気持ちはわかる。お父さまは、西涼の誇り。それを侮辱するものは誰であっても許せない。
「だが、わしらを討つには少々、数が少なくないか?見たところ『三百』程度の騎兵しか見えぬが」
「お前の目は節穴か!もっといるだろ!あたしが率いてきた騎兵は『三千』だ!」
「ん?これで全部なのか」
「見れば、わかるだろ!」
「ああ、ダメだぁ……」
蒲公英が、がっくりと肩を落とす。そんなに心配しなくても良いのに。優しい従妹を、翆は元気づける。
「大丈夫だ、蒲公英!こんな風になってしまったが、あたしは無傷だぞ!」
「あーあー、そうだねー。わたし、安心したよー」
「優しいな、蒲公英は」
「うん、わたし優しいよ。もう、怒る気にもなれないし」
蒲公英は、地面を見つめて小さな声で答えている。そんな従妹を、翆は優しく見下ろした。照れているみたいだな。やれやれ。少しは成長したかと思っていたけれど、やっぱりお姉ちゃんであるあたしがいないとこの子はダメみたいだ。
さて。翆は正面を見据えると、匪賊の男に命令した。
「下ろしてくれ」
「なぜじゃ」
「なぜって……。これじゃ、戦えないだろう」
「そうじゃな」
「だろう?だから、下ろしてくれよ」
「なぜじゃ」
「いや、だから……」
「お姉さま」
その声に、翆は左に顔を向ける。彼女の従妹は、ふるふると首を振った。そして、申し訳なさそうに匪賊の男の顔を見上げた。
「ごめんね、匪賊のお兄ちゃん」
「匪賊ではないんじゃが……。気にしてはおらぬ。おぬしも、苦労しているようじゃな」
「うん。まあねー」
「わしの名は、前田慶次郎。おぬしの名は?」
「前田さんか。わたしの名前は、馬岱」
「ほう。おぬしが、あの馬岱殿か」
「あれ?蒲公英のこと知ってるの?」
「ああ。馬超殿には及ばぬものの西涼の武の一角を司り、才長けた忠臣と聞く」
「そ、それは過大評価じゃない?何だか、照れるなあ」
「こっ、こら!お前ら、何を話してるんだ!?」
「お姉さまは負けたの。だから、これからどうするか前田さんと話し合わなくちゃ」
「あ、あたしは負けてない……もん」
翆の両目にぶわっと涙が浮かんだ。
「あたしは、負けてなーい!」
◆◆◆
徐栄は坂の下に広がる光景を、呆然と見つめていた。あの「怪物」――そう、除軍総力を挙げても叶うまいと彼が判断したあの敵将を、「新入り」はこともなく料理して見せた。まるで子どもをあしらうかのごとく、子猫の首をつかむがごとく。一合も打ち合うことなく、岩壁に磔にしてしまった。二重の意味で徐栄は思う。
<俺の目は曇っていたのか?>
一つは、あの怪物の力量について。彼は首を振った。その視線を受けたときに感じた重圧。西の岩壁を駆け下りてきたその技量。そして、新入りの三本の矢をことごとくかわして見せた反応。いずれも常人ではない。そして、それを為したのは「女性」であった。あれは中華において万人に一人現れる怪物であるという自分の認識が、間違いだったとは思えない。
もう一つは、新入りの力量について。彼は首をひねった。わからない。やはり、怪物ではない。
怪物を怪物たらしめているのは何か。それは圧倒的な「違和感」である。いわば「ありえない強さ」だ。徐栄は改めて眼下の敵将に視線を送る。あの細い腕、小さな身体、そして美麗な顔。それでいて千金を持ち上げ、空を飛ぶごとく跳躍する。
そこには、人がいくら努力しても越えられない壁がある。人間の種類が違う、としか説明できない。だからこそ、徐栄は彼女らを畏怖を込めて「怪物」と呼ぶのである。
そこで、はたと気づいた。確かに、あの新入りは強い。怪物を圧倒するほどに強かった。しかし、そこに違和感はなかった。
山中で虎を見た時、人はどう思うか。あの巨大な身体、太い腕、鋭角な牙、長大な爪。その強さを疑わぬものはいないだろう。そう、虎は「強いから強い」のだ。その強さに、それ以上の説明はいるまい。
いわば、徐栄が怪物と呼ぶ女性たちは、猫のかたちをとりながら虎の力を持つ。対して、新入りは虎のかたちをとりながらそのままに虎なのであった。その当たり前の事実を見過ごしていた。怪物たちが跋扈するこの世界で、彼女らよりも強い「男」の存在を考えもしなかった。なぜなら、それは「ありえない」ことだったからだ――そう、これまでは。
<やっぱり、俺の目は曇っていたみてえだな>
徐栄は、その右手を挙げると頭を掻いた。新入りは、自分をはじめとして除軍の面々が示してきた態度に対して、一度たりとも不満を見せたことはなかった。一瞬、馬鹿ではないかと思ったこともある。しかし、今思えばそれは懐の大きさを示す証ではなかったか。
自分は、若い武将である新入りを守ろうと思っていた。しかし、その守ろうと思っていた存在は自分たちよりもはるかに大きく、強かった。だからこそ、その力量が自分には「わからなかった」。見たことがないものは、見えないのだ。
<負けたな>
そう、思った。敵将にではない。新入りにだった。いや――。
「――隊長さん。俺の負けだ」
◆◆◆
徐栄の頭上から、馬蹄の音が響いてきた。見上げれば、樊稠が馬に乗って駆け下りてくる。
「相棒!生きていたか!」
「ああ。心配を掛けたな。それより、陣は張れたか?」
「ああ、抜かりねえ。梁爺たちも収容した。いつになっても敵が来ねえから、相棒が踏ん張ってるのかと思って加勢に来たんだが……」
樊稠は、坂の下を見下ろした。新入りが敵将の首に十文字槍を突きつけている。新入りがあの槍を持っていた記憶はない。恐らくは、敵将から奪ったものであろう。
「ありゃ、どういうことだ」
「見ての通りさ。俺たちの『隊長』が、見事敵将を食い止めてみせたってことだ」
「隊長?」
「ああ、隊長だ」
樊稠は、徐栄の顔を見る。その満足げな表情を見て、頷いた。
「そうか。長生きしそうな奴が、ようやく来たか」
「そういうこった」
二人は、顔を見合わせると笑った。
「それにしても、あの敵将もただ者じゃねえな」
「ああ。呂布、張遼と同じ類だな」
「怪物ってやつか」
見たところ、ただの若い女である。それが涙を流して、我らが「隊長」に向かって何かを大声で叫んでいる。その隊長は、困ったような表情を浮かべて頭を掻いている。
場所と服装を選べば、若い恋人同士の痴話喧嘩のようにも見えなくもねえな――そんなことを思いながら、樊稠は坂の下の光景を見つめていた。よく見れば、敵将はなかなか可愛い顔をしている。
「ん?」
「どうした、樊稠」
「なあ、相棒。あの女の顔、どこかで見たことねえか」
「どこかで?」
樊稠の言葉に、徐栄も改めて敵将の顔を見る。そう言われると、どこかで見たことがあるような気がする。勝ち気な表情、後ろでまとめた長い髪、馬術の達者……。
「あ」
「お、わかったか相棒」
「……まずいぞ」
徐栄の声が震えている。先ほどまでとは打って変わったその口調に、樊稠は徐栄の顔を見た。真っ青になっている。
「どうした、相棒」
「ありゃ、『御大』のお嬢じゃねえか」
「御大の!?」
徐栄と樊稠は若い頃、西涼で顔役を務めていた「御大」の世話になったことがあった。董卓軍に加わる前のことである。その時、御大の家であの娘を見かけた記憶があった。御大の子どもらしく、十歳にもならないうちから馬を手足のように乗りこなしていた。年を経てから生まれたその娘を、御大は目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。
「確か、『うちの娘に傷の一つでもつけた輩がいたらぶっ殺す』って言ってたよな」
「ああ。そういや、『うちの娘を泣かせた男は八つ裂きにする』とも言ってたな」
「……」
「ありゃ、匪賊じゃなかったのかよ。どうすんだ、相棒」
「どうするって……」
その時、谷の中を銅鑼の音が響き渡った。その音は、西の方角から聞こえてくる。二人は視線を西の崖の上に移した。同時に、その顔色は土気色に変わる。
西の崖の上には、新たに到着した騎兵がいた。黒い旗が翻っている。旗に記された名――それは「馬」であった。その文字は、金字で記されている。それは、直属軍を示す文字色であった。御大自らが、ここに来ている。西涼を統べ「北の王」とも呼ばれるあのお方が――。
「本格的に、やべえぞ……」
樊稠が震える声でつぶやいた。