第1節 除軍
詠の朝は早い。
まだ薄暗い頃に目を覚まし、あたりが明るくなる頃には既に執務室にこもっている。午前は各地から届いた膨大な竹間を処理し、午後は各地から訪れる要人たちと会談する。食事をする暇すらも惜しみ、夕刻に至れば倒れそうになるまで疲れ切っている。
すべては、月のためである。董卓軍の強大な軍事力は、それを利用したい輩にとって垂涎の的である。また、それを煙たがる輩にとっては目の上のたんこぶである。そうした輩に対処すべく、彼女は朝から晩まで彼女は身を粉にして働いていた。
慶次郎に謁見した翌日もいつものように、詠は朝から執務室にこもっていた。机上の右側に積まれた竹簡の山。送り主の名前に目を走らせつつ、片っ端から処理していく。処理を終えたそれは、机の左側に再び山を作った。
「ふう」
一通り竹簡の処理を終えた詠は、卓上の冷めたお茶に手を伸ばす。そして、その細い眉を小さくひそめた。
「あれ?」
すべて処理を終えたと思っていた。しかし、手つかずの竹簡が一つ、机の右側に残っている。
<全部処理したと思っていたのに>
疲れているのだろうか。詠は目をつぶると、左右の目の間を右手の親指と人差し指でつまむと軽く揉んだ。そして目を開くと、残された竹簡に手を伸ばす。その封を解くと、文面を読み始めた。
<また、嘆願か>
詠は顔をしかめると、机の左下に置いてある木箱に視線を移した。そこには、今回と同様の文面の竹簡が束になって無造作に突っ込まれている。
竹簡の出し主は洛陽の商人たちであった。涼州と司隷の州境で生じていると思われる「問題」を解決してほしいという嘆願である。
三ヶ月前から、涼州に向かう商人たちが忽然と行方不明になることが続いていた。どうやら、涼州と司隷の州境辺りで彼らは姿を消してしまうらしい。数日前に届いた竹簡には、五十騎前後の護衛を付けたにも係わらず、やはり姿を消してしまった隊商があったことが記されていた。
それだけではない。涼州からの商人もまた、やはり三ヶ月前から洛陽に顔を見せなくなっていた。それまでは、毎週のように彼らは洛陽に顔を出しては商いをしていた。想像でしかないが、恐らくはと洛陽からの商人たちと同様、司隷との州境辺りで姿を消していると思われた。
しかし、その原因がわからなかった。匪賊や五胡が州境に出没しているとの情報はない。何度か偵察隊を現地に送ったが、商人たちが襲われた形跡すら見つけることができなかった。まるで神隠しに遭ったように、商人たちは姿を消していた。
原因がわからない以上、今以上の対策をとるわけにもいかない。黄巾賊が反乱を起こしてこの方、漢土の至るところで問題は発生している。いわば官軍として活動している董卓軍にとって、辺境で起きている原因不明の出来事の優先順位はどうしても下がってしまうのである。
いつものように流し読みをして木箱に竹簡を突っ込もうと考えていた詠であったが、途中まで読み進めて目を留めた。それはただの嘆願書ではなかった。問題の要因と思われる情報が記載されていたのである。
「匪賊がおよそ三千騎、か……」
どこからそれほどの匪賊が現れたのか。詠は首をひねった。もともと、涼州と司隷の間は安全な経路として知られていた。司隷の董卓、涼州の馬騰という二大軍閥に挟まれたその地域で、彼らに刃向かう勢力など皆無であった。それが、三千……。
しかし、原因が具体的に明らかになった以上、対策を練らなくてはならない。この際、霞に一万騎ほど率いさせて一気に――そう考えた詠の頭に閃いたことがあった。これぞ、僥倖というべきではないか。詠はその小さなあごに左手を当てて、思案顔になる。そして、大きく手を叩いた。
「お呼びになりましたか」
執務室の扉を開けて、伝令役の文官が入ってくる。
「至急、ねねを読んでくれるかしら」
「陳宮殿ですね。承知いたしました」
文官は一礼すると、執務室の扉を閉じて出て行った。その足音が遠ざかる音を聞きながら、詠は手にした竹簡を丁寧に巻き直した。そして、竹簡をその手でくるりと回転させると独りごちる。
「この機会を生かさない手はないわね」
◆◆◆
宮城から歩いて四半刻(三十分)ばかり離れた場所にある高級住宅街。その一角にある屋敷の一室で、慶次郎と星は遅めの朝食をとっていた。二人の顔に、昨晩のらんちき騒ぎの疲れは見えない。
この屋敷は、先に華琳から借り受けたものである。年老いた老夫婦が管理人をしており、主人の長い不在にもかかわらず屋敷は隅々まで掃き清められていた。食事の世話も、彼らがしてくれている。
慶次郎と星が屋敷に到着した当初、管理人夫婦が彼らに向ける視線は冷ややかだった。しかし、華琳からの竹簡を手渡すやいなや、彼らはいきなり相好を崩した。
今では、慶次郎のことを「旦那様」と呼ぶ始末である。照れ臭いので止めてくれと何度も伝えたのだが、彼らは「華琳お嬢様が認めたお方でありますゆえ」と一向に呼び名を変えようとはしない。もっとも、星は丁寧に「趙様」と呼ばれている。
「父上、おはようございます」
「おう、音々音か」
慶次郎は面を上げた。見れば、部屋の出入り口に音々音が立っていた。音々音は慶次の隣で食事をとる星に視線を送ると、不思議そうに声を掛けた。
「愛人殿。なんで、そんなに離れて食事しているですか。食事の時ぐらい、父上と顔を向き合わせてもかまいませんぞ」
慶次郎と星は、向き合わずに横に並んで座っていた。しかも、二人の星の間には一席分が空けられている。いかにも、他人行儀な食事風景であった。
「ちび殿。私もそうしたいのだが、管理人殿がそれを許してくれぬのだ」
星はぶすっとした表情で答える。老夫婦は、慶次郎の向かいの席は「華琳お嬢様の席」であると頑として譲らなかった。そして星が不承不承それを受け入れると、今度はその食事を今のように離れた場所に置いたのである。
そんな星を見て、音々音は鼻で笑って見せた。
「ほほう。やはり、愛人にはふさわしい席というものがあるようです」
「ふふん。何を言うかと思えば」
星もまた、音々音と同じように鼻で笑ってみせる。
「娘を名乗りながら父と暮らせぬ輩が偉そうに」
「くっ!。恋殿……いえ、母上と一緒だからいいのです!」
音々音は、変わらず恋と一緒に住んでいる。二人とも慶次郎と一緒に住みたいのだが、あいにくその家族――動物たちの世話がある。洛陽に戻りながら、彼らの世話を他人に任せることは心情的にできなかった。彼らの屋敷に移るよう半ば強引に慶次郎を誘った恋と音々音であったが、彼はそれをやんわりと断った。華琳の厚意を無駄にすることはできなかった。
「夫婦を名乗りながら、早くも別居中か。まあ、当然の結果だが」
「……!。愛人風情がえらそうに」
「朝からやめんか。二人とも」
慶次郎が左手を挙げて制する。二人はお互いを睨みつけながら黙り込んだ。そこに、お盆に二つの湯飲みを乗せた老爺が入ってくる。老爺は、お盆の上の湯飲みをまず慶次郎の前に、ついで星の前に置いた。
慶次郎はその手にさりげなく目を配る。小さいながら、器用そうな手である。そして、細かい傷が至るところに走っている。慶次郎は、こうした手を幾度となく見たことがあった。忍びの手である。
「すまぬな。陳爺」
「もったいないお言葉」
「陳爺」と呼ばれた老爺が頭を下げた。管理人夫婦の姓は陳という。そこで、慶次郎は彼らを「陳爺」「陳婆」と呼んでいた。彼は湯飲みに手を伸ばすと、娘に声を掛ける。
「ところで、音々音。何か用があったのではないか」
「はっ!失念しておりました」
音々音は慶次郎に慌てて頭を下げる。そして星を一瞬じろりと睨むと、すぐさま慶次郎に視線を戻した。
「父上に、詠から直々に命令です」
「詠?――ああ、賈駆殿か」
「はい」
音々音は、一旦口をつぐんだ。言いにくそうである。目を何度かしばたたかせると、ようやくその命令を慶次郎に告げた。
「前田慶次郎に命ず。『除軍』の将として、直ちに出立せよ」
◆◆◆
「ところで、『除軍』とは一体何なのじゃ」
「はい。それは――」
街中を巨大な黒馬が進んでいる。馬上には偉丈夫が跨り、その前鞍には可愛らしい少女が座っている。珍しいものを見慣れている洛陽の住人たちにとっても、この組み合わせは目を惹いた。松風の後ろには、やはり馬上の人となった星が続いている。
「――我が軍において、領内の巡察と警備を担当している一隊の名称です」
「ふむ」
「董卓軍は今や、十万を超える大所帯です。自然、はぐれ者、あぶれ者も少なくありません。そうした輩を正規軍から除き、一つにまとめて先の述べた役割を担わせたもの。それが除軍です」
「なるほど。除かれた兵で構成された軍であるから『除軍』か。納得した」
どの世界にも、そんな奴らはいるらしい。続けて、慶次郎は疑問を口にした。
「しかし、そんな名で呼ばれたら士気が上がらぬぞ。そも、除け者だらけの集団が軍として機能するのか?」
「いえ。それが、除軍は董卓軍の中でもなかなかの功績を上げてきた部隊なのです。また、その結束力は我が軍第一といっても良いでしょう」
「なるほど。良い将に恵まれているようだな」
「……良いかどうかは別にして、将に恵まれていることは事実かと。そして、その将こそがかの隊が『除軍』と呼ばれるもう一つの理由です」
「ほう?」
「その将の名は『徐栄』と申します」
「ふうむ。除け者の兵に、将の名は徐栄。故に『除軍』か」
「はい」
「そうなると音々音。すでに相応しき将がおるのなら、わしがわざわざその軍の将となる必要はないのではないか」
「いえ。徐栄は主将ではございません。副将にございます」
音々音は一瞬顔をしかめると、その男について話し始めた。
この徐栄なる将、有能なのだがとにかく金遣いが荒く、がめつい。部隊に割り当てられた予算を横領しては、足りない分を催促してばかりしている。
罰するに値する男なのだが、彼がはぐれ者やあぶれ者だらけの除軍をうまくとりまとめ、それなりの功績を上げてきたことも事実であった。そして実際、この男以外に除軍を取りまとめられそうな人材はいなかった。
「そこで、苦肉の案として主将はこちらから派遣し、副将を徐栄に任せるというかたちをとってきたのです。しかし」
派遣した将たちはことごとく「死んだ」。州境周辺で村々を襲う盗賊や、国境を越えて侵入してきた五胡といった輩とと戦った際、彼らは「戦死」した。いろいろ調べて見たが、その死に不審な点はない。だが、その死亡率が高すぎる。
死ななかったのは、最後に将に任じられた者だけである。だが、その男は半年前に自ら将を降りてしまった。自信を喪失した。それが、彼が将を辞するときに音々音に告げた言葉である。一年前に意気揚々と除軍の将を引き受けたその若者は、うなだれたまま元の部隊に戻っていった。
「今や、望んで除軍の将を務めようとする武将は董卓軍におりませぬ。こちらで指名しても、辞退される有様」
「ほう」
「ですから、父上も辞退しても構わないかと。既に先例があります。無理をすることは」
「面白いな」
「は?」
聞き間違えたかと思い、音々音は後ろを振り返った。慶次郎の目は、ご馳走を目の前にした子どものようにきらきらと輝いている。
「実に、面白い。音々音。賈駆殿に御礼を伝えてくれ」
「はあ」
どうやら、聞き間違えではなかったようだ。父と慕う男の生き生きとした表情に、音々音は苦笑いを浮かべた。
◆◆◆
「ここが、除軍の本営になります」
音々音は隣に並んで立つ慶次郎を見上げると、申し訳なさそうに告げた。洛陽の街外れにある貧民街の中心部にある屋根の傾いた一軒の酒家。この建物が、除軍の本営であった。
「あいわかった。音々音。お前は先に帰っておれ」
「で、ですが」
「大丈夫じゃ。心配するな。おぬしの父を信じぬか」
「は、はい。失礼いたしました。それでは父上、くれぐれも、お気を付けて」
「うむ。では、星。音々音の帰りを頼む」
「承知しました」
馬上の星は、慶次郎の言葉に頷くと音々音に向かって手を伸ばした。音々音は一瞬不快な表情を浮かべると、無言で手を伸ばした。星もまた、無言でその手を握る。そして、一気に彼女を馬上に引き上げた。音々音が星の後ろに跨るかたちになる。その姿を見て慶次郎は頷いた。そして、星に向かって告げる。
「それでは、星。良いな」
「は。手筈通りに」
星は軽く頭を下げると、馬体をひるがえした。そして、洛陽の宮城の方向に馬を進めていく。その姿が見えなくなると、慶次郎は酒家の出入口に目を向けた。
その時、その出入り口から一人の大兵肥満の男が姿を現した。まるで、七福神のえびすのような風体の男である。背丈は慶次郎の肩ほど、六尺(約一八〇cm)程度か。酒が入っているのか、その顔は少し赤い。男は慶次郎に気づくと、声を掛けた。
「ん~、どうした?おめえも、除軍に追いやられてきた口か?」
「まあ、そうとも言えるな。ところで、徐栄殿はいらっしゃるか?」
「会ってどうする?」
「挨拶がしたい」
「なら、挨拶をしな」
「ん?」
「俺が、徐栄だ」
えびすのような大男――徐栄はにっこりと笑う。慶次郎も同様の笑みを返した。
「それは幸先が良い。わしの名は、前田慶次郎と申す」
「……前田、だとう?」
徐栄は顔をしかめてみせた。今朝、ここに届いた竹簡にそうした名前が記されていた記憶がある。
「ってことは、おめえがうちの新しい隊長さんかい?」
「いかにも」
「止めとけや。聞いてるだろ?」
「何をじゃ?」
「うちの軍の将になった奴は、みんな死んじまうって噂だよ」
そう言うと、徐栄はにやりと笑う。負けじと、慶次郎も笑みを浮かべた。
「そうらしいな。実に面白い」
「はあ?」
「わしはな。なかなか死ねなくて困っておった。期待しておるぞ」
「はああ?」
徐栄は慶次郎の顔をまじまじと見つめた。満面の笑顔である。嘘を言っているようには思えない。賈駆の野郎、とうとう頭のおかしい奴を送ってくるようになったか――そんなことを思いながら、徐栄は慶次郎の隣に佇む黒い巨馬に目を向けた。北方生まれの彼をして、ほれぼれするような見事な馬である。
「この馬、おめえさんのかい」
「ああ」
「いい馬じゃねえか」
そう言うと、徐栄は松風にその手を伸ばした。手が馬体に触れるやいなや、松風はその手を避けるように器用にくるりと後ろを向いた。眉をひそめる徐栄の耳に、慶次郎の声が届く。
「避けよ」
「あん?」
その時、突如として徐栄の前の前に巨大な蹄が現れた。松風がその後ろ脚を蹴り上げたのである。徐栄は慌てて両手を組んでその顔を防御する。次の瞬間、徐栄の巨体は酒家の店内に吹っ飛んでいた。