第5節 決意
<董卓……だと!?>
礼を返すことも忘れて、慶次郎はまじまじと目の前の少女を見つめた。
この可憐な乙女が。
優しげな少女が。
あの暴虐非道、残忍酷薄、人肉すら食ったと伝えられる『三国志』最大の悪役のこの世界における姿だと。
彼の左に並んで立つ星――趙雲をはじめとして、関羽、曹操、袁紹といった面々にこれまで会ってきた。彼女らは確かに女性ではあった。しかし、その性別を別にすれば『三国志』の英雄そのものであった。
ところが、この董卓についてはまるで当てはまらぬ。天の悪戯もここに極まるというものである。
「そこの者。わが主、董卓が挨拶しているのよ。礼儀を示しなさい」
その声に、慶次郎は我に戻る。見れば、董卓の隣に立つ少女がこちらをにらんでいた。先ほど、董卓に「詠ちゃん」と呼ばれていた少女である。
何者か。やはり、見当がまったくつかない。上座に座る少女が董卓であると聞いたばかりである。この詠ちゃんとやらが『三国志』のどの武将のこの世界での姿であるのか。それを当てることは、もはや神の業に思えた。
黙り込む慶次郎に対して、眼鏡を掛けた少女は苛立ちの表情を見せる。自分に対してというより、董卓に対する無礼が許せないように見えた。
その表情を見て、慶次郎は懐かしいものを感じた。かつて、非常に良く似た男に会ったことがある。悪い男ではないが、とことん融通の利かない男であった。そんなことを思いながら、慶次郎は威儀を正して礼を示した。それを見て、星も同様に礼を示す。
「これは失礼した。わしの名は、前田慶次郎。『あの』董卓殿にお目にかかれるとは光栄の至り」
「趙雲に。同じく、光栄でございます」
「『前田』……ですって?」
詠の瞳がゆっくりと細められる。
「もしかして、『あの』?」
「いかにも!」
慶次郎の右に立つ音々音が、うれしそうに声を張り上げた。彼女は左手を開いて慶次郎に向けると、得意満面といった表情で言葉を続ける。
「ここにいらっしゃるのは、『あの』前田慶次郎殿です!」
「「……?」」
音々音と詠のやりとりを見て、慶次郎は星と顔を見合わせた。いつの間にやら、自分の名が洛陽にまで知られている。
<噂になるような悪さをした覚えはないのだが……>
慶次郎がその理由を音々音に確かめようとした時、背後から騒がしい声がした。振り返れば、二人の武将が部屋に入ってくるところであった。一人は恋である。そしてもう一人は、胸にさらしを巻いた野性味のある女性の武将であった。その女性は、ずかずかと部屋の中央まで歩いてくると詠に向かって大声で叫ぶ。
「なあ、詠!前田慶次郎が来ているってほんまか?」
「霞!」
「もしかして、この男かいな」
詠の声を無視して、霞は慶次郎の前に立つ。そして、彼の顔を興味深げに見上げた。その瞳は好奇心に満ち、きらきらと輝いている。
「あんたが、前田慶次郎か?」
「いかにも」
「やっぱりか!会いたかったでえ」
「わしにか?」
怪訝な表情を浮かべる慶次郎に、霞は屈託のない笑顔を浮かべる。そして、彼が音々音に聞こうとしていた「答え」を語った。
「そうや。予州においては単騎疾駆して一万八千の黄巾賊を屠り、青州においては張三兄弟を自害に追い込んだ。その、希代の猛将とやらになあ」
◆◆◆
「!」
思わず、星は慶次郎の顔をのぞき見た。ようやく、その表情から影が消えたというのに。
だが、彼の表情は変わらなかった。星はひとまず胸を撫で下ろす。その彼女の目の前で、恋と一緒に現れた武将は慶次郎の体の上から下まで値踏みをするように目線を送っていた。
「ふーん。さすが、ええがたいしとるなあ。うちの名前は張遼や。よろしくな」
「ほう。『あの』張遼殿でござったか。武名はかねがね」
「黄巾賊討伐の立役者にそう言われると、なんか照れるなあ」
霞は手をその頬に伸ばすと、恥ずかしげにぽりぽりとかいてみせた。そこで、慶次郎の左に立ってこちらを見ている白衣の武将に気づく。
「ん?そこな人は」
「私の名は趙雲。慶次殿の配下にござる」
「もしかして『常山の趙子龍』かいな」
「いかにも」
霞は目を丸くした。趙雲と言えば、神槍にも例えられる抜群の槍術の遣い手と聞く。その武人が主と仰ぐ「男」がこの世にいるとは。霞は改めて目の前の男を見上げた。
「これはたまげた。前田慶次郎、あんたの武名は伊達ではないようやな」
「いやいや。噂が先走りしているまで」
「お、おっほん!そろそろ、よいですかな?」
なごやかに言葉を交わす二人に、音々音が割って入る。すましたその顔には、若干の嫉妬の表情が浮かんでいた。二人が話を止めたのを見て満足すると、音々音は改めて自らの主に慶次郎を紹介する。
「ご存じのように、前田慶次郎殿は曹操殿が配下として黄巾賊討伐において武威を誇った将にございます。それが故あって曹操殿の元を離れ、この陳宮を頼って下さった由。この機会を奇貨として、ぜひ、われらが軍の将として推挙いたしたく存じます!」
音々音は胸を張り、誇らしげに口上を述べる。その音々音に対して、詠は眉をひそめてみせた。
「ねね。あなた、本気で言ってるの?」
「はい。これほどの武人を浪人せしめるのは、天下の損失というもの」
「ふん。あんたの父親だからじゃないの?」
「はうっ!」
音々音は顔を真っ赤にすると、その体をよろめかせた。秘中の秘としていた筈なのに、どうして知っている。
「ど、どこでそのことを!」
「ここに来る前、挨拶されたのよ。『音々音の義父です』って」
「ふおお?」
「まったく」
頭を抱えてじたばたする音々音を横目に、詠はじろりと慶次郎に視線を送った。
「確かに、前田慶次郎――あなたの武名は聞き及んでいるわ。しかし、そう簡単に受け入れるわけにはいかない」
「……」
「な、なぜですか!?」
無言の慶次郎の代わりに、音々音が声を上げる。その彼女に、詠は冷静な声で告げた。
「董卓軍は実力主義。縁故で将に取り立てたりはしない。そんなこと、ねねならわかっている筈だけど?」
「くっ」
「確かに、武名は鳴り響いている。しかし、その武名が真実だと確かめるまでは――」
「真実。嘘じゃない」
「恋?」
詠は思わず声を挙げる。いつの間にか、恋は慶次郎のすぐ隣に立っていた。割って入られたかたちになった星が、不愉快そうな表情を見せている。
「慶次、本気の私と打ち合った。死ななかった」
「へええ?やるなあ、あんた」
霞が笑顔で慶次郎の肩を叩く。その隣で恋はちらりと慶次郎を見上げると、ほんのりと顔を赤らめた。
「それに」
「ん?なんや」
「慶次は――恋のだんな様」
◆◆◆
「だから、その理屈はおかしい」
「また、お前」
左隣から告げられた不快な言葉に、恋は視線を横に移した。そこには、許で会った女がいる。困ったものだ。恋は、正妻としての言葉を告げる。
「愛人。身を弁える」
「お、おのれ……」
かつて、手も足も出なかったことを思い出して星は拳を握りしめる。だがすぐさま小さな笑みを浮かべると、妻きどりの哀れな女に余裕を見せた。
「ふん。まあ、言葉だけなら何とでも言える」
「何が言いたい」
「この一ヶ月、私は慶次殿とずっと一緒に旅をしていた」
「……」
「ふ。若い男女がともに一ヶ月もの間、一緒にいたのだ。察して欲しいものだな」
星は勝ち誇って胸を張る。その星に、恋は無表情に辛辣な言葉を吐いた。
「生娘が偉そうに」
「な、な、何だと!」
「匂いで分かる。一ヶ月一緒にいて何もなかった。……つまり、慶次にとって魅力的な女ではないということ」
「この!」
「おーおー、あんた、恋の旦那なんか!?」
「だまりなさーい!」
金切り声が響いた。皆が言葉を止め、上座を見る。鬼のような形相をして、詠がこちらを睨んでいる。
「とにかく!その男を軽々に董卓軍に受け入れるわけにはいかないわ!」
「なんと!音々音の父上を信用しないというですか!」
「ええやん、詠。うち、はやくコイツと打ち合うてみたいわ」
「……恋のだんな様。受け入れるべき」
「慶次殿!こんなところからさっさと立ち去るべきです!」
「父上に何を言うです!愛人風情が口を出すなです!」
「このちび……!」
「だまりなさーい!」
◆◆◆
<信用なんて、できる筈ないじゃない!>
詠はお気楽な仲間たちを睨みつけると、内心毒づいた。黄巾賊討伐の立役者。そんな武人を『あの』曹操が簡単に手放すだろうか。そんなわけがない。そして手放すとしたら、必ず理由がある。
考えられる理由は二つ。まず、性格上の問題である。その巨大な武功が霞むほどに、破綻した性格の持ち主である可能性だ。だが、先に偶然に会った際の対応といい、この場での威儀ある態度といい、そのことを匂わせるものはなかった。
そうなると、もう一つの理由が真実味を増してくる。それは、この男が「間者」である可能性である。もしくは「埋伏の毒」。そして詠は、十中八九そのいずれか、もしくはその両方であろうと確信していた。彼女の知る曹操は、十分にそうする可能性のある人物であった。
<だけど>
簡単にこの男を切るわけにはいかない。音々音の義父であるという。そして、真偽は定かではないが恋の夫でもあるともいう。このまま切ってしまえば、董卓軍内部にわだかまりを残す。だから、受け入れた上で誰からも非難されないかたちでこの男を処断せねばならない。
実のところ、詠は慶次郎を最初から受け入れるつもりでいた。それをあえて渋って見せているのは、彼女の策である。しぶしぶ受け入れた上で、慶次郎の実力に対して疑問を持っているという態度を取る。そして「信用を得たければ、それだけの武功を示せ」と迫る。そして、困難な役割を担わせる。
それで逃げ出してくれれば最善だ。音々音も恋も、見切りを付けるであろう。そして逃げ出さないのなら、それはこの男が曹操の命令を受けている何よりもの証拠。そうなれば、そのしっぽを出すまでこの男を「死ぬまで」こき使ってやろう。
戦で死んでくれるのが一番いい。できれば、美しく、英雄的に。我が軍に害を及ぼす前に、さっさと皆の思い出になってもらおう。
<ごめんなさいね。恨むなら貴方の本当の主、曹操を恨みなさい>
◆◆◆
詠は大袈裟にため息をつくと、予定していた言葉を発した。
「んもう。わかった。わかったわよ!その男、受け入れるわよ」
「おお!」
音々音が喜びの声を挙げる。想定通りの対応だ。詠は、満足しつつ言葉を継いだ。
「ただし、条件があるわ。まずは、その実力を試させてもらう」
「試すですと?」
「ええ。とりあえず『除軍』の将を務めてもらいましょう」
「――除軍、と言いましたか?」
「ええ。ちょうど、将の空きも出たところだしね」
「で、ですが」
「ねね。その男が本当にあなたの言うような武人であるならば。除軍程度を掌握するのは造作もないこと。違う?」
星は、董卓軍の面々に目を走らせた。音々音は不安げに黙り込んでいる。霞は面白そうな表情をして、天井を見上げている。恋は、相変わらず何を考えているかわからない。
「ありがたき、幸せ」
その声に、皆が慶次郎を見た。いつの間にか、彼は床に平伏していた。
「この前田慶次郎をお試しいただけるとのこと。心より感謝申し上げる」
「え、ええ」
「お与えいただいたその責務、必ずや見事に果たしてみせまする」
「そ、そう。期待してるわ」
詠は複雑そうな表情を浮かべる。そして、月を促すと連れだって部屋を出て行った。
◆◆◆
平伏していた慶次郎が顔を上げる。音々音はその側に膝をつくと、申し訳なさげに頭を下げた。
「ち、父上。詠が、とんだご無礼を」
「いや、構わん」
「え、詠も悪いやつではないのです。ただ……」
「わかっておる。あのおなごは己が主のためならば、それ以外の誰からも嫌われて良いと覚悟しているのであろう。まさに忠誠無比、臣の鑑というべき人物よ。そして主のために、その類い希なる頭脳を使って先の先まで見据えて細部までつめられた策を準備しておる」
そう言うと、慶次郎はゆっくりと立ち上がった。
「だが悲しいかな。その策は一つほころびがでれば瞬く間に崩れ去る砂上の楼閣に近く、その運は限りなく悪く、さらに当の本人は大事なところでとんでもないへまをやらかす……といったところか」
「驚きました。詠を知っておられたので?」
「いや。似た雰囲気の奴を知っていてな。そやつも、悪いやつではなかったよ」
慶次郎は、鼻の頭をかきながら苦笑いを浮かべる。その彼を、隣でこづく者がいた。
「なんや。あんた、一筋縄ではいかん男みたいやん?」
見れば、霞がその歯を見せてにやにやと笑っている。
「何の。正直な気持ちを伝えたまで」
「ふーん?」
霞は面白そうに微笑む。そして、くるりと背を向けた。
「じゃ、一緒に飲みにでもいこか!」
「霞殿!」
音々音が顔をしかめる。まだ日は高い。仕事を終えるには、早過ぎる時間帯であった。
「まあ、ええやないか。あんたの親父の仕官祝いや」
「そ、そう言われますと……い、いえ!やはり公私混同は」
「じゃ、それに加えて恋の結婚祝いや。ええやろ?」
「……きょ、今日だけですぞ!」
音々音はその笑顔を隠すように下を向くと、部屋の出入り口に向けて駆けだした。
◆◆◆
音々音の背中を追って、恋と霞も歩き出す。その後ろ姿を見つめる慶次郎の側に、星が近づいた。
「これで、よろしかったのですか?」
「ああ。到着早々、こんな機会を得るとは思わなんだが」
「計画通りと?」
「うむ、大体はな。手間が省けた」
そう言うと、慶次郎は膝に付いた埃を手で払った。天和の最後の笑顔が目に浮かぶ。彼女との約束を守るためならば、土下座する程度のことは造作もない。場合によっては、この命さえも。彼にとって、それが「約束」するということであった。
「ならば、とやかく申しますまい。これから、どうするおつもりで?」
「さて、どうするか」
「『獅子身中の虫』になるおつもりでは?」
星の顔に、いたずらっ子のような笑みが浮かんでいる。
こやつ、楽しんでおる。慶次郎は、苦笑いを浮かべた。
「ふん。娘の主じゃぞ。迷惑をかけられるか」
「ほう。それでは何をするおつもりで?」
慶次郎は答えずに、その大きな両手を開いた。そして、じっと見つめる。この程度なら、消えることはなさそうだ。
彼の見たところ、華琳は彼が「天の御遣い」として行動すればこの世界に居続けることができると考えていた節があった。だが、彼の見立ては違う。
恐らく、何もしなければ。そう、この世界の歴史に自分が干渉しなければ、この世界に居続けることができる。
かつて、彼の手は音々音と親子の縁組をした後に一旦消えそうになった。そのことから導かれた推論は、「歴史を変える」ことで自分はこの世界から消え去るのではないかということであった。
左慈や于吉といった管理者たち――彼らが自分をこの世界から除こうとしたのも、それが理由であろう。彼らはこの世界の管理者として、歴史が正常に流れるように管理しているのではないかと思われた。だが――。
<そう、思うようにいかせてなるものかよ>
慶次郎は、開いた両手を力一杯握りしめた。彼の太い腕が盛り上がる。衣服がぎちぎちと音を立てた。
「歴史を変える。それだけじゃ」
「……とうとう、その気になられましたか」
「ん?」
「『この国を獲る』。そういうことでは?」
「阿呆。『天に喧嘩を売る』。それだけのことよ」
そう言うと、慶次郎は歩き出した。星は、その広く大きな背中をまぶしそうに見つめる。そして笑みを浮かべると、跳ねるようにその後ろを歩き出した。