第4節 董卓
空には、赤とんぼが群れをなして飛んでいる。例年にない暑さが続いた夏も過ぎ去り、秋の気配が近づきつつあった。そんな空気の中を、荊州から司隸に向けて進む二人がいた。
先に進むのは、白馬に乗った麗人である。その後ろの巨大な黒馬には、それにふさわしい偉丈夫が乗っている。さらに、その後ろには荷駄を積んだ二頭の馬が続いていた。
麗人が振り返る。白を基調にした服を着た美少女である。彼女は、左手を前方に指さした。
「慶次殿。見えてきましたぞ」
「ほう。あれが」
「はい。あれが漢の首都、洛陽です」
「うーむ。これはすごいな」
慶次郎はその目を大きく見開いた。その視線の先には、遠目からも偉容をほこる巨大な城壁が見える。石の城壁をつくる風習のない日の本では、見ることのできない光景だ。
巨大な城壁の中心に、やはり巨大な城門がある。城門は朱色を中心に鮮やかに彩られ、慶次郎の目にはまるで竜宮城のように見えた。
慶次郎の目が、きらきらと子どものように輝いている。その表情を見て、星はうれしげに頷いた。この人は、こうでなくては。
黄巾賊の乱が終結してから一ヶ月。ようやく、彼の表情はいつもの明るさを取り戻しつつあった。
◆◆◆
一ヶ月ほど前のことである。臥牛山の黄巾賊たちを愛紗にまかせた星は、配下の白虎騎と共に青州へ急いでいた。そして、黄巾賊の山塞まで一里(約四km)までというところで、彼女はこちらへ向かってくる慶次郎とかち合った。
聞けば、すでに黄巾賊の山塞は陥ちたという。たった一日で――あまりにも早い決着に驚いた星であったが、続く話にさらに目をむいた。彼女の主は、これを機に華琳の元を辞して旅に出ることにしたという。
だが、星の選択は決まっている。慶次郎のそばにいることこそ、彼女の望みであった。動揺する白虎騎たちにその場で別れを告げ、星は慶次郎と共に急ぎ予州に戻った。そして荷物をまとめると、許を二人後にしたのである。
行く先について、慶次郎は星に「洛陽」と告げた。漢の首都である。だが、許からそのまま西上するのは面白くない。できれば、予州から荊州を通って司隸に至りたい。彼は、そう希望を述べた。
そうなると、若くして漢土を旅して回った星の経験がものを言う。彼女は案内役を買って出た。慶次郎の意向で彼が聞いた時だけ答えるようにしたものの、愛しい男に頼られる経験は彼女にとって得がたい甘露であった。
二人だけの時間が過ぎていく。二人だけの旅路が続いていく。この機会を逃してなるものかと、星は気合いを入れた。彼にしなだれかかろうと試みたのは一度や二度のことではない。一緒の部屋に泊まることすらあった。
しかし、何もできなかった。
慶次郎は、一見するといつもと変わらない。星をからかい、大いに酒を飲み、のんびりと旅を楽しんでいる。だが、彼の顔に時折差す暗い影があった。星はそれが気になって、後一歩を踏み出すことができなかったのだ。
旅に出てから二週間後のある夜。意を決して、星は慶次郎に問うた。彼の顔に差す影の理由を。黄巾賊の山塞で何があったのかを。
当初、慶次郎ははぐらかして容易に答えようとしなかった。しかし、その問いを何度も繰り返す星に根負けして、やがてぽつりぽつりと経緯を話し始めた。
彼が話を終えた時、星の胸に到来したのは喜びと悲しみ。そして後悔であった。
自分を信頼して、その胸の中を明かしてくれた――喜び。
慶次郎の心を思い、それを思い量って生じた――悲しみ。
そして、この話を聞いた後で彼に迫ることなどできはしないという――後悔である。
◆◆◆
「ところで、慶次殿」
洛陽を視界におさめて、星はその面持ちを真剣なものに変えた。己が主の本心を確認しておかねばならぬ。彼女は慶次郎の顔を正面から見据えると、その心を確かめた。
「例の件。本気ですか」
「例の件?」
「おとぼけなさるな。張角殿との約束のことです。本気で果たすおつもりで」
「うむ」
「ならば、これからどうされるおつもりか。慶次殿のお考えを、お聞かせ願いたい」
「急くな、星」
「しかし」
「急いては事をし損じる。まずは洛陽に入ってから――ん?」
慶次郎がその目を細めた。視線の先に、小さな炎のような赤が見える。その赤は見る間にかたちをかえると、やがて馬の形になった。そして、まるで矢のような勢いでこちらに近づいて来る。
慶次郎がその正体に思い当たった時、「それ」はすでに彼の目の前まで来ていた。
燃えるように赤い毛色をした、全身これ筋肉といった悍馬である。そしてその悍馬を見事に乗りこなし、ほんのり顔を赤らめる天下無双がそこにいた。
「久しぶりじゃな、恋」
「……うん」
「そして、音々音」
「父上!」
そう言うと、音々音は赤兎馬の前鞍から飛び降りる。そして、慶次郎に向かって走り出した。それを見て、慶次郎も松風から降りる。そして片膝を折って両手を広げた。その胸に、音々音は飛び込む。
「お久しゅうございます!」
「おお、久しいな。音々音、元気にしておったか」
「はい!音々音は元気に――って、何日遅れたと思ってるですか!」
音々音はその満面の笑顔を、必死で怒りの表情に変えてみせる。そして、両手で慶次郎の胸を突き放すと、ぽかぽかと叩き始めた。
「すまん、すまん。何しろ、漢土を旅するのは始めてでな。距離と時間を計り間違ごうた」
慶次郎は音々音の頭を撫でながら、素直に謝る。荊州の首都である襄陽に入った時、彼は旅の商人に音々音宛の手紙を預けていた。その手紙に記した到着日から、すでに一週間が経過しようとしていた。
音々音は、慶次郎から洛陽に来るとの知らせを受けてその到着を心待ちにしていた。そして到着予定日の前日から機会を見つけては城門にある望楼に上り、荊州の方向を見つめてひたすら義父が地平線の向こうに現れるのを待ち続けてきたのである。
「わしが悪かった。許してくれぬか、音々音」
「ふ、ふん!わ、わかれば良いのです!」
音々音は大きく頷いてみせる。それが、我慢の限界だった。次の瞬間、音々音はその顔を破顔する。そしてもう一度、義父の胸の中に飛び込んだ。
「父上ー!」
そう言うと、慶次郎の胸に顔を埋める。そして、その顔をぐりぐりと押しつけた。慶次郎は愛娘の思うがままにさせる。そして、その背中を優しく撫でた。
しばらくして顔を上げた音々音の顔は、ほんのりと赤かった。照れくさげに、その鼻をすする。そして両手を大きく広げると、大輪の向日葵のような笑顔を浮かべて言った。
「ようこそいらっしゃいました、父上。洛陽にようこそ!」
◆◆◆
慶次郎と星が案内されたのは、洛陽の宮城の隅にある小さな建物の一室であった。その部屋の中で、二人は卓を挟んで椅子に座っていた。
慶次郎は首をひねる。酒家にでも案内されるものと思っていた。ところが、愛娘が連れてきたのはこともあろうに宮城の中である。しかも、その愛娘は「今しばらくお待ち下さい、父上!」と言うなり、恋と一緒に部屋を飛び出していってしまった。
「どう見る、星」
「さて。手料理でも振る舞ってくれるのでは」
「なら、良いのだがの。いい加減、腹が減ったわ」
そんなことを話しながら、音々音を待つ慶次郎の視線に一人の少女の姿が目に映った。どことなく、儚げな雰囲気を持つ、白い肌の美少女でる。その少女は、扉の開いた部屋の出入り口からこちらをじっと見つめていた。
「どなたかな?」
「はう」
その声に、星も部屋の出入り口を見る。そこには、おどおどした表情を浮かべた少女が、両手で口を押さえて立っていた。その顔には、不安と警戒がありあると浮かんでいる。やがて、少女は意を決して声をあげた。
「あ、あの!あ、あなたは、どちらさまですか?」
「音々音の友人かな?」
「へう?……は、はい」
「おう。そうか、そうか」
慶次郎は軽く頷くと、笑顔を浮かべた。
「怖がらなくて良い。わしは、音々音の義父じゃ」
「えっ!?ね、ねねちゃんの……お、お義父さま?」
「うむ。ここまで連れてこられたのだが、肝心の音々音はすぐに部屋を飛び出していってしまってな」
「まあ……。そ、それは失礼しました」
納得したのだろう。少女はほっとした表情を浮かべると、ぺこりと頭を下げた。そして、何かを思いついたような笑顔を浮かべた。そして、その笑顔のまま慶次郎に告げる。
「あの、ちょっとお待ち下さいね」
そして、とたとたと足音を立てて建物の奥に消えていった。
◆◆◆
「あの、いかがですか?」
「うむ、旨いな」
「ええ。これはなかなか」
「ほ、本当ですか?」
二人の賛辞に、少女の顔にぱっと笑顔が広がった。
慶次郎と星の手には、お茶の入った湯飲みがある。先ほど、少女が持って来てくれたのだ。お茶はすっきりとした味わいで、かつ温めに入れられている。旅を終えたばかりの喉にちょうど心地良かった。
「良かったです。なかなか味見して下さる方がいなくて」
「ほう。それは勿体ない」
「はい。詠ちゃん――いえ、味見してくれる友人が一人しかいないもので」
「それで、これほどのお茶が入れられるとは。いや、実にお見事」
「そんな。からかわないで下さい」
根が純情なのだろう。少女は顔を真っ赤にすると、手にしたお盆でその顔を隠した。そこに、どたどたと廊下を走る足音が近づいてきた。
「んもー……。月!月!どこにいるのー?」
「あ。詠ちゃんだ」
少女が振り返る。ちょうどその時、眼鏡を掛けた一人の少女が三人のいる部屋に入って来た。長い髪を両側に編んで垂らした、きつい目をした少女である。「詠ちゃん」と呼ばれたその少女は、お盆を抱えたもう一人の少女を目にして眉をひそめた。
「月!あなたはそんなことはしなくて良いと言ってるでしょ!」
「で、でも、大事なお客さんだから」
「お客さん?」
「うん。ねねちゃんのお義父さまだって」
「ねねの……義父?」
そう言うと、眼鏡を掛けた少女は初めて気づいたとでもいうような表情で慶次郎の顔を見た。その口がぽかんと開く。そして、ばつの悪そうな顔を浮かべると丁寧に頭を下げた。
「お騒がせしました、お客人」
「いや、構わぬ。こちらこそ、気を遣わせてしまったようですな」
「いえ。今、少々立て込んでおりまして。お恥ずかしいところを」
少女は苦笑いをしてみせる。根は素直そうな少女である。
「すみませんが、ちょっと失礼します。どうぞ、ゆっくりとお過ごし下さい。……月」
「あ……うん」
二人は並んで立つと、慶次郎に向かって丁寧に頭を下げる。そして、部屋から出て行った。
◆◆◆
建物の中央部にある大きめの部屋。その部屋の中央に、慶次郎は立っていた。その左隣には星が、右隣には音々音が立っている。
ぜひ会わせたい人がいる。音々音はそう言うと、慶次郎たちをここまで連れてきた。装飾は少ないものの、高価そうな椅子が上座に置いてある。会わせたい人物とやらが座るものと思われた。
「いらっしゃいました」
音々音が、小さな声で慶次郎にささやく。部屋の奥にある扉を開けて入ってきた二人の人物を見て慶次郎は思わず目をむいた。
まず部屋に入ってきたのは、「詠ちゃん」と呼ばれていた眼鏡を掛けた少女であった。先ほどとは異なり、傲岸さすら感じさせる不敵な表情を浮かべている。少女は、こちらを見て一瞬驚いたような顔をした。しかしすぐさまその表情を元に戻すと、上座にある椅子まで歩いていく。そして、慶次郎から見てその右隣に立った。
続いて入ってきたのは、「月」と呼ばれていたお茶を入れてくれた少女であった。その少女もまた、慶次郎を見て驚きの表情を浮かべた。その足が止まる。だがすぐに歩き出し、上座にある椅子にゆっくりと腰を下ろした。
どうやら、この少女が音々音が慶次郎に会わせたいと思った人物であると思われた。そして、この世界に来てから経験してきたことから察すれば、恐らくは『三国志』の英雄であろう。
しかし、まったく見当がつかなかった。この時代の洛陽に、「儚く優しげな英雄」などいただろうか。そんなことを思う彼に向かって、月と呼ばれた少女が微笑む。
「この度は遠路はるばる、お疲れさまです」
次の瞬間、慶次郎の耳に信じがたい言葉が響いた。
「私の名は董卓。洛陽の守備を任されております」